レイルは体が宙に浮き、一気に海底へ落ちていく感覚を覚えてから目を覚ました。緩く瞼を開き、ここかどこかも判らないままゆっくりと起き上がる。
最初に視界へ飛び込んできたのは白いシーツだ。自分の体が若干沈んでいるのを感じ、ようやくここがベッドの上だと認識を得る。そしてサイドテーブルに置かれているマグカップを見て、レイルは自分の置かれた状況を把握した。
マグカップを引き寄せて一口含む。冷めていると思ったが、まだほのかに温かい。喉が乾いていたため、レイルは一瞬で中身を飲み干した。
熱い息を吐き出したところで周囲を見渡す。部屋には最低限の家具しか置かれておらず、無駄なものが一切見当たらなかった。壁にが身に付けていたスーツが掛けられているため、恐らくは彼女の私室か寝室なのだろう。
ここでレイルは思考が働き始めてきた。
自分がここにいるのなら、彼女はどこだ――?
立ち上がると頭がぐらり、と揺らいだ。どうやら酒が抜け切れていないようだ。あれだけ飲めば納得といえば納得だが、一晩で大量の酒を飲んだのは初めてのことだった。
部屋を出るとソファーが見えた。先ほどまで座っていたものだ。暖炉の火は未だ空間を暖めており、時々薪が折れる音が聞こえる。
壁伝いに暖色の明かりが拡がっていた。奥の小部屋から漏れている光のようだ。
中へ入るとデスクに上半身を預けるような形で眠っているがいた。寒さを凌ぐためにブランケットを羽織っている。寝息に合わせて背中が浮いたり沈んだりを繰り返している。
レイルは眠る彼女を一瞥してから、小部屋を観察する。デスクの他には自分と同じ背丈ほどの本棚がふたつ。ひとつには楽譜が収められていた。もう片方には色とりどりの背表紙が並んでいる。暗がりで見にくいが、気になる本を発見した。
レイルが手に取ったのは、子供向けに魔物たちが描かれた『マギーがすべて』という絵本だ。適当な頁に指を入れて開く。文字と比例して絵の割合が非常に多い。
そして何より――かなり読み込まれている。恐らく子供の頃から持っているのだろう。
絵本を隙間に立て掛け、今度はデスクの上に目が留まった。写真や手紙が散らばっている。色褪せた写真にはと思われる少女と、母親を彷彿とさせるセルキー族の佳人が立っていた。どれも二人だけが写っているものばかりだ。アルフィタリアの噴水広場前でも記録を残している。この景色はレイルにとっても懐かしさを覚える。
目を引いた写真が二枚ある。まずは人物が写っていないものだ。手に取って見ると、この辺りに似た景色が写っていた。裏返すとセルキー文字で何か綴られている。しかし古い書体のようでレイルには読めない。
もう一枚では若い男女が笑っている。クラヴァット族の男の腕には生まれたばかりの赤子が抱えられており、手首に嵌められたリングには『』と刻まれている。
レイルは静かに写真を元に戻した。三つ折りにされた手紙も気になったが、これ以上勝手に彼女の領域に踏み込んではならない、と抑制が働いた。
他に目を引くものといえば、壁際で鎮座しているアップライトピアノだろうか。黒い肌には埃ひとつなく、持ち主によって丁寧に手入れされていることがよく分かる。
軽く音を鳴らしてみようか、と思った時だった。の唸り声が聞こえた。
彼女は上体をゆっくりと起こした。同時にブランケットが音も立てずに床へ落ちる。
レイルはクリスタルベアラーの力で拾い上げ、再び彼女の背中に載せた。
「レイルさん?」寝起きの彼女は眠り眼を向けた。
「おはよう――って、時間でもないけどな」
壁掛け時計の針は未だ真夜中を示している。
「いつの間にか寝ちゃったみたいですね」
「それは俺も同じさ」レイルは出てきた部屋を一瞥した。「あんたが運んでくれたんだろ」
「いえ、わたしは何も……」謙遜するようにかぶりを振る。
