フーゴが運転する車は、ネアポリスの駅前付近を走っていた。直線の道を進み、その先の交差点でハンドルを右へ切る。暗闇を抜け、ようやく外灯が照らす大通りに出た。ピッツェリアで賑わう様子や、バールで仕事帰りのカッフェを堪能している人々の姿が見える。
「今日は比較的早めに仕事も終わりましたし、久しぶりに外食にしませんか」
「ああ。そうしようか」
「ナランチャ。僕が言っておいた範囲をちゃんとやっているんだろうか……」
フーゴはぎゅっとハンドルを握る。
「最近、なかなか先へ進めなくなってしまったんですよ。どうしてあんな簡単なことが覚えられないのか不思議でなりませんね」フーゴはため息をつく。
「人それぞれペースってもんがある。あいつに勉強を教えられるのはお前くらいだ」
「あんたにそう言われちゃあ、僕も途中で投げ出すわけにはいきませんね」
フーゴの意志を確認したところで、ブチャラティは携帯電話を取り出す。アジトで留守を任せている三人に夕飯の場所を相談しなければならない。電話に出やすいのはナランチャだろうか、とプッシュボタンを押そうとしたときだ。信号につかまる前に、車のスピードが緩んた。
「どうした?」ブチャラティが訊いた。
「あ、いえ。人だかりができているなあ、と」
人だかり。フーゴが見つめる先を追うようにブチャラティも視線を送る。確かに歩道には人が集っていた。赤信号で立ち止まっている歩行者も、気になる様子で同じ方向を見つめている。
「あそこは確か、プディングで評判のドルチェリアか」
「はい。なんでも毎日数量限定で、昼前には売切れてしまうほど人気だそうですよ」
「行列ができているわけではなさそうだな」
「まあ……いまはもう店じまいの時間ですからね」
車内のデジタル時計は午後の七時を指している。
「珍しいな。こんな大通りで――」
ブチャラティの言葉はそこで途切れた。いや、奪われたといったほうが正しかった。
車の横面を通り過ぎていった一台のバイク。イタリア国旗にも似た赤いマフラーを首に巻き、ライダースーツを羽織っている。ヘルメットの隙間から覗いている濃色の髪には、異国を思わせる艶があった。
一瞬にしてブチャラティの視界を奪ったその運転手は、店の前の人だかりを見つけたようだ。スピードを落とし、道の隅に停車する。
ヘルメットを取った横顔を見つけた瞬間、ブチャラティの中で何かが跳ねた。
「そういえば、ブチャラティ。ミスタたちに連絡つきましたか? 今ならきっと空いてるよ」
「……見間違いか?」
「え?」
「いや、見間違えるはずがないんだ」
「ブチャラティ?」
「フーゴ。車を適当な場所へ停めておいてくれ」
ブチャラティはスティッキィ・フィンガーズで車体にジッパーを作り、強引に降りた。中からは聞こえなかったが、人だかりの中心からは諍う声が飛び交っている。ブチャラティはそれよりも先に、先ほどのバイクを見に向かった。
運転者の姿はない。辺りを見渡すも、頭の中で浮かび上がっている人物はいなかった。
ブチャラティは本革を施された座席にそっと触れる。微かだが、香水の匂いがする。
細やかな装飾の特徴的なデザイン。毎日のように手入れされているではあろう、磨きぬかれたボディ。ヘルメットには持ち主の趣向が窺えるようなデザインシールが貼られており、ハンドルに吊るされている。
このバイク、間違いない。彼女のものだ――。
しかし、肝心の持ち主はどこへ行った。ブチャラティは争う声のほうへ進んでいった。
「子供相手になんてことをしているんだッ」
「うるせえ。てめえは黙ってろ!」
「な、何をするんだッ」
「俺はいま機嫌が悪ィんだ。誰だろうと俺に歯向かうやつはぶん殴ってやるッ!」
激しい怒号をあげていたのは大柄の男だった。その剛腕は電柱さながら、顔は赤煉瓦のように四角い。顔面には絵で描いたような傷が走っている。一般人は決して近寄りたくない人物だろう。
鋭い目が注がれている足元では、まだ十にも満たないほどの小さな少年が頭を抱えて地面に伏せている。その体は小刻みに震えており、身に纏う服は路上のごみで汚れていた。何が起こったのかは一目瞭然だ。
「ごめんなさい。ちょっと通してください」
人が捌けていくなかで、ブチャラティの傍をライダースーツ姿の女が割って入ってきた。
やはり間違いない、彼女だ――。
女は少年と目線を合わせるように、片膝をついた。「きみ、だいじょうぶ?」
その問いかけに、少年はゆっくりと顔を持ち上げた。顔や体に傷がついているのにも関わらず、彼の顔に涙は浮かんでいない。女は褒めるように少年の頭を撫でた。傍らからハンカチを取り出して、少年の頬にできている傷口をやさしく押さえる。血で滲んだハンカチを少年に握らせ、彼の頭をもう一度撫でると静かに立ち上がった。
「どんな理由であれ、こんな小さな子供に大の大人が一方的に暴力を振るうだなんて」
「なんだ、お前は。この餓鬼の連れか?」
「この子に謝りなさい」女は男に言い放った。
彼女の台詞にギャラリーがざわつく。
謝罪を求められた男は一瞬、呆気に取られたようだった。しかしすぐにその顔は丸めた紙のように崩れ、大通りに響き渡るほどの大音声で笑いだした。
哄笑に紛れて、ブチャラティも思わず小さく笑ってしまった。
