財布を折りたたみ、支払いを済ませて店を出た。店の外ではが背を向けて待っている。足音に気がつくと、体ごと振り向いた。
「ご馳走さま。ブチャラティの言うとおり、とっても美味しかった。また来ましょう」
「今度はソースをつけないように気をつけるんだな」
「そッ、その話はもういいでしょう」
そっぽ向いたを、ブチャラティは軽く宥める。
店から離れ、近くの広場に設置されている時計を眺めると十三時になるところだった。辺りを見渡すと、昼休みのビジネスマンたちが財布を片手にあちこちの店の前で立ち往生している。混雑する前に済ませておいて良かった。
さて。これからどこへ行こうか、と考えようとしたときだ。突然目の前に一枚の紙が降ってきた。手に取って見れば『海辺でイベント開催中』という見出しが大きく書かれており、上手く撮影されたネアポリスの景色と、楽しそうな人々の写真が載っている。隣にいるも同じものに目を通していた。
上空を見上げると、小型飛行機が低飛行していた。どうやらの機体の尾から紙をばら撒いているようだ。なんとも派手な配り方だと思った。
「海辺で何かやってるのかな」
「そうみたいだな。行ってみるか?」
は笑顔で頷いた。「掘り出し物があるかもしれないからね。行きましょう」
上機嫌になったに片手を取られる。そのまま半ば強引に前へ引っ張られ、声をかける暇もなく横断歩道を渡っていく。先を歩く彼女の後ろでまとめた髪を彩っている装飾品が楽しそうに踊っていた。
しばらくするとネアポリスの港が見えてきた。サンタルチア港だ。港に停まっている豪華なヨットを見ると、あのヨットは誰のもので、その隣の古臭いヨットはあの店の男のもので、と頭に浮かび上がってきてしまうのは、末期の病に近いものがあった。
先ほど拾った紙を取り出す。簡易的な地図だが、とても分かりやすく堤防付近の場所が示されている。繋いだ手を引き、今度はブチャラティが先導する。段差の浅い階段を下りると、活気溢れるところへ出た。いつもの港では見かけることのない異彩を放つ店がいくつも立ち並んでいる。
「すごく賑やかね。色んなお店がある」隣を歩くの目も輝いている。
「世界各国の食べ物や雑貨を売り出しているようだ。もしかすると、きみの故郷の日本からも出店があるかもしれないぞ。探してみようか」
「ブチャラティも好きに見ていいのに」
「オレがそうしたいのさ」
「そう? それならお願いしようかな」
店は国の色によってエリア分けをされている。米国であれば、赤と青を基調としたテントに首都の数だけの星が印刷されている。緑色と黄色の看板の許では少年たちがサッカーボールを手にしており、ブラジルだと窺えだ。ミスタがここにいれば一目散向かうだろうな、と思った。
人を掻き分けていくと、赤い円と目が合った。あれは日本の国旗だ。ブチャラティは他所を探しているを呼んだ。彼女は日の丸に気がつくと繋いでいた手を開放し、小走りで駆け寄っていく。
テントの周りには小瓶がいくつも並び、が宿泊しているホテルのオブジェと同じ桜がに丁寧に生けられている。自分たち以外にも日本に趣を感じる者が眺めていた。
「いらっしゃい。もしかしてあなた、日本人?」
商品を整理していた若年の女が言った。しかし、ブチャラティには聞き取れない。日本語のようだ。も久しぶりに他者の口から聞いたのであろう母国語に少々驚いている。すぐに笑みをこぼし、同じ言語で「そうです」と答えた。女は、ほっと胸を撫で下ろす。異国の地に同胞がいて安心したのだろう。
そうして二人は日本語で会話を始めた。もちろん、日本語を学んでこなかったブチャラティには内容が全く理解できない。しばらく女二人にしてやろう、と店の中を見て回ることにした。
店内に並んでいる品々は、イタリアでは見ることのないものばかりだった。手に取るとすぐに破れてしまいそうなほどの脆い紙や、複雑な線を綴られたTシャツが飾られている。これは最近では自国でも稀に見かけられる。『漢字』だ。他にも木製の玩具や、何に使うのか解らないカードなどが置かれている。も幼い頃はこういったもので遊んだのだろうか。店の外で未だ店の女と楽しそうに会話を弾ませているを見つめる。飾られている桜の花が、彼女の明るい笑顔にとても似合っていた。
ブチャラティが店内へ視線を戻すと、ある一箇所が煌びやかに輝いていた。近付いて見てみると、それは女性が耳に付ける装飾品だった。目に留まったのは、柱頭の部分に小さな宝石が埋め込まれている桜の形をしたピアスだ。手に取って転がしてみると、照明に反射した宝石がきらりと光る。
――にとても似合いそうだ。
店の中にはもうひとりの店員がいた。顎に髭をたくわえた老年の男はブチャラティと目が合うと、手に持っているピアスを見て察した。
「贈り物ですか?」彼はイタリア語で訊いてきた。
「ああ。包んでくれると有り難いんだが」
「お任せください。もしかすると、わたしの娘と楽しそうにお話しているお嬢さんへ、でしょうか」彼の視線が入り口の二人へ注がれる。
「その色に似合うような笑顔だろう。まるで彼女自身が花なんじゃあないか、と疑っちまうくらいに」
男は髭を撫でながら微笑んだ。「イタリア人の口説き文句はさすがですね。日本人のわたしたちがそんなことを言っても格好がつかないものですから」
