ドリーム小説 14

 夕方の港に一隻の船が停泊した。漁師が大きな網を持ち上げ、同乗している乗組員たちが甲板から陸地へと箱を運んでいる。恐らくとれたての鮮魚が入っているのだろう。時々、今日の収穫もなかなか良かったな、と嬉々とした声が聞こえてくる。
 海沿いの道では一匹のチョコボが軽やかな足取りで荷台を引いていた。からから、と木製の滑車が回る音に合わせて、今度は賑やかな音楽が聞こえてくる。道沿いでパフォーマンスをしている音楽家たちだ。道行く人々が彼らの奏でる音楽につられて集まってきては、ギターケースの中へ各々ギルを投げ入れている。
 レイルはウェイトレスが運んできたティーカップを手に取り、一口含ませた。
 町の中央通りに面した、一階建てのカフェスペースだ。
 この町はアルフィタリアとは異なり、種族の違いに差がない。セルキー族が役所に勤めているケースもあれば、リルティ族が農作物を作っていることも珍しくはない。
 何より――ユーク族が町中を歩いていても、物珍しく振り返る者はいない。
 彼らが復活したことによって世界の秩序はようやく保たれたと聞くが、この状況こそが本来あるべき姿だったのかもしれないな、と最近になってよく考えるようになる。
 珍しく物思いにふけっていると、手前の空いている椅子が動いた。座ってきたのは若いセルキー族の女だ。海に面している町ではあまり見かけない露出度の高い服装を着ている。似たような女を彷彿とさせるな、と思いながらレイルは彼女と目と合わせる。
「何か用か」
「お店の外から見えたんだけど、あなたすごくいい男ね。それにちょっと可愛い顔をしてる」女はテーブルに頬杖をつき、首を傾げてきた。「もし暇を持て余してるなら、わたしといっしょに違うお店でも行かない? 良い店を知っているの」
「暇な男を探してるのか」それなら、とレイルは横指を立てた。「向こうの男はもっと暇そうにしてるぜ。店員が言うには昼前からずっとあの状態だ」
 女の視線が他所を向いた。壁際の一人用テーブルでは、自分の両腕を枕にするように眠っている中年のクラヴァット族がいる。ここからでは聞こえにくいが、微かにいびきを掻いている。彼の周辺だけ異様に空席が多い原因はこれだった。
「あんな男じゃ駄目」
「金目のものを持ってなさそうか」
「そうそう」頷いたところで女は、はっとした表情になった。「まさか最初から気付いてたの?」
「ああ、俺の指輪を狙ってるんだろ。悪いが、これはかなり安価だ。がらくた同然のアクセサリの見分けもつかないようじゃ、まだまだだな」
「もう、何よあんたっ」女はテーブルを拳で叩き、飛び上がるように立ち上がった。「ちょっと顔が良いからって調子にのらないでよね」
「お帰りはあちらですよ。ご案内しましょうか」レイルは指先で出口を指し示した。
「言われなくても分かってるわよっ」
 女は怒気を露わにしながら店を出た。一連の流れを傍観していたほかの客からの視線を浴びている。だがレイルは全く気にしなかった。
 ティーカップを空にしてから店を出た。路面は既に夜の色へと変わりつつあった。
 点火棒を持った職員が順々に火を灯し、各所の街路灯が暖色を宿していく。アルフィタリアでは馴染みのなかったガス灯にももう見慣れてきた。
 この町では魔晶石が無くなる以前から、それらを用いた道具や機械が一切存在しない。魔晶石の存在を知らないわけではないが、使い方が分からない、と首を振る人々が多く見られた。当初は動揺を隠せなかったが、いまでは随分異国の空気に慣れてきた。文化や分明の差異に驚いていた頃が、いまでは懐かしく思える。
 レイルは大きな橋が跨っている川辺にやって来た。橋の上のガス灯が淡く光り、川面にホタルが浮かんでいるような光景が広がる。
 あれから――どれほどの月日が経っただろうか。記憶が正しければ、少なくとも二、三年は過ぎている。最後の一件からアルフィタリアへ戻った過去はない。寧ろ、住み慣れた大陸から離れるように各地を周っていた。数百年前に滅んだとされる城跡や、チョコボが最初に生まれた土地として語り継がれている桃源郷。他にはクラヴァット族のクリスタルが眠っていると云われている大陸へ渡ったこともある。実際にクリスタルを確認することはできなかったが。
