雨宿りも兼ね、ブチャラティはバールで軽食を取ってからアジトへ向かっていた。小降りになったところを見計らって外に出たのだが、たまたま通りがかった老夫婦に傘を譲り受けた。ブチャラティは最初こそ厚意だけを受け取るつもりだったが、老夫婦は互いの顔を見つめ合いながらこう言った。
二人で一つの傘を使うからいい、と。
老夫婦はブチャラティに一本渡すと、もう一本を差し、その身を寄せ合いながら雨の中へ消えていった。雨の中を寄り添って歩く二人の後ろ姿は、仲むつまじい光景だった。
今度すれ違ったときに改めて礼を伝えよう。ブチャラティはありがたく傘を差して帰路を進んだ。
「戻ったぞ」
アジトは静まり返っていた。妙だな、と思いながら中へ入れば、留守を任せていたナランチャとミスタは互いの肩を支えにし、大口を開けて眠っていた。テーブルの上には遊びっぱなしのトランプの札。キャップを閉めないまま、結露で濡れているペットボトル。皿に盛られたままの焼き菓子。
ブチャラティは呆れて肩を落とした。床でくたびれているブランケットを拾い、二人の身体をまとめて巻いてやる。その温もりに思わず身を捩じらせたナランチャが寝言を言っているようだが、上手くは聞き取れなかった。テーブルの上を片付け、ようやくブチャラティはソファーへ座る。
さて、これからどうしようか――。
思い出の店を探しに出かけたつもりだったが、結局何も分からないまま戻ってきてしまった。こうなった限り、と話し合うほかに解決策はないだろう。
しかし、が素直にこちらの釈明に耳を傾けてくれるだろうか。普段の彼女ならばこのような心配を抱える必要はないはずだが、今日のの様子を考えていると、どうしてだろうか。不安で仕方ない。
様々な事柄を頭に巡らせていると、ブチャラティはいつの間にか眠りについていた。重たい瞼を開いた先に見えたのは時計だ。午後九時になろうとしている。辺りを見渡すと、ソファーにはまだミスタとナランチャが寝息をたてて眠っていた。どうやら、フーゴとアバッキオはまだのようだ。彼らなら、眠っている自分を起こすようなことはしないだろうが。
そんなことを考えていたときだ。扉の開く音が聞こえ、ブチャラティはソファーから立ち上がる。今度こそ任務を終えて帰ってきたフーゴとアバッキオが帰ってきた。
「戻りました」フーゴが言った。
「ご苦労だった。フーゴ、アバッキオ」
「思わぬ雨に足止めされてしまって、予定より遅くなってしまいました。すみません」
ブチャラティはかぶりを振る。「いいんだ。なにか淹れようか。カッフェしか作れんが」
「ああ。グラッツェ、ブチャラティ」
フーゴとアバッキオは雨で濡れた身体をはたき、ソファーへ体重を沈めた。
「ったく。こいつらはぬくぬくといいご身分だな。涎垂らして眠ってやがる」
温かいブランケットに包まっている二人に向かって、アバッキオが毒づく。
「でも、二人にしては片付いてるほうだよ。この間の注意がさすがに効いたんだろうな」
「注意?」アバッキオが訊いた。
「ほら、アバッキオがアジトから戻ってきたときは、もの凄い散らかりようだっただろう?」
ああ、とアバッキオが呟く。
「ナランチャも、やればできるじゃあないか」
まあ、効き目は全くなかったんだけどな、と片付けた本人であるブチャラティは湯を沸かしつつ思った。
ソファーに腰を掛けているフーゴとアバッキオにカッフェを渡す。ブチャラティはその向かいへ座った。
「報告を聞こうか」
フーゴはカッフェを一口飲んだ。「電話でも話しましたが、町は落ち着いていました。人々も普段通りの生活を送っています」
「そうか。他に分かったことは?」
「ブチャラティも既に調べていると思いますが、ギャングチームを束ねていた人物の名はエミリオ・マンチーニ。この男は住民から慕われていたようです。恨みを買われるような性格でもなく、寧ろギャングだったのが不思議なくらいの経歴です。構成員は三十二名ですが全員あの場にいたわけではなく、数名だけ潜んでいたそうです。他の構成員はボスがやられたことを悔やんでいましたが、再結成の予定はない、と」
「それが壊滅の裏側ってことか」
そうです、とフーゴは頷く。
「相手の正体は掴めたか?」
「オレのスタンドで色んな場所を調べたが、これといったやつは当たらなかった。酒場で働いている女は、家の中へ入ってきた男女の声を聞いたと証言している。本人は姿を見ていなかったようだが、試しにムーディー・ブルースで確かめてみた」
アバッキオは鼻の横を掻いた。
「その二人は、町の住人だった。それも今回の騒動で巻き込まれて死亡した二人だ。だが、話はこれで終わりじゃあねえ。二人の遺体は町の中で発見されたんだが、他にも妙な目撃証言がある」
「妙な目撃証言?」
アバッキオがそう言うと、フーゴへ目配せをする。フーゴが息を呑んだのが見て分かった。
「ブチャラティ、あなたに伝えなくてはならないことがあります。それもかなり重要な」
フーゴは何やら慎重に言葉を選んでいるようだ。アバッキオの目がこちらを向いた。その視線の意味を考える前に、フーゴは懐から一枚の紙切れを取り出してテーブルに提示する。
二人は依然として無言だった。この沈黙は、のことが話題になった際のものとは全く違う圧迫感だ。何も言えないのではない。目の前の紙切れを裏返せばすぐに分かる、という無言の圧力だ。
ブチャラティの指先が触れる寸前、フーゴが待ってください、と紙を引いた。
「なんだ」ブチャラティが訊いた。
「最初に説明しておきます。これはあんたから預かった資料をちょいと千切った紙切れです」
