ブチャラティ・チームが尊信しているピッツェリアの店は、ネアポリス中心部の公園付近にある。時刻は早朝六時三十分。休日ということもあってか、この時間帯の車は一般車よりもタクシーや大型トラックのほうがよく走っている。歩道を歩いている者はブチャラティとミスタ以外にはいなかった。
店の前で歩みを止め、中の様子を窺がう。さすがにこの時間から明かりはついていないが、店主は既に出勤しているようで、裏の釜戸から煙が立っているのが見える。料理の仕込みをしているのだろう。
ブチャラティとミスタの二人は裏手へ回りこみ、扉を拳で三回叩いた。店主はすぐ出てくると驚き顔で「どうしたんだ。こんな朝早くから」と額から流れる汗を二の腕で拭った。
「早朝から押しかけてすまない。昨夜は災難だったな」
昨夜、という言葉に店主は消えかかっていたくまを浮かばせた。「こちらこそ突然押し付けてしまって迷惑をかけたね。警察に届出を出しても話を聞いてくれないから、きみたちにしか頼めなくって……」
「気にすることねえって。半分はオレたちで食べちまったしな」ミスタが手を横に振った。
「中へ入ってもいいか。時間はとらせない」
店主は嫌な顔を見せず、快く迎えいれた。裏手から入るのは初めてではないが、仕込みのために加熱しているトマトケチャップや、大鍋で音を立てて煮込まれている野菜スープの匂いは、仕事終わりの二人の腹には刺激的でしかなかった。名残惜しそうなミスタの耳を引っ張り、空いているテーブル席へ向かう。
店内の清掃は早朝にもかかわらず、隅々まで行き届いていた。毎夜酒をかぶって帰るような客が来る店だが、それでも次の日までには床に染み込んだ赤色は綺麗に消えている。何年も通っている店だからこそ分かることだった。
「それで? どうしたんだい」
店主は椅子へ腰掛けたが、ブチャラティたちは立ったままポケットから茶封筒を取り出した。
「ここに四十万入っている」
「えッ?」店主の額に溜まっていた汗が勢いよく流れ落ちた。
「昨夜のキャンセル料に加え、被害金額。あとはオレたちが食っちまった分の金だ」
それだけ説明し、茶封筒をテーブルへ置く。置いた衝撃で封の隙間から数枚の紙幣がこぼれた。
昨夜、ミスタと共にドタキャンをした若い集団の元へ向かった。集団といえど、店へ予約を入れた者の元へ向かっただけだ。相手は夜中の二時という時間帯にも関わらず、路地裏で煙草を吸って数人の仲間と雑談をしていた。彼らの手には数枚の紙幣があった。若い学生では簡単に手に入れる事の難しい金額だ。
少年らの口を割らせるまでには数分もかからなかった。一発痛い目にあわせると、彼らはすぐに降参を示した。ピッツェリアへ予約を入れたこと。店主の困る姿を見たいという好奇心のためだけに愚かな行為に走ったこと。手に持っている金は運良く博打で大儲けしただけだということ。空嘔に苦しみながら助けを乞うようにすべてを自白した。
すべての話を聞いたあと、ブチャラティの指示でミスタが少年らから紙幣を回収し、その場を後にした。そのあとのことを二人は知らない。
「彼らもこれで少しは懲りただろう。あんたも今後は気をつけるんだな」
「いや、しかし。ブチャラティ……」
店主は渡された茶封筒をすぐに受け取るようなことはせず、突然の大金に困惑している。
どこまでも真面目な人間だと思った。目の前に不当ではない金が置かれているというのに、ギャングである自分の目を真っ直ぐに見つめている。
沈黙が続き、ブチャラティは一考した。
「借りを作ることを恐れているのか? そうだな――それならこうしよう」
ブチャラティは親指を立て、背後の大鍋を指した。
「あいつを一杯ご馳走してくれないか。実は夜勤明けでな。オレたちは非常に腹が減っている」
店主は目を瞬かせた。
「だめならカッフェでも構わないんだが?」
店内にため息がこぼれた。店主のものだ。洗い物で乾燥しきった手で茶封筒を掴み、それを大切なものをしまうようにポケットの中へ入れた。