「悪かったな」
「謝らないでください。お酒が入ると、どうしても人間は自我が出やすくなりますから」
はデスクに散らかったままの写真を見ると、手早くかき集めた。
悪い、とレイルは問われる前に謝った。「目に入ったから少しだけ覗き見しちまった」
「見られて困るものは何も写っていません。当然の欲求心です。気にしないでください」
気を遣わせてしまったかな、とレイルは心の中で労いの念を彼女へ送った。
「何だか一眠りしたら目が冴えてきましたね」
「俺はまだちょっと酔ってる」
「当たり前じゃないですか」は呆れた様子で腰に手を当てた。「あれだけの量を短時間で飲んだんです。ちゃんと水は飲みましたか」
「あんたが置いてくれたのをもらった」
「なら大丈夫ですね」彼女は頷いた。「さっきピアノを弾こうとしてました?」
「どうやら俺は、他人の部屋を物色することが趣味なのかもしれない」
「ちょっと解るかもしれません」
はブランケットを羽織ったまま立ち上がり、ピアノの蓋を開けた。
「確かに町へ向かうには遠すぎますが、周りの家からも離れているんです」だから、と言いながら鍵盤を滑らせた。「夜でも気にせず思い切り練習できるんですよ」
「なるほど。そんな利点があったとはね」
「レイルさんの指は長くて綺麗ですよね」
「でも弾けなきゃ意味がない」
「まずはやってみろ。じゃなきゃ何もできない」彼女は流れるように鍵盤を弾いた。「そうわたしに仰ってくれたのはレイルさんじゃないですか」
レイルは首を傾げた。そんなことを言った覚えがまるでないからだ。
するとが何かを思い出したように、ああ、そうかレイルさんは、と言った。
「俺がどうしたって?」
「こちらの話です」彼女は鍵盤から指を離した。「試しに弾いてみますか? わたしは体が冷えてきたのでまた温かいものでも淹れてきます」
は部屋から離れた。レイルは立ったまま鍵盤を弾くが、頭に楽譜が埋め込まれている機械でもないため、適当な音を出すだけで精一杯だ。
やがて彼女がマグカップを持って戻ってきた。
「何か弾いてほしい曲とかありますか」
「即興で弾けるのか」レイルは驚いて訊いた。
「ああいったお店で弾くのであれば、楽譜を見ずに弾けることが最低条件です。お客さんの目に留まればおひねりがいただけますし、要望にお答えするのも我々の仕事です。少々伝わりにくいかもしれませんが、レイルさんが言葉を発することと鍵盤を鳴らすことに差異はありません。楽譜を読むということのは、文字を読むことと同じです」柔らかい口調で話すと、はピアノを弾き始めた。
「これはあんたがカフェで働いてるとき、蓄音機で流してたやつだよな」
「覚えていてくれていたんですね」
そんな風に喜ばれると、少々むず痒い。
「お店では頼まれた曲しか弾けないことがほとんどで、自分の好きなようにはできないんです。だからこの曲をいつかどこかで披露することがいまの目標かな」
レイルは気になったので訊いてみた。「どうして国を離れてここでやろうと思ったんだ。いや、別にあのまま監獄砂漠へ行けって言ってるわけじゃない」
は指を止めたが、すぐに弾き始める。「……相応しくないと思ったんです」
「相応しくない?」
「また母の話になりますが……」
レイルは手を出して促した。
「わたしがまだ幼かった頃、母と二人で買い物をしているときです。一人の男性が兵士に連れていかれる場面に出くわしたんです。まだ子供だった自分には、彼が虐められているように見えたんでしょうね。咄嗟にベアラーの力を使って、兵士の動きを止めてしまったんです」
レイルはその後の流れが安易に想像できた。
「それが他の兵士の目に留まった上に、悪人を逃がしてしまった。事の重大さに気付いたわたしは泣き出しそうになった。けれど母が、さも自分がやったと言わんばかりにわたしを陰に隠して、濡れ衣を被ったんです」
