「うわ。雨が降ってるじゃあないか」
列車から降りたとき、ネアポリスの空は灰色に染まっていた。フーゴは思わず息をこぼす。
フィレンツェでの調査を終え、フーゴとアバッキオを乗せた列車はネアポリス駅に到着した。調査中は快晴だったのだが、どうやらこの雨雲はネアポリス上空にのみ滞在しているようだ。辺りでは自分たちと同じように、雨宿りを余儀なくされている者がたくさんいる。
「この程度ならすぐに止むだろ」アバッキオが雨に向かって腕を伸ばす。
「さすがにタクシーの待機列も長いな。あれじゃあ止むのを大人しく待ってたほうがマシだよ」
「腹が減った。構内を見て回ってくる」
「それなら僕のも頼む」
「いつものか?」
「ああ。いつもの」
アバッキオは、はいよ、と言って離れていく。フーゴの『いつもの』という曖昧なようで的確な言葉を理解できるのは、チームの中でもアバッキオだけだ。フーゴにとってアバッキオは、ブチャラティの次に関係が長い。彼の印象は、組織に入団した頃からあまり変わっていない。仏頂面で何を考えているのか分からないところがあるが、逆にそれが彼自身なのだと、最近になってようやく分かってきたところだ。
アバッキオがパッショーネに入団する以前、この街を守る警官であったことは、恐らくフーゴだけが知っている。アバッキオを組織に勧誘したのはブチャラティではなく、フーゴだったのだ。汚職に染まったアバッキオと初めて会ったときのことは今でも忘れない。
彼自身が警官としての出世を夢見ていたのかどうかは知る由もないが、今では正反対であるギャングの組織に忠誠を誓い、仕事をこなしている。その原動力はいったいどこから湧き出てきたのだろうか。
考えなくとも、すぐに頭に浮かんでくる。
思わず口に出てしまいそうになったときだ。雨宿りをしている親子へ歩み寄る姿に気を取られた。
「……さん?」
それはだった。彼女は肩に掛けているショルダーバッグから折りたたみ傘を取り出し、それを差し出した。母親は、悪いです、というように手を横へ振っているが、は半ば無理やり押し付けるように傘を渡している。ついに母親が折れ、に頭を下げながら子供を抱えて雨の中へ消えていった。その後ろ姿を見送ると、はフーゴのほうへ歩いてきた。
「あれ、フーゴくん?」
「こんにちは、さん」
「もしかして、フーゴくんも雨宿り?」
フーゴはこくりと頷く。
は胸を撫でる。「実はわたしもなんだ。よかったらいっしょに待っていてもいいかな」
もちろん、とフーゴは隣を空けた。そのスペースにが立ち、外の様子を眺める。
「それにしてもすごい雨ね。こんな天気になるなら、小さな傘を持ち歩くんだった」
先ほどの行動と今の台詞に矛盾を覚え、フーゴは疑問符を浮かべる。
「さん、今あそこにいた親子に折りたたみ傘を譲っていましたけど……」
「え? あ、ああ……」
見てたんだ、とは頬を掻く。
「子供の様子が変だったから訊いてみたら、体調を崩していたみたいで。だから譲ってあげたの。見られてたって思ったらなんだか気恥ずかしくなってきちゃった」
フーゴはため息を吐いた。「別に文句をつけるつもりではありませんが、人が良すぎるのも問題ですよ。あなたが風邪をひいたらどうするんですか」
は小さく笑った。「やっぱりフーゴくんって面白いね。なんだかお母さんみたい」
「はあ?」
「ううん、なんでもない。叱ってくれてありがとう」
おかしなことを言い出したに、フーゴは不思議な違和感を覚えた。
そうだ。彼女はフィレンツェでの調査で、なぜか存在が浮上した人物だ――。
少年から譲り受けた一枚の絵。そこには、の姿が描かれていた。少年が彼女を見かけたのは二週間前。ギャングチームが襲われた事件が起こったのも、二週間前。これは単なる偶然だろうか。
フーゴはブチャラティと共に、ポルポの元へ向かったときのことを思い出していた。敵の目的は情報。この事件の数日後、ローマでパッショーネの構成員が襲われた。その時、は何をしていたのか。
他にも気になることはある。は旧友であるブチャラティに、ネアポリスに戻ってきた真の理由を打ち明けていない。そして彼女が常に携え、狙っているのは情報――。
「あの……さん」
「なあに?」は読んでいた本を閉じた。
「駅に来たということは、これからどこかへ向かう予定だったんですよね。どちらへ?」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「訊かれてまずいことなんですか?」
「そういうわけじゃあないけど。別にどこにも行くつもりなんてなかったの。ただ――」
「ただ?」
「おい、フーゴ」
の口が開いたとき、背後からアバッキオが現れた。手には駅構内で調達してきた食料を持っている。フーゴがそれを受け取ると、自然とアバッキオの視線がへ向いた。
「あんた、どこかで見たことのある顔だな」
「え?」
この二人の間に面識があるわけがないのだが、とフーゴは思ったが、謎はすぐに解決した。
「そういえば。さん、パスポートを落としたりしませんでしたか?」
落としたことがある、とが頷く。
