ドリーム小説 21

 テーブルの上でブチャラティの携帯電話が震えた。画面を見ると、フーゴからだった。
「オレだ」
(ブチャラティ。僕です、フーゴです。昼前に現場へ到着して、現地の人から話を聞いてみました。色々と収穫があったのでアジトへ帰りますね)
「わかった。町の様子はどうだった?」
(思っていたより落ち着いています。暮らしている子供たちも元気ですよ。今は二週間前に起こった事をアバッキオがムーディー・ブルースで調べています)
「そうか。引き続き頼んだ」
(次に会話を交わすときは、僕らもアジトに到着していると思います。それでは)
 通話が切られ、ブチャラティはポケットの中へ携帯電話をしまった。
 時刻は午後二時。フーゴとアバッキオがフィレンツェの田舎町へ発ってから数時間が経過していた。朝早く駅へ向かう二人を見送り、ブチャラティはアジトで普段通りに過ごしていた。
 ミスタとナランチャは、先ほどからテーブルの上でトランプゲームをしている。
「あッ。ミスタ、お前。いまイカサマしたなッ」
「そんな器用なこと、オレがするわけねーだろ」
「いいや、オレは見たんだからな。逃げんなよ。次のカードを引けば全部分かることだぜ」
 ナランチャがミスタの手札から一枚を引く。カードを確認した直後、ナランチャは椅子ごとひっくり返った。どうやら外れを引いてしまったようだ。
「やっぱりイカサマしてたんじゃあねーか!」
 ミスタのやり方が気に食わなかったナランチャは立ち上がり、ミスタを蹴飛ばした。当人はその蹴りを受けながらも自分の勝ちに満足げな顔を浮かべている。端から見れば、近所の子供たちの諍いとなんら変わりがない。
 ギャングはギャングでも、中身はそこらにいる普通の男と変わらないからな――。
 攻撃的なナランチャを脇に、ブチャラティは乾いた喉を潤すため冷蔵庫へ向かった。しかし冷蔵庫の中には目当ての飲み物が見当たらない。ふと視線を横へずらせば、ごみ箱の中に見慣れたペットボトルが捨てられていた。飲んだのは間違いなくミスタだろう。ラベルを剥がさずにごみ箱へ捨てる者は限られているが、ナランチャは基本的にオレンジジュース以外を飲まない。
 名前を書いていなかった自分が悪いな、とブチャラティは湯を沸かしてカッフェを淹れた。
 それを片手に、ノートパソコンを開く。画面に映っているのは組織が管理している情報コードだ。ネアポリスの事はもちろん、近辺で起こった騒ぎや当事者のプロフィールなどが記載されている。今ブチャラティが調べているのは、フィレンツェで起こった事件にまつわるものだ。
 田舎町で銃撃戦が起こったのは二月の下旬。今日から二週間前の午後八時ごろ。壊滅したギャングチームの構成員は全体で約三十名。組織のボスである男の名前はエミリオ・マンチーニ。妻子持ちのイタリア人だ。妻と子供はローマの別荘で暮らしていたため、幸いにも被害は受けなかった。妻は自分の夫がギャングスターであることを知っており、子供にはそのことを隠していたという。
 町の住人は二名が死亡。死因は、一名は鋭利な刃物で腹を切られた際の失血死。もう一名は弾丸による脳組織の損傷。その弾丸はエミリオが所持する拳銃と線状痕が一致したため、交戦の際に撃たれたエミリオの弾丸を受けたものとされている。事件発生時には犯人を見た者はおらず、警察の調べでも詳しい痕跡はいまだ発見されていない。唯一分かっているのは、その狙いがギャングチームの管理していた機密情報にあるという事だけだった。
 ブチャラティは画面をスクロールさせる。次に記されているのは、ローマでの事件だ。これは表沙汰にされている情報ではなく、パッショーネが管理しているものだ。
 日時は三月六日、午後四時。場所はローマの一角にあるアジトのうちの一つ。パッショーネの構成員の数名が被害に遭い、危うく情報を盗み取られそうになるところまで追い込まれた。こちらでも犯人の特定は難しいとされている。
 フィレンツェ、ローマ。このまま南下し続ければ、いずれはこのネアポリスにも足を踏み入れるだろう。もしかすると、既に敵はこの街に潜んでいるかもしれない。ブチャラティは自分の身体が硬直していくのを感じ取った。
 変に身構えていても仕方ない。今はフィレンツェの現場で調査を進めているフーゴとアバッキオからの話を聞くのが最善だろう。小窓を閉じ、インターネットに接続する。壁紙はネアポリスの風景だ。それを見たとき、ブチャラティの頭に浮かび上がるものがあった。
 昨日、と昼食にも似た朝食を食べている際に話題に挙げられた思い出のブラッスリー。がネアポリスを離れてからは、糸が切れたように足を運ばなくなった。その理由は、とても単純なものだ。