「そういう傾向にあるようだな」
「どうしたらそのように自然と女性を褒めることができるのでしょう?」
「思った事をはっきり伝えればいい」
「それができないから、我々は苦労しているんですよ」男は苦笑を浮かべる。
ピアスを丁寧な手つきで受け取ると、先ほど触れた脆く薄い紙を使って包み始めた。ブチャラティはその慣れた様子を見ながら、ひとつ訊いた。
「その紙はいったい何で出来ているんだ?」
「これは和紙といいます」
「ワシ?」
「木の皮を剥いで長時間蒸したあと、いくつかの工程を経てこの形になるのですが、最近では原料も輸入品が多いのです。ですから和紙と呼んでも良いものなのか疑問ではあるところですね」
話し込んでいると、包装はすぐに終わった。代金を渡し、店主は両手を使って包んだピアスを差し出した。こういった一つひとつの動作が日本人にしかできない心配りなのだろう。
それをスーツの内ポケットへ忍ばせ、の元へ向かう。も丁度歓談を終えた様子だった。手には財布と、簡単にラッピングされた小包が握られている。
ブチャラティがと店を去るとき、店主が娘と並んで見送ってくれた。「ありがとうございます」という礼の言葉だけはブチャラティの耳にも届いていた。
「何か買ったの?」
「いいや。そういうも楽しそうに話していたな。同胞とはやはり盛り上がるのか」
「さっきの人がね。あなたが日本のヤクザみたいだって言っていたの。この街でスーツを着ている人はみんなそう見えるのかな」
「だったらビジネスマンの奴らもギャングだろう」
「ブチャラティはスーツが派手なのよ」
「そいつは心外だな。結構気に入ってるんだぜ」
の手に持っている財布と小包を受け取り、ブチャラティが預かっているハンドバッグへ入れた。
「何を買ったんだ?」
「花の香りのする口紅をね。最近は日本製の化粧品も人気で、とても質がいいんだって。あとは韓国製のパックとか、体に塗るオイルも好き。お風呂上りに塗り込むと血行が良くなるし、特に今みたいな時季はケアが欠かせないの。今朝なんて乾燥がひどくって……」
「そんな事をしていたら朝になっちまいそうだ」
「そういう積み重ねが美しさの秘訣」
「違いない。きみを見ていれば、オレでも分かる」
「褒め上手ね」は照れくさそうに笑った。
ブチャラティとの足は自然と港から離れ、閑散とした通りを歩いていた。先ほどまでの賑やかな雰囲気とは正反対に、海の音が鮮明に聞こえるほどの静かな裏通り。とは言っても薄暗くはなく、ネアポリスの海を眺めているカップルや親子の姿が見える道だ。
角を曲がったところで、の足が止まった。ブチャラティもつられて足を止める。
「どうした?」
問いかけには反応せず、どこかをじっと見つめている。彼女の視線を辿った先には、子供たちが集まっていた。それも少女ばかりだ。彼女らは道端に小さな店を構えている男と話し込み、しばらくするとその場を去っていった。
店を眺めていたは、それを見届けてから歩み寄っていく。
「もしかして、ここは占いをやっているんですか?」が店主に訊いた。
「はい、そうです。健康占いから運勢占い、相性占いまでなんでもやりますよ、お嬢さん」
「へえ、色んな占いがあるなあ。実はわたし、興味あるの。やってみようかな」
「おいおい、本気か? この辺りは詐欺師が多いんだぜ」ブチャラティがに耳打ちをする。
は一笑した。「それなら、わたしとあなたの相性でも占ってもらう?」
意外な提案に、ブチャラティは内心どきりとする。
「なあんてね。冗談に決まってるでしょう」
がおかしそうに笑い、財布を取り出した。
「ここはブナンに、これからの運勢を占ってもらおうかな。おじさん、お願いします」
「お安い御用ですとも。そっちのお兄さんはいいのかい」
「……いや、オレは遠慮しておく」
「じゃあお嬢さん、ここに名前と生年月日を記入してくれますかな。名前はニックネームでも構わないよ」
が店主の指示に従っている様子を、ブチャラティは静かに眺めていた。占いを馬鹿にしているわけではないが、この通りで詐欺被害が多発しているのは紛れもない事実だ。目の前の占い師も、偽者である可能性は十分に考えられる。それでもを引き止めることができなかったのは、疑うことを知らない彼女の素直な心があったからだ。
は必要事項を記入し終え、男は地球儀にも似た球体を使って占い始める。よく見てみれば、星座のような模様が描かれていた。回り続ける球が男の人差し指によってぴたりと止まると、は思わず前のめりになった。
「結果が出ました。う~~ん、なかなか興味深い運勢が導かれましたね」
「それで、どうなんです?」
男は手品のように、なにもないところから一枚の封筒を取り出した。「これをどうぞ」
はその封筒を受け取る。
「この中に今後の運勢が書かれています。後ほどじっくりと目を通してみてください」
「はい。分かりました」
「最後に一つだけ助言を。占いは所詮、気休めにすぎません。運命は常に動き続けているのです。あなたがまだ生まれたばかりの芽だとして、その芽を揺らす風はどこにあるのか。果たしてそれは、あなたに何を運んできてくれるのか……。幸運か、不運か。それは風が教えてくれるでしょう。あなたに素敵な導きがありますように」