ブチャラティ・チームのアジトで、ナランチャ・ギルガはテーブルに向かっていた。彼の右手には鉛筆が握られていたが、ノートへ数字を書いている途中でぽきりと音を立て折れてしまった。筆箱から小さめの鉛筆削りを取り出し、料理の済んだ皿の上にカスを散らしていく。
フーゴは正面の椅子に座りながらその様子を黙って見ていた。ナランチャは再びノートに向かい、最近覚えたであろうおぼつかない数字を書き並べていくが、ふと顔を上げた。
「フーゴ、ここってどうするんだっけ」
「前に教えたところを何度も聞かないでください。あなたの左手に置いてある教科書はなんの為にあるんですか」
「だってよォ~~。同じような問題を繰り返しやったって先に進めないぜ~~」ナランチャはテーブルに顎を置き、がくがくと口を動かす。
「何事も繰り返しこなすことが大切なんだ。フォークを持つことも、水を飲むことも。最初から全部上手くいくことはないんですよ」
さあ、あなたはやれば出来る人だ。フーゴはナランチャの背中を軽く叩き、促した。ナランチャもその言葉に感化されたのか、顎の動きを止めて背中を伸ばすと再び鉛筆を握った。
彼が答えを書き出すまで、次の問題を選ぶことにしよう。フーゴは教科書のページを捲った。
向かいの席ではブチャラティがいつものように新聞を片手にノートパソコンを触っていた。何を打ち込んでいるかは分からないが、きっと今までの指令の履歴などを纏めているのだろう。真面目な人だ。自分には真似できないな、と思いながらフーゴは新たな問題へ目を通す。
「ああ~~、だめだッ。今日はなんか頭がうまく動かないぜ!」ナランチャはついにテーブルへ鉛筆を放り投げ、頭を乱暴に掻いた。
「今日は、じゃあなく昨日も一昨日もだっただろうが。ずっと同じような問題をやっているのは、おまえが同じ場所で何度も躓いているからだッ」
フーゴとナランチャが口論を繰り返していても、ブチャラティは表情を変えることなく、ひたすらキーを叩いている。
いつの間にかナランチャの頬は腫れていた。赤くなった頬をさすりながら言う。
「なあ、ブチャラティ~~。見回りでもなんでも構わないから、外に出てもいいか?」
「それならフーゴと行け」
「フーゴと……」ナランチャがあからさまに嫌そうな顔を向ける。
話を聞いていたフーゴは思いついたように教科書を閉じ、立ち上がる。
「いいですよ。部屋に閉じこもっているだけが勉強ではないですからね。行きましょう。実は僕もすこし散歩をしたかったんですよ」
殴って悪かったですね。フーゴは笑みを浮かべながらナランチャを連れてアジトを出た。ナランチャの表情は依然として不機嫌なままだった。
街へ繰り出すと、歩くだけで様々な人から声をかけられた。行きつけ店の前を通るたびに、店主がわざわざ顔を出すところも少なくはなかった。フーゴやナランチャがブチャラティの下に就いていることは彼らも知っているのだろう。こうしてギャングである自分たちが、道端で圧をかけずにいられるのは、上司であるブチャラティの人望のお陰なのだと。それは何度も感じていることだった。
近くの公園まで出ようか――あそこなら、気持ちのいい風を感じながら勉強のできるテラスがある。フーゴは服の中に隠し持っている教科書を軽く叩いてから、横断歩道を渡った。ナランチャもやや後れをとってついて来る。これから向かう先で勉強を再開されるとも知らずに。
道を曲がったところで、フーゴは歩幅を縮めた。記憶に新しい髪色を目にしたからだ。
それは以前、ブチャラティが昔の友人といって夕食を共にしただった。今日はライダースーツではなく、黒いワンピースを着ている。手に持っているハンドバッグを見るに、どこか買い物へ向かおうとしているのだろうか。
「フーゴ、どうしたんだよ」ナランチャが不思議そうに見上げてくる。
「あ、いや。すみません。何でも――」
ないんです、と言いかけた時、横断歩道を渡ろうとすると目が合った。彼女は、あッ、と口を開け、肩の位置で手を振った。車が行き交う道路を小走りで通り抜け、フーゴとナランチャの前までやってくる。
「やっぱりフーゴくんだった」
「こんにちは、さん。この間のお食事以来ですね」