 あの店に行っても、彼女とは会えない。
 しかし、今はどうだろうか。
 しばらく考えた末、ブチャラティはパソコンの電源を落とし、ソファーから立ち上がった。
「あれ、ブチャラティ。どこかへ行くのか?」トランプをしているナランチャが訊いた。
「ああ、夜には戻る。留守を頼んでいいか」
 ナランチャは無言で頷いた。
「それと、あんまり部屋を散らかすんじゃあねえぞ。この間もフーゴが冷めた顔で、お前らの後片付けをしていたらしいからな」
「は、はァ~~い……」親から叱られた子供のように、ナランチャは眉を下げた。
 ブチャラティはアジトを後にし、記憶を頼りにブラッスリーまでの道を進んだ。昼下がりの街には子供を連れて歩いている家族の姿や、夕飯の買い出しに向かっている主婦の姿がよく見える。信号に捕まり、ブチャラティは歩みを止める。
 ふと辺りを見渡すと、一人の女と目が合った。女は途端に表情を明るくさせる。
「あら、ブチャラティじゃない」
「きみは確か、ワインバーで働いていた……」
 名前が思い出せず、ブチャラティは言葉に詰まる。
 女は一笑した。「ブルーカよ。最近恋人が素っ気なくて寂しい思いをしているブルーカ」
 正直、そんな名前だったかな、とブチャラティは心の中で思っていた。人の名前を覚えるのが苦手なわけではないが、このブルーカという女とはあまり面識がない。
「すまない。下の名前は覚えていたんだが、上の名前が思い出せなかったんだ」
「いいわよ、気にしないで。ところで、今日は珍しく一人なのかしら?」
「ああ。きみは休みなのかい」
 ブルーカは頷いた。「この間ようやくお給料が入ったからね。買い物でもしようと思って」
 見れば、彼女の腕には二つも三つも大きなショッピングバッグが提げられている。どれも高級ブランド店のものだ。金色に輝くブランドロゴが眩しい。
 車道の信号が赤へ切り替わろうとしたときだ。ブルーカは「ねえ、ブチャラティ」と甘い息を吐いて、ブチャラティの腕へ自分のを絡めた。
「よかったらいっしょに歩かない?」
「なんだって?」
「実はわたし、恋人と別れたの」
 言いながらブルーカは前へ進む。腕を絡まれているブチャラティも自然と歩幅を合わせる。
「怪しいと思って彼の携帯電話を調べてみたらビンゴ。別の女と頻繁に連絡を取り合っていたみたいで、寝室にはわたしが使った覚えのない生理用品やピル袋があったのよ」
 聞いているだけで生々しい話だ。
「昨日一晩中泣いてすっきりしたけど、やっぱり誰かに慰めてもらいたくて。買い物でもしたら気分が晴れるかなとも思ったのに、中々そうはいかなくてね。今日一日だけでいいの」
 お願い、ブチャラティ。ブルーカはマスカラで伸ばした睫毛を震わせながら言った。
 店内は常に暗がりで、顔や服をまじまじと見たことはなかったが、目の前にいるブルーカは間違いなく美しい顔立ちをしている。ウェーブのかかった髪も、爪の先で咲いている華やかなネイルも、今の彼女の心境を表しているかのような不安定なピンヒール靴も。全ては恋人にいい女として見てもらいがいがために揃えた、彼女なりのアピールなのだろうか。
 ブチャラティは胸中で息を吐いた。震えるブルーカの肩を優しく抱き、彼女の涙を拭う。
「分かった。きみの家まで送ろう」
「ブチャラティ……」
「もし帰りたくないのなら、カッフェの一杯くらいはご馳走しよう。気分転換にはなるだろう」
「ええ、もちろんよ。どこへでも連れて行って」ブルーカは目尻に浮かんでいる涙を拭った。
 泣き止んだブルーカからショッピングバッグを預かり、まだ不安定な体を支えながら歩く。彼女は腕を絡めたまま離れない。別れた恋人とも、こうして腕を組んでデートを楽しんでいた頃があったのだろう。
 男に傷つけられた女を慰めるのは、これで何度目になるのだろうか。以前にも、好きな男に振り向いてもらえなかった女から、慰めてほしい、とワインバーで相手が潰れるまで付き合ったことがある。数ヶ月前にはブルーカ同様、恋人の浮気が発覚した女から、抱いてほしい、と泣きながら懇願されたが、さすがに素直に受け入れることができず、結局恋人との思い出話を聞いて終わった。
 ここからが面白い話なのだが、女という生き物は意外にも立ち直りが早い。一晩明ければ、昨日までの豪雨が嘘のように晴れやかな笑みでその辺を歩いている。虚勢にも似た笑みを溶かしてくれるのは、その先で出会う新しい恋なのかもしれない。
「ねえ、ブチャラティはどこへ向かうところだったの?」
