例の一件から七日が経つ。あの出来事を境にレイルは店に顔を出さなくなった。それは彼の友人であるクァイスも同様で、ここしばらく二人の姿を見ていない。
売り上げに響くことではない。彼らの他にも常連の顔ぶれは思いつくが、やはりレイルとクァイスは特別だった。店員は訪れた者に対しては隔たりなく接するべきだ、と自分で言ったのにも関わらず、知らず知らずに二人を特別視していたのだ。
考え込んでいると、カウンターの向こうから「すみません。注文いいですか」と声が飛んできた。は口角を上げて客を迎え入れた。クラヴァット族の若いカップルだった。
それからは暇を持て余すことなく、業務に没頭する時間が閉店まで続いた。しかし今日も最後まで彼らが店を訪れることはなかった。
仕事を終えて帰宅したはキッチンへ向かった。市場で購入した野菜や果物を保存室へしまい、引き出しからマッチを取り出した。なべ底に火をつけ、切り刻んだ野菜を適当に放り込む。店ではこのような扱いはできないが、自宅へ戻ると途端に雑になってしまうのは、我が出ている証拠なのだろうな、と思った。
なべが温まるまで少し時間がかかる。は読みかけの本があることを思い出し、鞄から取り出して表紙を広げた。いま読んでいる本は冒険とミステリーを掛け合わせたものだ。主人公の親が悪の親玉であり、自身の生い立ちを仲間に打ち明ける前で止まっている。とても重要なシーンだ。
次のページを捲ろうとした時だ。小窓を、ぽんぽん、と叩く音が聞こえた。気になって音のほうを見ると、外には郵便モーグリがいた。それも帽子の色が普段とは違う。
「速達モーグリ?」
その名の通り、速達便を届けるモーグリだ。どんな場所から送っても五分以内には宛て先に届けてくれる大変便利なモーグリである。
は窓を開け、手紙を受け取った。差出人はカリン・キースと記されていた。彼女の名前を見た瞬間、中身を読まなくとも内容を理解することができた。
恐らく――あと数分後に本人が家へやって来るに違いない。そして扉を開けた瞬間に漂う料理の匂いに腹を空かせ、自分の分まで平らげてしまうまでがいつものパターンだ。
そんな風に考えていると、ドアベルが鳴った。扉を開けると、やはりカリンが立っていた。
「はあい、。こんばんは」
「ここへ来ることを事前に教えてくれたことだけは褒めてあげる」
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。セルキーにしては丁寧なお手紙だったでしょ?」
「届いてからすぐ来ても意味がない」
「なんて言いつつも、結局わたしを家へ上がらせてくれるなのであった――」
「調子いいんだから、もう」
は彼女を招き入れた。そこへタイミングよく鍋の湯気が漂ってきた。
「この匂い、まんまるコーンのグラタン?」
「相変わらずの嗅覚ね」は小さく呟いた。
「お願い、。あなたの焼くグラタンも淹れるコーヒーも最高の味よ」カリンは捨てられたキラーハウンドのように目を潤ませ、手を合わせた。
「分かったから。でも、少しは手伝ってね」
「ええ、もちろんよ。ありがとう、」
キッチンへ戻り、カリンはこちらの指示に従いながら夕食の準備を進めた。
カリン・キースは名前の響きと、しなやかな身体つきの通りセルキー族だ。彼女と出会ったのは二年前。道端で倒れているカリンを見つけたのが最初のきっかけだった。
がほぼ気絶しかけている彼女に近づくと、か細い声で「ご飯」と呟いた。それを聞いたはカリンを自宅まで運び、料理を振る舞ったところから関係が始まる。
セルキー族とは味付けが異なるのか、それとも単に味が好みだったのか、それ以来彼女は頻繁にの家を訪れては、今のように料理にありつけようとする。追い返そう思えばすぐにできるのだが、にとってカリンは数少ない友人の一人だ。軽口を叩き合うことはできても、邪険に扱うことはできなかった。
テーブルにグラタンとグラスを並べていると、保存室を漁るカリンの姿が見えた。
「カリン、あなた何してるの」
「お酒でも飲もうかなあって」言いながら彼女は葡萄酒の入った瓶を取り出した。それは以前、レイルと葡萄農園を訪れた際に買ったものだ。「これならグラタンにも合うんじゃないかしら。ねえ、開けていい?」
「駄目って言っても開けるくせに」
