ドリーム小説 11

 太陽が西へ傾きはじめた頃。ブチャラティとアバッキオを乗せた車はネアポリス内を走行していた。運転はアバッキオで、ブチャラティは例のごとく助手席に座り、ノートパソコンのキーボードを叩いている。
 画面に小窓が浮かんだ。幹部であるポルポからの指令だ。ポルポは刑務所に収容されているが、組織の力によって食べ物はもちろん、外部との連絡ツールや人を殺めることのできる銃までも持ち込んでいる。
『ブチャラティへ。日没までにわたしの元へ来るように。いつもの差し入れを忘れるなよ』
 このポルポという男は、見た目の大きさと反比例するかのように懐が狭く、どこまでも自分の思い通りに部下を利用している。しかしどんなに憎かろうが組織の幹部であり、立場上は自分たちの上司だ。世間一般のビジネスマンの上下関係とはわけが違う。
 車内の時刻を確認する。日没まであと二時間程度。徒歩でも十分間に合う時間だが、次の行動を察知したアバッキオが、「どこまで走らせればいい? ブチャラティ」と訊いてきた。
「ああ……。それなら、次の信号を抜けた先で降ろしてほしい。それとアバッキオ。悪いんだが、本屋に寄る用事を作ってくれないか」
「本屋?」
 ブチャラティはポケットから眼鏡を取り出した。「本屋の親父が探していたんだ。これがないと何かと不便だろう。届けておいてくれ」
 アバッキオの両手はハンドルで塞がっているため、横目で確認する。
「よくもまあ世界中にごまんとある眼鏡を拾って、本屋の親父のもんだと判ったな」
「あの店には世話になっているからな。珍しい書籍がいくつも並んでいるんだ。お前も行ってみるといい。時間つぶしにはなるぞ」言いながらブチャラティはダッシュボードに眼鏡を置いた。
 信号を通過して狭い道へ入る。アバッキオはスピードをゆっくりと落として停車し、助手席側の扉が開くボタンを押した。
「パソコンはアジトのテーブルの上に置いておいてくれ。頼むぞ」
 ブチャラティはアバッキオが頷くのを見てから扉を閉め、アジトへ走っていく車を見届けた。
 ポルポの待つ刑務所へ向かう前に、指令の文末に残されていた『差し入れ』を手に入れなくてはならなかった。これはそこまで珍しいものではない。彼の好むワインを二瓶とグロッサリーストアで並んでいる果物を持っていけばいいのだ。刑務所では面会者の持ち込みは禁止されているが、スティッキィ・フィンガーズを用いれば造作もないことだ。そういった点からか、ポルポは指令以外にも何かと雑用を頼むな、とブチャラティは思っていた。
「ブチャラティ」
 閑散とした道を抜けようとしたとき、自分の名を呼ぶ声に立ち止まった。振り返ると、そこには綺麗な化粧をした若い女が立っていた。
 ブチャラティは記憶を巻き戻す。
 ――嗚呼、そうだ。思い出した。
 彼女は恋人に約束をすっぽかされてしまった挙句、浮気現場を目撃したと言って、夜のトラットリアで一人泣いていた女だ。目も当てられない状況に思わず声をかけたのを覚えている。打って変わって、今は晴れやかな顔つきだ。長かった髪も短くなっている。
 一瞬でも思い出せなかった無礼を顔に出さぬよう、小さく笑みを浮かべた。
「やあ、あれ以来だな。もう吹っ切れたのかい」
「ええ。もう随分とね。あなたに話を聞いてもらったお陰よ。本当にありがとう」
「構わないさ。新しい髪形もとても似合っている」
「思い切りすぎたかな、と思ったんだけど、あなたに褒められてほっとしたわ」
「次に男を選ぶときは気をつけるんだな。きみは美人だから、特に気をつけたほうがいい」
 女は毛先を指で絡めながら言う。「ブチャラティのような男は、そう易々と見つからないわ」
 ぴくりと頭の中で何かが走った。
 この女――もしや今度は自分を傍に置こうとしているのではないか。
 こちらが何も言わずにいると、女は一歩近付き、開いたスーツの胸板に毒蛇のような白い指を這わせた。そのまま肩口に頬を寄せ、甘い息を吐く。
「ごめんなさい。あなたのことを勝手に調べさせてもらったの。名前も、職業も」
 以前出会ったときには名前を教えなかったので、なぜ彼女がそれを知っているのか疑問だったが、謎が解けた。そういう事だったのか。
「ブチャラティがギャングスターでも構わない。いいえ、寧ろ願ったり叶ったりよ。恋は少しくらいスリリングなほうが燃えるもの。ねえ、そう思わない?」
 上目遣いで捲し立てる彼女に、ブチャラティは笑った。
「あまり利口とは思えないな。オレは世間のチンピラなんだぜ? まっとうな人間じゃあない」
 胸元に添えられた手を離そうとするが、逆に掴みかかるように彼女は圧する。
「いいえ、そんなことない。あなたといっしょに居られるのなら、わたしは何にだって成れる」
 反芻したくなるような情熱的な告白だと思った。こんな美人に言い寄られれば、そこらの男は転がるだろう。しかし、ブチャラティは首を振った。
「……オレはきみに、オレだけの女には成ってほしくないんだ」
「どういうこと?」
「オレは確かにギャングだ。いつ命を狙われるかも分からない人間だ。そんなオレのためだけに生きて、その先のきみの人生はどうなる? きみはまだ若い。夢の一つや二つくらいあるんじゃあないのか」
 女は、はっとして目を見開いた。手の力が徐々に弱まっていく。
「きみはオレのために、その夢を捨てる覚悟はあるのかな」
 ブチャラティの問いに、女はしばらく考える素振りを見せると首を横へ振った。
「それが答えだ」
 白い手を離し、背を向ける。後ろから控えめに呼び止めるような声がしたが、聞こえないふりをした。
 ここが静かな道でよかった。いくら相手が美人で若い女性だったとしても、人前であのように迫られては適わない。ブチャラティは顔に手の平を滑らせた。久しぶりに変な汗をかいたもんだ。