 ユーク族のクリスタルが復活したことにより、アルフィタリアがどう変わっていったのかは知らない。恐らくは次期女王候補であるアルテアが種族緩和に全力を注ぎ、様々な問題に直面しているだろう。彼女は少々危なっかしいところがあるが、芯を持った正統なリルティ族だ。少しずつではあるだろうが、徐々に民衆の理解に深い人物になる。
 魔晶石が無くなったことにより、エネルギー源を失った国はまた天才シドを頼るに違いない。いま思えば、彼が開発していたスチームエンジンは、いつかやって来る世界の変わり目を予想していたのだろうか。
どちらにしても、彼の先見の明はさすがとしか言いようがない。
 レイルは思わず乾いた笑みをこぼした。こんな風に昔の知り合いを思い出すことは久しぶりのことだったからだ。かぶりを振って思考を遮断させる。
 ここへたどり着いてから今日で一週間になる。数年間あてもなく旅を続けてきたが、これまで訪れてきた町のなかでも、首位を競うほど環境が身に合っている。ここならしばらく身を置いてもいいな、と思えるほどだった。
 ひとつの考えが浮上したところで踵を返す。
 次の瞬間、橋の上から大人の甲高い声が飛んできた。声のほうへ振り返ると、少年が橋から落下する光景が見えた。
 レイルは咄嗟にクリスタルベアラーの力を使い、彼を浮かせた。突然自分の体が浮かんだことに対して少年は驚いている。その反応にレイルはまた懐かしさを覚えた。
 橋の上からでは下の様子が見えないのか、両親だと思われる男女が駆け足で川辺へ向かってくる姿が見えた。周囲の人々も憂色を含んだ声を掛けている。
 レイルは少年を川辺まで引き寄せた。視線を合わせるように片膝をつく。「大丈夫か」
「うんっ」少年は元気よく頷いた。見たところ怪我もなく無事なようだ。
「そうか。足元には気をつけろよ」
「さっきのはお兄ちゃんがやったの?」
「ああ。怖かったか」
「ううん、全然。寧ろぼくの夢が叶っちゃった」
「お前の夢?」
「お空を飛ぶこと」まあ、と彼は首を捻った。「いまのは飛ぶっていうより、浮かんでたけど」
「……そっか」
 そうだ、と少年は思い出したように頭を下げた。「助けてくれてありがとう」
「こちらこそ」
「えっ。なんでお兄ちゃんがありがとうなの?」
「さあな」レイルは人差し指を口元に当てた。その時、少年の大きな瞳が光って見えた。
「お兄ちゃんのほっぺた、きらきら光ってすごく綺麗だね。まるでお星さまだ」彼は恐怖を見せるところか、目を光らせて訊いた。もしかするとクリスタルベアラーを知らない世代なのかもしれない。
 レイルは立ち上がった。遠くから彼の両親と思われる二人組みがやって来る。彼らは少年を抱き締めると、怪我がないか優しい手つきで確認している。
「お兄ちゃんが助けてくれたんだよ」
 父親と思われる中年の男と目が合う。彼は被っている帽子を外し、深々と頭を下げた。「息子を助けていただき、ありがとうございます。何とお礼を述べればいいか……」
「怪我がなくてよかった」
「あなたのお陰です。本当にありがとうございます」
 でも、と母親が悩ましげに口を開く。「どうやって息子を運んできたのですか?」
 今度は少年と目が合う。彼は先ほどの仕草を真似るように、口元に人差し指を当てながら笑う。その表情を見て、レイルは自然と口角が緩むのを感じた。
 男同士の空気を察したのか、父親が「まあ、いいじゃないか」と母親をなだめる。「息子が無事なら細かいことは気にしない。そうだろう?」
「それもそうね」
「あなたの名前をお聞きしてもよろしいですか」
「レイルだ」
 男は顎に手を添えると、こちらの顔に穴が開いてしまうほどの眼力で見つめてきた。
 あまりの気迫にレイルは両手を胸の前に出して、彼を制する。「俺の顔に何か?」
