ドリーム小説 18

「ブチャラティは占ってもらわなくていいの?」
「オレはそんな柄じゃあないからな。それより、結果はどうだったんだ」
「ちょっと待って。歩きながらだと確認できないから。あそこのベンチに座りましょう」
 空いているベンチへ腰を下ろし、二人で一息つく。
「何か飲むか?」
「そう、ね。お願いしようかな」
「一度バッグを預けておこう。ここで待っていてくれ」
 の座る傍にハンドバッグを置き、飲み物を求めて付近を探しに向かう。店はすぐに見つかったが、ミネラルウォーターだけを頼むのは忍びなかったため、レジ付近に陳列されていたキシリトールガムを買った。遅くまで仕事に付き合わせてしまったミスタにでもやろう。
 ペットボトルを片手にベンチへ戻ると、先ほどの封筒を開いているの後ろ姿が見える。これからの運勢を占う、と言っていたが、果たして彼女にとって前向きに考えられる結果だったのだろうか。
 確かめるために近寄ろうとしたときだ。の元へ、一人の若い男が歩み寄った。若い男は空いているスペースに腰を下ろし、の肩をそっと抱いた。明らかに彼女を口説き落としている様子だ。
 口説かれているは笑みを浮かべているが、少々困っているようにも見える。
 目を離したら、これだ――。
 ブチャラティはベンチへ向かった。男は依然、との距離を縮めている。先に気配に気が付いたのはだった。ハンドバッグを手に持って立ち上がり、ブチャラティの腕へ自身の腕を緩く絡める。
「そいつは誰だい?」男が訊いた。
「ごめんなさい。彼を待っていたの」
 を口説いていた男は、呆気に取られていた。
 ブチャラティはすかさずの肩を抱いた。「一人にさせてしまってすまなかった。行こうか」
「もうわたしを一人にしないでね」
「もちろんさ。約束するよ、愛おしい人」
 互いの体を密着させたまま、次なる休息地を探す。しばらく歩いたところにそのベンチはあった。先にを座らせ、その隣にブチャラティが腰掛けた。
 そして二人は顔を見合わせて吹きだした。
「グラッツェ、ブチャラティ。あなたが乗ってくれなかったらどうしようかと思って」
「ああいう男には、刺激を与えたほうが効果的だからな」
「飲み物もありがとう。あなたが先に飲んで」
 ブチャラティは厚意を受け取り、ペットボトルの蓋を捻って一口含む。そのままへ渡すと、待ちきれないように喉を鳴らしながら飲んだ。
「あんな風に口説かれたのは久しぶりだったな」
「きみ自身が気付いていないだけで、昔から色んな男がを口説こうとしていたんだぜ」
「まさか。声を掛けられるといえば道案内くらいだもの。異性に言い寄られる回数は、ブチャラティのほうが断然多いはずでしょう」
 比べるものでもないだろう、とブチャラティは思う。
「ねえ、ブチャラティもああやって女性を口説くの?」唇についた水滴を拭いながらは訊いた。
「口説くんじゃあなく、褒めるのさ」
「なら、女性から口説かれたことはある?」
 頭に浮かんだのは、先日の若い女のことだった。あれだけ熱狂的な告白を受ければ、嫌でも覚える。いや、決して嫌なわけではなかったのだが。
 沈黙していると、それを肯定と捉えたが膝に頬杖をついて口角を上げた。
「なんだ、そんな顔をして」
「ううん。あなたは昔からそうだったなあ、って。優しい男が好まれるのは世界共通だから」
「そういうも、優しい男が好きなのか?」
 少し間をおいては口を開いた。「優しいだけじゃあだめ。女が怠けちゃうじゃない」
らしいな」
「可愛げのない女だと思った?」
 ブチャラティはかぶりを振った。「きみは強い女だ。だからこそ迂闊に目が離せない」
 どこかで無茶をしているんじゃあないか、ってな。そう言うと、の片手を取った。手の平を返し、内ポケットから取り出した小包を置く。
「ブチャラティ、これは?」
「さっきの店でこっそり買ったんだ。にとても似合いそうだったんでな」
「開けてもいい?」
「もちろん」
 は紐を丁寧に解き、シールを剥がして和紙を広げていく。透明の袋に包まれた桜のピアスを見て、は欣然とした。手の平に転がった桜を手に取り、笑みを浮かべた顔を上げた。
「とっても綺麗。真ん中の宝石が小さくて可愛い……」
「ああ。急かすようなこと言って申し訳ないんだが、早速つけて見せてくれないか」
 も同じ思いだったようで、早速ピアスの金具を外していた。耳たぶに桜の花を咲かせていくを、ブチャラティはただ見つめていた。
 女性がピアスを装着する仕草は、ここまで無防備だっただろうか。伏せがちな目や、薄く開かれた唇がなんとも言えず艶やかだ。
「どうかな」桜の花を見せ付けるようにが首を左右へ動かす。
「とても似合っている。きみの髪色にぴったりだ」
「ディ・モールトグラッツェ、ブチャラティ。まさかこんな素敵なものを見つけてくれていただなんて。わたしは自分のにしか目がいかなくて、何もあげられないんだけど……」
「礼を言うのはオレのほうさ。いいものを見させてもらった。綺麗だよ、
 こぼれている髪の一束を耳にかけると、と目が合った。
「……本当に、綺麗になったな」
「え?」
「二年間で女性はこんなに変わるもんか?」
 が、くすりと笑う。「変わる人は変わるし、変わってしまうものよ。そういうブチャラティだって、なんだか表情が豊かになった気がする」
「そうか?」
「あと、前よりも素敵になった。女の子があなたに夢中になってしまう理由も……分かる」
 の目が横へ流れる。視線の先では、数人の若い女がバールのテラス席でカッフェを飲んでいる。ブチャラティがそちらを見やれば、彼女らは目が合ったことがまるで奇跡のように喜んだ。
「こうしてあなたといっしょにいたら、いつか後ろから撃たれてしまうかもね」が笑った。
「それはきみの考えすぎだ」
「そう? 最近の女の子ってかなり刺激的なんだから。あなたが考えている以上にね」
 そろそろ譲ってあげましょうか、とはベンチから立ち上がった。
 前を歩いているとブチャラティの間には、形容しがたい距離が空いている。この距離は空白の二年間なのか。それとも現在の自分たちの心の距離なのか。確かめる術を今は何も持っていない。
 二年間で、人は変わるものか――。
 はこの二年間、本当に旅行だけを楽しんできたのだろうか。疑心にも似た思考が頭をよぎったとき、ブチャラティは思わず歩みを止めた。
 オレは今、一瞬でも彼女を疑ってしまったのか?