「わかった。どうもありがとう、ブチャラティ。これは確かに受け取っておくよ」
「元々はあんたのだからな」ブチャラティが言う。
「座ってくれ。スープだけじゃあ腹の足しにもならんだろう。サラダとカッフェもつけよう」店主は立ち上がり、腰に巻いたエプロンの紐を固く締めなおした。
それを見たミスタが慌てて止める。「ああ、おっさん。ご馳走してくれるんなら、オレのだけでいいぜ。ブチャラティは先約があるからよォ」
「おや。そうなのか?」厨房に立った店主が戸棚から皿を取る手を止め、こちらを見た。
ブチャラティは首を横へ振った。「いや。オレもカッフェの一杯はもらおう」
テーブル席の椅子に腰をかける。ミスタも隣の椅子に腰を下ろし、大きく欠伸をこぼした。きっと朝飯を食べてアジトへ戻ったのならば、指令が鳴るまではいつものソファーで一眠りするのだろう。
どこかで木製同士がぶつかる音がした。見上げると、壁に掛られている鳩時計が時刻と同じ回数分だけ姿を現し鳴いており、七回目で引っ込んだ。窓から外を眺めると、段々と通行者が多くなっているようだ。
「ホテルは行かなくていいのかよ」二度目の欠伸をこぼしたミスタが涙を浮かべて訊いてきた。
「こんな朝早くから行ってどうする」
「寝込みを襲う」
「……もうお前の話は聞かないことにする」
店主がやって来て、サラダと水の入ったグラスとカッフェが一杯ずつテーブルへ置かれる。慣れた手つきでティーカップの取手を二人へ向かって回し、フォークを皿の前に並べた。
ミスタは運ばれてきたサラダに手はつけず、グラスに入った水を一口で飲み干した。ブチャラティは添えられたミルクを数量垂らし、一口飲む。
「そういえばブチャラティ。この間フーゴが店へ来たよ」思い出した様子で店主が言った。
「フーゴが?」
「ああ。あの時の注文は確かピッツァと三つとオレンジジュースとミネラルウォーターだったな。持ち帰りで注文してきたんだ。なんでも前の公園で食べると言っていたよ」
ピッツァが三つに、オレンジシュースとミネラルウォーター。ブチャラティの頭の中にフーゴの顔が浮かび、次に浮かんだのはナランチャだった。最近フーゴと二人で外出をしていたのは自分かナランチャだ。それにナランチャはオレンジジュースを頻繁に頼んでいる。つまり、注文した三つのうち、二つはフーゴとナランチャのものとなる。
ならばもう一つのピッツァは誰のもなのか。それもすぐに候補者が浮かんだ。外食でわざわざミネラルウォーターを好んで選ぶ者はブチャラティの知り合いの中には一人しかいない。だ。最近二人がと会った話を聞いたが、そういう事だったのか。心の中で合点する。
フーゴが店へやって来たことを告げると、店主は再び厨房へ引っ込んだ。先ほどミスタの腹の音を鳴らしていたスープを温めに向かったのだろう。
ブチャラティも底に近くなっているカッフェを飲み干し、席を立った。音を聞きつけた店主が、横口のレードルを片手にホールへ戻ってくる。
「もういいのか? あとしばらくでスープができるんだが……」
「グラッツェ。ご馳走になった」
「いいや。お礼を言うのはわたしのほうだ。次に来るときには試作品のドルチェを食べてくれ」
随分と女性らしいものを食わせるな、と思いながらブチャラティは頷いた。
「先約と言っていたな。これから誰かと会うのかい」
「ブチャラティの女だよ。オレは見たことねえんだけど、連中が言うには結構美人らしいぜ」ミスタははやし立てるように口元に手の甲を添えながら言った。
店主は話を聞いてすぐに笑顔を浮かべる。「そうなのか。きみが見初めるほどの女性なら、是非わたしにも紹介してほしいな」
ブチャラティは顔をげんなりさせた。「こいつが勝手に盛り上がっているだけだ。彼女はただの友人さ」
「そうなのか? それは残念だな」
普段のくせで表口へ一歩進んでから、まだ扉が開いていないことを思い出し、くるりと回転して裏口へ向かう。扉を押す前にブチャラティはミスタと店主へ振り返り、口角を上げる。