カリンは上機嫌に笑った。「あなたならそう言ってくれると思ったから言うのよ。なんだかんだ言って他人に甘いところがクラヴァットらしいわね」
「素直に都合がいいって言いなさい」
「怒らないで。わたしが注いであげるから」
葡萄酒をグラスへ注ぎ、乾杯を交わす。
「今日はどうしたの? カリンに突然なんて言葉は言い飽きたけど」
「ギルドの人たちと喧嘩しちゃったの。また王都なんかに足を踏み入れたのかって」
「ああ……」は事情を把握した。
「セルキーがみんな王都嫌いなんて嘘よ。世間が勝手に決め付けているだけ。わたしは王都の雰囲気が好きだし、何より仕事がたくさんあるもの」まあ、とカリンは渋い顔をした後、酒を飲み込んだ。「わたしのようなセルキー族を受け入れてくれるところはまだ少ないけど」
「最近だよね、種族融和が宣言されたのって」
「そうそう。今更過ぎるけどね」カリンはグラタンを食べた。「うん、美味しいっ」
「ありがとう」
「王都側は歓迎って言ってくれているのに、セルキーが変に意地を張ってるから上手くいかないのよ。わたしたちからも歩み寄らなくちゃ」
「それをボスに言えばいいんじゃないの?」
カリンは天井を仰ぎ、ため息をついた。「はあの人を知らないのよ。セルキーズギルドのボスはこの世の誰よりもおっかないんだから」
「そんなに怖い人なの?」
「怖いなんてもんじゃないわ。前にわたしと同じように王都へ働きに出た仲間がいるけど、あんたとは考え方が違うんだ、なんてボスと大喧嘩しながら出て行ったから。その人はもう生きて故郷へは戻ってこられないんじゃないかしら」
彼女の話を聞きながら、ふとの頭にクァイスの顔が浮かんだ。彼もセルキー族だが、ほぼ毎日といっていいほど王都へ足を運んでいる。もしもカリンの話すセルキー族がクァイスならば、彼は故郷から見放されていることになる。そう思うと複雑な心境に駆られた。
「他人事みたいな言い方になってしまいけど、セルキーもセルキーで大変ね」
「あなたには負けるわ。クラヴァットだって貧しい環境におかれてるじゃない」
それについては何も答えられなかった。実際のところ、リルティ族と融和関係を築き上げているクラヴァット族でも貧困の差は凄まじい。住居を持たぬものもいれば、十分な職につくこともできずに苦しい生活を送っている者も少なくはない。が暮らしている家も建て付けが非常に悪く、据え置きの魔晶機械は一切設置されていない。それでも住居を持たぬ者に比べれば、十分幸せなのだと考えなくてはならない。
「種族の隔たりがあるから駄目なのよ、きっと」
「そう……かもね」
「正直、ギルドのやり方には窮屈さを感じていたの。わたしには合わないなって。だから思い切って王都へ出たほうが自分のためにもなると思ったわ」
「自分のため?」
そうよ、とカリンは頷く。「種族や生い立ちに縛られず、自分らしく生きるの。まあ、こんなこと言ってもセルキー族だから当然でしょって思うかもしれないけど」
そんなことない、とはかぶりを振った。「そこがカリンらしいんじゃない。セルキーとしてじゃなく、自由に生きようとする考え方が」
「そうかしら」
「自信持って。あなたらしくない」
「ありがとう、」彼女はテーブルに乗り出し、の手を握った。「わたしもあなたの考えを受け入れてくれるところが好きよ。いつも話を聞いてくれて感謝してるわ」
「今度、コスタ・ファギータで何か奢ってね」
「勿論よ。新しい水着でも買ってあげる」
「水着はいいかな」は苦笑した。
「何だか元気が出てきた。いっぱい食べるわよ」カリンはない袖を捲くる仕草を見せた。
は先に皿を空にさせ、お代わりあるから食べてて、とだけ言って家を出た。
向かう先は外に設置している鉢植えだ。先日レイルに見つけてもらった月下美人が植えてある。水を与えては茎の様子を観察し、花が芽吹くまでを見守っている。
カメラを構え、成長過程をおさめる。
「なあに、その花」カリンが扉に隙間を作って覗き込んできた。片手には食べかけのグラタンがある。
「いま育ててる最中なの」
「お花を育てるなんてお洒落なことするわね。わたしだったら一晩で枯らしちゃいそう」
「お願いだから余計なことしないでよ」は花を守るように腕で蓋をした。
「だいじょーぶ、心配しないで」
いまいち信頼に欠けるが、彼女の言葉を信じては部屋の中へ戻った。
