「手荷物はこれで全部だな」
「え、ええ」ブルーカはぎこちなく頷く。
「鞄のなかに財布を入れるときは、内ポケットに入れておくといい。すられたら大変だ」
「そうね。今後はそうするわ」
時刻は午後六時。ブチャラティはブルーカを自宅まで送り届けていた。扉を背にして手荷物を受け渡す。最初に提げていたショッピングバッグに加え、小さな袋がいくつか増えている。
「それじゃあ、オレはこれで失礼する」
「待って、ブチャラティ。飲み物の一杯くらい飲んでいきましょうよ。美味しい茶葉があるの」
ブチャラティはかぶりを振った。「気持ちはありがたいが、そろそろ戻らなきゃあならない」
「じゃあ、次はいつが空いているの?」
「すまない。しばらくは忙しいんだ」
「少しだけでもいいの。あなたと会いたい」
「ブルーカ」
詰問にも似たブルーカの言葉を無理やり遮る。ブチャラティにしては、少々強めの声だった。
はあ、と息を吐く。「申し訳ないが、きみの気持ちは、オレの器には収まりきらない」
「それは一体どういうこと?」
「きみは、まどろっこしい男が好きか?」
ブルーカは激しくかぶりを振った。「そんな男、お断りよ。でもブチャラティ、あなたは違う」
ブチャラティは思わず鼻で笑いそうになった。
「そうか。なら遠慮せず言わせてもらおう」
ブルーカの喉がごくりと動く。その喉の動きが、止まることも知らずに。
「きみじゃあ無理だ。無理なんだ。オレがきみにしてやれることは、傷つけること以外にない。自分の心を守るために、どうかオレのことは諦めてくれ」
ブチャラティが言うと、ブルーカは口を結んだ。その表情は、先ほどのとよく似ている。
戸締りをしっかり行うようにだけ伝え、ブチャラティは手を離した。何かを言いたそうに顔をしかめているブルーカがいたが、これ以上の言葉は不要と考え、静かに背を向ける。段差を下りて帰路に就こうとしたときだ。
「さっき道で会った人は、あなたのなに?」
ブチャラティの歩みがぴたりと止まる。
「彼女はあなたのことを友人だと言っていた。それなら、あなたにとって彼女はなに?」
「彼女はオレにとっても、大事な友人だ」
ブルーカはおかしそうに笑う。「友達なら、あなたの言葉に耳を傾けてくれるはずでしょう。でも彼女はそうはしなかった。なんだか勝手に誤解していたみたいだけど、あんな人通りのする場所で大声を上げるなんて、女として恥よ。見ていたこっちが恥ずかしかったわ。ああいう女ほど、独占欲が強くて身勝手で、自分のことしか考えられない性格――」
「それ以上言うなよ」
ブチャラティはブルーカのほうへ振り返った。
「オレにとって、彼女は謎だ。眩暈がしちまいそうなくらいに、謎の存在なんだ」
自分は今、どのような顔をしているのだろうか。ブルーカの瞳に映っている自分は、どのような表情をしているのだろうか。それは彼女の顔を見れば分かる。
「オレが知らない彼女を、きみに語られたくないな」
「ブチャラティ……」
「もう家の中へ入れ。身体を冷やすぞ」
ブルーカは伸ばそうとした手を引っ込め、大人しく身を引いた。彼女が扉を閉めるまで見送ったあと、ブチャラティは今度こそ振り返らずに歩き出す。
一人になった途端にため息がこぼれた。昼間、ブルーカと並んで歩いているときにと会ったことを思い出していた。にしては軽装だったが、化粧はしっかりと施していた。自分と同じように別の異性と行動している様子でもなく、買い物をしている最中でもなかった。隣に並んでいたブルーカに対して、何やら躍起な態度をとっていたような気もする。
なにより――があれだけの声を荒らげたことに、驚きを隠せなかった。彼女がブチャラティの手を振り払ったとき、彼女自身が一番驚き、そして目が合うと深く傷ついた顔を見せた。本来ならば、傷つくのは振り払われたほうのはずなのに。
今日のは明らかに様子がおかしかった。余裕がなく、聞く耳すら持っていなかった。去り際に聞こえた謝罪の言葉が、今でも胸に刺さる。
何に対しての、ごめんなさい、なのか。
背を向けたあと、彼女はどんな顔をしていたのか。
自分たちは解り合っているようで、肝心なところは蓋をして塞ぎ込んでしまっている。
この二年で自分たちの何が変わってしまったのか。
を変えたのはなんだ。を変えたのは、誰だ。
考えているうちにブチャラティは笑っていた。声に出さずに、ただ薄ら笑いを浮かべている。緩んでしまった口元を手の平で覆い隠す。自分で自分が気持ち悪いと思ってしまった。しかし、分からないことがこれだけ魅力的だと感じるのは、相手が相手だからだ。
おかしい。まったくおかしいことだ――。
今、自分たちを何かに例えるのなら。自分が一本の花で、は縁のぎりぎりまでに水を張った花瓶。花を花瓶に生けた瞬間、花瓶の水は一気に溢れ出す。そんな瀬戸際に自分たちは立っている。
花瓶の水を減らすべきか。それとも逆に溢れ出させてやるべきか。
ぽつりと、頬に冷たいものが落ちてきた。触れてみるとそれは雨粒だった。空を仰ぎ見れば、雨は徐々に強さを増していく。辺りでは鞄や羽織っているジャケットなどを傘代わりにしている者たちが、急ぎ足で駆けている。ブチャラティも早足でアジトへ向かった。
は、傘を持っていただろうか――。