「ああ、いや。すまない」男は帽子を被った。「きみの顔を見ていたら、何だか懐かしい気持ちになったんだ。数年前、この町で暮らしていた若い女性を彷彿とさせる」
「俺はここへ来たばかりだぜ」
「そうなのか。いや、しかし……どことなく彼女に似ているような気がするんだよなあ」
 何を言い出すんだ、とレイルは思った。隣を見ると、若い女性、という単語に反応して女が彼を怪訝そうな目で睨みつけている。まるで凍てつくような眼差しだ。
「おお、そうだ」男は何かを思いついたように、スーツの胸ポケットに手を当てた。「お礼と言ってはなんですが、どうかこちらを受け取ってください」
 彼が取り出したのは名刺だった。顔写真の隣にはゼボルトという名が記されている。
「これから家族で食事に向かうつもりだったのですが、息子のこともあります。我々は自宅へ戻りますゆえ、あなたさえ良ければこの先にあるお店を訪ねてみてください。名刺を店員にお見せするだけで構いません」
「そのカードを見せたら、美味しい料理がいっぱい出てくるんだよ」少年が言った。どうやら名刺を魔法の札か何かと勘違いしているようだ。
 断れば空気を乱してしまうと考え、レイルは厚意として名刺を受け取った。
「店は橋を渡った先、パン屋の隣にあります。どうか良い夜をお過ごしください」
「今回はどうもありがとうございます」
「またね、お兄ちゃん」
 少年は去り際に手を振り、両親に両手を引かれてこの場を後にした。
 名刺をひっくり返し、一考する。少年の言葉を鵜呑みにするわけではないが、ただで腹を満たせるのであれば、こんなに美味い話はない。
 レイルは名刺をジャケットのポケットへ忍ばせ、店へ向かった。
 ゼボルトの言葉通り、橋を渡った先にパン屋の看板が見えた。店は既に閉じているが、隣から明るい光が漏れ出している。外から様子を眺めてみると、中には多くの人がテーブルやカウンター席で酒を酌み交わしていた。種族や年齢は問わず、様々な客層が集まっているようだ。
「ご来店のお客様でしょうか」店内からウェイトレスがやって来た。リルティ族だ。
 レイルはポケットから名刺を取り出した。ウェイトレスはゼボルトの名前を見ると、何も言わずに「お席へご案内します」と促した。
 前言撤回だ。これは魔法のカードだ。彼がただの紳士ではないことも確かである。
 店内は二階建てのようだが、レイルが案内されたのは一階のテーブル席だった。中央にはステージにも似た台座が用意されており、グランドピアノが証明に照らされて輝いている。どうやら時間になれば歌と音楽が披露されるようだ。
 座ってから間もなく、先ほどのウェイトレスが戻ってきた。メニューはすでに決まっているようだ。テーブルにグラスが置かれ、酒が注がれていく。
「失礼ですが――」ウェイトレスが言った。「お客さまはお酒が飲めるご年齢ですよね」
 レイルは沈黙で肯定した。今日は何かと、可愛いだの、子供に見えるだの、と散々な日だ。
「ゼボルトさまのご紹介なんて、いったい何者なんですか?」彼女が耳打ちしてきた。
「そんなにすごい男なのか」
 まさか、と彼女は言った。「ご存じないのですか」
「最近来たばかりなんでね」
「この町を取り締まっているお方ですよ。ゼボルトさまのお陰でここは大陸で最も治安が良いと言われているんです。何より種族に貧富の差を感じさせませんから」
「なるほど、そういうことか」レイルはグラスを傾けた。「どうりで機転が利くわけだ」
「すぐに料理をお持ちしますね」彼女は去った後に、そうだそうだ、と体を反転させた。「間もなく中央スペースで歌が披露されますので、ご覧になってお待ちください。本日はこの町一番の歌声を持つユーク族がいらっしゃっているんですよ」
「ユーク族が歌うのか?」
「何かおかしいですか?」
 聞き返されて、はっとした。何でもない、と答えてレイルは背もたれに体を預ける。
 やがて店内の照明が静かに落とされた。拍手と共に店の奥から現れたのは、クリスタルの輝きにも似た透明のローブを身に纏ったユーク族だった。頭には気品のある飾りが添えられ、ひとつひとつの仕草に合わせて光彩を放っている。