そういえば、とが言った。「最近付き合いだしたカレとはどうなの?」
「彼とならもう別れたわ。わたしがデートに一時間遅刻しただけで怒るんだもの」
「……ちゃんと釈明した?」
「したわよ。でもあいつったらね――」
その後、いつものようにカリンは鍋底が抜けるまでグラタンを食べ尽くした。他愛もない話で盛り上がっていると、いつの間にか葡萄酒も空になっていた。それが合図だったかのようにカリンは眠ってしまい、部屋は一気に静かになった。
話し相手もいなくなり、は寝るスペースを作り始めた。狭いワンルームで女二人が横になれる方法はひとつしかない。
片方がベッドで眠り、もう一人は床で寝るか――だ。
は眠っているカリンを見た。人の苦労も知らずに幸せそうな寝顔を浮かべている。時々寝言を零しているが、何を言っているか判らない。
結局、はカリンをベッドへ寝かせた。洗濯仕立てのシーツが気持ちいいのか、彼女は枕とシーツをまとめて掴んで寝返りを打った。この様子だと翌朝まで目を覚ますことはないだろう。明日は自分も仕事が休みのため、丁度いいといえば丁度いいが。
部屋の灯りを消し、は浴室へ向かってバスタブに水を張った。この家に据え置きの魔晶機械はないが、水道管だけは自腹を切って購入したのだ。火は何とかなるが、水は公共の井戸から汲んでくるにはあまりにも不便だったからだ。
水さえあれば、あとは何でもできる。入浴用のボムの欠片さえ入れれば、バスタブに溜まっている水はすぐに熱くなる。いまでは香りつきの欠片もあるというが、やはり値が張るものなのでは基本的に一番安いものを溜め買いしている。
程よい温度になったところで、バスタブに身を沈めた。体温がじんわりと上昇する。
は白い壁を見つめ、息を吐いた。
その時だった。突然、浴室の扉が開いた。裸姿のカリンが入ってきたからだ。
「ど、どうしたの――」
外から流れ込んでくる冷気に震えていると、カリンがバスタブに足を入れた。質量が増した分だけ湯が溢れ出し、タイルの上で石鹸が踊った。
は伸ばしていた脚を腕で抱え、長い髪を頭上でまとめるカリンを一瞥する。
「ねえカリン。あなたもしかして、寝ぼけてるんじゃないの?」
「寝ぼけてないわよ」
答え通り、彼女の口調ははっきりとしていた。
「さっきは寝ちゃってごめんなさい。がわたしをベッドへ運んでくれたところで目を覚ましたんだけど、起きるタイミングが掴めなくて」
「突然目の前に大きな胸が飛び込んできたからびっくりしちゃった……」
「セルキーですもの」カリンは自信気に言った。
言い返す言葉もなく合点していると、彼女はバスタブの縁に腕を置いて口を開く。
「ねえ、。あなた何か悩んでない?」
「え?」
「気付いてないかもしれないけど、ご飯を食べてるときからため息ばかり吐いてるわ」
「うそ」は思わず口に手を当てた。
本当よ、とカリンは頷く。「無意識ってことは相当悩んでるみたいね。あなたが良ければ相談にのるし、愚痴でも何でも聞いてあげるわよ」
は天井を仰いだ。気付かないうちに胸の靄を外側に出していたのだと思うと、過去の行動を思い返してしまう。人前でため息を漏らしていなければ良いのだが。
最近といえば――ここまで考えては浮かんだ悩みを一蹴した。カリンに話せる内容でもなければ、誰にも解決することのできない話だと解りきっているからだ。
他に何かあるだろうか、と思考を巡らせる。悩みを絞り出すというのも中々難しい。
思いつくのはやはり店のことだ。上司の一言からセルキー族への対応は変わった。注文は変わらず受け付けるようにしているが、あくまで上司の目を盗みながらになる。彼の注意が届く距離であれば、上手い言葉や事情を考えて帰ってもらうか、店から出て行ってもらうことになる。にとっては心が削られる思いだった。
種族融和を唱えた国王陛下の声を聞いたときは、状況が一変するのではないか、と思った。だが、上司はそれを取り入れようとはしなかった。他の従業員から聞いた話によれば、彼は国王の支持者ではないのだという。確かに、アルフィタリアの全国民が国王に対して敬慕の情を抱いているとは限らない。なかには反発している者もいるだろう。