 背後で立ち止まっていることに気が付いていないは、どんどんと前へ進んでいく。街の景色を眺める横顔には、先ほど贈った桜の花が咲いている。
「……ブチャラティ?」
 ようやくが振り返り、首を傾げた。
 ブチャラティは無意識にポケットの中に突っ込んでいた手を抜き、ゆっくりと歩み寄った。
。訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと?」
「旅行は楽しかったか?」
 突然だな、というの心境は見てとれた。
「それはもちろん。ちょっぴり苦労したときもあったけど、現地の空気は写真とは大違いだし、なにより食べ物がとっても美味しかったの」
 そうだ、とはハンドバッグの中を漁る。
「あなたにお土産。てっきり一人だと思っていたから、小さな包み菓子だけど……」
 から渡されたのは、焼き菓子の袋だった。
「ワインにもよく合うの。よかったら、フーゴくんたちといっしょに食べてみて」
「グラッツェ。きっとハイエナのように群がる。一瞬で空になっちまうだろうな」
 ブチャラティは受け取った袋をスーツのポケットへ入れた。
「訊きたいのは、それだけじゃあないんだ」
「他にもなにかあるの?」
「どうして突然、ネアポリスへ戻ってきた」
「えッ……」
 の目が一瞬だけ大きく見開かせたのを、ブチャラティは見逃さなかった。
 真っ直ぐ相手を見つめていたの目が他所を向く。どんなに鈍い人間でもその変化は一目瞭然だった。
「何か理由があるんだろう」
「理由?」
「オレには言えないことか?」
 ブチャラティが前のめりになると、は苦笑を浮かべながら胸の前で両手の壁を作る。
「ちょっと待って。なにをそんなに神妙になる必要があるの。わたしは旅行帰りだと言ったでしょう? 二年間も各地を回っていたら、ネアポリスの風が恋しくなるときだってある。今回は長旅で疲れたから、ここへ戻ってきただけ」
 がそっとブチャラティの体を離す。
「ブチャラティ、顔が本気になってる」
「……すまん」
「これが理由じゃあ、だめ?」
「いや、そんなことはない。無理に訊き出してすまなかった。少し、気になったんだ」
 はかぶりを振った。「そうやって他人のことばかり考えて、自分のほうは疎かになってしまうところも変わらない。だからこそ心配だったの。あなたの心が押し潰されていないか。そんなブチャラティに会いたかったのも、理由の一つなんだから」
 ブチャラティの中で芽生えるのは、疑問と不安だ。彼女に秘密があることは承知の上だった。人は誰しも心の内に、誰にも話せない事柄を抱えている。ブチャラティも同様だ。
 一つだけ分かった。はまだ、自分に明かしていないことがある。
 彼女ならば、何事も隠さずにいてくれるとどこかで期待していた自分がいた。自分は彼女にとって特別なのではないか、と自惚れていたのかもしれない。だからこそ、先ほどの事を相手に問うたのだ。
「これからはフーゴくんたちがいるし、頼れるものは頼っていきましょう」
 ――自惚れていたんだ。
「ブチャラティ、聞いてる?」
「オレは、きみのことを――」
 知りたいんだ、と言いかけたところでポケットの中で携帯電話が鳴った。こういうときに限ってマナーモードにしていなかった自分を心底呪いたくなった。
 に断りを入れてから、携帯電話を取り出す。着信の相手はフーゴだった。
「どうした、フーゴ」
(ああ、ブチャラティ、すみません。せっかくさんと出かけているところなのに……)電話の向こうでフーゴのため息が叩かれた。
「いや、気にするな。用件はなんだ」
(五分前にパソコンへメールが届いています。一時間以内に幹部の元へ向かうように、と)
 分かった、とだけ伝えると、通話はフーゴのほうから切れた。携帯電話をしまいながらの元へ戻る。背を向けていたが振り返った。
「もしかして、仕事?」
「ああ。ただ、時間にはまだ余裕がある。せめてホテルまでは送らせてくれないか」
「気を遣わなくていいのに」
「最近物騒だからな。頼む」
 先に折れたが頷き、ネアポリスの海を背にしながらホテル・ラ・ヴィータに向かって歩き出した。

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