「昔、オレが好んで通っていた店があるかどうかを確かめに行くのさ。この坂を上った先にある」
「この先にそんなお店なんてあったかしら?」
「ああ。数年前に通っていた店なんだ」
「お店の名前は?」
 ブルーカから問われてから、ブチャラティは思わずはっとしてしまった。
「もしかして、覚えてないの?」
「どうやらそうらしい」ブチャラティは苦笑する。
「あなたもおっちょこちょいね。いいわ。わたしもいっしょに探してあげる。いいでしょう?」
 ブルーカの厚意はありがたいが、ブチャラティにも曲げられない思いというものがある。
 店を探すために誰かに力添えを求めるのであれば、その相手は彼女だけでいい――。
「ブルーカ、気持ちはありがたいんだが――」
「ブチャラティ?」
 この件はオレに任せてくれないか、と言いかけたときだった。背後から聞こえた声に、ブチャラティは思わず息を止めた。硬直した身体が一気に冷たくなっていく。
「なにしてるの?」
 振り返った先にいたのは、だった。
 突然現れた彼女の存在に、ブルーカは警戒するように更に体を密着させる。の頬の筋肉が一瞬だけ歪んだように見えた。
 はショルダーバッグのベルト部分をぎゅっと握り、視線を横へ逸らす。「ごめんなさい。あなたによく似た後ろ姿だったから、考えなしに声をかけちゃって」
 ブチャラティが声を出す前に、そらしていたの目がブルーカをとらえる。
「こんにちは。随分と大荷物ですね」
「あなた、どちら様?」ブルーカが訊いた。
「わたしは彼の友人です。そういうあなたは、ブチャラティとどういう関係なんですか?」
 気のせいだろうか。普段と比べて、の声が低い。そして目からは青い火花が散っている。その問いにブルーカは頬を膨らませ、ブチャラティとの距離をさらに縮めた。
「わたしはブルーカ。今はブチャラティとデート中なの。邪魔しないでくれる?」
「……デート?」
「そうよ。ブチャラティが通っていたお店をこれからいっしょに見に行くの。二人っきりでね」
「ブチャラティが通っていた、お店?」
 まずい、と思い、ブチャラティは釈明しようとする。
 しかし、ブルーカがそれを遮る。「先に彼を捕まえたのはわたしなの。文句は言わせないわ。ブチャラティがそうしようって言ってくれたんだもの」
 この女、見た目以上に強気な性格をしている。に対して一歩も譲らない。
 その強い圧しに、は口を結んだ。
 これにはブチャラティも閉口した。先ほどのブルーカの言葉には少々語弊があったが、半分は事実だ。しかし彼女と共に店を確かめに行くつもりは毛頭なかったのだ。これだけはどうしてもに伝えたい。
 どうしたものか、と考えている間に、の口からため息のようなものがこぼれる。最初に目が合ったときとは打って変わり、厳しい目が向けられた。
「ブチャラティ、話が違うじゃない。あのお店は、わたしと確かめに行く話だったでしょう」
「勿論、そのつもりだ」ブチャラティは必死だった。
「でも彼女はあなたといっしょに行くって……」
、話すと長くなるんだが――」
「自惚れていたのかも、わたし」
 の目が、ゆっくりと横を向く。
「やっぱり人は、二年で変わってしまうのね」
 は背を向け、歩き出す。
 ブチャラティはすかさずの手首を掴んだ。「待ってくれ、。少しはオレの話を聞け」
 しかし、は振り向かない。
「あなたから聞く話なんてこれっぽっちもない」
「きみらしくないぞ。冷静になれ」
「わたしはいたって、冷静よ」
「だったら、オレの話を聞いてくれ」
「触らないで!」はブチャラティの手を振り払った。
 その場に響き渡るほどの大きな声だった。横断歩道を渡る者。歩道を行く者。いくつもの視線がブチャラティとへ注がれる。ブルーカも驚き、絡めている腕を静かに解放した。 
 初めてだ。がここまでの声を上げたのは。まるで地球を真っ二つに割るような声だった。普段から穏やかな口調で話す彼女では想像もできないほど――悲痛な声。
 ――。ブチャラティが口を開いたのと同時。は声の主が自分であることにようやく気がつき、慌てた様子で辺りを見渡す。ひそひそと耳打ちをしながら彼女を見つめる人々の目は冷ややかだ。

 ブチャラティは今度こそ、彼女の名を呼んだ。
 しかしは目を逸らす。震える唇を強く噛み、か細い声で、ごめんなさい、と言った。
 そのまま何も言わずに背中を向け、人混みの中へ逃げていく。その後ろ姿は、まるで霧のように消えた。ブチャラティはなぜか、追いかけることができなかった。
 の背に、見えない壁を感じた。

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