ブチャラティがポルポに会うため刑務所へ向かっている頃、アバッキオはアジトへ戻っていた。中に人影はないが、散らかったままの雑誌や置きっぱなしの皿とフォークを見ると、先ほどまでミスタとナランチャがこの場にいたということは想像できた。
脇に抱えたノートパソコンを指示通りテーブルに置き、充電器のアダプター接続しておく。薄緑色のランプを確認した時、奥から物音がした。洗い場から出てきたのはフーゴだ。
「アバッキオ、戻ってたのか。いっしょに出たブチャラティはどうしたんだ?」
「ブチャラティは幹部のところだ。近くまで車を回してからオレだけ戻ってきた」
「なるほど」
合点したフーゴは部屋に散らかっている雑誌や食器を回収し始めた。部屋を散らかした本人がどこへ行こうが知ったことではないが、片付けを手伝わせられるのだけは御免だ。フーゴも文句を呟きながら拾い集めている。
かちりと部屋の時計が進んだ。時刻は十六時。そろそろ日が暮れ、夜がやって来る。
アバッキオはポケットに入れたままの眼鏡のことを思い出していた。このままアジトに居ても、掃除をしているフーゴの視線を浴びるだけだ。さっさと本屋の親父に眼鏡を渡してこよう。
「アバッキオ、よかったら――」
「外に出てくる」
「え? あ、おいッ」
後ろからフーゴの呼び止める声が聞こえたが、耳の穴を小指でほじくって聞こえないふりをした。
いつもと変わらない歩幅で本屋へ向かう。小腹が空いたが、本屋の親父に眼鏡を返して戻る頃には美味い夕飯が食べられると信じ、密かに気になっていたパン屋に寄り道はしなかった。
信号を渡り、古くなった街灯を目印に角を曲がると小さな建物が見えてきた。店の外で並ぶ本の埃を中腰の男がはたいている。恐らく彼が件の親父だろう。掛けてもいない眼鏡を上げる素振りをして、彼は店の中へ入っていった。
追うようにアバッキオも向かう。棚は黄ばんでおり、はたいていたはずの埃が本に残っていが、その内の一冊に思わず手を伸ばした。かつて貴公子と呼ばれたレーサーの特集本だ。これはどれだけ埃が被っていても、アバッキオにとっては黄金色に輝いているのだ。本を開くと、レーサーが生前に成し遂げた偉大な記録が載っている。腕の良いカメラマンがその一瞬を捉えた写真を見て、当時のことが昨日のように蘇った。タイヤがサーキットを駆け抜けていく音やエンジン音が、今にも後ろからが聞こえてくるようだ。
さすがにじっくりと読むわけにはいかず、巻末に進むに連れて流れるようにページを捲っていく。棚にしまう前に本の埃を手の甲で払い、きちんと戻した。
同じ棚には昔のジャズミュージシャンの伝記、映画の裏側を写真集でまとめた本、地域の歴史にまつわるものなど、真新しい本屋では見ることのない面々が揃っている。ブチャラティが好みそうな本屋だということが少しだけ理解できた。
「おい、じいさん」
店内に客はいなかった。カウンターには椅子に深く腰掛け、本を読んでいる店主がいる。アバッキオの呼び声に店主は二、三秒経ってから反応を示した。相当耳が遠いようだ。
「おお。ブチャラティか。んん? 随分短期間で背が高くなったなあ。髪も染めたのか?」
「人違いだぜ、じいさん。オレはブチャラティに頼まれてやって来ただけだ」
店主は存在しない眼鏡を掛けなおした。「それは大変失礼いたしました。最近眼鏡の調子が悪くてね。視力が一気に低下してしまったようだ」
アバッキオはポケットから視力低下の元凶を取り出し、カウンターの上に置いた。
「なにを買うんだね?」
「金じゃねえ。眼鏡だ。あんたのだよ」
「……わたしの?」
店主はそれを手に取って、まじまじと見てから装着した。アバッキオと目が合うと「おお!」と叫び、閉じかかっている瞼を大きく開いた。
「そうか。わたしは眼鏡を落としていたのか。きみが拾ってくれたのかい? グラッツェ~~」
「いや、オレじゃなくブチャラティだ」
店主は合点した。「なるほど。確かに彼は、眼鏡を拾っても質屋に回さず届けに来てくれるようないい人だ。でも、きみも同じくいい人だ」
何を根拠に言っているかは分からないが、悪い気持ちにはならない。こんな老人に笑顔で礼をされたのは久しぶりだったからだろうか。
店主はレンズを拭くと、椅子から腰を浮かせた。
「そういえば、外の棚の掃除が終わってなかった。さっき店の外でひと悶着あったんだよ」
「喧嘩か?」
店主はかぶりを振った。「喧嘩、というべきなのかわたしには判らないんだが、若い女性の悲鳴と男の声が聞こえたんだ。大きな音がしたんでね」
――店の中で身を潜めていたのか。苦笑を浮かべる店主に、座ってな、と片手で肩を押さえて言い放ち、アバッキオは再び店の外へ出た。
改めて店の周りを観察すれば、確かにあちこちに争ったような形跡があり、扉の隣に貼られているポスターは下部が剥がれている。破けた部分は風に乗ってどこかへ飛んでいったのか、辺りには見当たらない。
女と男の諍いであればつまらない話で終わるが、大きな音の正体が未だ掴めずにいる。
他にも何か手がかりがないか、と歩き出したところでアバッキオの大きな靴が何かを踏んだ。足の裏を覗くと、地面には赤いパスポートが落ちていた。身を屈め、それを拾い上げる。まだ真新しいものだ。
アバッキオはパスポートの中身を確認した。身分証明写真に写っていたのは、若い女だった。
「……、。・。日本人か」
どこかで聞いたことのある名前だと思った。それもつい最近だ。記憶が確かであれば、この日本人は以前、ブチャラティたちが話していた人物ではないか。
――なぜ彼女のパスポートがここに?
