花屋から移動し、タクシー乗り場へ向かった。花束を崩さないように乗り込み、運転手にホテル・ラ・ヴィータへ向かうように伝えると、目的地へ向かって動き出した。
運転手は寡黙な男で、車内に香りが広まるほどの大きな花束については何も問いただしてこなかった。お喋りが多いイタリアでは珍しいな、と思いながらも、その静穏な振る舞いに感謝していた。昨夜から周囲に茶化されて堪らなかったのだ。
本来ならばタクシーを使わず、歩いてホテルまで向かおうと考えていたのだが、思いのほか大きな花束を準備されてしまったため、急遽タクシーを使うことになった。先ほどの花屋からホテルまでは、徒歩で三十分程かかる。その間にせっかくの花束が崩れてしまってはいけない。
「お客さん。着きましたよ」
窓の外を眺めると『ホテル・ラ・ヴィータ』と書かれた大きな玄関口が見えた。タクシーは大きく旋回し、エントランス前で停車した。会計を済ますと、運転手はバックミラー越しにブチャラティを見つめた。
「頑張ってね。若いお兄さん」
被っている帽子を取り、にこりと笑った。どうやら彼は最後までこの機会を窺っていたようだ。
ブチャラティは感謝の言葉を告げてからチップを渡すと、花束を持ってタクシーから降りた。タクシーはエントランス前の道を再び大きく旋回してから次の場所へと走っていった。
ホテルの入り口の自動扉を通り、ロビーへ入る。中央には桃色の花が咲いている大きな樹のオブジェが設置されており、その手前では噴水が音を立てている。フロントへ向かうと、こちらに気が付いたホテルスタッフは規則正しい会釈をした。
「お久しぶりでございます、ブチャラティ様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「・という日本人女性がこのホテルに宿泊しているはずだ。悪いが、彼女に会わせてもらいたい」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
フロントスタッフは近くの電話を手に取り、いくつかボタンを押してから受話器を耳に当てた。客人が来たことを伝えているようだ。頭を下げながら受話器を置くと、彼はブチャラティと向き合った。
「お待たせいたしました。様のお部屋は最上階の601号室でございます。最上階のフロアへはこちらのキーが必要となりますので、どうぞお持ちください」
カウンター越しにキーが渡され、手に取る。見た目とは反して重量感のある鍵だった。
エレベーターホールへ向かい、ボタンを押す。階数が表示されている液晶盤面を見上げると、このホテルの最上階は伝えられた通り六階のようだ。エレベーターに乗り込み、最上階である六階を押すと、扉が閉まる前にホテルマンがこちらに向かって深く頭を下げる姿が見えた。
頭の中で十を数える前に最上階へ到着する。廊下に出ると、靴の音が消えた。驚いて足元を見れば、床には高級感溢れる絨毯が一面に敷かれている。そこからすぐの場所に一つの扉が見えた。先ほど手渡されたキーを取り出し、錠口へ差し込んで右へ捻る。開いた先は長い廊下で、歩きながら601号室の部屋を探す。少し離れたところにその部屋はあった。
扉の前で拳を作る。ノックを三回して応答を待ち、しばらくすると内側から鍵を解除する音が聞こえた。扉の向こうから顔を出したは、ブチャラティの顔を見て驚き、しかしすぐに笑みを浮かべた。
「ブオンジョールノ、ブチャラティ」
「ブオンジョールノ、。寝癖が付いているぞ。起こしてしまったか?」
髪の一部が外側に跳ねているのを見つけ、は慌てた様子でそれを直した。
「フロントから連絡をもらう前には起きていたから気にしないで。それよりもこんな朝早くから一体どうしたの? わたしに何か用事?」
「どうしてオレがきみの宿泊先を把握しているかについては、何も訊かないんだな」
は鼻で笑った。「どうせ調べたんでしょう? 隠しても無駄だって分かってるもの。よかったら中へ入って。今ちょうどお茶を淹れたところだったから」
扉が大きく開かれると、はブチャラティが持っていた花束に気付き、目を瞬かせた。
「そ、その花束は?」
「オレときみの再会を祝した花、と言ったら?」
に向かって花束を差し出す。
「また会えて嬉しいよ、。おかえり」
「ブチャラティ……」
「あの時の約束を果たせてよかった」
花束とブチャラティの顔を交互に見たあと、は目を細めて口に弧を描いた。
「ただいま、ブチャラティ」
その華発したような笑顔は、腕の中で咲き乱れている花よりも綺麗に見えた。
15-2
部屋へ入ると、最上階に相応しい広さと豪華な家具の数々が揃っていた。部屋は全部で何室あるのだろうか。入り口から見ても、少なくとも三つの扉が確認できる。は受け取った花束をテーブルへ置き、備え付けのアイランドキッチンへ向かった。コンロでポットを温め直し、再び花を手に取る。
「こんなに素敵な花束をもらったのは初めて……。どこへ飾ろうかな」
部屋を見渡すと、チェストの上にガラス製の大きな花瓶が置かれているではないか。
「なあ、。こいつに生けたらどうだ」
「グラッツェ。これなら大丈夫そうね」
「オレが水を入れてこよう」