 静寂に包まれると、ユーク族はゆっくりと歌い出した。賛美歌のようにも聞こえるが、店内の雰囲気に似合った明るいリズムへ変わっていく。料理の手を進めながら彼女を眺める者もいれば、歌に酔いしれいるように目を閉じている者もいる。
 ユーク族の美しい歌声を聞くことが、いまは当たり前の世界。少し前までは考えられなかった光景を目の当たりにしている。
「あの人、泣いてるのかな」
 どこからかそんな言葉が聞こえた。確かにこんな綺麗な声を聞けば、涙も流れる。
 歌が終わると、再び拍手が起こる。店内の照明も元へ戻り、同時にレイルのテーブルに色鮮やかな料理が運ばれてきた。聞いたとおり、どれも美味そうなものばかりだ。
 食事に手をつけようとした時、テーブルに歪な形をした影ができた。頭上には先ほどまで壇上で美声を発していたユーク族が立っていた。
 見れば見るほど、彼女――もしくは彼なのか定かではないが、とある人物に似ているな、と思う。
「レイル?」
 名を呼ばれたとき、心臓が跳ねた。しかし目の前にいるユーク族は明らかに別人だ。
「あなたはレイルですね」ユーク族は確かめるように再度訊いてきた。
「ユーク族の知り合いは一人だけなんだが」
「アミダテリオンから貴方の話を聞きました」ユーク族は胸に手を当てながら頭を下げた。「レイルという若者が、我々ユーク族と世界の架け橋になってくれたのだ、と」
「そんな……俺は別に――」大したことはしていない、とレイルはかぶりを振る。寧ろ助けられたのは自分のほうだ。返しても返しきれない恩がある。
「どうかそんな顔をしないで。私達がこうして世界に存在することができたのは、貴方のお陰でもあるのです。私達が記憶を紡いでいく限り、アミダテリオンの命は消えない。それを伝えるために今日はここへやって来たのですから」
「俺がここに来ると知ってたのか?」
「ユーク族は他の者とは少し変わった力を持っているのです。あなたと少し似るものが」言いながらレイルの頬を示すように、自身の顔を叩いた。「しかしどうやら、貴方は本当に特別な存在なのかもしれませんね」
「どういう意味だ?」
 独り言です、とユーク族は手を横へ振る。気付けば二人は周囲から注目を浴びていた。
「それと……ガーゴイルの件は申し訳ありませんでした」
「ガーゴイル?」問うたあとにレイルは思い出したように、ああ、と呟いた。
「わたしの不注意で飛ばす場所を誤って森に指定してしまったのです。すぐに引き戻そうとしたのですが、安易に手が出せなかったのですよ」
 そういうことだったのか、とレイルは合点する。当初はユーク族の事情を知らなかったため、あくまで可能性として考えていた。今では全てを理解することができる。
「気にするな。お陰でなかなか楽しめたぜ」
 彼女は頭を揺らしながら笑った。「貴方は話に聞いたとおり、面白い方ですね」
「そりゃどうも」
「またどこかでお会いしましょう」
「ああ。しばらくはこの町にいる」
 それなら、とユーク族は背中を向けた。「彼女の演奏も楽しんでくださいね」
 彼女が別のテーブルへ去ったあと、奥からクラヴァット族と思われる若い女がやって来た。ユーク族とは対照的にスーツを着込んでいる。
 彼女はグランドピアノの前に座ると、前触れもなく鍵盤を弾き始めた。店内の背景に溶け込むような音楽。前にどこかで聴いたことのある曲だ。
 決して目立つようなことはせず、ただ店内の一部のようにピアノの音色が流れ込んでくる。時々他の客が彼女に近寄っては、興味津々に弾く姿を眺めている。その視線には目もくれず、本人は曲調に合わせて体を揺らし、途切れもなく弾き続けている。
 しばらく引き続けたところで彼女は指を止めた。ユーク族の歌声と比べて拍手は少ないが、彼女の演奏は店内の雰囲気をより一層際立たせるものがあった。
「今夜の演奏もなかなかいいね」
「ありがとうございます」
「今度はぼくの店でも弾いてくれよ」
 ――いいだろう? 