疑問が浮かぶと同時に、店主が話していた若い女性の正体がである可能性が高まった。パスポートを手にしたまま、店内へ戻る。店主はアバッキオが入ってくると視線を向けた。
「悲鳴以外には何か聞こえたか?」
店主は頭を掻いた。「悲鳴のあとに、大きな音がしたのは覚えてるよ。まあ、悲鳴と言ってもホラー映画のような大げさな声じゃあなく、『キャッ!』っというような控えめなものだったけどね」
アバッキオは頭の中でメモを走らせた。
「しばらくしたらバイクのエンジン音が鳴って、その時に外を見たら誰もいなかったよ。すまないねえ、確かな事が言えなくて。この店は防犯カメラなんてものがないから」
「いや、いい。それよりもじいさん。今日はもう店じまいにしな。どうせ誰も来ねえからよ」
「誰も来ないとは失礼な」
「いいからさっさと閉めろ」
外へ出て、何となく空を見上げた。春が近いネアポリスの空は既に薄暗い。道路に設置されている街灯がいくつか灯り始め、本屋の脇に立っているものがばちばちと不吉な音を鳴らした。
店主は言われた通りに店を閉め始めた。シャッターが古臭い音を立て、完全に閉まる。手に持っていたパスポートをポケットの中へ忍び込ませ、アバッキオは辺りに人がいないことを確認した。
「ムーディー・ブルース」
姿を見せたムーディー・ブルースは空間を漂い、額に映し出されている数字が動き始める。
「二時間前でいいな。倍速で進めよう」
電子時計の時刻が巻き戻され、風船に空気が入るように人の形へと変わっていく。ムーディー・ブルースが捉えた人物はパスポートに写っているとおりの若い女性だった。彼女がだ。
二時間前のは、アバッキオが読んでいた本と同じ棚の前に立っていた。何か雑誌を読んでいるのだろうか、ページを捲る素振りをするだけで特に変わった事はない。
動きのあるところまで早送りを試みようとした瞬間、の身体が後ろへ引きずられた。
(きゃッ!)
は小さく悲鳴を上げた。
(騒ぐなよ。騒いだら撃つぜ。金だけおいていけば命までは取りはしねえからよ)
次に聞こえたのは男の声だった。互いの声色や会話の内容を聞くと、は背後から男に体を掴まれ、身動きが取れない状況のようだ。スタンドが再生できるのはあくまでの姿だけであり、男の姿までは見ることができないのは難点だ。
(わたしに何か用ですか……?)の声は比較的落ち着いているが、微かに震えている。
(言っただろ。金だけ置いていけばいいってな。姉ちゃん、いいバイクに乗ってんじゃあねえか。それに身なりも綺麗でお洒落さんだ。身包みだけでいくらになる? このまま姉ちゃんごと売り飛ばせば、高い値になるかもな)男の舌なめずりする音が聞こえた。
(相変わらず、この辺りは治安が最悪ね)
(な~~にぶつぶつ言ってんだ)
(申し訳ないけど、わたしはあなたが思っているほど値の張るような女ではありませんよ)はようやく身じろいだ。
(聞こえなかったのか。暴れるんじゃあねえッ!)
(暴れはしません。ただ、抵抗はさせてもらいます)
次の瞬間。の体は解放され、自由になった右腕を後ろに向かって振りかざした。鈍い声が聞こえ、本屋の壁に何か大きな物がぶつかる音が響く。剥がれたポスターのある場所だ。この時に破れたのだろう。
男が構えていた銃だろうか、金属製の重たいものが地面に転がった。はずんずんと壁へ向かい、右肩に提げたバッグを勢いよく振り下ろし、その場に倒れているのであろう男の身体を叩きのめした。
その後にすぐ、アバッキオの足元から乾いた音が聞こえた。
(み、見た目にそぐわず……乱暴な女だ)
(女だからって甘く見ないで。わたしはその辺りにいる柔な女の子じゃあないんだからね)
はバッグについた埃を払いのけると街灯まで歩き、何かに跨った。そのままエンジン音を響かせ、海へと続く細い道へ姿をくらましていく。落ちていた銃を拾い上げたのだろうか、情けなく退散する男の声が段々と遠のいていった。
どうやら――たった今観察した一連が、アバッキオの訪れる二時間前に起こった出来事だったようだ。アバッキオが立っているのは、パスポートが落ちていた場所だ。バッグを振り上げた拍子にその隙間から飛び上がってしまったのだろう。話が見えたところでムーディー・ブルースを解除した。
本屋から離れ、大通りへ出る。パスポートの入っていない側のポケットが震えた。携帯電話を取り出して画面を確認すると、ミスタの名前が表示されていた。
「どうした」
(アバッキオか? ピッツェリアのおっちゃんが団体キャンセル食らったらしくてよォ。大量のメシが届けられたから、さっさと帰って来たほうがいいぜ)
電話の向こうでは、既にフーゴとナランチャがピッツァを食べているようだった。ブチャラティの声が聞こえないとなると、彼はまだ帰ってきていないのか。
アバッキオは、わかった、とだけ伝えて通話を切った。ピッツァがあるのなら帰りに美味いワインでも買って行ってもいいだろう。アジトへ戻るまでに、自分の取り分が残っていることを願った。