寝室から聞こえてくる着信音に、シャワールームで身体を洗っていたは湯を止めた。濡れた身体を拭き、髪を後ろで纏める。そのままバスタオルを身体に巻いて寝室へ向かった。
尚も点滅を続けている携帯電話を手に取り、プッシュボタンを押す。電話越しの声に耳を傾けながら、は大窓のカーテンを左右に広げた。ネアポリスの海辺が朝日に反射して瞬いている。遠くにあるはずだというのに、思わず目を細めてしまうほどの輝きだ。
この景色を最後に見たのはいつだっただろうか。そう、あれは確か二年前のこと――。
(、聞いているのか?)
「え? あ……ごめんなさい。聞いてなかった」
電話の向こうで小さなため息がこぼれた。(それで今回の件だが、予定時刻は?)
「夕方がいいと思う。日中だと騒ぎになったら大変だから」
(了解した。変更があればまた連絡してくれ)
通話を切り、携帯電話をベッドのサイドテーブルへ戻した。クローゼットから適当な下着と服を取り出して着替える。ドレッサーの前に座り、化粧水を顔に打ち込んでから、濡れた髪の毛を乾かした。
ドライヤーのスイッチを切ったとき、再び着信音が響く。
「ブオンジョールノ、です」
(……わたしだ)
は相手に見えないにもかかわらず頭を下げた。「お久しぶりです」
(時間は問題なかっただろうか)
「はい。連絡が遅くなってすみませんでした。少々予定が狂ってしまって……」
(謝ることじゃあない。無事にネアポリスに到着したようで安心したよ)
「ありがとうございます。あなたからの依頼は順調に進んでおりますので、ご心配なく」
は寝室に置いてあるハンドバッグの中からノートパソコンを取り出した。リビングルームへ戻り、ローテーブルの上に置いて電源を入れ、メールボックスを開く。通話をスピーカーモードに切り替えると、自由になった両手でキーボードを打ち込み始めた。
(怪しまれていないか?)
「今のところは……大丈夫かと。現在集まっている情報をこれからお送りしますね」
はマウスを操作する。
「送信しました。続きは追ってお知らせします」
(分かった。あまり無茶をするなよ)
「大丈夫ですよ。相手が相手ですから」
キーを叩く最中、電話に砂嵐のような音が混ざった。幸いにも相手が話していない時だったようだが、肝心なのは次に起きうる出来事だ。
「すみません。切ります」はノートパソコンの電源を落とし、ソファーから立ち上がった。
その時、廊下へ続く扉がノックされ、は身なりを整えてから扉を開く。立っていたのはルームサービスの男だ。両手のトレーには、熱を逃がさないよう蓋をされている料理が載っていた。
「おはようございます、様。朝食をお持ちいたしました」男はトレーを少し持ち上げる。
「ディ・モールトグラッツェ。お部屋にはわたしが持っていきますね」
は男から注文品を預かった。
「本日はお出かけされるのですか?」
「はい。今日は天気がいいので、ウインドウショッピングをしてからバールでカッフェでも飲もうかと」
男は微笑んだ。「それはそれは……。お留守の際は、ご出立の前にフロントへお寄りくださいませ。お部屋の清掃に伺いますので」
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます」
「それでは、失礼いたします」
男は会釈をし、部屋を後にする。
は料理を運んでテーブルに置いた。トレーの上にはサラダと果物が盛られた小皿、清涼水の入ったグラス、蓋のついている大皿が載っている。蓋を開けると白い湯気が顔に襲いかかり、思わずのけ反った。現れたのはカラスミソースのスパゲティーだ。出来立てのいい匂いが漂う。
ふと、窓辺の景色へ視線を移す。レース状のカーテンの隙間から顔を覗かせ、ネアポリスの海を見る。
何度眺めても、この美しさは変わらない。
はポケットの携帯電話を取り出す。目当ての人物への通話ボタンを押し、静かに耳に当てた。
「……とても、懐かしい景色を観ているの」