男の言動ではなく、女のほうに。
「おかしなことを言う女だ」男は女の胸倉を掴んだ。
女は一瞬だけ苦しそうに顔を歪めたが、特に抵抗は示さない。
「どうして俺が謝らなくちゃあならないんだ? 俺はこの餓鬼にズボンを汚されたんだぜ。このズボンはヴィンテージもんなんだよ。もう手に入らないんだよォ! そんな貴重なものを、誰が使ったかも分からねえコインランドリーで洗濯しろってえのかッ?」
男の言う通り、ズボンには白いクリームがべったりと付着していた。目線を下に滑らせると、地面には四角い箱が落ちている。それは歪な形で崩れており、すぐ傍にはチョコレートプレートが転がっていた。綺麗に書かれた誕生日を祝う文字が、真っ二つに割れている。
「俺が上機嫌で歩いてたら、この餓鬼がそこの店から急に飛び出してきたんだ」
そこの店とは、既にシャッターで閉ざされているドルチェリアのことだろう。
「人とぶつかった上に人のズボンを汚すような餓鬼には、これくらいしてやらねえとな。将来そいつが大人になったときに困るってもんよ」
男の言い分を聞いてから、女は少年を見る。「この人が言っていることは本当なの?」
少年は激しくかぶりを振った。「違うっ。僕はいつも母さんから道を歩くときは右と左を見て、最後に右を見てから歩くようにしなさい、って言われてるんだ。僕にわざとぶつかってきたのはこの人だよ!」
プッツン――男の血管が切れる音が聞こえた。胸倉を掴んでいた女を突き飛ばし、怒りに任せて少年へ掴みかかろうとする。それを制したのは、怯まない女の腕だ。彼女は男の腕を掴み、腹に蹴りを入れる。しかし振り上げた足は捕らわれた。
「見た目にそぐわず、足癖の悪い女だな」
「ごめんなさい。咄嗟に出てしまって……」
そんなことよりも、と女は唇を舐める。
「この状況で誰が本当のことを言って、嘘を吐いているか。子供でも分かると思わない?」
「しつけえなァ。俺はお前みてーな、強情で見栄っ張りな女が大嫌いなんだよ」
「それはよかった。わたしもあなたのような下品で知性の欠片もない男性はとても苦手なの」
女は捕まっている足を軸に、もう片方で男の体を横から殴るように蹴った。それとほぼ同時に反対側からブチャラティの蹴りが入る。二人分の衝撃で巨体はその場に沈み、ブチャラティは振り返った彼女と目が合った。
視線が絡み合った瞬間、女は目を丸くさせる。予想通りの表情にブチャラティは一笑する。
「久しぶりだな、。二年ぶりか」
「あッ、あなた。まさか……ブチャラティッ?」
「戻ってきたのなら連絡くらいしてくれてもいいじゃあないか。……いや、待てよ。オレたちはお互いの連絡先を知らないんだったな。それなら仕方ない」
話し合っていると、男がゆらりと起き上がった。が咄嗟に身構えたが、ブチャラティは彼女を自分の背中に隠す。男は既に我を忘れているようだった。
この感覚――前にも何度か感じたことがある。
蹴られた部分を押さえながら再び襲いかかってくる赤煉瓦を、ブチャラティは自らの拳で打ちつけた。男の顔面はぐしゃりと潰れ、辺りに鼻血が舞った。地面に倒れ込む男へにじり寄りながら手首を鳴らす。
「お、俺に近寄るな……!」男は後ずさる。
「汚い口を開くんじゃあねえ。オレのスーツに唾がついちまったらどうしてくれるんだ」
スティッキィ・フィンガーズで男の口を塞ぐ。
「これ以上騒ぎを大きくしたくない。黙ってくれ」
そう言うがつかの間、遠くから複数のサイレンが聞こえてきた。一連を見ていた者が通報したのだろう。警察か救急車か、もしくは両方か。どちらにしても、この場所に留まっていれば面倒ごとに巻き込まれてしまう。ブチャラティはと少年へ振り返った。
「積もる話はあとにしよう」
「積もる話はあとにしましょう」
ほぼ同時に発した台詞に、ブチャラティとの二人は思わず吹き出した。
「、きみはその少年をバイクに乗せてやってくれないか。オレも連れと合流したらすぐに追いかける。この道の先の最初の交差点を右へ曲がったところにトラットリアがある。オレの名前を言えば個室へ案内してくれるはずだ。そこで待っていてくれ」
「了解」
は頷き、少年に手を伸ばした。
「きみはわたしといっしょに来てくれる?」
「う、うん……」
少年はの手を掴んだが、地面に転がっている白い箱から目を離さない。崩されてしまったケーキ。割れたチョコレートプレートは、まるで今の少年の心を形にしているようだ。
「だいじょうぶ。あなたのプレゼントは、ここにいるお兄さんがなんとかしてくれるから」
がブチャラティのほうを見て微笑む。
「そうなんでしょう。ブチャラティ」
突然の振りにブチャラティは少々呆気に取られそうになったが、迷わず頷いた。
少年にヘルメットを装着させ、も同様に運転席に跨り、シールドを被せて発進した。間もなく警察が到着する。ブチャラティは二人を見送ったあと、ポケットから携帯電話を取り出した。呼び出し二秒でフーゴは出た。
(ブチャラティですか。今、車を停めましたよ。僕もこれから向かいますね)
「ああ。すまない。そのことなんだが」
(なんですか?)
「今すぐ車を出してくれないか」
電話の向こうでフーゴが深いため息を吐くのを、ブチャラティは責められなかった。