イタリア人という生き物は、時間に関して非常に無頓着だが、は約束の時刻の五分前に部屋から出てきた。育ちはイタリアでも、さすがは日本人といったところだろうか。今の日本では時間丁度に現れる人間よりも、五分前にはその場に居る人間のほうが出世するのだと風のうわさで聞いたことがある。
「お待たせ」
ハンドバッグを携えてめかし込んだがやって来る。同時にいい香りがした。先日フーゴたちと夕食を共にし、その別れ際に覚えた香り――男を振り向かせるような甘い香りだった。
ブチャラティは立ち上がり、の手からバッグを抜き取った。背中を支え、出口へ向かう。
「あっという間だったな」
「待たせるのも悪いと思って……。でも、たかが朝食くらいで気合入れすぎちゃったかな」
「それなら朝食のあと、二人でどこかへ行こう」
扉を開きながら言うと、はややあってから廊下に出た。
「仕事のほうは平気なの?」
「こそ、このあとはなにも予定はないのか?」
は頷いた。「今日はどうしよう、って考えていたところにブチャラティが来たから」
「タイミングが合ってよかった。今日はオレもきみを一日捕まえるつもりで来たんだからな」
長い廊下を歩き、扉をくぐり抜けてエレベーターのボタンを押す。階数表示は二階から点滅を始め、上昇する。しばらく待つと扉が開き、先にを乗せてからブチャラティが続く。一階に到着するまでの間、二人の間に会話はなかった。
地上階に到着して個室を出る。エントランスの白い明かりと、その中心にそびえ立つ桜の樹のオブジェが眩しい。毎朝仕事の前にこの景色を観ることが出来るのならば、朝の早起きも悪くはないと思える。
は部屋の鍵をフロントスタッフへ預けに向かった。ブチャラティは先にエントランスへ出ていた。 やや遅れてやって来たは、どこか頬を赤く染めている。気になって訊いてみても、「なんでもない」と返されてしまった。
「ブチャラティと食事をするのは、あの日以来ね」
あの日、というのはがネアポリスへ戻ってきたときに再会した日の事だろう。そうだな、と頷いて歩き出す。
「お店はもう決めてるの?」が訊いた。
「はこっちへ戻ってきてからピッツァしか食べてないんじゃあないかと思ってな。最近美味い飯屋を見つけたんだ。そこへ行こうと思っている」
「文句なし。行きましょう」
ホテルから離れてしばらく歩くと、ネアポリスの海辺が見える坂道に差し掛かった。車道側をブチャラティが歩き、は街並みを懐かしんでいる。
「そういえば、フーゴとナランチャに会ったそうだな」
「そうそう。お昼にピッツァをご馳走してもらって、ナランチャくんに勉強を教えていたの」
「きみがナランチャに?」
は笑いをこぼしながら頷いた。「とはいっても、簡単なことしか教えていなんだけどね。なんでも、ナランチャくんからフーゴくんへ『教えてほしい』ってお願いしてるんだって……。偉いね。きっと将来は素敵な男性になれるよ」
「きっとそれを本人が聞いたら泣いて喜ぶ」
から直接伝えたほうがナランチャ自身は喜ぶのだろうが、自分を通しても、飛んで喜ぶに違いない。その様子が安易に頭に浮かんでくるのは、やはりナランチャだからなのだろうか。
赤信号で横断歩道前の人が混む。隣へ並んでいるの腰を抱き、支える。こうして女性を支えることを今まで当たり前のようにやってきたが、意識してみるとは誰よりも女性らしい身体をしているのが解り、感慨に浸った。日本人女性にしては身長が少々高めだが、襲い掛かってきた男を殴り飛ばすような乱暴な見た目では決してない。しかしだからと言って、気弱な雰囲気も感じられないのだ。
信号が青へ変わった。がヒール靴を鳴らして歩き出す。ブチャラティもその歩幅に合わせて歩く。
腰に回したままの手に、は何も言わなかった。言わないどころか、スーツを掴んできた。驚いて隣を見ると、困り顔のと目が合った。
「どうした?」
「ごめんなさい。坂道だから、少しだけ歩きにくくて」は申し訳なさそうに言った。
謝るのはオレのほうだ、とブチャラティは思った。相手が歩きにくいヒール靴と分かっていながら、気を遣って腰に手を回したのが間違いだった。ブチャラティは腰に回していた手を解き、スーツを掴んでいるの手を取った。その手は、春の風とは正反対にとても冷たかった。温めるように包み込む。
「これで少しはましか?」
は繋がれた手元を見ている。
「やけに冷えているな。薄手の手袋でも買おうか」
一考するが、は小さくかぶりを振った。
「どうもありがとう。わたしが慣れない靴を履いてきちゃったばかりに」
「そうか。なら今日はこうしていよう」
「え、でも……」
「坂道で転んだら危ないぜ」
そう言うとは、何も言わずに手を握り返してきた。それがたまらなく嬉しかった。
16-2
訪れたのはセットメニューが評判のトラットリアだ。ブチャラティが入店すると、店の者はすぐに席へ案内してくれた。二人掛けのテーブル席に座り、メニューを受け取る。朝飯にしては遅く、昼食にはまだ早い。メニューを広げると、ブランチメニューという今の時間帯にぴったりなものがあった。組み合わせ可能な内容を見れば、ブチャラティが気に入った料理も注文できるようだ。
も同じ項目に目を通している。しばらくメニューとにらみ合いをしたあと、人差し指で示した。ブチャラティと同じ料理だった。待機しているウエイトレスに視線を向けて呼び、二人分の注文を伝える。彼女はメニューを引き取ると、厨房へ戻った。
「ここは新しいお店?」
「比較的新しい店だ。チームのやつらと来たことがあるんだが、パスタが特に美味かったよ」
