「ミスタか? ああ、オレだ。ブチャラティだ。悪いんだが、今晩はそっちの三人で適当に食べてくれないか。……ああ、そうだ。違う。別に二人で豪華なものを食べるってわけじゃあないさ。……そうだな。そうしてくれ」
通話を切るブチャラティの前に車が止まり、フーゴが軽く顔を見せた。乗ってください、と助手席の扉を開いて促され、それに従った。
「それで、どこへ行けばいいんですか?」
「この道の先、交差点を曲がった先だ」
「……? 分かりました」
隣でフーゴが軽く首を傾げたが、ブチャラティは何も言わずに窓の外を眺めた。
フーゴが疑問に思うはずだった。この先の交差点を曲がった先ならば、わざわざ車を回す必要はない。そして賢いフーゴなら想像しているだろう。交差点を曲がった先には、行きつけのトラットリアがあるということを。話題を思いつく前よりも先に、車は交差点を右折していた。しばらく走れば、見慣れた看板が見えてくる。フーゴは付近に車を停め、キーを抜いた。
「ミスタたちが先にいるんですか?」
車を降りたブチャラティを追い、フーゴが隣を歩く。
「いや、あいつらはいない」
「えッ。じゃあ僕らだけってことですか」
「『こっち側』はな。とにかく入ってくれ。詳しい話は飯を食べながらでも遅くはない」
店に入ると、料理の済んだ皿を両腕に抱えているウエイターと目が合った。やってきたブチャラティとフーゴの姿を確認すると、彼は抱えている皿を厨房へ運んだあと、エプロンの皺を直しながらやってきた。賑わうテーブル席を横切り、廊下を歩いて個室へ向かう。普段なら見知った面々がテーブル席を占領しているのだが、今日はひとりもふたりも違う顔が着席している。
部屋へ入ってきた二人を見て、が椅子から腰を浮かせた。
ブチャラティが手で制する。「座ったままでいい。オレたちは偉い人じゃあないんだ」
が浮かせたままの腰を椅子へ戻した。
「フーゴ、お前は彼女の向かいの席へ」
「わかりました」
ブチャラティとフーゴが着席すると、ウエイターは注文を聞かずに去っていった。部屋の扉が閉まる音がオーディオのスイッチのように、店の雰囲気に合わせた音楽が空間を静かに支配していく。
ブチャラティの正面には、先ほどの少年が座っている。から「頼んでもいい」と言われたのだろう、鮮やかなフレッシュジュースの入ったグラスは半分ほど減っている。フーゴの向かいではがミネラルウォーターを飲んでいた。
この状況を理解していないフーゴが、たちを見ながら、どなたですか、と耳打ちする。
「人だかりの中心にいた二人だ」
「人だかり? ああ……」合点した様子でフーゴが頷く。
「あの後はどうなったの?」が訊いた。
「どうやらあの男は、警察の追っている連続強盗だったようだ。パトカーといっしょに救急車も来ていたが、傷はそこまで深くないそうで、搬送はされずにそのまま連行されたよ」
「そう。連続強盗、ね」は考える素振りをする。
ブチャラティは少年を見やった。目が合った少年は飲みかけのジュースから口を離し、ぺこりと小さな頭を下げた。
「状況は掴めました。しかしなぜブチャラティがこの方々のために場所を設けたんですか?」
「彼女は……オレの古い友人だ」
「友人? は、初めて聞きました……」
「はじめまして。わたしは――ああ、ここでは・かな。よろしくね」が手を伸ばす。
フーゴはそれを掴んで軽く上下に揺らした。「パンナコッタ・フーゴです。さんは日本人ですよね。イタリア語がとてもお上手だ」
「グラッツェ。小さい頃からイタリア暮らしで、ブチャラティともネアポリスで会ったの」
「では、我々の素性をご存知なのですね」
は黙って頷いた。言葉にしないのは、傍に少年が座っているからだろう。さすがに子供が聞く前でギャングである自分たちの身分を明かすことはできない。
「ブチャラティとはいつからお知り合いで?」
「ブチャラティ、今年でいくつ?」が訊く。
「今年の九月で二十一だな」
