フーゴたちが食事を済ませ、店の外へ出たのは二十二時を過ぎた頃だった。食事中の話題は少年の学校生活のことばかりで、フーゴの在学時にはなかった教育制度や、流行の娯楽について聞いているブチャラティは楽しそうであったし、も興味津々に耳を傾けていた。話を進めている間に主食を済ませ、最後にジェラートがやってくる。フーゴと少年はバニラ。ブチャラティはチョコレート。はピスタチオだ。
「んッ。ここのジェラート、とっても美味しい……!」が頬に手を当てる。
「さんはピスタチオがお好きなんですね」
「ジェラートが大好きなの。子供っぽいかな」
フーゴはかぶりを振った。「女性らしくて可愛らしいと思いますよ。それに、ここのピスタチオのジェラートはブチャラティがよく――」
頼んでいますから、という言葉は横から伸びてきた手によって制されてしまった。隣でブチャラティが咳払いをこぼし、ジェラートを口へ運んでいる。
何かまずいことでも言っただろうか――疑問に思いつつもフーゴはスプーンを動かした。
目の前に座る女性が上司の友人。彼女がブチャラティと出会ったのが五、六年前となると、フーゴがまだギャングの世界に入る前のことだ。その時からの友人となれば、さぞかし仲の良い関係なのだろう。
そんなことを考えながら口直しのジェラートを堪能してしまい、すっかりと時間を忘れてしまっていたのだ。フーゴが何気なく腕時計を確認したとき、ようやく気がついた。フーゴら大人にとっては問題ない時刻だが、小さな子供には夜更かしもいいところだ。
「お母さんの誕生日は、もしかして今日だったの?」が少々慌てた様子で少年へ訊ねる。
「ううん、明日だよ」
話をしている間に少年の口調は大分砕けていた。
「心配しないで。最近は母さん、父さんといっしょでお仕事の帰りが遅いんだ。大体は日付が変わる前に帰ってくるから、夕飯も僕一人の時が多いんだよ」
「なら、こうして集まって食事をしたのも久しぶりだったのか」ブチャラティが訊く。
少年は頷いた。「朝ごはんはいっしょなんだけどね。でも毎日じゃあないから平気だよ」
この年頃の子供はまだまだ母親に甘えたいはずだが、彼はとても強い心を持っているようだ。親の帰りが遅いとはいえ、これ以上夜の時間に付き合わせるわけにもいかない。食事を終えた彼らは店を後にした。
「わたしがこの子を家まで送っていきましょうか」はバイクを引いてやってくる。
「車で送り届けようと思っていたが、そのほうがいいな。こんな格好では、悪い大人が子供を連れまわしているようにしか見えない」
「実際そうですけどね」フーゴは苦笑した。
はバイクに跨り、ヘルメットを被った。おいで、と小さな体を抱き上げ、自分の前へ座らせる。子供の頭には少しだけ大きいヘルメットを被せ、自分の首に巻いていた赤いマフラーで包んでやると、あたたかそうに顔を埋めた。
シェフの作った誕生日ケーキは、振り落とされないよう後部席に紐を巻いて固定する。バイクのライトが点灯し、エンジン音が路上に響いた。
「あ、そうだ。お兄さん、これ見て」少年はポケットから何かを取り出した。
「これは?」ブチャラティが見る。
「お姉さんからもらったんだ」
「見たことのないキーホルダーだな」
「ああ、それね。それはお守り。イタリアじゃあ見慣れないかもね」が言った。
話によると、交通安全や安産祈願、健康第一などの厄除けや加護の願いをかたどっているのだという。イタリアにもお守りと呼べるものは存在するが、布製のを見るのは初めてだった。
少年は自慢げにそれを見せ、ポケットのなかにしまいこんだ。その隙にが耳打ちをする。彼の機嫌をとるために譲ってあげたものなのだ、と。フーゴとブチャラティは合点し、は微苦笑を浮かべた。
「それじゃあ、わたしたちはこれで」
「なあ、。しばらくはネアポリスへ留まるのか?」ブチャラティがを見つめる。
「うん。近くのホテルで宿泊するつもり。ゆっくりしたいからね」
の言葉にブチャラティが息をつく。どこか安堵に満ちているようにフーゴには見えた。
「でもまさか、こんな早くにブチャラティと会えるなんて思わなかった。お礼が遅くなってしまったけど、さっきは助けてくれて本当にありがとう」
「向こう見ずなところは変わらないな」
は小さく笑った。「あなたも元気そうでよかった。ちょっとだけ、心配していたから」
「きみも相変わらずで安心したよ。また旅の話を聞かせてくれないか」
「それは、もちろん」