 その名を聞いてから、レイルの脳内である人物が思い浮かんだ。
 まさか、と思いながら笑みを浮かべている女を見る。レイルは思わず目を剥いた。
「もちろんです。いまのわたしは弾く場所を選んでいる場合ではありませんから」
「そうか。それじゃあ明日の夜、打ち合わせも兼ねてぼくの店へ来てくれ」
「分かりました」彼女は軽く頷いた。
「頼んだよ、」男は彼女の肩を優しく叩くと、グラスを片手に離れていった。
 彼女は男の後ろ姿を見届けてから、再びグランドピアノに向き合う。両足でペダルを踏み、適当に鍵盤を鳴らして音を確認している。
 ふと、彼女の目がこちらへ向けられる。自然と視線が絡み合い、二人の間で時間が止まったような気がした。
 レイルさん――環境音に紛れて声は聞こえなかったが、彼女は確かにそう呟いた。
 が椅子から腰を浮かせた。しかしユーク族との会話を堪能した者たちが、今度は彼女の周りに集まってきた。これを弾いてほしい、あれを弾いてほしい、と財布から金を取り出しては彼女に要求している。
 はすぐさま表情を切り替え、ピアノを弾き始めた。
 彼女が全てのリクエストを弾き終えたのは、レイルが食した料理が片付けられる頃だった。先ほどまでは埋まっていた席が徐々に空いていくなか、は今度こそ腰を浮かせた。
 レイルは立ち上がった。
「レイルさん、ですよね」彼のテーブルまでやって来て、彼女は確かめるように訊いた。
「それはこっちの台詞だ」レイルは彼女の頭から靴の先までを眺めた。「あんた、本物か?」
「偽者に見えるんですか?」彼女はおかしそうに笑った。笑い方がちっとも変わっていない。
 レイルは前の席を目で示した。は椅子を引き、腰を下ろした。
 ウェイトレスが近づいてきた。彼女はレイルのグラスを見て、同じものを、と伝える。
「久しぶりだな」
「そう、ですね」彼女はどこか歯切れが悪かった。「どうしてレイルさんがここに?」
「同じ質問で訊き返してもいいか」
「わたしが訊いてるんじゃないですか」
 グラスが運ばれてきた。彼女は喉が渇いていたのか、半分以上を一気に飲み込んだ。
「わたしは見ての通り、色々なお店でピアノを弾いて回っているんです」
「もうカフェ店員は引退したのか」
「いまもやっていますよ。ピアノだけじゃ生活が厳しいので……」彼女は背もたれに体を預けた。「あの場で働いていたのは、いつか人前でピアノを弾くようになるまでの練習でもあったんです。わたし、子供の頃から引っ込み思案で誰かの前で何かをすることにまったく慣れなくて……」
「なるほど。そういう考えがあったのか」
「どういう意味ですか?」
 こっちの話だ、とレイルは話を逸らした。
「さっき、アステリアさんと話してました?」
「アステリア?」
「壇上で歌っていたユーク族です。普段は表に出ないのですが、今日は珍しかったな」は彼女に憧憬の眼差しを向けた。「素敵な歌声ですよね」
 その理由は自分にある、と言えば彼女は驚くだろう。レイルは敢えて黙秘した。
 でも、と彼女は顔を戻す。「有名人とお知り合いだなんて、さすがはレイルさんですね。わたしなんて最近になってからようやく声を掛ける勇気が持てたというのに」
「買い被りすぎだ」
「あなたの人脈には憧れるものがありますが、その理由は明白ですからね」
 その時だった。蝶ネクタイを結んだ男が歩み寄ってきた。彼が言うには、そろそろ店を閉める時間なのだという。
 は立ち上がると、男と言葉を交わしてから振り返った。
「あの、レイルさん」
 何だ、と問うように目を動かす。
「この後、何かご予定はありますか?」
「忙しそうに見えるか?」
「見えませんね」彼女は一笑した。「久しぶりに会ったんです。もしよろしければ、どこか場所を変えて話でもしませんか?」
 レイルは断ろうと思った。だが彼女の目を見て、そんなことはできない、と悟った。
「ああ、いいぜ」
 よかった、とは微笑む。「支度をしますので、表で待っていてくれませんか」
「構わない」
「ありがとうございます。それでは」
 は店の裏へ消えていった。去り際に見慣れた耳飾りが光っていた。
 外に出ると、雨が降っていた。同志たちが揃った顔で雨雲を見上げている。
 どうしようか、と考えていると、頭上からぽつぽつ、と雨を遮断する音が聞こえた。横にはスーツ姿から私服へ様変わりしたが立っていた。片手には傘が握られている。
「お店からお借りしたんです」生憎一本しかありませんが、とは苦笑する。「ここから少し歩くことになりますが、わたしの家へいらっしゃいませんか」
「この町で暮らしてるのか?」
「はい。もう二年になります」