いつの間にか音楽は止んでいた。代わりに遠くから暖炉の薪が割れる音が聞こえる。
「そこからです。クリスタルベアラーであることを自覚し始めたのは。母はわたしにクリスタルの存在について何も教えてくれませんでしたが、小さい頃からこの耳飾りはお守りのように付けていた」彼女は耳に触れた。「だからわたしがベアラーであることは知っていたはず。でも母は異物を見るような目を向けたことは一度もなかった。心から愛されていたと、時間が経つに連れて理解だけがひとりでに膨らんでいった」
「それから、あんたはどうしたんだ」レイルは相槌を打つように訊いた。
「家族から勘当されて、家を出ました。そこからは話すと長くなるので割愛しますが、王都を離れてからひとつの目標が芽生え始めたんです」
「目標?」
「クリスタルベアラーであっても、他人と同じように、自分は何でもできると証明する」
些細な違いがあるものの、考えていることは似ているな、と思った。
「最初はクリスタルベアラーなんていないほうがいいと思ってました。人を傷つけ、他人を巻き込んでしまうとんでもない存在だと。けれどわたしを庇った母の気持ちや、ベアラーの存在を受け入れてくれる方々を見て、それは間違いだと考えを改めました」
の目がレイルを捉える。
「持っている能力が少し特殊なだけで、考えていることは周りと然程と変わらない。わたしを変えてくれた言葉です」
「そいつもクリスタルベアラーだったのか」
「そうですね」何故か彼女は笑いながら答えた。「その方もクリスタルベアラーです」
「大した偉業だな。他人を変えちまうなんて」
「ええ、本当に」彼女は頷いた。「それぞれの違いではなく、自分たちは一体何が同じなのか。視点を変えるだけで人間はもっと距離を縮めることができる」
だからこそ、とは言った。
「自分がクリスタルベアラーではなくなってしまったことが、正直複雑なんです」
「どうして?」
「証明する思いを裏切ってしまいましたから」それに、と彼女は続ける。「やっぱりクリスタルベアラーは最初からこの世には必要のない存在だった、と言われているような気がして。異能者だとしても、わたしたちの存在を理解してくれていた方もいたんです。葡萄農園で声を掛けてくれたあの女性のように……」
レイルはクラヴァット族の言葉を頭に思い浮かべた。
「問題は消せば解決する。世界がそう選択したのであれば、わたしはあの世界に相応しくない。例えクリスタルが無くなったとしても、心はいつだってベアラーのままです」
落ち着いた声で話す彼女の横顔は真っ直ぐで、耳飾りが火種を上げるように光った。
「そこまで考えがまとまってるのなら、一人の人間として十分立派なんじゃねえか」
「何だか偉そうにすみません」彼女は頭を下げた。「ひとつだけ利点があるとすれば、昔の記憶を少しずつ思い出してきたことでしょうか」
「記憶?」
「レイルさんは子供の頃の記憶がありますか?」
「……いや、ない」
「実はわたしも最近までなかったんです」
ちょっと待ってください、と言っては立ち上がった。本棚に並んでいる背表紙を指先で左から右へ辿る。取り出したのは厚い古文書だ。
「これは大昔、クリスタルの光を求めて旅を続けていた者の日誌をまとめたものです」彼女は真ん中を裂くように頁を開いた。「まだ全てが解読されているわけではないのですが、日誌には道中での出来事や魔物の性質、各種族の伝統などについて綴られているんです。わたしが注目したのは――ああ、ここの文章です」
今年、新しい出会いをして思い出ができれば、それらは少しずつ薄れていってしまう。
輝きを失った思い出は、闇として魔に食べられてしまうというのだ。
忘れられた思い出はどこへいく?