はハンドルを握り、サイドスタンドを外した。
「今夜は本当にありがとう。ご馳走さま」
ヘルメットのシールドを被せ、はバイクを発進させた。二度目のバイクに興奮している少年と、宥めるの声が遠ざかっていく。残った二人は、その後ろ姿が交差点に消えるところまで見送った。
夜の静寂が訪れる。フーゴはポケットからキーを取り出し、付近に停めていた車へ乗り込んだ。ブチャラティもいつものように助手席へ向かう。
「今度こそ、アジトでいいんですね」フーゴはエンジンをかけながら少々強めに訊いた。
「ああ、真っ直ぐ帰ってくれ」
「まあ、ミスタたちよりはマシなご飯が食べられましたからね。別に怒っていませんよ」
他の車が走るのを気にしながら、フーゴは車を出した。ブチャラティはグローブボックスを開け、数枚のCDアルバムを取り出す。ジャケットの前後ろを何枚か確認し、選んだ円盤をオーディオにセットした。
車内に音楽が流れはじめる。ジャズミュージックを好んで聴いているブチャラティにしては珍しい曲を選ぶな、とフーゴは思った。
「あそこの店に行くのも久しぶりでしたね」
「そういえば、そうだったな」
「ただ、僕は車を回したらそのまま帰ったほうがよかったのでは? さんがお店で待っていると分かっていたのであれば、久しぶりに友人同士で二人きりに……といってもあの少年がいるから、それは叶わなかったんでしょうけれど」
フーゴは食事の光景を思い返していた。ブチャラティに車を振り回されてたどり着いた馴染みの店には、見慣れない女性と少年が待っていた。それを見たとき、一瞬でも『ブチャラティにはもう家族と呼べる者がいたのか』という予想が頭に浮かんだものだ。
しかしとは友人関係にあると聞いた途端、安心よりも先に違和感を覚えた。
友人にしては互いの距離が近い――と。
物理的な距離ではなく、心の距離の話だ。フーゴがブチャラティの傍でギャングの世界に入ってから、三年が経とうとしている。ブチャラティはその身格好と優しさ、知的な雰囲気で、異性からも注目を浴びているのは承知だった。
ところが、彼はこれまでに特別な女性を作るようなことはしなかった。フーゴが見ていない間に一時的な関係を繋いでいたのかもしれないが、そんな雰囲気を彼から感じたことは一度もない。だからこそ今夜のとの距離に、フーゴは驚いた。
「楽しくなかったか? はお前から見ても綺麗な女だと思うんだが」ブチャラティは後部席から雑誌を取り、適当なページを広げて読みはじめる。
「ええ。チャーミングな方だと思いましたよ」
「それなら、今度会ったときに伝えてやればいい。褒められ慣れていても、女は喜ぶ」
「僕ではなくて、あんたが言ったらどうです?」
「オレが?」
ブチャラティは指の動きを止め、ちらりとフーゴを見た。車も赤信号に捕まり、ウインカーの左折する合図がやけにうるさく聞こえる。
視線を雑誌に戻すと、男性の好むシルバーのバングルが並んでいた。こういった系統の雑誌を読むのはミスタだろうか、などと考えていると、紙面が隙間風で捲れた。
「らしくないですね。それとも本当に分かってないんですか?」
ブチャラティは黙っている。
「……まあ、いいですけど」
一曲目が終わる。次のトラックは、少々しっとりとした曲調。やはりブチャラティがいつも聴くような音楽とはジャンルが違う。
信号が青く点灯し、アクセルを踏む。ブチャラティは依然として沈黙を保っていた。運転のために隣の上司の表情は伺えないが、今までにない雰囲気を肌で感じている。
「……そういえば。いま入れた音楽はブチャラティの好みですか? いつもと違いますね」
ついに聞いてしまった。
現在乗っている車は他のメンバーも利用しており、彼らの私物もどこかに転がっている。基本的に後部席に散乱しているチョコレート菓子や男性向けの雑誌はナランチャとミスタのものだ。アバッキオが車内に何かを持ち込むことは少ない。
ブチャラティは雑誌を閉じ、助手席側のパワーウインドウのスイッチを押した。ゆっくりと透明の窓が降り、夜風が酒で火照った身体を冷やす。
「オレの好みではないな」
「じゃあミスタですか? でもミスタはもう少しアップテンポな曲が好きですよね」
「いや、チームのやつらのじゃあない」
フーゴは横目でブチャラティを見た。
「の、好きな曲だ」
本人は無自覚なのだろう。発した言葉がいったい何を意味しているのか、解っているのだろうか。
いや、解っていたらこんなことは言わない。