「彼なんですよ。拾ったのは」
が目を丸くさせる。「そ、そうだったの?」
そのままアバッキオに向き直ると、深々と頭を下げた。
「ご親切にありがとうございます。何とお礼を言ったらいいか……」
「礼はいい。今度からは気ィつけな」アバッキオは頭を下げているを見ずに言った。
相変わらず素直じゃあないな、と心の中で笑いながら、フーゴは受け取った食料で腹を満たした。雨が上がるまでの間、は壁に背を預けて本を読んでいた。アバッキオは買ってきたパンを胃の中に収めると、腕を組みながら目を閉じ、雨が止むのを待っていた。
数十分後。天気が回復し、雨宿りをしていた者たちが行動をはじめる。も本をしまった。
「止んだみたいですね」
「フーゴくんたちは、これから帰るの?」
「はい。さんはどうされるんですか」
「わたしはホテルへ戻るつもり」
そうですか、と言って話を終えようとしたが、ふと上司の話とやるせない顔が頭をよぎった。
「さんって携帯電話をお持ちですか?」
「え? う、うん。持ってるけど……」その証拠にはバッグから携帯電話を取り出した。
「実はブチャラティが――」
その名前を出すと、は少しだけ動揺したように見えた。
「さん?」
「え?」
「どうしたんですか?」
様子がおかしい。こちらの声が聞こえていないのか、聞き返すようなことばかりだ。
しかし、驚いたのはここからだった。の目から一筋の涙が流れ落ちたのだ。天井から滴り落ちてきた雨粒にも似た涙にフーゴはもちろん、アバッキオも目を見開いている。
「――あれ?」
は自分の頬に触れて、ようやくこの状況に気がついたらしい。自分が涙を流していることに対して、誰よりも驚いている。
「ごッ、ごめんなさい。どうしちゃったんだろう」
「だ、大丈夫ですか?」
慌てたフーゴはポケットに手を入れた。しかしハンカチは見当たらない。
そうだ。調査している最中、泣き出してしまった女性に渡してしまったのだ。空になったポケットから手を出してどうしようか考えていると、脇から黒い腕が伸びてきた。
アバッキオだ。彼は自身のハンカチをに差し出している。
「早く拭け」
「え?」
「オレたちが泣かせたみてえだろ。さっさと拭け」
はハンカチを受け取り、頬に残った涙のあとを拭った。申し訳なさそうに返されたそれを、アバッキオは何も言わずにポケットへ戻した。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。ごめんなさい、びっくりしたよね」
「何かあったんですか」
はかぶりを振る。「心配してくれてありがとう。ちょっと悩み事があってね、それを思い出してしまったのかも。本当に大丈夫。ハンカチもありがとうございます。濡らしてしまってすみません」
頭を軽く下げたあと、は外へ出た。
「それじゃあ。わたしはこれで」
小雨の中、は駅を後にした。その足取りに違和感はなかったが、まるで逃げるようだった。
残された二人ももアジトへ向かうため、駅を離れる。水溜りを避けながら、歩道を歩く。
フーゴはの涙の正体について考えていた。人はあのように突然涙を流せるものだろうか。本人は悩み事が原因だと言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか。分からない。
悩み事があるのなら、ブチャラティに相談すればいい。フーゴは素直にそう思っていた。
「おい、フーゴ」
「なんだ?」
「気を許すんじゃあねえぞ、あの女に」
どういう意味だ、とアバッキオを見つめる。
「あの女は事件当日、現場にいたんだぜ。偶然を装って何かを企んでいるかもしれねえ。ブチャラティの友人だかなんだか知らねえが、疑わしいのは間違いないだろ」
「それは確かにそうなんだが……」
「女だからってなめてかかると痛い目に遭うぜ」
「僕が悩んでいるのはブチャラティのことだ。仮にさんが怪しいとして、問題はそれをどう説明するか。あの人は優しいからな」
「最悪の場合、昔のようにブチャラティに代わって、オレたちが後始末をすればいいさ」
昔のように、か、とフーゴは呟く。
今回下された指令は『敵を始末する事』。自分たちは殺しを命じられている。それが例え上司の友人であっても、組織の命令は絶対だ。に僅かでも疑いがかかっている以上、今後はブチャラティの裏で彼女の素性を調べなければならない。
それをブチャラティが知ったら、彼は今まで以上に悩まされることになるだろう。久しぶりに会えた友人を殺すという行為は、ギャングの世界に身を置いている者にはよくある話だ。しかしブチャラティはどこまでも優しく、そしてどこまでもこの職業に向いていない男だ。
「それにしても、アバッキオがハンカチを持ち歩いているなんて思わなかったぞ。意外だな」
「お前は違うのか?」
「まあ、せいぜいポケットティッシュかな。今回はたまたまさ。普段から懐に忍ばせているのは、ブチャラティくらいじゃあないか」
「約二名は持つことすら考えてなさそうだけどな」
アバッキオの言う約二名の顔が浮かび上がり、フーゴは思わず吹き出してしまった。