よく見れば、確かに目を通したことのある文字と写真が並んでいる。
「それがどうかしたのか」
「その裏に、町の少年が似顔絵を描いたんです。事件が起きた日に見かけた女性の姿を。絵を見たら驚くかもしれませんが、少年が描いた絵です」
女性、と聞いて、ブチャラティは胸騒ぎがした。
「あんたに、確認してもらいたいんです」
確認、か――フーゴの言葉には、いくつもの意味が含まれているように聞こえた。
ブチャラティは紙を裏返した。そこには、広がる田園と古びた家を背景に、家から出てきたばかりの女が描かれている。光沢のあるライダースーツ。艶のある髪。どこかを睨みつけているかのような鋭い目つき。腕には何か抱えているようだが、今重要なのはこれではない。
ブチャラティの目線が上がった。二人の視線の意味をようやく理解する。
「これ、さんですよね」フーゴが問うた。
「……確かに。よく似ているな」
「フィレンツェの町で騒動があったのはいまから二週間前です。僕がさんと初めて会ったのは十日前。移動手段は分かりませんが、もしさんが自前のバイクでネアポリスまで走ると、睡眠を含めて約二日かかります」
「何が、言いたいんだ?」
「あんたが解らないはずがない」
「はオレたちと会う前に町にいたと?」
「そういうことになります」フーゴは淡々と答えた。
ブチャラティは指で紙切れを弾いた。飛んでいきそうになるのをフーゴが慌てて手に取ったが、構わず横を向く。椅子から腰を浮かせたが、アバッキオがそれを止めた。
「ガキの描いた絵だけじゃあ納得いかねえだろうよ。それなら、オレのムーディー・ブルースでその女を捉えることができた、と言ったら信じるかい」
「なんだって?」
「フーゴもしっかり見ているぜ。さっき言った妙な目撃証言ってのは、空き家へ向かって行く人影だ。町民はそこに誰も住んでいないということは知っている。遺体になる前の二人だって同じはずだ。・は実際、騒動が起こった前日にそこへ訪れていた。それからバイクで駅へ向かったんだ」
「しかし、ムーディー・ブルースでを捉えたのは前日のことだったんだろう」
「その絵を描いたガキは二週間前と答えている」
「つまり、は二度、町を訪れていたということか」
「そういうことだ」アバッキオが頷く。
ブチャラティは脚を組みなおし、胸に溜まっていたものを静かに吐き出した。
次から次へと頭を抱えたくなるような問題ばかり湧き出るな、と心の中で嘲笑する。
「彼女が関わっていると、まだ決まったわけじゃあない。僕らだって理由が知りたいんですよ。どうしてあの町にいたのか」フーゴは宥めるように言った。
フーゴとアバッキオを信じていないわけではない。信じているからこそ、言葉を聞き入れたくないのだ。ポルポから呼ばれた際、彼女の話が出たときに嫌な汗が流れたのを覚えている。それから心に引っ掛かっていたのだ。の名前が知らぬ間に組織に知れ渡っている事が、ずっと。そして今回も。
まさか――。
ブチャラティは邪心を払いのけた。彼女に限ってそんなことがあるはずがない。
「なァ、ブチャラティよ。どうしてそこまでその女を信じる? オレはそいつがどんな人間かは知らない。けれどもだ。今回の事件に関わっている可能性が大いにあり得るのは、もう分かっただろ?」
ブチャラティが何も言わずカッフェを飲んでいると、フーゴが立ち上がった。
「僕も最初は信じがたいと思いました。けれど、アバッキオのムーディー・ブルースは確かにさんを捉えていました。あの場所にいたことよりも、どうしてかが重要なんですよ。それはあんただって――」
「信じなくちゃあならないんだ」
フーゴの言葉をブチャラティが遮った。抑揚のかかった声に、二人は驚き顔を浮かべている。
「オレはお前たちを誰よりも信頼している。お前たちの言葉に嘘はない。それは分かるんだ」
「それなら、どうして……」
「寧ろ、彼女を騙しているのはオレのほうなんだ」
「え?」
ブチャラティはソファーから立ち上がった。
「今回の調査で彼女を問い詰める必要性ができたのは事実だ。この件はオレに任せてくれないか」
「それはもちろん」フーゴは迷わず頷いた。
アバッキオは、念を押すように詰め寄る。
「おい、ブチャラティ。今回の命令は相手の口を割らせるだけじゃあねえ。分かってんだろうな。相手が誰であろうが、オレたちは敵を始末することを命じられている」
「ああ。重々承知している」
「それが大事な友人でも、あんたは殺せるか?」
殺す。を殺す。今までの任務と同じように、彼女を、殺す。
ブチャラティは自分の手の平を見つめた。重なるのは、自身の分身だ。
スティッキィ・フィンガーズ。振り向かなくとも、自分と同じポーズをとっているのが分かる。これまで幾人分もの血を見てきた手は、こう言っているようだった。
――迷っているのか?
「オレは……」
「さっきからなに話してんの~~?」
それはナランチャの声だった。気の抜けた眠気声で、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。アバッキオも諦めた様子で肩をすくめた。ブチャラティの返事を聞かないまま、アジトの奥へ向かう。
「あ、フーゴ、アバッキオ。お帰り」
「ああ、ただいま。ナランチャ、あなたにしては珍しく部屋が片付いているじゃあないですか。感心しましたよ。見直しました」
「えッ? あ、ああ……。ウン」
いつの間にか片付いているテーブルを見て、ナランチャは意外そうに頷いた。
ブチャラティは考えていた。オレは結局、何を言おうとしていたのだろう、と。