10-2

 刑務所に到着したのは、日没の一時間前だった。いつも通り刑務官のボディチェックを受ける。監房へ向かうと、壁のような大きな身体がむくりと起き上がった。幹部のポルポは片手にワイングラスを携え、不気味に笑んだ。ブチャラティも口角を上げるが、何のために同じような表情をとったかは説明しがたいものだった。
「日没まであと一時間。相変わらず時間に律儀だなあ、ブチャラティ~~。わたしはきみのそういうところが気に入っているんだよ。組織に忠実なところがねえ」
「それはたいへん冥利に尽きる言葉です。それでポルポさん。今回はどのようなご用件で?」
「そんなに急ぐことはない。まずは差し入れのワインと果物をいただこう」
 ブチャラティは自身の身体に拳を軽く当て、ジッパーを下げた。中からワインと果物の盛り合わせが音を立ててこぼれ落ちる。ポルポは子供のように喜び、監獄の隙間から渡された差し入れを手に入れると、ワインのコルクを栓抜きも使わずに歯でこじ開けた。赤い雫が床に飛び散っていることや、自身の服に掛かっていることも知らず、ポルポは空になったグラスへ美酒を注ぐ。まるでマラソンランナーが長距離を完走した後に飲むスポーツドリンクのようにそれをあおった。
 ブチャラティはただ、見つめている。
「話というのは、他でもないギャング潰しのことだ」
「ギャング潰し?」
「きみも既に耳にしていると思うが、イタリア中心部のほうでとあるギャングチームが正体不明の集団によって壊滅した」
 やはり集団だったか、とブチャラティはアバッキオの言葉を思い出していた。
「他の弱小ギャングが潰されようが、我々の組織にとってはそこまで大きな問題にはならない。しかしだ。きみがこの刑務所に移動しているものの数時間で次の事件が起きた。最初に銃撃戦が起こったイタリア中心部から南に位置する観光地で、我々の構成員が襲われたのだよ」
 ブチャラティは、頭の中で地図を広げた。「南部の観光地といいますと、ローマ付近ですか」
 ポルポはバナナの皮をむきながら頷く。「被害は最小限に収まったようだが、機密情報の一部を漁った形跡があった。それは組織に関わった者のデータだよ。我々のようなギャングと関わりを持っている一般人のプロフィールをも含むものだ」
 ブチャラティが所属しているパッショーネ内でも、ネアポリスで起こった出来事の八割以上を管理している。組織に関わった者の名前をはじめ、商店、花屋、書店、散髪屋など。挙げると切りがないが、地域を仕切っている以上、大方の情報はその管理チームによって束ねられる。
 しかし例外もある。先ほどの若い女の名前や素性を知っているか、と問われれば『NO』だ。調べることは難しくはないにしても、明らかに必要のない情報は除外される。
「相手の目的はデータ、ということですか」
「そう考えるのが妥当だろうね。ローマでパッショーネの構成員が襲われたとあっては、我々も他人事とは考えられなくなってきている」
「最初はフィレンツェの田舎町。続いてはローマ。相手は、イタリアの中心部から南へ向かって移動している。つまり、この街も襲撃に遭う可能性が高い――」
 ポルポは満足げに笑みを浮かべた。「きみを呼んだのは忠告のためだ。相手の正体は未だ掴めていないが、我々のようなギャングが握るデータを求めているということであれば、最初に狙うのは情報管理チームのはず……。しかし未然に防ぐに越したことはない。何か不審な動き、人物がいれば注意を怠るなよ」
「わかりました」
「そして、きみを呼んだのにはもう一つ理由がある」
「……なにか?」ブチャラティは思い当たる節がなく、疑問符を浮かべた。
「最近、いい女と再会したと聞いているよ。しかも日本人女性だそうじゃあないか。その女がきみの古い友人ということも知っているのだよ~~?」
 一体どこから仕入れたのだろうか。の存在がポルポの口から出てくるとは微塵にも思わず、動揺してしまう。頬に流れそうな汗を必死に抑えた。
「その日本人は、きみのなんだね」
「彼女は、ただの友人です」
「ただの。ほォ~~ん。ただの友人」ポルポはくちゃくちゃと口内を鳴らしながら笑った。
「間もなく面会時間の十五分です。ただ今の忠告はわたしの仲間にも話しておきましょう」
 ブチャラティは軽く頭を下げ、強化ガラスに背を向けた。分厚い鉄扉が開き、入場時と同じようにボディチェックを受ける。周囲では目つきの悪い刑務官が拳銃を構えてこちらを睨んでいる。この嫌な視線も、先ほどの熱烈な告白に比べれば可愛いものだ。
「あの」刑務官の動きが止まった。
「なんだ?」
「手の平を開いてください」
「手の平?」
 言われるまで気がつかなかった。自分はいつの間にか拳を固く握っていた。

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