ドリーム小説 01

「さよならだ」
 今、世界の人口がひとり減った。それを聞いてどんな状況を想像するだろうか。遺体を発見したとき。人を殺したとき。感覚は人それぞれだろうが、この場に該当するのは後者だった。
 二〇〇一年三月一日、午前三時。場所はイタリアのネアポリス。窃盗や殺人、強姦などの事件が多発する街として知られているが、景色の美しさから年々観光客も増え続けている。特に高台から眺める景観は、世界でも一、二を争う。
 そんなネアポリスの街にも、裏の世界はある。
「裏切り者は助からない。それはお前がよく知っていることだ。そうだろう、フーゴ」
「まるで僕が裏切ったような言い方ですね」
「戒めみたいなもんだ。組織を裏切った者は決して助からない。この世界にいる限り、な」
 郊外から更に少し離れた場所に位置する廃業倉庫。塗炭の古びた壁には赤黒い液体が上から下へと流れ落ち、横たわっている男の体にはジッパーのようなものが縫い付けられている。
 その引き手部分をブローノ・ブチャラティの右手が掴む。縫い目に沿って開いていけば、体は真っ二つに割れ、鼓動を刻んでいる心臓がむき出しになった。徐々に収縮を弱めていく心臓にジッパーを縫いつけ、とどめを刺すように引き裂く。
「ブチャラティ。遺留品を回収しました」
「見せてくれ」胸ポケットからハンカチを取り出し、付着した血液を拭き取る。
 パンナコッタ・フーゴは腕に抱いているものをブチャラティへ見せた。遺留品は三つ。既に封が開いている煙草が二箱。ビニール生地のポケット灰皿。控えめに刺繍が施されたシルク生地のハンカチが一枚。
 特に変わったものはない。どれもがらくたのようなものだ。ブチャラティはそのすべてを処理しておくようにフーゴへ命じた。
 スティッキィ・フィンガーズ――まじないを唱えるようにブチャラティが呟く。二つに割れた遺体の傍で地面に割れ目を作る。それはいったいどこへ繋がっているのか。真っ暗闇の異空間へ遺体を放り込み、ジッパーを閉じた。縫い目は、完全に形を消した。
「任務は完了した。幹部のポルポへは後日、オレから報告へ向かう。車を出してくれ」
「わかりました」
 がらがらと鉄の扉を開き、その隙間から外へ駆け出したフーゴの背中を見送る。一人になったブチャラティはゆっくりと息をついた。廃業倉庫には自分以外は誰もいない。静かなため息だけで支配できてしまうような虚しい空間だな、と改めて思った。
 遠くの空で雷が低く唸っている。その音を聞き、今朝の天気予報で朝方にかけて大雨が降ると報道していたことを思い出す。そう、三月初旬は出だしの悪い雨が続くのだ。これから暖かい春がやってくるというのに、幸先の良くない空模様だった。
 一人考えていると、外で車のクラクションが鳴った。フーゴが車を出してきてくれたようだ。
 その時、背後から月の光が入り込んできた。雲に隠れていたのだろうか。ブチャラティは光の筋の先を見上げる。よく観察してみれば、倉庫の天井は月が見えるほどの小さな穴が開いていた。
 そして月の光が強い理由が分かった。今夜は綺麗な満月だった。微かだが、星も輝いている。
 ――久しぶりだな。こんな風に空を見たのは。
 こんな澱んだ空気の中で生きている世界でも、星は見えるんだな、とイタリアの空を思う。
 詩人のようなことを考えている自分を咎めるかのように、クラクションが再び鳴った。ブチャラティは急ぎ倉庫を後にして車に乗り込んだ。
「さすがにこれから刑務所へ行くわけにはいきませんね」フーゴが苦笑する。
「当たり前だ」
「じゃあ、ひとまず帰りましょうか」
 フーゴはハンドルを握った。
「僕は自分の持ち場へ戻りますけど、よかったら送っていきましょうか。あなたの自宅まで」
