雨のあがったネアポリスの夜。刑務所から出てくるブチャラティの姿があった。決してギャングとしての立場を戒めるために出頭したのではなく、幹部のポルポに任務完了の報告をしに訪れただけである。
ポルポとの話は予想以上に簡単に済み、ブチャラティはアジトへ向かおうと足を進めた。
その時だ。ポケットの中で携帯電話が震えた。この番号を知っているのは、チームの一員と信頼できる者だけだ。今のタイミングで掛けてくるのは恐らく前者だろうと踏んでプッシュボタンを押した。
(ブチャラティ。今ワインバーに来てるんだが、いっしょにどうだい?)
電話を掛けてきたのは、レオーネ・アバッキオだった。
「前に連れて行ってくれた所か」
(ああ。オレだけじゃあねえぜ。他の三人も来てる。今日は美味いワインが入ったんだとよ)
「そういう事なら参加しないわけにはいかないな。これから向かおう」
携帯電話をしまい、ブチャラティは件のワインバーへと向かった。
ネアポリスにある店のいくつかは、ブチャラティが介護料として押収している。最初こそ揉め事が耐えなかったが、最近は従業員からも信頼を寄せられるようになり、気に入った店では特別なサービスを受ける事も少なくはない。今回のワインバーも同様だ。ワイン好きのアバッキオの行きつけで、ナランチャがワインやビールといった酒が飲めるような年齢になったときも、その店で大いに祝ったことを思い出す。ブチャラティは普段はあまり顔を出さないが、気分によっては月に一、二度訪れている。ワインのためというのは勿論、その店に客が集まる理由はもう一つだけある。
地下階に続く階段に飾られているネオンサイン。店の前には若い女がブチャラティを待っていたかのように立ち並んでいる。その中の一人が歩み寄り、スーツに腕を絡めた。
「ブチャラティ、久しぶり」女が言った。
「アバッキオたちが来ていると聞いたんだが」
「ええ、来てるわよ。わたしがお店まで案内してあげる。着いてきてちょうだい」
女は腕を絡めたまま、ブチャラティを店の中へ案内する。初めてこのワインバーに訪れる男にとっては胸がときめく状況だが、彼はもう慣れている。
店外のネオンのきらめきとは裏腹に、中は静かな雰囲気を醸している。カウンターでワインを選んでいる店主と目が合った。
「そのお方は奥のお席へ」
「分かったわ」
女は腕を組んだままブチャラティを奥へ連れて行く。テーブル席には電話を寄越してきたアバッキオが座っており、その傍らにはフーゴ、ミスタ、ナランチャがいた。ミスタとアバッキオの周りでは、若い女が彼らの酒を酌み返しており、フーゴとナランチャは少し離れた場所で自由にグラスを傾けている。
「よお、ブチャラティ。これからワインを開けようと思ってたところだ」アバッキオが言った。
「タイミングがよかったな」ブチャラティは空いている席へ座った。
同時にアバッキオやミスタに集まっていた女が、ブチャラティのほうへ寄ってくる。久しぶりに会えて嬉しい。髪形を変えてみた。最近恋人が素っ気ないから慰めてほしい――。メニューを広げながら寄り添ってくるのを一人ひとり応えていく。
この店で働いている女は美人ばかりだ。露出の激しい服を着ているわけでもなく、身なりは上品で煌びやかである。自分の美しさのために少なくない金をかけていても、ブチャラティは彼女たちに悪い印象を抱いたことは一度もなかった。
何度目かの乾杯が行われる。アバッキオから聞いたとおり、新しく入ったワインは格別に美味い。本来のワインと比べアルコール度数の少ないそれを、ブチャラティは早いペースで飲み返していく。
「あらあら、ブチャラティ。そんなに飲んで大丈夫?」金髪の女が訊いてくる。
「美味い酒の傍に良い女がいるんだ。こういうときに飲んでおかなくちゃあ勿体ない」
女はほんのりと頬を赤らめる。「ねえ、今夜はこのあと空いてる? よかったらわたしと――」
いっしょに過ごさないか、と言おうとしたのだろうか。そんな彼女の言葉は、他の女の横入りによって遮られた。ブチャラティの周りでは、今夜はわたし、という言葉が飛び交い始める。
激しい戦いからいち早く逃れている者は、アバッキオらの元へ逃げている。その先でも別の口論で火花が散っているようだが、アバッキオはただ黙り、時々窘めるように肩を優しく抱いている。ミスタも纏わりつく女を順番に宥めていた。ナランチャは言い寄られている、というよりは談笑している様子だ。
「僕もおはなしに混ざっても?」
見上げた先にいたのはフーゴだった。彼がブチャラティの隣に座れるよう、集まっていた塊が避ける。十分と言えるほどの空間にフーゴが座り、ブチャラティと自身のグラスを鳴らした。
「お疲れ様です、ブチャラティ」
「お前がこういう店に来るのは珍しいな」
