公園は昼食時のビジネスマンや、小さな子供たちで溢れていた。公園の面積は有名ヴォーカリストのコンサートの観客が埋まるほど広いため、高原をしばらく歩けば静かなベンチもちらほら見えてくる。
ナランチャがフーゴとの前を走り出した。「ここがいいよ!」と足を止めたのは、大きなベンチに柔らかな太陽の光と、涼やかな風が吹き抜ける場所だった。も同意した様子で腰を下ろし、フーゴはポケットから財布を取り出した。
「僕がなにか買ってきますね。ナランチャはここでさんと待っていてください」
「ほ~~い。あ、飲み物買うんだったら、オレはオレンジジュースだからな」
「さんはどうされますか?」
「あ、待って。お金ならわたしが……」
財布を取り出そうとするをフーゴが制した。
は肩を落とし、苦笑する。「それなら……わたしはミネラルウォーターを。食べ物はピッツァをお願いしようかな」
「わかりました。ナランチャ、くれぐれもさんに変なことをするんじゃあないぞ」びしりと効果音が鳴りそうな勢いでフーゴが指差す。
「オレはミスタじゃねえよッ!」
ナランチャの投げた言葉を背に、フーゴは財布を片手に高原の向こう側へ歩いていった。
二人きりになったナランチャとは、風の音を聞きながら互いに無言になる。ナランチャは何か言葉をかけようか考えてみたが、年上の女性にどんな事を話せばいいか分からない。「変なことをするな」と言われたが、それ以前の問題だった。
「フーゴくんの言ったとおり、ここの木陰には気持ちのいい風が入ってくるね」
「あ、うん」
「なんだかこのまま昼寝しちゃいそう」
「うん……」
相槌を打つことで精一杯だった。ブチャラティの親しい友人といえど、ほとんど初対面に近い女性との会話には慣れていない。早くフーゴが戻ることを祈っていると、が「そういえば」と口を開いた。
「ねえ、ナランチャくん。音楽は聴く?」
「……え?」
思いがけない質問に、ナランチャは自覚するほど情けない声が出た。
「ミュージック。もしあまり聴かないのなら、別の話題にしようか。例えば映画とか」
「そんなことないよ。オレ、音楽が大好きなんだ。ヒップホップなんかはよーく聴くぜ」
「ヒップホップ、かあ。例えばどんな曲?」
「ちょっと前の映画で使われた曲かな。あれだよ、バスケットボールマンがテーマの」
映画はあまり観ないが、主題歌として起用された作品のタイトルだけは知っている。も合点したようだ。映画館には赴いていないが、レンタルビデオで観たらしい。
「始終賑やかな映画で、最後は自分まで踊りたくなっちゃった」
「そうそうッ! オレはさ、思わず体が動き出すような音楽が好きなんだよ!」
「あッ。じゃあもしかして、ダンスも好き?」
「好き好き! チョー好き! 見てて見ててッ」
ナランチャはベンチから立ち上がり、舌を鳴らして自らリズムを刻んだ。ギャングなら誰でも踊れるというギャングダンス。突然踊りだしたナランチャに、は慌てて手拍子を叩く。その顔は若干引きつっているが、ナランチャは気にしない。ポーズが決まったところで、笑顔と拍手が送られる。これにはナランチャも気持ちが良かった。先ほどよりもと距離をつめてベンチへ座る。
「これさ、実はフーゴたちも踊れるんだぜ」
「えッ、フーゴくんが?」
軽快なダンスを踊っているフーゴを頭に思い浮かべたのか、はおかしそうに笑う。
「はどんなことが好きなんだ?」
わたし? と自分を指差して考える。「音楽も人並みには嗜むし、ダンスも得意なわけじゃあないけど好きかな。あとはショッピングとか、色んな土地を旅して回ることも大好き」
「なんかオンナノヒト、って感じだな。でも分かるぜ。他人にとってはどうでもいいものでも、好きだと思う気持ちがあるだけで、光って見えるんだ」
「そうそう。物だけじゃあなく、人も同じね」
音楽や食べ物。自分が好きなものは、いつだって心の中で光り輝いている。が言うように、ナランチャにとっての光は他でもないブチャラティだ。日頃の立ち振る舞いから口振りまで、あんな男になりたいという目標であるし、彼の力になれるならば何だってしてやろうとも思っている。