「ネアポリスも新しいお店が随分増えたね。わたしたちが通っていたところはまだあるのかな」
「そういえば……。最近はあまり行っていないな」
自分の仲間を集め、チームを結成してからは途端に行かなくなったことを思い出す。比較的落ち着いている店だが、仕事帰りのビジネスマンや家族連れにも人気だった。何か大きな問題がない限りは店を畳むようなことはないだろうし、それこそすぐにパッショーネの元へ情報が飛んでくるはずだ。
「なら、今度いっしょに確かめに行かない? そんなに遠くなかったはずだから」
「そうだな。久しぶりに行ってみよう」
ウエイトレスが前菜のサラダとセットメニューのスープを運んできた。ブチャラティはフォークを取り、は胸の前で手を合わせた。
以前に聞いたことがある。日本人は食事の前に、食事に感謝と祈りを込めて胸の前で合掌するのだと。イタリアにも似た風習が存在するが、彼女とは型が異なる。離れた席で食事を取っている若いカップルが不思議そうにを見ていたが、は全く気にしていないようだった。寧ろ、彼女にとってはそれをしないほうが不思議なくらいなのかもしれない。
「ねえ。ブチャラティの仲間は、フーゴくんとナランチャくん以外に何人いるの?」
「あと二人いる。うるさいのが一人と、その反対に無駄なことはあまり喋らないのが一人」
分かりやすい説明には笑った。「わたしのパスポートを拾ってきてくれたのはどちら?」
「喋らないほうだ。いや、かと言って無口なわけじゃあないんだぜ。オレのチームは騒がしいやつが妙に目立つのさ」
「ナランチャくんも明るい子だよね。フーゴくんはどちらかと言えば静かだけれど、ああいう人ほど怒ったら人一倍恐いと思うの」
「実はな、にはフーゴのことを前に話したことがあるんだ。覚えていないか?」
「わたしがあなたと再会する前のこと?」
そうだ、とブチャラティは頷くと、はテーブルの一点を見つめた。記憶を再生しているのだろう。しかし合致したものが見つからなかったのか、首を傾げた。彼女ならごく僅かな情報から導き出せるかもしれないと思ったが、さすがに難しかったようだ。一つひとつ順を追っていこう、と人差し指を立てる。
「フーゴはナランチャに勉強を教えている。ということはつまりフーゴは……」
「頭がいい、ってことね」
「そうだ。フーゴは頭がいい。いまは十六だが、大学の入学を認められていた頃もあった」
の顔つきが分かりやすいほどに変わった。
「しかし、とある事件を起こしてそれが白紙になった。留置所に入れられ、施設送りの寸前だ」
まさか、とが声を漏らした。「大学の教授をこんな厚さのある本で滅多打ちにした……?」
以前、説明したときと同じ表現を使ったにブチャラティは頷いた。
「そいつが今のフーゴだ」
は目を大きく開いた。最初にフーゴと会わせたときから薄々感づいてはいたが、やはり例の『十三歳の少年』だとは気付いていなかったようだ。予想以上の反応にブチャラティは少しだけ歓心を得た。
スープを口に含んだところで主食が運ばれてくる。驚いたままテーブルに肘をついていたは慌てて姿勢を正した。その動きが普段の彼女とは思えないほど奇妙で、ブチャラティは思わず吹き出す。
用意されたナフキンを敷き、パスタと共にやってきた新しいフォークで麺を絡め取る。フォークを回すたび湯気が天へ向かって昇り、匂いと相まってどこまでも食欲をそそった。
も何度か味を噛みしめ、美味しい、と呟くと話を戻す。
「フーゴくんがその男の子だったなんて……。信じられない」
「きみもあまりやつを怒らせないことだ」
フーゴを怒らせるような事を彼女がするわけがないが、とブチャラティは思った。
「いけない。この間無理を言って、公園の中でナランチャくんと二人で躍らせちゃった」
ブチャラティの頭に浮かんだのは、ミスタを含めた三人でよく踊っているギャングダンスだ。
そうか、あれを人の集まる公園で踊ったのか。ナランチャはともかく、よくフーゴが聞き入れたものだ。
「もしかすると、きみをナランチャへ勉強を教えさせたのは、その仕返しだったかもしれんな」
「今度会ったら謝っておかなくちゃ……」は再び顔を覆った。
「さすがのフーゴもに向かって分厚い本を投げつけたりはしないだろう」
「でも、相手はギャングよ」
「それ以前にフーゴはオレの仲間だ。大切な友人であるきみに手出しはさせないさ」
とは言ったものの――という人物は、大柄な男に立ち向かい、不埒な人間から金を巻き上げられそうになっても拳で撃退するような女だ。それこそアバッキオが聞いたように「自分は柔な女ではない」という言葉で切り返してくるかもしれない。
そう思いながら相手を見ると、はフォークにパスタを絡めたまま動きを止めていた。
「……?」
名を呼ぶと、は電源の入った玩具にように小さく跳ねた。
「どうした?」
「ごめんなさい。考え事してた」微苦笑を浮かべ、ようやくパスタを口の中へ運んだ。
「何かあったのか」
パスタを飲みこんだあと、一笑する。「本当になんでもないの。ぼうっとしちゃってただけ」
それでも簡単に引き下がることができず、ブチャラティは腕を伸ばしての手を取る。店内にいてもやはりの手はひどく冷たかった。
突然のことに、は一驚していた。
「詮索はしないが、何かあればオレに言えばいい」
は決して目を逸らさなかった。
「ただ、一つだけ言わせてほしいんだが――」
の口元に指の腹を滑らせる。
「ついているぞ」
指に付いたトマトソースを見せてやると、の顔はそれと同じ色に染まった。