「金髪の人が多いから違うかなあ、と思ったんだけど、特徴的な服を見てぴんときたの」
「フーゴ、この人ダレ? 知らない人だけど」ナランチャが顎でを指した。
フーゴは慌ててナランチャを制すが、は気にしていない様子で両手を振った。
「この方は・さんです。ブチャラティのご友人ですから、失礼のないように」
「そッ、そんなに丁寧にならなくても……」
「そういうわけにはいきませんよ」
「フーゴくんってまるで、ブチャラティの秘書みたい」口に手を添えては笑う。
秘書か。あながち間違っていないような気がする。
の素性を知ったナランチャは眉を寄せた。ブチャラティのような信頼できる人物以外には、決して心を許さない性格なのだ。例え女でも、最初は警戒心をむき出しにする。しかし彼女がブチャラティの友人とあっては、横暴には振舞えない。そう思ったのか、後頭部を掻きながら唇を尖らせた。
「オレ、どうしても初対面のやつにはこーゆー態度をとっちまうんだ。許してくれよ」
はかぶりを振る。「気にしないで。改めまして、わたしは・。あなたは?」
「ナランチャ。ナランチャ・ギルガ」
「ナランチャくんね。よろしく」はナランチャに向かって手を伸ばした。
ナランチャはそれを握り返す。「っていくつ?」
フーゴはぎょっとした。女性相手になんてことを訊くんだ! という言葉が喉まで出ていた。
「わたしはブチャラティと同い年なの。早生まれだけどね。ナランチャくんは?」
「オレは十七。そっかァ~~。のほうが年上なのかァ~~」
友人の部下とはいえ、生意気な少年に失礼な態度をとられても表情ひとつ変えない。大人だな、とフーゴは思った。
「今日はお出かけですか」
「そうなの。久しぶりにイタリアへ戻ってきたから、エステにでも行こうかと思って」
「エステへ? そんな場所へ通わなくても、あなたは今のままで十分お綺麗ですよ」
は照れくさそうに笑みをこぼした。「どうもありがとう。でもそれは今だけだよ。二十五を過ぎたら肌も体も劣化していくって言うじゃない?」
「少なくともブチャラティは――」
慌てて手で口を封じた。危ない。思わず彼の感情を代弁してしまいそうになった。は不思議そうに顔を覗き込んでくる。フーゴは「なんでもないんです」と姿勢を正した。
「二人もどこかへ行く途中だったの?」
「この先の公園へ向かおうと思っていたんです」フーゴはの背後の遠くを指差す。
「へえ……。この辺りに公園なんてあったのね」
「緑がたくさんあっていい所ですよ。いつかお時間があるときにでも、是非」
ブチャラティを誘ってみてはどうですか。とは口が裂けても言えなかった。
「そう、ね。今度行ってみようかな」
「――あ、すみません。引き止めてしまって」
時間はだいじょうぶですか、と付近の時計台を見上げる。そろそろ昼時を迎える頃だった。
同時にフーゴの腹が控えめに鳴く。少し腹が減った。朝からナランチャの勉強に付き合っていたため、甘いものが無性に食べたくなってきた。
「実は予約時間よりも早く出てきちゃったの。そこで、提案なんだけれど……」
は腕を組みながら、右手の人差し指を立てた。
「あなたたちと会う前は、近くのバールで時間を潰そうかと思っていたの。でも、良かったら、わたしもいっしょにその公園へ行ってもいいかな」
フーゴとナランチャは顔を見合わせる。断る理由がなかった。それにブチャラティの友人と判明した今、ナランチャとの会話も少しは弾むだろう。彼女を利用するような言い方になってしまうが、社会勉強にはもってこいの人材だ。二人が揃って頷くと、は嬉しそうに小さく跳ね、笑顔を浮かべた。
「それならば、ランチでもいかがですか。公園で爽やかな風に当たりながら」
「うん。ピクニックみたいで楽しそう」
「オレ、なんかノド渇いたな~~。もしメシにするんだったらピッツァが食べたいッ!」注文を頼むかのごとく、ナランチャは片手を頭上高く上げた。
「調子がいいですね、まったく」
フーゴは肩を落とし、苦笑を浮かべる。
「ではさん。立ち話になってしまいましたね、行きましょう。着いてきてください」
はヒールを鳴らし、フーゴとナランチャの一歩後ろを歩いた。