ふと、温かいミルクが差し出される。覚えのない注文には疑問符を浮かべた。
「あれ……。わたし、注文しましたっけ?」
「あちらの方々からサービスです」ウエイターは微笑みかける。
は『あちらの方々』のほうを見た。そこにはスーツ姿で麦酒を飲んでいる二人組の男性が座っており、視線に気がつくと揃って左目を瞑ってみせた。当たり前だが、二人はイタリア人だった。
「長い間、あなたがパソコンに向かっている姿を見ていたそうですよ」
そういう事か、とは合点する。「もしかして、暇な女だと思われちゃったかな」
「そんなことは」
「随分居座ってしまってごめんなさい」
「お連れ様をお待ちなのでしょう?」ウエイターは空になったグラスに水を注ぎながら、の向かいの空席を見やった。
は頷く。「もう少しで来ると思いますから」
「かしこまりました。これからはディナータイムになりますが、お酒はどうなされますか」
「いいえ、お酒は飲んでいきません。今日は……遠くまで行かなくちゃあならないので。後から来る人も飲まないと思います。飲むとしたらカッフェかな」
ウエイターは了承し、軽く会釈をしてテーブル席を離れた。
は受け取ったミルクを一口飲む。サービスなのか、ほのかに蜂蜜の香りがする。
右側から聞こえてくるのは海の音。間もなく辺りが夕闇に染まる。この窓際の席から景色を眺めるのに絶好の時間帯だ。ブラッスリーからは人々の流れや、狭い道を歩く猫たちの姿が確認できる。
そして、坂を上る見慣れたスーツ姿も。
市街地から聞こえてくる人々の活気ある声に紛れ、に近づく足音は目の前で止んだ。
「わたしのほうが一足早かったね、ブチャラティ」
「待たせてすまなかった」
「大丈夫、気にしないで。時間が余って早く来すぎちゃっただけだから」
ブローノ・ブチャラティがの向かいの席へ座ると、すぐさま先ほどのウエイターがやってきて水の入ったグラスをテーブルへ置く。カッフェをひとつ頼む、と伝えると、注文を聞いた彼はにんまりと笑顔を浮かべた。ブチャラティはその様子を不思議そうに見つめている。とウエイターは密かに顔を見合わせて、小さく笑った。
「今更言うことでもないが、例のごとくこの席を選んだな」ブチャラティが言った。
「もちろん。ここは特等席だから」
はブチャラティと会うため、毎日のようにこのブラッスリー利用している。ネアポリスの高台にあるこの店は、眺めの良さで人気だ。そして座席にもこだわりがある。街並みと海を同時に一望できるのはこのテーブル席だけであり、初めて来店した際は目の前に広がる絶景に一目惚れしたのだった。それ以来、とブチャラティにとってこの席は、一種の待ち合わせ場所となっている。
「ちょっと待ってね。もう少しだから」
「オレの注文が来るか、きみの作業が終わるか。どちらが先かな」
「またそうやって茶化すんだから」
そういえば、とはキーボードを叩きながらブチャラティを見やる。
「今日は仕事だったんでしょう? わたしがあなたへ教えた情報がどうだったのか、聞かせてほしいな」
ブチャラティはポケットから携帯電話を取り出し、メモ機能を開いた。
「片方は当たりだった。のお陰でちょいと稼がせてもらったぜ」
「それならよかった」
「もう一つも当事者に接触してみたが、こっちはほとんど外れだった。最近では賄賂で新聞記者に偽記事を書かせるやつも多いらしい」
「そう……。ごめんなさい、そっちはわたしのミス。無駄足とらせちゃった」は表情を曇らせる。
「気にしないでくれ。ただの徒労に終わったわけじゃあない。新しい情報も手に入ったんだ」
「新しい情報?」
「十三歳の少年なんだが、既に大学への入学が認められているんだ。そんな頭の切れる少年が、突然教授の頭をめった打ちにした。こんな辞書で」ブチャラティが親指と人差し指で、その幅を示す。
あまりの分厚さには愕然とした。想像しただけで身も震えるような出来事だ。
携帯電話をしまい、ブチャラティは組んでいる脚の上に手を置いた。「今は近くの留置所にいるが、両親の迎えが来ることはないそうだ。少年も人を殺しちまったというのに、非常に落ち着いているらしい。もしかすると、いい人材かもしれない」
「両親からは英才教育を受けていたのかな……。放っておけば施設に入られてしまうかもね」
「事の次第によっちゃあ、こちらの世界に入ってもらうことになる。いや、それしかない」
「あなたが探している優秀な部下、ね」
「仲間、と言ったほうがいいかな」
「お待たせいたしました」