「これが何か関係しているとでも?」
「クリスタルの光を求めて旅を続ける者を、日誌ではクリスタルキャラバンと呼んでいます。もしかしたら彼らはクリスタルベアラーの末裔で、何かの強い影響によって過去の記憶を失っているのではないでしょうか」
「現代の人間が勝手にそう解釈してるだけだろ。俺たちに繋がりがあるとは考えにくい」
「そうでしょうか」が頁を捲る。
「そもそも、どうして古文書をあんたが持ってるんだ。そこらに売ってるもんじゃないだろ」
「えっと、それは……」彼女は突然歯切れが悪くなった。「実はアルフィタリアの王立図書館で借りたものなのですが、お話ししたとおり色々とあって、その……」
「返しそびれたと」
「はい……」今にも消えそうな声だ。「やっぱり今からでも国へ送り返すべきでしょうか」
「向こうから何も送るなって言われたんだ。今更返したところであんたが困るだけさ」
「ずっと引っ掛かってはいたんですけど……」
「あんたの弱みをひとつ握れたな」レイルは悪戯を企てる子供のように笑った。
「どうかこのことは内密にお願いします」
「別に告げ口するやつなんかいないって」それで、とレイルは古文書を手にとった。「他には何か残ってるのか。あんたが頑張って調べたんだろ」
「はい。他には――これでしょうか。未解読の日誌なので文章が途切れていますけど」
全ての記憶を失い、ただ光を追う男。
何の記憶も持たずに、ひたすらに前へ、
「まるでレイルさんみたいじゃないですか?」
「おいおい、聞き捨てならないな。俺は別に全部の記憶を失ってるわけじゃないぜ」
そうでしたね、とが言った。「わたしが考えるには、クリスタルベアラーの力を使うということは、クリスタルから力を借りているということ。その代償として記憶を吸い取られているのではないか、ということです。実際、使えば使うほど過去の記憶が曖昧になっていく感覚はありました。レイルさんはいかがですか?」
「俺は……」
正直、クリスタルベアラーの力が使えるだけで代償を伴わないことに疑問は抱いていた。個人の許容範囲や限界は設けられてはいるものの、力を使ったことによって消耗するのは気力と体力くらいだ。実際にクリスタルの力を借りているのであれば、が話すように対象の記憶を吸い取っている、という説はあながち間違ってはいない気もする。
だが、この世界に存在しているクリスタルベアラーが自分だけだとすれば、に宿っていたクリスタルとレイルのそれは同じようで差異があることが判る。もしも同じ性質を持つクリスタルであれば、レイルの頬からも輝きが消えているはずだからだ。
「言われてみればそんな気もするが、やっぱりあんたと俺は違う。こいつが証明してるだろ」レイルは自身の頬を指した。「それにただ忘れているだけで、思い出せないだけかもしれない」
「レイルさんはそれでいいんですか?」
「何が?」
「子供の頃の記憶を思い出せなくても」
レイルは一考する素振りを見せてから、古文書に綴られている日誌の一節を指した。
過去を見てばかりもいられない。
「これが答えさ。ずっと後ろばかりを見て歩くのは俺の性分に合わない。分かるだろ?」
「そうですね。その通りです」彼女は古文書を閉じ、本棚へしまった。「一人でべらべらと長話しをしてしまいましたね。もしかしたら酒が回ってきている頃なのかも」
「酒は言い訳するために飲むもんさ」
「それは少し語弊があると思います」
「それじゃあ訊くけど」レイルはデスクの椅子に跨り、背もたれに両腕を置いた。「優しいあんたが俺をわざわざこんな場所まで歩かせて、泊まるように仕向けた理由は?」
「それをわたしに言わせたいんですか?」は目を剥かせた。「レイルさんって時々悪魔みたいに恐ろしいことを考えますよね」
「そりゃあなんたってベアラーだからな」
「それは言い訳に繋がりません」
「いいから答えろよ。言い訳なしで」
が生唾を飲み込み、それは、と口を開いた時だった。部屋に不思議な香りが漂ってきた。