「ああ、頼んでもいいか」
 ブチャラティの家はネアポリスの郊外、つまりこの付近にある。フーゴはヘッドライトを点け、車を走らせた。ブチャラティは助手席で新聞を広げ、近辺で起きた事件や誰も目に留めないような小さなコラムにまで隙間なく目を通していく。特に変わった事はない。
 ふと、窓の外の景色に視線を移す。現時刻では人は見当たらないが、この辺りの町道は海の見える場所として人気だ。天気の良い日には、恋人同士が腕を組みながら歩いている。
 睦まじい男女を想像しながら、ブチャラティは思った。もしかすると、こういった若者の集まる場所でこそ、新聞に載っているような事件が起こりやすいのではないか、と。
 今に始まった話ではないが。イタリア内部で多発している事件といえば麻薬中毒者における犯罪行為だ。自分が一体何をしているのかさえ理解できないまま犯行に及んでしまう事件が後を絶たない。強姦、殺人、誘拐。挙げられる例はいくらでもあった。
 その麻薬に、自分が所属しているギャングチーム『パッショーネ』が加担している事を知ったのはつい最近のことだ。フーゴの調査も踏まえ、組織の動きを気に掛けるようになってから、ブチャラティは自分自身の心を疑い始めたのだった。
 しかし、その疑念は確信へと変わった。事実として我がボスは、忌まわしい麻薬に手を染めていた。今の状況がどれだけ心に矛盾を生んでいるか――この思いはブチャラティにしか分からないのだ。
「ブチャラティ、何か音楽でも流しますか」
「……お前の好きな曲をかけたらいい」
「そうですか? じゃあお言葉に甘えて」フーゴは片手ハンドルでオーディオを操作する。
 セットされたのはクラシックだった。ピアノと弦楽器の演奏が車内に満ち、小さなコンサート会場に訪れた気分になる。それに誘われるように、雨が降り始めた。最初は弱い粒だったが、次第に強まっていく。すかさずフーゴはワイパーを動かした。
「この雨、今夜だけみたいですね」
「ああ。夕方にナランチャが流していたラジオでも聞いたよ。日付を越すと共に止むってな」
「僕、雨の匂いって結構好きなんです。特にこういう、急に降りだした雨なんかは」
 直線の道を進み、見えてきた交差点でフーゴはハンドルを右へ切った。既に閉店している小さなリストランテの前を通る。その先にあるのがブチャラティの家だ。これまで通ってきた道と比べると傾斜も緩く、傍に海辺があるという立地の良い場所に建っている。
 フーゴは家の前で車を停め、後部座席に転がっている古い傘を手に取った。
「傘、持っていきますか?」
「いや、平気だ。走っていけば問題ない」
「分かりました。では、また明日アジトで会いましょう。今夜はゆっくり休んでください」
「ああ、そうするよ」
 ブチャラティは車を降り、腕で雨粒を避けながら玄関口まで駆けて行く。背後では車の遠ざかる音がした。フーゴが親切を利かせてくれたのか、雨にかかりにくいような場所に車を停めてくれたお陰で濡れ鼠にはならずに済んだ。髪の毛やスーツについた水滴を払い、家の鍵を取り出して扉を開いた。
 壁伝いにスイッチを見つけ、明かりをつける。そのままソファーに座りたいところだが、まずは体を洗い流したい。ブチャラティはスーツを脱ぎ、シャワールームへ向かった。
 簡単に湯を浴び、頭にタオルをかけて部屋へ戻る。コップに入れた水を飲み干し、テーブルの上に置いた。その振動で飾っていた卓上カレンダーが倒れる。ブチャラティは腕を伸ばしてそれを立て直した。
「……あれからもう二年か」
 外では雨が降り続いていた。その雨は予報よりも長く続き、止んだのは昼のことだった。

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