ネアポリスの駅前を通り、小さな店が建ち並ぶ細い道をブチャラティは歩いていた。生あくびを噛み殺すが、目尻には涙が浮かんだ。それを親指の腹で拭い、再びこぼれそうになるのを必死に抑える。
昨夜はあまり眠れなかった。遅くまでノートパソコンの画面を見ていたわけではない。原因は昨夜、フーゴとアバッキオから聞かされた話だった。
旧友だと思っていたが、ギャング潰しの騒動に一線絡んでいるかもしれない。
しかしまだ確証はない。昨夜は突然聞かされた話につい熱くなってしまったが、遮ったフーゴの言葉を繰り返し頭の中で唱えていた。
重要なのはがその場にいた事実ではなく、理由のほうだということ。
ブチャラティがたどり着いた先は、ホテル・ラ・ヴィータ。最初にこのホテルへ訪れたときとは心境がまるで違う。今日は片手に華やかな花束はない。この身に抱えている苦悩だけだった。
ロビーへ入り、フロントでへの面会を申し出る。以前と同じようにフロントスタッフは、電話の内線を繋いだ。何度か言葉を交わしたあと、少々困った顔を見せた。
「ブチャラティ様。様がどのようなご用件かと……」
やはり、そうきたか。
「少し話がしたいんだ。時間はとらせない」
彼はその言葉を丁寧に伝えると、笑みを浮かべて二回ほど頷いた。了承を得ることができたようだ。
「様のお部屋番号は以前と同様、601号室でございます。ただ、様はただいまお取り込み中のようでございますので、部屋の前で待っていただけるように、と」
「取り込み中?」
「はい。それにいつもより機嫌を損ねて――」
途中まで言ったところで、彼女は慌てて口を押さえた。
「も、申し訳ございません」
「いや、いいんだ。ただ、きみから見て普段の彼女がどのような印象なのか教えてほしい」
「お優しい方です。リザベーションの際にも、当ホテルを大変お気に召していらっしゃいましたし、ハウスキーパーの話を聞いても、お部屋の中は常に整っているとのことです。ホテルへいらっしゃる方々の中でも、こちらの目を見て話す方は様くらいです」
よく見ているな、とブチャラティは思った。
「ディ・モールトグラッツェ」
最上階のキーを受け取り、エレベーターへ乗り込んだ。やはり今扉が閉じる際に、ホテルマンが深々と頭を下げている。大変な仕事だな、と思った。
エレベーターが最上階へ到着する。開いた扉の先では、老年の男が杖を持って待っていた。素早く開扉ボタンを押し、先に中へ招く。老年の男がエレベーターに入ったのを確認してから降りた。
長い廊下を歩き、が宿泊している601号室の前に立つ。扉を拳で三回だけ叩いた。しかし部屋の中から返答はなく、扉に向かってくるような足音も聞こえない。
ここでフロントスタッフの言葉を思い出す。部屋の前で待っているように言われたが、相手に訪問の合図は聞こえているのだろうか。
もう一度扉を叩こうと拳を作ったときだ。部屋の中から小さな悲鳴が聞こえた。の声だ。
嫌な予感がしたブチャラティは咄嗟にスティッキィ・フィンガーズで扉に縫い目を作った。ジッパーを勢いよく下げた先では、バスローブに身を包んでいるが目を丸くしてこちらを見ている。腰の結び目が解け、ブチャラティの視界に肌色と白色が映り込むのと同時に、の顔が赤く色づく。
「あ……」ブチャラティの口から漏れた一文字は、とても情けない声だった。
「なッ。い、一体どうやって……!」
慌てふためくが、はだけたバスローブの結び部分を手で掴んだ。風呂上りだろうか。の身体からは白い湯気が立ち昇っており、髪の毛は濡れている。そして、いい匂いがする。
「いや、きみの悲鳴が聞こえたから」作り出したままの縫い目を後ろ手に消した。
「ただ躓いただけ……!」
の足元を見ても、躓くようなものはない。
「何もないところで躓いたっていうのか?」
はさらに顔を赤らめた。「いつまで見てるの!」
振り上げたの右手がブチャラティの頬を叩く。余りの強さに、うぐっ、と声が出た。
「わたしが出てくるまで、扉の前で待ってなさいって伝えたはずじゃない!!」
「そ、それはそうだったんだが……」
「いいから早く後ろを向いて!」
紅葉が咲いた頬に手を当てながら、ブチャラティは後ろを向いた。
「と、とりあえず着替えてくるから」の声には緊張の色が含まれている。
「ああ、分かった」
「わたしがいいって言うまで、絶対に振り向かないで。いい? 絶対に振り向いたらだめよ」
「ああ、振り向かない。誓うさ」
背中の向こうでが遠のく気配がしたが、生憎この部屋の絨毯は足音を消してしまうので、定かではない。そろそろ行っただろうか、という油断すら許されない。の言葉を無視して振り返れば、今度は先日暴れまわっていた男にお見舞いしていた足蹴りが繰り出されてしまうだろう。ブチャラティは意味もなく呼吸を止め、の言葉を待った。