そういえば。隣にいるは、あのブローノ・ブチャラティの旧友だ。ナランチャがブチャラティと出会う以前の彼を知っているかもしれない。フーゴから失礼な事は避けるように、と釘を打たれたが、やはり色々と訊いておきたい――。
「えッ。ブチャラティがどんな人だったか?」
「そうそう。やっぱり昔からあんなにかっこよかったのか?」
「女の子からはものすごく慕われていたし、人望も厚かったと思う。でもブチャラティと行動を共にしていたのは三年半の間だけだったの。ナランチャくんのほうが彼のことを知っているんじゃあないかな」
「女の子に人気なところとか?」
「やっぱり、今でも大人気なんだ」は一笑する。
「そうそう。バーとかに行くと、女の子はみーんなブチャラティんとこ行くもん」
アバッキオたちと訪れたワインバーでの事を思い出す。その日のブチャラティは遅れての参加だった。テーブル席へやってきたブチャラティは既に女に腕を絡められており、彼女がブチャラティに好意を抱いているのは見てとれた。そしてブチャラティが空いている椅子に座った瞬間、ミスタやアバッキオの周りに集まっていた面々がブチャラティのほうへ流れていく様は、さすがと言わざるを得なかった。
ナランチャはその時の出来事をに聞かせてみた。は何も言わずに頷いている。
「やっぱりブチャラティ、男のオレから見てもかっこいーもんなァ」
「あの人は、誰にでも優しいからね」
談笑していると、飲食物を危なげに抱えてやって来るフーゴの姿が遠くに見えた。は慌ててベンチから立ち上がり、小走りでフーゴに近寄って荷物を分担した。
「すみません。手伝ってもらっちゃって」
「わたしこそ、気が利かなくてごめんなさい。一人で三人分なんて無茶だったよね」
ベンチの傍にある木製のテーブルに、それぞれの注文品を置いた。ピッツァからは焼きたての証である白い湯気と匂いが包装紙の隙間からこぼれている。ナランチャは今すぐにかぶりつきたい気持ちだった。
「まあ……。もう一人の僕に持ってもらうにも、すぐに腐敗してしまいますからね」
「え、腐敗?」が首を傾げる。
「いえ、なんでも。熱いうちに食べましょう」
「あ~~、ノド乾いた!」ナランチャは早速、オレンジジュースを流し込んだ。
を挟んでベンチに座り、昼食をとった。木々の葉が風に揺れている。広い公園で風を感じながらのピッツァは、特別な味がした。
ジュースを傾けながら、ナランチャはを見た。熱々のピッツァをかじっている最中で、口から離そうとしても中々チーズが途切れてなくて困っているようだ。伸び続けるチーズを追うように、の口がぱくぱくと必死に動いている。
ナランチャは思わず吹き出した。
「あッ。笑ったでしょ」チーズを口の端につけたは顎を引き、ナランチャを睨みつけた。
「だってよォ。が魚みたいでさ」
ナランチャにつられて、も思わず吹き出す。「ここのチーズ、世界一伸びるチーズね」
「美味しいですよね。僕らのお気に入りです」
「やっぱりピッツァはネアポリスのが一番ね」が頷く。
「僕がピッツァを買いに行っている間、二人で何を話していたんですか?」
遠くから見ても随分楽しそうでしたけど、とフーゴはベンチから背中を離した。
ナランチャはを見た。もナランチャを見て、最後に二人でフーゴを見やる。フーゴはピッツァをかじり、目を瞬かせてから、なんですか、と言いたげな顔を浮かべていた。
「フーゴくん、ダンスは得意?」
質問の意味を、フーゴはすぐに理解した。ギャングダンスをその場でナランチャと共に踊らされ、フーゴはまるで茹蛸のように赤く顔を染めた。
とても素敵なダンスだった、と賞賛の拍手を送るに対し、フーゴは彼女の手を取る。
「今度はさんにも踊ってもらいますよ」
優しい笑みを浮かべているフーゴだが、その笑顔の奥に潜む心情をナランチャは敢えてには伝えなかった。ただ心の中で、無事を祈るだけだった。