ドリーム小説 08

「話は変わりますが」
 フーゴは額に張りついている汗を拭う。
さん、勉強はお得意ですか?」
「勉強?」
 ナランチャと共にダンスを踊らされたフーゴは、飲み物を一口含んでからへ問うた。は考える素振りを見せる。自信がないのか、はたまた他に言いにくい理由でもあるのか、ややあってはぎこちなく頷いた。
「得意か、って訊かれたら微妙なところだけど、嫌いでもないかな」
「そうですか。では、理科はどうでしょう」
 は軽快に指を鳴らした。「それなら大好き」
 フーゴは服の中に隠し持っていた教科書を差し出した。表紙には顕微鏡を覗き込んでいる子供たちと、その脇で花から花へと行き来する小さな虫のイラストが描かれている。。
「これは……?」は受け取ったものをまじまじと見た。
「学校で使用される一般的な教科書ですよ。エステの予約まではまだ時間がありますよね。手を煩わせてしまうのですが、よければ少しナランチャに勉強を教えていただけないでしょうか」
「げッ。フーゴお前、持って来てたのかよ!」ナランチャはオレンジジュースを吹き出した。
「当たり前だろ。それに僕も自分を改めたいと思うんだ。ナランチャの進み具合が悪いのは、もしかすると僕の教え方に問題があるんじゃあないか、ってね」
 はページをぱらぱらと捲り、目を通している。
「どうでしょうか、さん」
「昼食のお礼もあることだし、わたしでよければ」
 言いながらはナランチャの隣へ移動し、膝の上で教科書を開いた。ナランチャはテーブルにジュースを置き、の手元を覗き込む。その表情は依然として後ろ向きのようだが、フーゴは黙って二人の様子をうかがう。
「そうね。まずはナランチャくんが興味のあるページを教えてほしいな」
「オレの?」
「そう。勉強は、興味を持つことから始めるのが大切だと思うの。なんとなくでも構わないから、ナランチャくんが面白そうと思ったものを指差してみて」
 から教科書を渡されたナランチャは、おぼつかない動きでページを捲った。最近やっと常用単語を読めるようになった彼は、果たして見出しの文字の意味を理解しているのだろうか。ナランチャにとって読めない教科書は、写真とイラストが載っているだけで絵本と大差がない。
 しばらくして「あっ」と声を発したかと思えば、とあるページに掲載されている大きな写真を指差した。
それは天体の写真だった。
「これが面白そう?」
「うん。写真が綺麗だし、オレでもすぐに分かるような星の名前を教えてほしいな」
「なら、今回のテーマは天体ね。とはいっても時間が限られているから……」
 は教科書のページを捲った。
「北極星を教えてあげる。これなら簡単だから」
 ナランチャにしては随分神秘的な方面へ向かったな、とフーゴは心の中で呟いた。
 は教科書を広げ、夜空に浮かぶ北極星のイラストを示す。ナランチャが少しだけに近づいた。
「ナランチャくんは、わたしたちが暮らしている地球が絶えず回り続けているのは知ってる?」
 なにを馬鹿なことを聞くんだ、というようにナランチャは鼻で笑う。「それくらいは分かるよ。季節によって見える星が変わるのも、地球が太陽の周りを回ってるからだっていうのも知ってるぜ」
「そう。それならあとはもう簡単。北極星は季節や時間帯さえ関係なく、ネアポリスの空の真北で一年中観ることができるの。それはどうしてだと思う?」
 ナランチャの動きが止まった。目を瞬かせたあと、腕を組みながら目を閉じる。
 はページを指で挟み、一度教科書を閉じた。悩んでいるナランチャを静かに見守っている。
 フーゴは、これだけ悩みながら答えを搾りだそうとしているナランチャを久しぶりに見た。普段は分からない事があれば、すぐに体をソファーに投げ、そのまま昼寝をすることも少なくはないのだ。
 自分と同じように教えているはずなのに――フーゴはを思わず見つめた。視線に気がついたのか、ナランチャを見守っていたが振り向く。
「フーゴくんはナランチャくんに勉強を教えはじめて、どのくらいになるの?」
「もう一年くらいでしょうか。彼から言い出したんですよ。勉強を教えてほしいと」
「そうだったんだ」は懐かしいものを眺めるような目で、ナランチャを見やる。
 今も尚、『なぜ北極星はいつでもネアポリスの空の真北で観ることができるのか』という命題を必死に考えている。きっと彼の頭は、二十四時間動き続けている地球のようにくるくる回転しており、そろそろ眩暈を起こしている頃だろう。それでも正解を乞うようなことはせず、自分の知識と考察によって導き出そうとする姿にフーゴは感心してしまう。
 間もなくして、唸りだしたナランチャは乱暴に頭を掻くと「わかんねえッ!」と叫んだ。
「なんで北極星は星なのに動かないんだよォ」
 フーゴとは、はっとした。
「ナランチャ、今なんて言いました?」
「え?」ナランチャが涙目のまま止まる。
「今、どうして星が動かないんだって聞こえたけど、どうして動かないと思ったの?」
 ナランチャは鼻の横を掻いた「季節で観える星が違ったり、時間帯で位置が変わったりするのは、地球が太陽の周りを動きながら回っているからだろ? だから地球が動かないなら星は止まってるってわけで。あれ、オレなに言ってんだ……?」
 ここまで悩み苦しんでいると、まるでが意地悪をしているようだ。はベンチから立ち上がり、原っぱに咲いているたんぽぽの綿毛を一本抜いてくると、それをナランチャに握らせてしゃがみ込んだ。
「ナランチャくんやフーゴくん、わたしが住んでいる地球がこの丸い綿毛部分だとするね」
 ナランチャは頷いている。
「今ナランチャくんが持っているたんぽぽの茎の部分は、綿毛のどの部分にあると思う?」
「……下?」
「すこし惜しい! でもほとんど正解。綿毛に対してどの位置に面しているか――」
 こうしてみるともっと分かりやすいかも、とは綿毛が下になるように持たせた。
「これならどうかな」
「あッ。地球の真ん中?」疑問を含んだ言葉だったが、語尾は少々明るく聞こえた。
「正解! 北極星は自転軸に対して北側のほぼ真上、そのずうっと遠くにあるから、地球の回転や場所に関わらず、観える位置が変わらないの」たんぽぽの茎を回しながらは言う。
「でもそうなると、地球の反対側では見えないんじゃあないのか?」
 ページを捲ろうとしたの手が止まった。「そのとおり。北極星は南半球では観ることができないの。でも、わたしたちのいるこのネアポリスでは北の空に常に見えているから、また観察してみてね」
 今日は快晴だ。このままの天気が続けば、夜の北極星はイタリアの空で輝きを見せるだろう。
 今夜の北極星を待ち望むように空を見上げるナランチャと共に、も天を仰いだ。