先に気付いたのはレイルだった。「何だ、この甘ったるい匂いは」思わず眉をひそめる。
もしかして――が言った。彼女はピアノの蓋を静かに閉めると、立ち上がった。小部屋を出ると、更に匂いが増す。どうやら部屋全体に拡がっているようだ。不快ではないことは確かなのだが、レイルには少し刺激の強いと感じた。
「レイルさん」彼女の声が飛んでくる。「引き出しからカメラを持ってきてくださいっ」
「カメラ?」
「急いでっ」声には焦りが含まれていた。
レイルは言われた通りに引き出しを開けた。カメラを片手にの元へ向かう。
彼女は窓辺にいた。膝を抱える体勢で座り込んでおり、何かを見つめている。視線の先には鉢植えから白く大きな花が咲いていた。レイルも以前、写真で見たことがある。
「ありがとうございます。助かりました」彼女はカメラを構えた。
「まさか、あれからずっと育ててたのか」
「もちろんです。そろそろ開く頃だとは思っていたのですが、まさか今夜に咲くとは」
鉢植えを動かし、色んな角度から写真を残す。気付けば匂いにも慣れてきた。
「やっぱりレイルさんは強運持ちですね。月下美人の咲く瞬間はなかなか見られないんですよ」
「でも、見せたかったのは俺じゃないだろ」
「そうですね」はカメラを構えるのを止めた。「でもいいんです。月下美人は世話次第で何度か咲くことができますから。今回だけというわけではありません」
「、そのことなんだが――」
「すみません」彼女はかぶりを振った。「また今度聞かせてください。いまは、その……」
「……そうだな。分かった」
「ありがとうございます」
こうしてあなたと見られただけでも、十分嬉しいです。そう言ったの笑顔から、写真に写っていた彼女の母親の面影を感じた。
翌朝、レイルは日の光で目を覚ました。寝返りを打とうとしたところで、咄嗟に踏み止まる。ここがソファーであることを思い出したからだ。
起き上がると、壁に立て掛けられている全身鏡に自分の姿が映った。癖のついた髪を直し、欠伸をこぼす。今は何時か、と時計を見れば、短針はほぼ真上を差していた。
ここがシドの工房であれば、もっと早く起こされていたんだろうな、と一人思う。
鏡越しに背後で何か動いた。振り返るとパンをかじっていると目が合った。
「おはようございます」彼女が言った。
「ああ」少し間抜けな声が出た。
「もうお昼前ですよ」まあ、と彼女は音を鳴らしながらパンをかじった。昨夜の出来事を反芻するかのように噛み砕いている。「昨日は遅くまで夜更かしちゃいましたからね」
「そういうあんたは眠れたのか」
「はい。お陰さまで」
覚えている。ベッドで寝かせようと促す彼女を制し、自らソファーで寝たことを。
「お腹、空いてますか?」
「何となく」
「それじゃあここに置いておきますね。わたしはチョコボの世話をしてきますので」
「助かる」
「どういたしまして」
は立ち上がると家を出た。自分でいうのも可笑しな話だが、彼女もこちらの曖昧な返事にも慣れたものだな、と思う。
レイルは準備された朝食を食べながら、これからどうしようか、と思考を巡らせた。
彼女には感謝している。一宿一飯の恩にくわえ、自分の我が儘にも付き合ってくれた。
本人は気付いていないのだろうが、には人を和ませる不思議な力がある。恐らくクァイスがカフェスペースへ足を運び始めた理由も、王都内で耳を傾けてくれる存在が欲しかったからだろう。やつにそれを言えば恐らく否定されるが、人は無意識にでも拠り所を求めてしまう生き物だ。今なら――解る。
だが、自分とは生き方が違う。彼女にはピアニストになる夢がある。クリスタルベアラーの呪縛から解放されたのにも関わらず、それすらも自分らしさだと主張を改めた。
レイルには輝かしい目標もなければ、立場も彼女と異なる。このままの厚意に甘え続けていれば、いずれ自分は彼女にとって大きな障害になる。それだけは絶対に避けなければならない。
何のために一人で旅を続けてきたのか。一度、感情をリセットさせる必要があった。
もしも残されたクリスタルベアラーが自分だけだとすれば、その理由は何なのか。