どこからか部屋の扉が閉まり、その向こうからの、いいよ、というくぐもった声が聞こえた。振り返ってそれを確認したブチャラティは、一気に加速した心拍数を整える。おぼつかない足取りで近くのソファーに座ると、想像以上に身体が沈んだ。
――見て、しまった。
裸でこそないが、上半身は何も纏っていなかった。健康的な小麦色の肌を思わず凝視してしまった。
「……白か」
思わず呟いてしまった口を手で押さえる。ミスタが以前、興奮した様子で言っていたことがまさか本当になるとは思わなかった。
一瞬だが――見えた。
オレはラッキースケベになるために来たのか。いや、違う。彼女の潔白を証明するためのはずだ。下着の色を確かめにきたわけでは、断じてない。
余計なことばかりが浮かんでくる頭を戒めるため、ブチャラティは己の顔を一度軽く叩いた。
悶々としていると、部屋の扉が開く。出てきたは、こちらと目が合うと気まずそうに目を逸らし、まるで逃げるように洗い場へ向かった。食器同士が控えめぶつかり合う音が聞こえたのち、二つのティーカップを持って向かいのソファーに座った。
「ミルクは入れる?」
「いや、自分でやろう」
「それなら、ここに置いておくね」
ブチャラティへ向かって紅茶の入ったティーカップを差し出し、は紅茶に口付けた。
「さっきは大声出してごめんなさい」
「いや、謝るのはオレのほうだ。突然部屋に押しかけてしまってすまない」
「そのことだけど。どうして鍵もなしに入れたの?」
やはりそこをついてくるか。一瞬の出来事で見逃しているかと思ったが、は抜け目がないようだ。ブチャラティは思わず視線を横へずらした。
説明の仕様がない。自分にはスタンドという特殊な能力があり、スティッキィ・フィンガーズを使えば、鍵のついた扉なんてものは意味を為さない。どこへだって入ることが可能で、きみの中に入ることだってできるんだぜ、と話しても、頭のおかしいやつだと思われるだろう。
どう説明しようか考えあぐねていると、は飲んでいたティーカップを、そっと置いた。
「もしかして組織の機密情報?」
ブチャラティの目が、ぱちぱちと瞬いた。
「わたしの見間違いだったのかな。ブチャラティが扉を通り抜けたように見えたんだけどね。そんなことできるはずないもの。何か特別な鍵を使ったんでしょう」
向こうから助け舟が流れてきた気分になった。
「その通りだが、もしに何かあったときは、扉を通り抜けることも出来る覚悟で挑もう」
は本気にしているように笑った。「女の風呂上りを見るために随分と頑張るんだ」
「それについては、その、謝る。本当にすまなかった」
「もういいの。それより、頬は大丈夫?」
「きみのビンタは痛いな」
「そ、そんなに痛かった?」は急に慌て出す。
「それくらい効いたってことさ」
「思い切り叩いちゃったし、もしかしたら腫れちゃうかもね。なにか冷やすものでも――」
立ち上がろうとしたの腕を掴む。
「ブチャラティ?」
「今日は訊きたいことがあって来たんだ」
「訊きたいこと?」
そうだ、とブチャラティは頷く。
「もしかしてなにか情報でも? 申し訳ないけど、あなたに教えられるようなものは……」
「オレが欲しいのは、きみのことだ」
窓辺のカーテンが音を立てて広がった。入り込んだ風がの髪を乱すが、は髪型を整えることも忘れ、瞬きを繰り返している。人間が動揺するときにする仕草の一つだ。
ブチャラティが口を開いたとき、が胸の前で両手を突き出した。
「ちょ、ちょっと待って。文脈をしっかり理解させて。わたしの何が欲しいって言ったの?」
「今のはこちらの言い方がまずかった。謝ろう。オレが訊きたいのは、がネアポリスへ戻ってくる前、どこにいたのかを知りたいんだ」
「わたしがネアポリスに来る前?」
「戻ってきた理由はまだ訊かないでおこう。ただ、この数週間どこへ訪れていたのかを教えてくれないか」
「それを知って一体どうするの?」
ごもっともな質問だ、と思った。
「言葉を返すようで悪いが、それは言えない。ただ知っておきたいだけなんだ。きみの行動がどうというわけじゃあない。正直に答えてくれたらいい」
はようやく乱れた髪型を整えた。
「旅の話を聞かせてくれないか。二年も離れていたんだ。友人として気になるのは当然だ」
「友人、ね」
は鼻で笑ったあと、頬杖をついた。
「わたしはあなたと別れたあと、日本へ行ったの。約一年半暮らして。それからイタリアへ戻ってきた」
「ネアポリスに戻る前はどこにいたんだ」
「最初はサンマルコ寺院を観たいと思って、マルコ・ポーロ国際空港で降りたんだっけ。イタリアに到着したのは三ヶ月前だったから」
「マルコ・ポーロというと、ヴェネツィアか」
そう、は頷く。「そのあとは列車にバイクを乗せて南下して、ネアポリスに戻ってきたの」
「途中で寄り道はしなかったのか」
