「さんからデートに誘われたァ!?」
フーゴの声は、マイクの割れた音にとても似ていた。
あれからの部屋で一杯の紅茶をもらい、彼女からデートの誘いを聞かされてアジトへ戻ってきた。
そこにはフーゴだけがいた。他の三人はどこへ行ったのか訊くと、ミスタは最近開拓しはじめた飯屋へ。ナランチャは新しいラジカセを買いに電化製品屋へ。アバッキオは気になっているパン屋へ行く、と言ってフーゴはひとり残ったのだという。
ブチャラティは報告も兼ね、の部屋での出来事を話してみた。もちろん、が妬いていたくだりなどは綺麗に除いて。
「ちょっと待ってください、ブチャラティ。あんた、何をしにさんのところへ行ったんです?」
「話は訊いてきた。彼女は二年前にネアポリスを離れてから日本へ渡り、しばらくしてからヴェネツィアに戻ってきたと話している」
「あの田舎町に行ったかどうかは訊きましたか?」
ブチャラティは返す言葉が見つからなかった。
フーゴがため息を吐く。「まったく、何を考えてるんですか。僕はあんたとさんの関係を応援しているつもりですが、それとこれとでは話が違うッ!」
テーブルを勢いよく殴った衝撃で、フーゴが飲んでいたと思われるグラスが横を向いた。中から透明の液体が泡を出してこぼれていくが、拭こうとはしない。ブチャラティは脚を組みなおした。
フーゴの言い分はごもっともだった。自分はの潔白を証明しに向かったが、結局真相を曖昧にした挙句、呑気にデートの約束までしてきてしまった。今ならフーゴに殴られても抵抗しないと言い切れる。
自分の部下のことは信頼している。だからこそ、の言葉に戸惑ってしまう。彼女が意図的に偽りを貫いていたと考えるだけで、胸が痛む。しかしそれはフーゴやアバッキオには関係のない感情だ。個人的な感情だけで、部下の信頼を振り回すことはできない。ブチャラティは素直に自責の念を受け入れた。
「その事に関しては謝ろう。だが、最初からすべてを聞き出そうとは考えていなかった」
「どういうことですか?」
「仮にが犯人だとして、簡単にしっぽを掴ませるようなことはしてこない。オレたちが一連の事件を調査していることを彼女は知らないんだ」
「それなら、強引にでも訊き出せばよかったじゃあないですか。それすらできなかったと?」
「あの田舎町できみが古い家から出て行くところをオレの仲間が見たんだ、と言ったとしても、その先をどう説明したらいいか分からなくなった。そんなことを言えば、は間違いなくオレたちの行動を疑うだろう。こちら側の裏を見せるわけにはいかない」
今度はフーゴが口を結んだ。
「それに、一つ気になっている。お前たちが会ったという少年だ」
「さんの絵を描いた少年のことですか?」
ブチャラティはそうだ、と頷く。「どれだけ絵の上手い子供かは知らんが、どうして一目見たの姿をあそこまで正確に描けたんだ」
「お言葉ですが。僕も幼い頃に楽譜を一度見ただけで暗譜して弾くことができましたよ」
「それはお前の才能と英才教育があってのことだろう。別の見方をして考えるんだ」
「別の見方?」
フーゴは腕を組んで唸った。しばらくして組んでいた腕を解き、顔をしかめる。
「スタンド使い、ということですか」
「可能性はある。たとえば、一度見た人物の姿や身格好を精密に描きだすことの出来る能力。アバッキオのムーディー・ブルースと少し似ているな。今の段階ではその少年が今回の事件と繋がりがあるのかは分からないが、調べるに越したことはない。今度はオレが行こう。何か新しい事が分かるかもしれない」
フーゴは片手を挙げた。「僕も行きます。実は気になっていることがあるんです」
取り出したのは、昨夜の絵だった。見れば見るほど本物の写真のようだ。小さな少年にどれだけの才能があったとしても、一度見た人物の一瞬の姿をそのまま描きとらえることは難しいだろう。
フーゴが指差したのはではなく、彼女が出てきた古い家だった。
「この家、ドアノブがないんです。それと、当然と言えば当然かもしれませんが、生活家具が一切見当たらない。空き家にするにしても、ここには人が暮らしていたはずなのに」
確かに。よく見れば、背景にぼんやり描かれている扉には何もついていない。
「奇妙だな」ブチャラティは絵に顔を近づけた。
「ブチャラティのスティッキィ・フィンガーズを使って、中を調べさせてください。『何もない』以上に『何かある』ことはありませんから」
「尚更オレが行くべき、というわけだ」
「それともう一つ。アバッキオがムーディー・ブルースでさんの姿を捉えた話ですが、この町から離れたさんをアバッキオが追跡したんです」
一拍置いたあと、それなのに、とフーゴは言った。
「アバッキオが言うには、追跡している途中で、さんが忽然と姿を消した、と」
「姿を消した?」
「煙のように消えたわけでもなく、見失ったわけでもない。まるで追跡していたさんの姿が幻だったかのように消えてしまったらしいんです」
「アバッキオが見たというのなら、それは実際に目の前で起こったことなんだろうな」