蛇口の水を花瓶の三分の一の高さまで入れる。は包装紙を丁寧に剥がし、リボンを解いてから花瓶を受け取って花を生けた。すっかりスイートルームに似合う恰好になった。
ポットの湯が沸く音が聞こえ、は小走りでコンロへ向かう。ティーカップを二つ用意している後ろ姿に、ブチャラティは、オレも何か手伝おうか、と問いかけた。返事は分かっているというのに。
案の定、には首を左右に振られた。「窓辺の椅子に座っていて」と朗らかに言われ、ブチャラティは大人しくそこへ腰を下ろす。そして外の景色を見て驚いた。
ネアポリスの広い海だ。幾つものヨットが佇んでおり、昇りはじめた太陽の光が波に反射して、ダイヤモンドを散らしたように輝いていた。他にも街が一望でき、走行している車から上空を飛んでいる鳥たちまで、この部屋がすべて支配しているようだった。スイートルームの特権、といったところだろうか。
「いい眺めだと思わない?」
住み慣れた街の景色に心を奪われていると、向かいの椅子にはが既に着席していた。
「ネアポリスへ戻る途中、どこで宿泊しようか悩んでいたの。雑誌を眺めていたら、このホテルの最上階から海辺が見えるって紹介があったからすぐに決めちゃった」同じ景色を眺めながらが言う。
「懐かしいと思った。と通っていた店からの眺めとよく似ている」
「うん、そうなの。わたしもあの景色と似ていると思ってここに決めたようなものだから」
はブチャラティへ視線を移した。
「良かった。あなたが覚えていてくれて」
忘れるはずがない、と心の中で呟いた。目の前にいるも自分と同じようにあの景色を心に刻み、その思い出が彼女をここへ連れてきてくれたのかと思うと、喜悦の色が胸の中で染まる。
ブチャラティはティーカップを手に取って一口含んだ。ホテルで販売している紅茶だろうか。ほのかに異国の花の香りがする。前からも控えめにすする音が聞こえ、も同じものを飲んでいるのだと気付く。
珍しいな、と思った。ミネラルウォーターを好んで飲んでいる彼女が、紅茶を選ぶだなんて。
そんな気持ちが伝わったのか。はふう、と息をついてからティーカップを静かに置いた。
「ここの紅茶、日本の花を原料にしているの。目に留まっちゃって」
「日本の花?」
「サクラっていう花。ほら、ここのエントランスにもあったでしょう。桃色の花びらの」
ああ、あの大きな樹は日本の花だったのか。
「やっぱり日本の血が流れているからなのかな。この香りを嗅ぐと、なんだか心が落ち着くの。あたたかい気持ちになれるというか……。言葉ではうまく表せないけど」
は頬をかきながら苦笑を浮かべたあと、思い出したように、そういえば、と言った。
「わたしに何か用があったんでしょう。なあに?」
問われてから事を思い出すのに数秒かかる。アバッキオから預かったパスポートの呼び声が聞こえたようだった。内ポケットから取り出してへ手渡す。しかしは把握し切れていないのか、頭上に疑問符を浮かべている。中身を確認するように促すと、は驚きの奇声を短く上げた。
「えッ。ど、どう。え? ……どうしてッ?」
あまりの動揺にブチャラティは笑った。「落としたことにすら気がついていなかったのか?」
「どこに落ちていたの?」
やはり知らぬ間に落としてしまっていたようだ。
「拾ったのはオレの仲間だ。説明すると長くなるんだが、のことをチームのやつらに話した事があってな。そいつがきみの名前を思い出して、オレのところへ届けてくれたんだ」
話を聞きながらは一気に脱力し、額に手を当てた。相当参っている様子と見える。
「ブチャラティの仲間といえ、その人はよく悪用もせずに届けようと思ったね」
「見た目に反して、誰よりも正義感の強いやつなのさ」
は受け取ったパスポートを抱き締めた。「拾ってくれたのがあなたたちで良かった。本当にありがとう。なんとお礼を言ったらいいか……」
「大事なものはしまっておくんだな」
「今後は十分気をつけます」
言われた通り、立ち上がったは部屋と隣接している扉の奥へ消えていった。あの部屋の先はベッドルームだろうか。いま居座っている部屋だけでも充分な広さはあるが、ベッドは見当たらない。
考えているとが扉を閉めて戻ってきた。ブチャラティは椅子から腰を浮かせ、歩み寄る。
「、朝食はもう済んだのか?」
「ううん。まだこれからなの」胃を満たしていない証拠に、は自分の腹を撫でた。
「実はオレもなんだ。よければ、いっしょにどうだ」
ブチャラティからの思わぬ誘いに、は一瞬息を呑んだように見えた。視線を逸らし、頬に流れた髪を耳にかける。
「構わないけど、出かける準備をしてもいい? 食事をするならお洒落をしたいから」
ブチャラティは、もちろんだ、と頷いた。
「じゃあ向こうで着替えてくるから、ブチャラティはここで待っていて。そうだな――」
は部屋の時計を確認した。
「十時過ぎには出られるようにするね」
「焦らなくてもいい。時間には余裕があるんだ」
「わたしがそうしたいの」拗ねたように唇を尖らせては言った。
椅子にかけていたカーディガンを羽織ると、先ほどの部屋へ入っていく。扉が閉まる音を聞くと、ブチャラティはふう、と息をついた。ネアポリスの海辺の景色を眺めながら、これからどこへ向かうかを考える時間は残り一時間しかない。
は一体どんな姿で現れるのか――それを考えながら行き先を決めるのは難題だ。