二人の会話を割るように、ブチャラティの頼んでいたカッフェが運ばれてきた。形の良い湯気が立ち昇っている。同時にの手も止まり、睨むようにブチャラティへ視線を投げる。それは言葉にするまでもなく、わたしのほうが少しだけ早かったはず、と訴えている顔だった。ブチャラティはカッフェを一口含み、少々考える素振りを見せると「あんたはどちらが早かったと思う?」と勝敗をウエイターへ委ねた。
「そうですね。ほぼ同時だったかと思われます」
「公平な意見だ。今回は引き分けだな」
はため息をつく。「人との会話中に、パソコンは触るもんじゃあないってことね」
「オレと話しているときくらいは、きみの表情を独占させてくれるとありがたいんだが?」
突然の甘い台詞に、はぴたりと固まった。しかしすぐに我に返り、ノートパソコンの電源を切ってバッグにしまう。
「……それも上司に教わったの?」
「きみは何か勘違いをしているな。ギャングはクラブのホストとは違うんだぜ」
「ブチャラティがわたしにそんな事を言うなんて珍しいから、ちょっと驚いちゃったの。でも、確かにそうね。人と話しているときは、相手の目を見ながら話さなくちゃ」
バッグのジッパーを締めたの目が、ブチャラティだけを捉える。しかしいざ視線が絡み合うと、少々照れくさい気持ちになってしまった。彼の顔は見慣れているはずなのだが、こうして真正面から見つめられると、顔に穴が開いてしまいそうだ。
ブチャラティの顔は決して悪くない。寧ろ、彼は女受けのいい綺麗な顔立ちをしている。そんなことは以前から知っているのだが、あんな台詞を聞いたあとでは、妙に緊張してしまう。
気持ちを落ち着かせるため、は先ほどのミルクを飲む。海風に当たったためか、それとも時間が経過したからなのか、少し冷めていた。
「が水以外のものを飲むなんて珍しいな。そんなに今日は切羽詰まっていたのか」
「ああ。これは向こうに座っている方々からいただいたの。長くパソコンを触っているところを見ていたみたいで。まったく……さすがイタリア人ね」
ブチャラティはの指した席を見た。「なるほど。酒を寄越さなかったところを見ると、確かな厚意と考えてよさそうだな」
「昔からずっとイタリアに住んでいるけど、こういったアピールには未だに戸惑っちゃうの。厚意なのか好意なのか」は苦笑を浮かべる。
「きみの場合は常に恋愛対象として意識されていると思っていたほうがいい」
「どうして?」
「日本人なら特にそうだ。イタリア人は日本人女性の素朴なところや、控えめなところがチャーミングだと感じてしまう。髪の艶だってそうだ」
「ブチャラティも?」は首を傾げた。
「オレの記憶が正しければ、日本人の知り合いはだけなんだが」ブチャラティが笑った。
そう言えばそうだったね、ともつられて笑みをこぼした。
各々の飲み物が空になると、ブチャラティが片手を軽く挙げる。察したウエイターが伝票を両手で提示し、その場で精算を済ます。ブチャラティは自ら二人分の代金を出すことに関して、一切気にしていない様子だった。もちろん、も同様に。
が腰を上げると、ブチャラティがその背後に回り、椅子の背に掛けていた厚手のジャケットを羽織らせた。そのまま背中を支え、エスコートするように店の出口まで導く。
「これでいい刺激になったかな」
「え?」
「いいや。車を出してくる。はこの先の大通りで待っていてくれるか」
「うん、分かった。気をつけてね」
オレは初めて買い物へ行く子供じゃあないんだぞ、と笑いながらブチャラティは去っていく。
ポケットから車のキーを取り出す仕草も、後ろ姿も、歩き方も。派手なスーツにぶつかってしまい、尻もちをついて泣いてしまった少年の頭を撫でてあげる優しさも。
変わらない――出会ったときからずっと。
ブチャラティの背中が視界から消えるまで、は店の前で彼をずっと見つめていた。
「相変わらず、仲がよろしいのですね」
が来店してから、注文の担当をしていたウエイターがやって来る。
「まったく、ブチャラティさんは本当にいい男だ。歩いているだけであのように様になる方は中々いらっしゃらない。そう思われませんか?」
柔らかな笑みを浮かべる彼は、とブチャラティが初めてこの店を訪れたときからの付き合いだ。今では無言のうちに指名されているかのように率先して注文を聞きにやって来る、親しみ深い人物である。
は口元に弧を描いた。
「……先ほどの話は、どうか秘密でお願いします」
「かしこまりました」
「それと、ディ・モールトグラッツェ。また来ます」
「またのお越しを心よりお待ちしております」ウエイターは深々と頭を下げた。
は大通りへ向かった。きっと見慣れた車がライトを点滅させて待っているのだろう。その光を頼りに、夜の中へ溶けていく。
紫色に染まりつつある空に、ふたつの星が一際目立って輝いている。そんな夜だった。