 二年といえば、レイルがアルフィタリアを離れてから間もない頃だ。ということは、彼女はやはり王都のカフェスペースが無くなったことを機縁に国から離れたのだろう。数年前の激動のなかで彼女の存在を感じなかった理由がようやく分かった。
「こんな夜更けに男を連れ込むのかよ」
「レイルさんのことを信じてますから」
 一瞬呆気にとられたが、彼女から傘を奪い、中へ入るように促す。が傘の中へ入った。二人が入るにはやはり狭すぎる。
「あんたの家はどっちの方角だ」
「この道を真っ直ぐ進んでください。海沿いに出たら灯台を目印にしばらく直進します」
「住宅地のほうか」
「行ったことがあるんですか?」
「少しだけ」
 レイルは言われた通りの道を歩き出した。雨が降り出した夜の町は普段より静かだ。
「訊かないのか」
「え?」
「どうして俺がここにいるのか」
 は少し間を置いてから答えた。「こんなわたしでも、長らく人と接する仕事をしていたんです。他人の感情や纏っている空気を感じることには長けています。だからレイルさんのことも多少なりとも理解しているつもりです。話を逸らすということは、そういうことだと」
 自分で訊いておきながら、改めて分析結果を口にされると恥ずかしいな、と思った。だが彼女が言っていることは正しかった。だからレイルは何も言わなかった。
「訊いてほしいなら、聞きますけど……」
「いいって」レイルはぶっきらぼうに答えた。
「わたしとしては、レイルさんと会えたことが奇跡のように思えるんです。だって――」ここまで言って彼女は、何でもありません、と言った。
「言いかけて途中で止めるのはいただけないな」
「ごめんなさい。言ってもレイルさんは恐らく覚えていないことだと思ったので」
「あんたが俺の記憶をいじったから?」
 ぴしゃん、と音を鳴らして彼女の足が止まった。歩幅の差でが雨に晒される。レイルは自分が濡れることを分かった上で傘を傾けた。
「思い出してはいない。だが、覚えていないってことはそういうことだと思ったんだ」
「怒ってますか」彼女は傘を手繰り寄せ、レイルを中へ入れた。「まさかそれを訊きにここへ?」
「そんなんじゃない」ただ、と言ってレイルはポケットから何かを取り出した。それは以前、彼女から受けた依頼の報酬にもらった耳飾りだった。「ようやくこれを返せる」
 これは、とは耳飾りと彼の顔を交互に見合わせた。「もうあなたの物です」
「それとこれも」
 続いて渡したのはドアノブだ。これに関しては受け取った覚えがないが。
「これも同様です」
「俺は一言も、もらう、とは言ってない」
「そんなヘリクツな……」
「何度も言わせるな」レイルは耳飾りを元の場所へ付けた。離れる前に細い髪を耳へ掛ける。「俺は借りたもんは必ず返す。前にもそう言ったはずだ。忘れたのか?」
 彼女は意表を突かれたような表情になった。
「それに、あんな簡単な依頼にその報酬は割に合わない。あんたもそう思うだろ?」
 彼女は目を逸らした後、ふっと笑った。「かなり思い切った決断だったのに」
「大事なもんなんだろ、それ」
「だからこそあなたに――」
 次の瞬間、クエエ、という鳴き声が飛んできた。声のしたほうには、体が濡れないように頭巾を被っているチョコボがいた。背後にはクラヴァット族の老人がワゴンに乗っている。
「あんたら道のど真ん中で立ち止まるなよ」老人が横へ退くように手を振った。「さっさとどいとくれ」
「すみません」
 は何故か傘をレイルに預けたまま、雨に晒されるほうへ退いた。老人は黄色い体を撫でると、角を曲がって姿を消していった。
 レイルは彼女を傘に入れる。「風邪ひきたいのか?」
「すみません。咄嗟だったんです」
「ずっと前から気になってたんだが――」
「なんですか?」
「もう店員と客じゃないんだから、呼び捨てにしろよ。あと敬語も堅苦しいから禁止」
「ええっ?」彼女の声が閑散とした道路に響き渡った。咄嗟に両手で口を塞ぐ。「無理ですよ」
「別に難しいことじゃないだろ」
 それじゃあ聞きますけど、とは唇を尖らせた。「レイルさんはわたしに敬語で話せと言われたら急に変えることはできますか?」
「勿論ですよ、お姉さん」
「そういうことを言ってるんじゃないんです」
 分かった分かった、とレイルは彼女をあやす。「それじゃあこうしよう。家に着くまで敬語が抜けなかったら俺の勝ち。呼び捨てができたらあんたの勝ちだ」
「勝ち負けに何か理由があるんですか?」
「それは後々決める」
 がぱちぱちと瞬きをした後、分かりました、と頷いたのを見て、レイルは足を進めた。


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