「わたしが早生まれで十四の頃だったから、五、六年前かな……。と言っても、わたしは私情でしばらくネアポリスを離れていたから、こっちへ戻ってきたのはつい最近なの。だからこうやってブチャラティと会うのは二年ぶり――になるのかな」
扉が開き、入室したウエイターがブチャラティとフーゴの前にワイングラスを置いた。ブチャラティのグラスには赤ワインが。フーゴのグラスには白ワインが静かに注がれていく。規則正しい波紋を描く水面を、少年が興味深そうに見つめている。
「何か頼みましょうか」がメニューを開く。
少年は絵本でも見るかのように覗き込んだ。向かいの席のブチャラティからも、小さな指が紙面の料理を行き来しているのが見える。
「ブチャラティたちはなにか頼む?」が顔を上げて訊いた。
「オレはピッツァが食べたいな」
「ぼくもです。あと、オリーブもあれば」
「それなら、お皿で分け合ったほうがいいかもね。わたしは食後にピスタチオのジェラートも食べたいな」
「では、今言ったものをすべてもらおう」
ブチャラティが指を立てると、ウエイターは会釈をして扉の奥へ消えていった。
再び訪れた静けさ。ブチャラティはジュースを飲み干した少年を見る。
「とにかく、きみの問題を解決していこう。子供を長居させるわけにもいかない」
少年はストローから口を離し、ナフキンで口周りを拭った。
「あの、話す前に……。訊いてもいいですか?」
ブチャラティは無言で肯定を示した。
「どうしてお兄さんやお姉さんは、僕を助けてくれたんですか? あの場所には大人がたくさんいたのに、誰も僕に味方してくれなかった。目が合っても知らん顔をされて、殴られても蹴られてもただ悲鳴を上げて騒ぐだけで、手を差し伸べてくれやしなかった……。それなのに、あなたたちは僕を助けてくれました。どうしてですか?」
少年の質問に、がブチャラティを見た。ブチャラティも彼女に視線を投げるが、すぐに横を向く。
「大人が子供を助けるのは当然だ」
「当然?」少年は首を傾げた。
「困っている人を見かけたときはどうするか、両親から聞かされていないか?」
「助けてあげなさい、って……」
ブチャラティは頷く。「けれどもだ。どんなときだって状況というものがある。先ほどのような男が暴れていたら、例え子供が殴られていようが、蹴られていようが、自分は関わりたくないと思う者もいる。自分の身を自分で守ることは決して間違いじゃあない。きみを見捨てるように通り過ぎていった大人は、きみを助けなかったのではなく、助けられなかったのさ」
ブチャラティの言葉に、少年はまだ理解できていない表情を浮かべている。
「少なくともきみの前にいるこの人は、一方的に殴られたり蹴られたりしている子供を、黙って見過ごすような人間ではないってことだよ」フーゴが言った。
「じゃあ、お姉さんは?」少年がを見上げる。
「え、わたし? わたしは……」
は腕を組みながら考え込んだ。
「わたしはお兄さんみたいに強い正義感を持っているわけではないけれど、大人が子供を助けるのは当然。彼と気持ちは同じだよ」
少年は目を瞬かせた。しばらく考える素振りを見せ、納得した様子で頷く。
「まだ、なにか不安かな?」が訊いた。
「ううん。ただ、みんなに言い忘れてた。ディ・モールトグラッツェ」少年は笑顔を浮かべた。
ブチャラティを含め、やフーゴも、少年の眩しい表情につられて笑みをこぼした。
「ところで、実は僕、母さんへの誕生日ケーキを用意してもらっていたんです。あの大通りのお店で」
「確かあの店は、人気のプディング以外にお祝いケーキも扱っていますからね」フーゴが言う。
少年は浮かない顔でため息をついた。「僕がお店を出ようとしたときです。さっきの男の人がケーキの入っている箱を突然取り上げて、地面に叩きつけて……」
少年の証言を聞きながら、ブチャラティは考えた。あの大柄の男は、警察が追っていた連続強盗の犯人だった。元から横暴な性格であったことは確かだが、他にも気になる点がある。