自分の存在意義なんて考えないほうがいい――かつての相棒にそう言ったことを思い出す。自分は何故ベアラーとして生まれてきたのか。考えたことがないといえば嘘になるが、今なら素直に疑念を抱くことも許されるような気がする。
青臭い考え方だが、新しい世界で新しい自分を探すのも悪くないな、と思った。
考えている間に皿が空になった。は依然、チョコボの世話をしている。
出て行くなら、今しかない――。
レイルは素早く着替えを済ませる。世話になった彼女に悪いことをしてしまうようだが、水臭いのは大の苦手だった。
裏手から外へ出て、小屋を経由する形で離れる。遠くからでも中の様子は変わらない。
どうやら悟られてはいないようだ。レイルはジャケットに手を突っ込んで背を向けた。
胸に溜まった息を、ゆっくりと吐き出す。見上げると、昨夜の雨が嘘のように快晴が拡がっていた。心なしか空も高く見える。
昨日は暗がりでよく見えなかったが、ここからの眺めは抜群だった。遠くの海では蒸気船が音を鳴らしながら煙を上げており、若い男女たちがサーフィンをしている。
この町は気に入っていたが、がいるのであれば話は別だ。余計な情を抱く前に、彼女から離れたほうが良い――。
そんな風に考えている時だった。背後から何かが近づいてきている気配を察知した。振り返ると、来た道から黄色い体が見えた。それは徐々に大きくなっていき、もの凄いスピードでこちらに向かって走ってきている。
クエェッ、とチョコボの鳴き声が辺りに響いた。あれはのチョコボだ。彼が巻き上げる砂煙の大きさで、どれだけの速さで走っているか見てとれる。このまま突進されればクリスタルベアラーの身体能力を持ってしても、怪我は免れない。
レイルはチョコボを受け止めようとした。が、一瞬遅かった。彼は頭を潜らせてレイルを背中へ乗せた。そのままUターンをし、走ってきた道を戻っていく。レイルは振り落ちないように踏ん張ることで精一杯だった。
動きが止まった頃には既にの家の前にいた。これには思わず頭を抱える。
「やってくれたな、お前」チョコボの頭を撫でる。彼はご機嫌な横顔を見せるだけだ。
降りろ、と促すようにチョコボは両脚を畳んで座り込んだ。自然と目線が低くなる。
「大丈夫ですか」
頭上から降ってきた声にレイルは顔をしかめた。
「レイルさん?」
「……チョコボは反則だろ」
「この子が突然走り出したんです」視界の隅で彼女がチョコボを撫でる手が見えた。「チョコボは一度懐いた人の匂いを決して忘れません。それにこの子は人間の感情を読み解くのが上手で、異変に気付けばこうなります」
「随分と躾が行き届いてるみたいだ」誰かさんのお陰で、という言葉は呑み込んだ。
「そうみたいですね」
レイルはゆっくりと顔を上げた。叩かれる覚悟も、殴られる用意も整っていた。
しかしから与えられたものは、そのどちらでもなかった。彼女は目線を合わせるようにしゃがみ込むと、レイルの目を真っ直ぐと見つめた。
「どうして黙って出ていったんですか」
「苦手なんだ」彼は目を逸らした。「別れの言葉を探すのが、昔から苦手なんだ」
「本当にそれだけ?」
「他に何があると思う」
「わたしといたくない、とか」
ずるい質問だと思った。答えを分かった上で訊いているのなら、とんでもない女だ。
「そんなこと、誰も言ってないだろ」
彼女は一瞬目を丸くさせると、口元を緩ませた。そんな風に笑わないでくれ。
「わたしは」が言った。「レイルさんのことを、もう少しだけ知りたい」
「俺にそんな価値はない」
「それはわたしが決めることです」
まくし立ててくる彼女にレイルは苦笑する。
「ずっと、とは言いません。けれどもうしばらくだけでいい。ここにいてください」
「あんたはそれで良いのか」
「レイルさんじゃなきゃ駄目なんです」
あなたの本音を聞かせてください――はただじっとレイルを見つめている。その瞳に反射して、頬のクリスタルが強く輝いて見えた。
「そんなこと、解ってるだろ」