「そうでもないですよ。ここのワインは美味しいですし、女性も綺麗な人ばかりだ。まあ、ミスタみたいに囲うようなことはしませんけど」
フーゴの視線の先では、まさに両手に花のミスタがソファーに座っている。
「僕がこの店に来たのは、ちょいと気になる話を耳にしたからなんです」
「気になる話?」
「聞いていませんか? フィレンツェで別のギャングチームが潰された話を」
フィレンツェはトスカーナの州都だ。イタリアの観光地として、ローマ、ヴェネツィア、ミラノと合わせて四大都市と呼ばれている。このネアポリスからは鉄道で二、三時間ほどの距離にあり、ルネサンス文化の発祥の地でもある。アカデミア美術館やウフィツィ美術館を初め、世界的に有名な美術館が建ち並ぶ景色は、ベルギーにあるブルージュの景色を例えた『天井のない美術館』そのものだ。州の南部では、ワインなどの原料となるぶどう畑が広がっている。いわゆる、田舎町だ。イタリアと聞けば立派な美術品や建築ばかりを連想するだろうが、そんなひっそりとした町を訪れる観光客も増え続けているのだという。
「確か、銃撃戦があったそうだな」
フーゴから聞いた話は、ブチャラティの耳にも既に届いていた。自分の所属している組織は関わっていなかったとはいえ、ギャングが襲撃に遭ったと聞いては簡単に横へ流せない。一通り調べた結果、三月に入る前にはその事件を知ることができた。
「そうです。幸いにも、パッショーネの構成員は被害に遭わなかったそうですけど」
「この辺りではそんな命知らずは中々いないからな」
「一、二年前はいましたけどね」
ブチャラティがネアポリス地区を担当しているように、組織の構成員はイタリア中に配属されている。一人でも攻撃されれば、身内の落とし前をつけるため、幹部からの指令で動き出すのはよくある話だ。
ブチャラティの記憶が正しければ、事件の起きた地域はパッショーネの縄張りではない。逆に考えれば、今回襲われた組織はフィレンツェの小さな田舎町にしかシマを囲えないほど力が弱かったのかもしれない。
「ギャング同士の潰し合いではなかったらしいな。相手の正体は不明だが、その町を仕切っていたギャングチームは比較的温厚で、恨みを買われるようなことはしていなかった」ブチャラティが話す。
「目的が不明なところも含めて、少し妙だな、と。ブチャラティはどう思いますか?」
「珍しい話でもない。ギャング以外にもヤバいやつらは世界中にいるからな」
「ただ分かるのは、相手は複数の可能性が高いって事だ。小さなギャングチームといえど、一晩で壊滅まで追い込まれたってことは、計画性もあったと考えられるが、あんたはどう思う? ブチャラティ」
最後の台詞を言ったのはブチャラティでもなければ、フーゴでもない。声のほうを向けば、アバッキオがいた。途中から話を聞いていたようで、グラスを傾けながらブチャラティの向かいのソファーへ座った。
「不思議な話ですね。田舎町とはいえ、ギャングでない者がギャングを襲うだなんて」
「機会を窺っていたとすれば、内通者がいたか、情報収集に長けているやつがいたか……って、なんで他のギャングがやられたことについて話し合ってんだ?」
「他人事ではないから、かな」フーゴが答える。
「それに、近頃この辺りにはスタンド使いが増えてきているという話も挙がっている」
ブチャラティがそう言うと、フーゴとアバッキオが同時に視線を向けた。
これは先ほど刑務所でポルポから聞いた話だ。パッショーネに所属する者も含め、ネアポリスでは現在スタンド使いが集まってきているという。
スタンド使いは選ばれた者と、選ばれた精神力の数だけ存在する。その一部がネアポリスに集まりつつある。ポルポの話を聞くと同時に、今回の事件も頭に浮かんだのだった。
今は静かな風だが、いずれは大きな嵐となるかもしれない――。
「用心に越したことはない。今後も気になる点があれば教えてくれ。迅速に対処しよう」
「分かりました」フーゴが頷く。
「とりあえず、今はせっかく美味い酒があるんだ。堅い話はなしにしよう」
「そうですね。いただきます」フーゴは苦笑を浮かべながらワイングラスを持った。
テーブル席に料理が運ばれ、匂いにつられてミスタたちが集まっている。どうやらブチャラティが訪れる前に注文していたようだ。
女たちが皿へ取り分けるのを横目に、ブチャラティはピスタチオを口へ運ぶ。普段よりも早いペースで空になったグラスへ、アバッキオがワインを注ぐ。綺麗な音を立てて波紋を描いたそれを再び口に含んだ。
「しかし本当にうまいな。どこの酒だ?」
「フランスのワインだ。これは一級品だが、最近じゃあ安いワインでも美味いんだぜ」ボトルの側面部を見ながらアバッキオが言った。
「そうか。それなら今度、お前が気に入っているワインを選んできてくれないか」
「飲むような相手がいるのか?」
「さあな」