しかし、にはそれが解らなかった。王都に勤めてから数年が経つが、アルフィタリアで暮らしているリルティ族に不自由は感じられない。過去の兵士たちが戦争で勝利を収め、その恩恵の上に彼らは立ち続けている。どの種族よりも優位な場所にいるはずなのだ。
それでもセルキー族を嫌い、異端者を追放する姿勢はやはり血統によるものなのか。それとも種族そのものではなく、単に人間として彼らを嫌悪しているのか。考えても解決にはならず、日々上部との意見の食い違いで頭を抱えていた。
「実は……上司とうまく付き合えなくて」はリルティ族である上司がセルキー族を難詰している旨は避けて言った。「カリンと同じで上部との食い違いで悩んでたの」
「やっぱり誰でも悩むものなのねえ」
「意見を言おうにも、わたしがクラヴァットだからなのか軽く流されちゃって」
「それは種族だけじゃなくて、がなめられてるのよ」カリンは鼻の上に皺を作った。「あなたは基本的に誰にでも親切にしちゃうから、そういうところを上司は利用してるの。こいつなら何を言っても言い返してこないって。ああ、もう。聞いてるだけでむかついてくるわね。わたしが一発お見舞いしちゃおうかしら」
カリンの反応を見ると、やはりセルキーの血が流れているのだな、と思う。
「本当に嫌なら辞めるのも手よ。別にそこじゃなきゃだめってわけじゃないんでしょ?」
「そう、ね」
「他に何か理由があるみたいね」
自分でも含みのある答え方をしたな、と思った。事実、彼女の言うとおりだ。
「でも、大した理由じゃないから」
「またそうやって誤魔化して。ちゃんと言いなさいっ」カリンは脇腹をくすぐってきた。
「強いていうならっ」は続ける。「雇ってくれたのがあそこだけだったの」
「どうして? クラヴァットなら王都にたくさん仕事がありそうじゃない」
「でも、それが事実よ。今のところを辞めるようになったら、生活できなくなっちゃう」
「それは困るわね。わたしのお腹を満たしてくれる場所がなくなっちゃうんだもの」
「ずっと黙っておこうと思ったけど」はバスタブの縁に頬杖をついた。「あなたも大概セルキーらしいんじゃない。そういうところ」
「いま、自分でもそう思ったわ」
二人は同時に笑い出した。確かに、こんな風に笑ったのは久しぶりだった。
「仕事はもう少し様子を見てみる。業務自体は苦じゃないし、身にもなってるから」
「あなたがそう思ったのなら良かったわ」
「ありがとう、カリン。わたしもあなたに話を聞いてもらえたら、心が軽くなった」
「気にしないで。お互い様でしょ」
珍しい、とは目を丸くする。「いつもなら朝まで面倒見てって言うのに」
「あら、それは言わなくても解ることじゃない」
「もしかして、最初からそのつもりだったの?」
「さあ、どうかしらね」カリンは立ち上がった。「はもう少しゆっくりなさいな。わたしは髪を乾かすのに時間がかかるから、先に出てるわ」
彼女が浴室から出て行き、バスタブに余裕が生まれる。は脚を伸ばした。
恐らく――気を利かせてくれたのだろう。カリンは端から見れば少し図々しく見えるが、他人の些細な変化に気付くことのできる女性だ。この程度の機転は彼女にとって何でもない。
は壁の鏡を見た。頭から肩までが映るほどの小さな鏡だ。そこに映っているのは、濡れた自分の顔と耳飾りのように輝くクリスタルベアラーとしての証。普段は耳飾りで誤魔化しているが、外しても能力を出さなければ他人から気づかれることはほとんどない。
レイルは最初から気付いていたようだが――。
「ねえ、」
突然、扉越しにカリンの声が飛んできて、は慌ててバスタブに身を潜めた。
「なあに?」平静を装った声で答えた。
「せっかくだから今夜はもう少し話さない? 何だか目が冴えちゃって」
「そうね、賛成」
やったあ、とカリンの嬉々とした反応が見える。「じゃあ新しいお酒、開けちゃうわね」
また許可も取らずに保存室を開けたのか、とは呆れた。しかし普段から静かで話し声も届かない空間から、誰かの声が聞こえることに落ち着きを覚えたのも確かだった。
いずれはカリンにも全てを話そう。彼女が受け入れてくれなかったとしても、責めるようなことは決してせずに。それは自分自身と交わした約束だ。
ただ、そんなことを考えていられたのはその時だけだ。間もなくはカリンに打ち明けるどころか、二度と会うことすら出来なくなる。
それを知るのは終戦記念日の三日前のことだ。