エスプレッソマシンに付着した滲みを拭っている途中で、はため息をついた。以前掃除したときよりも汚くなっているからだ。自分が出勤する前にカウンターを担当していたのは、同じクラヴァット族の女性だ。彼女は表の仕事に問題はないが、日頃から道具を雑に扱いがちだ。現にエスプレッソマシンもコーヒーやミルクで汚れている上に、ショットグラスも綺麗に洗えていない。
以前、それとなく注意したことがあった。その際に彼女は深く反省の色を見せたが、次の日からも状況は変わらなかった。恐らく興味がなかったのだろう。
は『マスカレイド』の看板をカウンターの奥へしまい、エプロンを外した。店内の電灯を落とし、バックヤードで帰る支度を始めた。コーヒーの匂いが滲み込んだシャツを脱ぎ、出勤時の服装へ着替える。束ねている髪も下ろした。
その時だ。バックヤードの扉を叩く音がした。その合図に緊張が走る。
「どうぞ」
入ってきたのはリルティ族の男だ。彼はカフェスペースを国から一任されている人物であり、の上司に当たる存在である。王都内を巡回している兵士たちよりも身体が大きく、背丈は自分と然程変わらない。
「まだいたのか。さっさと店を閉めろ」
「すみません。いま鍵を閉めます」
は途中まで留めていたシャツのボタンを閉じてから、鍵を取り出した。
最近、と彼は言った。「普段より客足が伸びているそうじゃないか。何かしたのか」
「特に変わったことはしていません。お客様のご注文に応えているだけです」
「前に若いセルキー族が来てたな。どうして追い返さなかった。ここは王都だぞ」
「……お客様だからです」
「違う。あれは客じゃない。王都で盗みや詐欺を繰り返す害虫そのものだ。店に出入りしていると周囲に知られれば、せっかく掴んだ客足も遠のくぞ」
お言葉ですが、とは言った。「一概にセルキー族が悪いと決め付けるのは、お客様に対する冒涜だと捉えます。例え裏の場だとしても――」
言葉はここで止まった。首を掴まれ、壁に押し付けられたからだ。は必死に抵抗するが、思うように力が入らず、男の充血した目を見ることしかできない。
「どの立場からものを言っているんだ、お前は」
「わ、わたし……」
「今度口答えしてみろ。次は文字通りその首を切り落としてやる」それと、と男は更に力を強めた。「今度セルキーの馬鹿が来たときは必ず追い返せ。分かったな。これは上司命令だ」
首を解放され、はその場に崩れ落ちた。頭上から鼻を鳴らす音が聞こえ、辺りを見渡す余裕を取り戻した頃には、男はいなくなっていた。
幸いにも、首に痕は残っていなかった。しかし痛みは引かず、咳を何度か繰り返した。
戸締りを済ませ、は自宅に向かって歩き出した。王都内を眺めていると、数週間後に近づいてきた終戦記念日への準備が進められている様子が見てとれる。亡き王妃が生前好んでいたといわれている花々で編みこまれたリースが印象的だ。
ふと、住宅地の窓から家の様子が見えた。中ではリルティ族の女性がエプロンを身に纏って厨房に立っている姿があった。彼女が首だけを動かして何かを言っている。視線の先には子供が二人いた。どちらも笑顔を宿しており、幸せの手本を見ているような光景だった。
「?」
名を呼ばれ、声のほうを見る。そこにいたのは青いバンダナが特徴的な彼だった。
「クァイスさん」
「どうしたんだ。こんなところで突っ立って」彼は歩み寄ってきた。
先ほどのこともあり、どんな顔でクァイスと接したらいいか分からなかった。しかし目を泳がせた先にリースを見つけ、会話の糸口を捕らえた。
「王都内の飾り付けを見ていたんです。クァイスさんこそどうされたんですか?」
質問に答えると、クァイスは額に手を当てた。「何だ。じゃあもう店閉まってるのか」
もしかして、とが言った。「お店へ向かう予定だったんですか?」
「ああ。腹減ったから美味いもんでも食おうかと。王都内のレストランは柄に合わねえし、それ以前にオレがセルキー族だからか、店に入れてもらえないんだよ」
「そうだったんですか……」