彼の身体には、不思議な痕があった。それは殴られたり傷つけられたようなものではない。麻薬を使用した者の身体に浮かび上がる証拠のような痕だ。あの男は重度の麻薬依存者だった。
ネアポリスで麻薬を売り捌いているのは、他でもないパッショーネだ。小さな子供の手に現物こそ行き渡っておらずとも、こうして実際に麻薬依存者の矛先が向けられている。少年が被害に遭ったのは、組織の責任といっても過言ではないのだ。
やはり、どうにかしなければならない。
「ブチャラティ」
名を呼ばれ、ブチャラティは思考を止める。
「大丈夫? なんだか考え込んでいたみたいだけど」が心配そうにこちらを見ていた。
「ああ、すまない。大丈夫だ。きっと二日連続でワインを飲んじまったせいだろうな」
「そう。あんまり飲み過ぎないようにね」
扉が再び開き、先ほど注文した料理が運ばれてくる。規則正しい配列で並ぶトマトと生ハムのシーザーサラダ。テーブルの中央にはピッツァ・マルガリータが。その脇には小瓶に詰まったオリーブ。取り分け皿と共にやってきたのは、少年が頼んだきのことアサリのパスタだ。
ウエイターが去ると、今度は店のオーナーシェフがワゴンを引いて来た。その上には白い箱が置かれている。両手で持たなくてはならないほどの大きさだ。
「ブチャラティさん。頼まれたものは、こちらでお間違いないでしょうか」シェフが言った。
「オレよりも少年に訊いてみるといい」
「え?」少年は首を傾げた。
シェフが少年の前にしゃがみ込む。「彼から、きみへのプレゼントだ」
少年は不思議そうに椅子から立ち上がり、白い箱の蓋を上へゆっくりと持ち上げた。そして中から姿を現した正体に、感激の声をあげた。
入っていたのは、少年が腕を広げてやっと追いつけるほどの大きなホールケーキだった。色とりどりの季節の果物がふんだんに使用され、中心に飾られているチョコレートプレートには、美しい字体で誕生日を祝う言葉が書かれている。
立派なケーキを見て、やフーゴも立ち上がって覗き込みに行く。
「わあ、とっても素敵なホールケーキ。この短時間でこれだけのものを作れるなんて……」
「大きな声では言えませんが、あの店よりも立派なものですよ」フーゴも頷く。
シェフは額の汗を拭いた。「いやあ、ブチャラティさんから電話をいただいたときは正直焦りましたよ。一時間以内に誕生日ケーキを用意してくれ、だなんて。間に合ってよかったです」
「そいつはすまなかった。どこかの誰かさんに『このお兄さんが何とかしてくれる』とか言われたもんで」
「ごめんなさいね」どこかの誰かさんが言った。
ブチャラティは椅子を離れ、蓋を持ったまま動かない少年に目線を合わせた。少年は依然として嬉しいながらも信じられない、という表情を浮かべており、ケーキを見てはシェフを、そしてブチャラティを、とあちらこちらへ目を泳がせていた。
「これだけ立派なケーキなら、きみの母親もびっくりしてくれるだろう」
「お兄さん、いったい何者なの?」
「それは、オレときみの秘密だ」
「秘密なの?」
「子供は訊いたらなんでも答えてもらえると思っているらしい」ブチャラティが苦笑する。
「どうしたら教えてもらえる?」
「もう少し大人になったらな」
「大人って、いつからが大人なの?」
「はい。そこまでにしましょう」
いつまでも続きそうな会話にフーゴが手を叩いた。
「せっかくの料理が冷めてしまいますよ。ケーキは冷蔵庫で冷やしてもらいましょう」
それもそうだ、と少年はブチャラティに掴みかかりそうになっていた腕を引っ込めた。フーゴに背を支えられ再び椅子に戻る。シェフはケーキを箱の中に戻し、ワゴンを押して部屋を後にした。
残りの二人も着席し、ブチャラティは用意されているナフキンを掛けた。
「乾杯でもしましょうか」
ブチャラティと、フーゴはワイングラスをかちんと合わせた。一人だけノンアルコールである少年は乾杯に参加できず、その素振りをするだけだったが、ブチャラティが少年のほうへ腕を伸ばし、グラスを小さく鳴らす。少年は嬉しそうに笑った。