「そうだ、ミスタ。いいことを教えてやろう」
「いいこと?」
「の泊まっているホテルはホテル・ラ・ヴィータ。この街一番人気の四つ星ホテルだ」
扉を閉じるのと同時に、店内からは断末魔のような悲鳴と、それを疾呼する声が聞こえた。
14-2
ブチャラティがの宿泊するホテルへ向かう前に訪れたのは、市街から少し離れた場所に店を構える花屋だ。交通量の多いネアポリスでは排気ガスが充満しており、その空気からなるべく離れた場所で綺麗な花を売りたい、という店主の思いがあるそうだ。ブチャラティが生まれる前から続いている人気の高い店舗である。
時刻は八時前。店にたどり着くと、花壇に水を撒いている若い女の姿があった。彼女の名はエマ。ブチャラティの姿に気がつくと、看板娘に似合う笑顔を浮かべた。
「あら、ブチャラティじゃない。ブオンジョールノ」
「ブオンジョールノ、エマ。朝から精が出るな」
エマは誇らしげに両手に腰を当てた。「今日はいつもより気持ちよく起きられたのよ」
「さては。昨夜はボーイフレンドと会ってないな」
ブチャラティがしめたように唇を舐めると、エマは頬を紅潮させながら腕組みをした。
「もッ、もう。ブチャラティったら」
あからさまに照れているエマに小さく笑いをこぼす。「彼とはうまくいっているようだな」
「お陰さまでね。今日はこんな早くからどうしたの? ここに用事があるようだけれど」
「ああ。花束をひとつ作ってほしいんだ」
「花束ね。贈り物?」
「そうだ。……できれば女性の好む花を選んでほしい。もちろん、きみの好みでも構わない」
エマの手で花壇に水を撒いていたジョーロが、からんと大きな音を立てて地面へ落ちた。幸いにも水は入っておらず、彼女の服が濡れてしまう事態は避けられた。ブチャラティはそのジョーロを拾い上げる。
「エマ、落ちたぞ」
手へ握らせるが、エマは依然として棒立ちしている。
「おい、エマ。一体どうした? 熱でも――」
あるのか、と言いかけたところで、ものすごい勢いでエマがブチャラティに掴みかかった。
「ブチャラティッ! ついに見つけたのね!?」
あまりの勢いにブチャラティは言葉が出ない。
「女性への花束ね。わかったわ。特別なのを作ってあげるから十五分ほど待っていて!」
エマはブチャラティの背中を押し、店内へ招き入れた。店の奥から手ごろな丸い椅子を持ってくると、その華奢な体のどこに力があるのか、ブチャラティを半ば無理やり座らせ、再び店の奥へ消えていった。普段は温厚で落ち着きのある彼女が、これだけ勢いのある行動に出たのは初めてのことだった。
十分後。両腕に埋もれるほどの花束を抱えながらエマはやって来た。その顔は自信に満ちており、頬に流れている汗はジョーロの水を浴びた花のように輝いている。
「おまたせ、ブチャラティ。これでいいかしら」
「こいつは驚いたな。今日売るはずの花が無くなっちまったんじゃあないか?」
エマは笑顔でかぶりを振った。「平気よ。あなたのためだもの。これくらい派手にしなくちゃ」
「ディ・モールトグラッツェ、エマ。きみに頼んで大正解だった」
代金をカウンターに置き、花束を受け取る。華奢なエマには両腕でやっとだが、ブチャラティは片手でなんとか持てるサイズだ。それでも大きいな、とブチャラティは思った。
「ところで、渡す相手はブチャラティの恋人?」
「いいや、久々に会った友人だ」
「なあんだ。がっかり」エマは露骨に肩を落とした。
「そういえば、店主はまだ来ていないのか」
「最近は病院へ行ってから店に来てるの。ほら、もう足腰もあまり強くないから」
「そうか。よろしく伝えておいてくれ」
「わかったわ。ブチャラティも頑張ってね」
去り際に背中をそっと押された。振り返るとエマが笑みを浮かべて手を振っている。
彼女の花束を無駄にすることはできない。ブチャラティは軽く深呼吸をしてから歩き出した。