彼は胸の前で片手を構えた。「閉まってんなら別を探す。何なら帰って適当に食うから」
「適当にというと、具体的には何を食べるんですか?」気になって訊いてみた。
「レイルとシドたちは料理しねーからな。オレが買い込んでるもんで簡単に」
「……何にも分かりません」
そう言うとクァイスは誤魔化すように笑った。
「あの、クァイスさん」
「ん?」
「もし宜しければ、お裾分けしましょうか。わたしが朝に作った残り物になりますけど」
「マジで? いいのか」
「寧ろもらっていただけると助かります。たくさん作りすぎてしまったので」
クァイスは考える素振りを見せてから訊いてきた。「オレ、いまギル持ってないけど」
は思わず肩をすくめた。「お金なんて取りませんよ。お店じゃあるまいし」
「そうか。それじゃあその話、乗った」
はクァイスに駅前で待ってもらうように伝え、一度自宅へ戻った。レイルと同じ場所で暮らしていることは聞いていたが、先ほど初めて聞く名前があった。恐らく男性だろうと踏み、男三人が食べられるだけの量を詰め、彼を待たせている場所へ小走りで向かった。
クァイスは壁に寄りかかって魔晶ビジョンを眺めていた。
「早かったな。さすがはだ」
「容器はそのまま使ってください。わたしはお店からいくらでも譲っていただけるので」
「そういうことなら、有り難くもらうぜ」クァイスは料理の入った袋を受け取った。
「お口に合わなかったらすみません」
「心配すんな。オレやレイルも食えるもんなら何でも食う」
「それなら、良かったです」
安心していいのか否か笑いながら答えると、ふとクァイスが「やっぱ気のせいか」と呟いた。その反応には思わず首を傾げる。
いや、と彼は首の後ろを掻いた。「さっきからの様子が変だったから、何かあったのかと思ったんだ」
「えっ」
「はどんなタイミングで話し掛けてもいつも笑ってるだろ? あーいや、笑ってるっていうのは、へらへらしてるってわけじゃなくて、穏やかって言えば伝わるか」
クァイスに指摘されるまで気付かなかった。自分はそんなに表情を失っていたのか。思わず自身の顔を手のひらで探るように触れてみた。確かにいつもより筋肉が硬い。
「すみません。余計な心配をかけてしまって」
「何かあったのか?」
は、いいえ、とかぶりを振った。「わたしもお腹が空いていたのかもしれません。今日はいつもより忙しかったものですから」
「そうか。なら良いんだ」
「ありがとうございます、クァイスさん」
「礼を言うのはオレのほうだ。残さず食べさせていただきますよ、お姉さん」
もう、とは笑った。「早く行かないと列車が出ちゃいますよ」
時刻表が記されている魔晶ビジョンには、間もなく発車する列車が並んでいる。
「それじゃあな、。また明日行くぜ」
「あ、明日?」
「コーヒー、いつもの淹れてくれないのか?」
ここでようやく言葉の意味を理解し、は微笑んで応えた。
「はい。お待ちしております」
「オーケーだ」クァイスは指を鳴らすと、発車間際のセルキートレインに乗り込んだ。
は姿が見えなくなったクァイスに向かって一礼した。それが意味を成さないことだと分かっていても、身体が勝手に動いていた。
上司はセルキー族を嫌っている。それはリルティ族だから当たり前だ、と言ってしまえば、彼がクァイスを嫌うことが当然であることと繋がりが生まれてしまう。それをイコールとして結ぶわけにはいかなかった。上司がセルキー族に対して嫌悪感を抱く原因は、恐らく本人を取り巻く環境だけではない。
だからといって――大切な客の一人であるクァイスを一蹴することはできない。しかし上司から釘を差されたからには、雇われている身として従わないわけにもいかない。個人の判断で彼を迎えてしまえば、間違いなくカフェスペースには戻れなくなるだろう。
それだけではない。クァイス本人に何か災難が降りかかる可能性も十分に有り得る。それだけは自分の首が跳ねるよりも避けなければならない。
は胸に溜まった靄を息として吐き出した。それは深く、とても長く続いた。