「あなたの言葉で聞きたいんです」
「だから――」
「お願い、レイル」
心に宿るもう一人の自分が唸り声を上げた。
レイルは引力を用いて彼女を抱き寄せた。頬に柔らかい髪が触れ、昨夜咲いた月下美人の香りが残っている。もう二度と触れないと思っていたのに。
「今は、これが精一杯」
は何も言わない。
「言っただろ。慣れてないんだ」
「分かりました」
体を離すと彼女と目が合ったが、すぐに逸らしてしまう。相手も同じだった。
「都合のいいときだけ呼び捨てか?」
「すみません」
「でも、まあ」レイルは頬を掻いた「今回はあんたの勝ちにしといてやる」
「優しいですね、やっぱり」
「こういうのは甘いっていうんだよ」
レイルは立ち上がり、に向かって手を差し伸べる。彼女はその手を取った。
それを裂くかの如く、二人の間をチョコボが無造作に通り過ぎていく。小屋へ戻ると嘴で器用に扉を閉めたあと、落ち着いた様子で眠りについた。
レイルは唖然とし、取ったばかりの手を見やる。彼女も口を丸くさせていた。
「……絶対あいつの中に人か何か入ってるだろ」
「わたしも、たまにそう思うことがあります」
顔を見合わせると、二人は同時に苦笑した。
「先に言っておくが」レイルはジャケットのポケットに手を入れた。「俺は気遣いできないからな。いつの間にかいなくなるなんてザラだぜ」
「それでも構いません。その時までレイルさんと同じ時間を過ごせるのなら」
どうして彼女は、こうも恥ずかしいことを平気な顔で言えるのだろう。
「そうだ。今日はこれから町へ降りるのですが、レイルさんもご一緒しませんか」
「新しいパトロンとの話し合いか」
「えっ、どうして知ってるんですか?」
「さあ」レイルは肩をすくめた「どうしてもって言うなら、着いてやってもいい」
「それじゃあお願いします。今日は荷物が多くなる予定だったので」
遠回しに荷物を持て、ということか。だが、彼には雑作もないことだ。
「あと……アステリアさんを紹介してくれませんか」
「まさか、本来の狙いはそれか?」
こうした交渉術を自然と身に付けているところを見ると、やはり彼女にはセルキー族の血が流れているのだろうな、と改めて気付かされる。
家に入っていくの後ろ姿を眺めていると、僅かに腰を抑える仕草が見えた。少しでも邪念を抱いてしまったレイルは、クリスタルベアラーの力で彼女を引き寄せる。
体が後ろへ飛んだことには驚く。
「ど、どうしたんですか。急に」
「いや、痛そうにしてたから」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「俺のせい?」
「そうですよ」彼女は顔をしかめた。
「でも、ただベッドへ運んだだけだろ」
途端に表情を変え、まさか、と言った。「レイルさん、覚えていないんですか?」
先ほどの穏やかさとは一変して、二人の間に不穏な空気が流れ出していくのを感じる。レイルは本当の意味で彼女の言っている言葉が解らず、無言になってしまった。
目の前でが溜め息を吐き出した。聞いたことがないほど深いものだ。
とてつもない罪悪感がレイルを襲う。
「あんたが――」また俺の記憶をいじったのか、と言いそうになったが、予想は外れる。
冷や汗を垂れ流すレイルをよそに、彼女は逃げるように家へ潜り、扉を閉める。
「待て待て」閉まる前、レイルは靴先を隙間に入れた。「俺、昨日あんたに何した」
「自分で思い出してください」
「あんたなりに対処したんだろ」
「そのつもりでした」彼女も負けない抵抗を示す。「でもそんな余裕ありませんでした」
「どういうことだよっ」
「だから、自分で考えてくださいっ」
は必死に閉め出そうとする。
甘く見られては困る。こちらは未だ力が健在のクリスタルベアラーだ。
レイルは扉をこじ開けた。今度は閉められないように扉の縁を掴んだ。
「もう一度だけ聞く」
彼は深呼吸をした。
「俺は、昨日、あんたに手を出したのか」
だがは頑なに答えようとはせず、ただ静かに口元に人差し指を添えた。
「内緒」