08-2

「それじゃあ、わたしはそろそろ行くね。ご馳走になって本当に良かったの?」
「はい。気にしないでください」
「ナランチャくん、勉強頑張ってね。また今度、色んなお話を聞かせてほしいな」
「そん時は、オレの気に入ってるCDも持っていくよ」ナランチャが言った。
「ではさん。道中お気をつけて」
「ディ・モールトグラッツェ。あなたたちもね」
 小さく手を挙げ、反対側の道を歩き出したの背中を見届ける。腕時計を気していたようだが、予約の時間は大丈夫だったのだろうか。しかし、こちらも気分転換にちょうどいい時間を過ごすことができた。フーゴはナランチャを連れて、アジトへの帰路を歩き出した。
「よかったですね。さんに教えていただけて」
「……帰ったら、ちょっとだけ勉強しようかな」
 どうやら特別講師の効果はてきめんだったようだ。
「それなら、さっきの続きを教えますよ。ナランチャは天体が好きみたいだから」
 ギャングになってから、星を見上げる機会もなくなっていた。今夜はナランチャと共に、北極星の位置を確認してみよう。ナランチャがその時間まで起きていられればの話だが。
「そういえばって、なにやってる人なんだろ」
「え?」
「ブチャラティの友達っていうくらいだから、普通の女ではないんだろうな」
 それは、フーゴが彼女に出会ったときから不思議に思っていた事であった。ブチャラティの友人であり、自分たちがギャングだと知っている以上、という人物をただの一般人と解釈するのは難しい。
 彼女は一体、何をしている女性なのか。
 どんな経緯でブチャラティと知り合ったのか。
 ネアポリスへ戻ってきた理由は、何なのか。
 謎は深まるばかりだが、隣を歩くナランチャがいずれ来る夜を心待ちにしている様子を見て、心に空色が広がっていくのを感じ、フーゴは考えるのを止めた。

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