「確かに所々で下車はしたけど、観光していたわけでもないから。場所は覚えていない」
の言葉に思いつきのような迷いはない。嘘を言っているようにも見えなかった。
彼女は日本へ渡ったあと、時間をかけてヴェネツィアへ向かった。ここまではいい。だが、そこからネアポリスまで真っ直ぐ来たとなると、フーゴとアバッキオが目撃したに矛盾が生まれる。アバッキオのムーディー・ブルースは正確だ。それはブチャラティが本人の次によく知っている。
これまでの情報を整理すれば、結果としてが嘘を言っていることになる。
仮にが嘘を吐いているとしよう。ブチャラティたちがパッショーネの構成員を襲った事件と、フィレンツェの田舎町での事件を調査しているということは知らないはずだ。それなのに彼女が嘘を吐く理由は、一体どこにあるのだろうか。
訊かれた相手がブチャラティだったから――。
ふと、フーゴの言葉が脳内をよぎった。ネアポリスへ戻ってきた理由も含め、二年越しに再会したは、確実に何かを隠している。フーゴの言うように、その理由が自分にあるのであれば、自分はいつまで経っても彼女のことを知ることができないではないか。
少々手荒になってしまうが、の口を割らせるために策を考えなくてはならない。
「ブチャラティ」
不意にから呼ばれ、ブチャラティはいつの間にか考え込んでいた頭を上げた。
「もしかして昨日のこと、怒ってる?」
「昨日のこと?」
は、あ。いや、その……、と髪を耳にかける。
「昨日はあなたの話もちゃんと聞かずに、勝手にどこかへ行ってしまったから。あんな道の真ん中で叫んでしまったし、迷惑かけちゃったなって」
意外なことではない。しかしから謝罪の言葉を聞くとは思わず、ブチャラティは驚いた。
「ごめんなさい、ブチャラティ」
ブチャラティはかぶりを振る。「謝らないでくれ。オレのほうこそ軽率だった。いっしょにいた彼女は訳ありでな。二人で店へ行くつもりは決してなかった」
「そうだったの?」
「当然だろう。あの場所にはきみとしか行かない」
は安堵したように息を吐いた。その様子にブチャラティは首を捻る。誤解を解きたかったのはこちらのほうで、釈明ができたことに安心したのもこちらのほうだ。どうしてが安心しているのだろう。
ブチャラティはふと、おかしなことを考えた。
――これは、自惚れてもいいのだろうか。
「。間違っていたら否定してくれ」
「なに?」
「妬いたのか? いっしょにいた彼女に」
訊いた瞬間、は飲んでいた紅茶を吹き出した。慌てて口周りを拭いている。以前に出掛けたときもそうだったが、こういうところは分かりやすいな、と思う。
「き、急に何を言い出すのかと思えば……」
「なあ、どうなんだ。答えてくれ」
じりじりと詰め寄れば、が距離を置く。
ああ、今の自分は悪い顔をしているな。自覚していながら、ブチャラティはへの詰問を抑えられなかった。これだけ大げさな反応を見せてくれたのだ。相手の気持ちを探るまでは帰れないに決まっている。
返事を期待しているときだった。が突然ソファーから立ち上がり、半ば引っ張り上げるようにスーツの襟元を掴んだ。情けないほどに驚き戸惑っている自分自身の顔が、の目に映り込んでいる。
「妬いたって言ったら、あなたを困らせてしまう?」
言っている本人が、一番困った顔を浮かべている。
「妬くに決まってるでしょう。あのお店は、わたしたちにとって特別な場所だったんだから」
ブチャラティは目を見開かせた。
それを言うと、は恥ずかしくなったのか。掴んでいた襟元を離し、そっぽを向いた。
の強い力から解放されたブチャラティは、重力にしたがって再びソファーに身を沈める。は耳の先まで真っ赤にさせながら、丸くなるように自身の体を抱き締めている。二の腕の隙間から一瞬だけ目が合うと、怯えるように目を逸らされた。ブチャラティもなぜか、初めて彼女から目を逸らしたいと思い、横を向いた。
なんともいえない空気が流れ、部屋に沈黙が続く。彼女とこんな空気になったのも初めてだ。
「わたしも、あなたに訊きたいことがあるの」
「訊きたいこと?」
先に沈黙を破ったのはだった。は丸めていた身体を直し、こちらへ向き直る。
「今週の土曜日、空いてる?」
「今週の土曜日?」
ブチャラティは頭の中でスケジュールを巡らせた。しかし、今週の土曜日に丸印は見当たらなかった。空いている、とだけ答える。
「本当? この間のように、急に呼び出されて仕事で帰ってしまうなんてことはない?」
「余程のことがない限りは」
そう伝えると、は再びソファーから立ち上がった。そのままローテーブルに両手をつき、前屈みになる。その勢いにブチャラティは思わずのけ反った。
「?」
「ブチャラティ」
すうっと、が深呼吸をした。
「今週の土曜日、わたしとデートしてほしい」