「このことも踏まえて、もう一度あの町を調査する必要があります。どうしますか?」
二人で話し合った結果、再びフィレンツェへ向かうのは明日の早朝ということになった。早朝と決まった経緯は、列車の中でネアポリスを離れてから緑の広がる田園風景を見るのであれば、太陽の昇る時間がいい、というフーゴの意見からだった。携帯電話のカメラで撮影した写真を見て、ブチャラティも賛同した。その何もない景色が子供の頃、父母と暮らしていた故郷に少しだけ似ていたからだ。
「それで? さんからの誘いは受けたんですね」
「断る理由もなかったんでな」
「またまた。ほんとうは嬉しかったんでしょう?」フーゴは口元を緩ませて言った。
「嬉しいというよりは、純粋に驚いたと言ったほうが正しいんだろうな。から誘いを持ちかけられたのは、今回が初めてだったんだ」
からデートの誘いを受けたとき、当惑のあまり返事を出すまでに時間がかかった。
今週の土曜日となれば、明後日だ。デートの行き先は教えてくれなかったが、待ち合わせ場所はネアポリス駅の噴水前、とだけ告げられた。自分が車でホテルまで迎えに行こうかと提案したが、は首を横へ振った。構内で待ち合わせする事に何か意味がある様子だったが、ブチャラティには理解できなかった。
部屋から去る際に念を押されたことといえば、必ず一日時間を空けておいてほしい、ということだった。前回のことをやはり引きずっているのだろうか。緊急の用事がない限りは行動を共にすることを約束し、閉まる扉の隙間から愛らしく左目をつぶったの姿が今でも思い浮かぶ。
デートか。チームを結成する以前、と行動を共にしているときは、そのようなことをまったく意識をしていなかった。思い返してみれば、自分たちはただ単に行動を共にしていただけで、男女という概念を持ってデートというものをしたことがなかった。
はなぜ、今になってデートという名目で提案したのだろうか。
「……彼女のことはいくら考えても分からないな」
「珍しいですね。独り言ですか?」フーゴが小さく笑う。
「聞かなかったことにしてくれ」
「さんからのデートを受けた理由の裏には、色々とあるみたいですね」
「状況が状況だからな。に詮索を入れるために受けたわけではないが、次は口を割らせるつもりだ」
「例えどんな結果であっても、僕らはあんたについていくだ」
「頼りにしているよ」
「でもまあ、楽しんできてください。もしかしたらこのままいいところまで進むかも」
「よく言うぜ」ブチャラティは苦笑した。
「今週の土曜日か。ブチャラティの誕生日とか?」
「いや、オレの誕生日はまだ先だ」
壁に掛かっているカレンダーの日付を眺めていたブチャラティは、はっとした。
誕生日と言えば、思い出すものがある。それは前回と出掛けたときのことだ。彼女は途中で見かけた占い屋で自分の運勢を占っていた。ブチャラティはその様子を後ろから眺めていたのだが、が名前と生年月日を紙に記入しているところを背中越しにこっそり見ていた。
彼女の生年月日は、一九八一年の三月二十一日。早生まれだという事は知っていたが、詳しい日取りまでは聞いたことがなかったため、この時初めて彼女の誕生日を知ったのだった。
ブチャラティは今のことをフーゴに話した。
「三、二、一、なんて、覚えやすい誕生日ですね」フーゴは自分の指を畳みながら言った。
「オレも同じことを思っていた」
「さんの誕生日だとしても、二十一日までは一週間近くあるしなあ。僕らの考えもしない思いつきで、あんたをデートへ誘ったのかもしれないし」
そう言うとフーゴは、そうだ、と指を鳴らす。
「この国ではあまり馴染みがないかもしれないですが、さんの誕生日を祝うパーティを開きませんか」
「随分と急な話だな」
「純粋にお祝いをするという名目と、あとは僕たちが久しぶりに騒ぎたいんですよ。悪い話じゃあないでしょう。さんと接触する機会が生まれれば、彼女があんたに打ち明けていない事を話してくれるかもしれないし。今この街にいる誰よりも、さんはあんたに心を許していると、僕は思います」
ブチャラティはフーゴの話を聞きながら、この男は相手を説得するのが本当に上手いな、と思っていた。
今回の指令や事件も踏まえ、彼女へ歩み寄るときが来たのかもしれない。これまで埋まることのなかった空白の時間を埋めるのは、今しかないのかもしれない。ブチャラティは漠然と頭の中で考えていた。
「パーティのことは本人に確認してみないと分からないな。もしかすると既に予定があるかもしれん」
「それならデートのときに聞いてみるといいですよ。相手がいいよと言ってくれたのならば、僕たちが食事や場所の手配をしましょう。当てはいくらでもある」
「果たしてアバッキオが賛同するかな」
「大丈夫ですよ。彼には僕が話をつけておきますから」
片手にペンを持ったフーゴは、壁に掛けられているカレンダーの三月二十一日に赤い丸を描いた。
それはブチャラティたちに生まれた、久しぶりのイベントだった。