レイルがシャトルから降りたとき。クラヴァットの子供が天井を見上げていたのが目に留まった。気になって彼の視線を辿ってみると、風船がひとつ浮かんでいた。いや、浮かんでいたというよりは天井に当たって留まっていた、と説明したほうが正しかった。
そういうことか、とレイルは状況を呑み込み、クリスタルベアラーの能力を利用して風船を少年の手元へ戻した。子供は自分の元へ返ってきた風船を見て驚いていたが、そのあとは笑顔を浮べながら丸い空気と共にその場を後にした。
「きみはクリスタルベアラーなのか?」
突然背後から声を投げられ、レイルは驚く。振り返るとリルティ族の老人がいた。クリスタルベアラーに気軽に声を掛けるだけでなく、その相手がリルティとは珍しいな、と思った。
「……だったらどうなんだ」
「君の力を見込んで、頼みがある」
「頼み?」
そうだ、と老人は頷いた。「この先に庭園があるだろう。ついて来てくれないか」
特に断る理由も見つからなかったので、レイルは頷いて老人と共に城外へ向かった。
王妃の庭園は普段通りの平穏さを保っていた。花壇の花々を観察する富裕層。落ちている花びらを拾い上げて嬉々としている若い女。子供たちが地形を利用した遊びで盛り上がる声など、聞こえてくる音楽は様々である。
老人に連れられてやってきたのは庭園の奥深く。王宮に仕えている者だけが立ち入ることを許されている扉の前だった。
レイルは扉と老人を交互に見る。
「じいさん、ここに何があるっていうんだ」
「あれを見て欲しい」
老人は皺だらけの指でどこかを示した。
いったい何なんだ――半ば警戒心を張りながら指の先を見ると、灰色の鳥がいた。庭園の草木に隠れて小さな巣を作っているようだ。
「もしかして、あれを追っ払えってか?」
「そんな、とんでもないことだ。きみもよく見てみろ。巣に子供の姿が見えるだろう」
目を細めて見てみれば、確かに巣には生まれたての雛鳥が餌を求めて口を広げていた。灰色の鳥はどうやら親鳥のようで、咥えている餌を子供たちに分け与えている。
「子供がいるのは分かった。で? それと俺がどう関係しているっていうんだ」
「いやあ、すまない」老人は苦笑して頭を掻いた。「実はあの鳥にわたしの宝物を盗られてしまったんだよ。恐らくは巣のなかにあると思うのだが、雛鳥を刺激するわけにもいかないだろう。どうしようかと頭を悩ませていたところにきみが現れた、というわけだ」
現れたというよりも能力を目の当たりにした、と言うべきだろうな、と老人は言った。
「どうかな。きみの力でどうにかなりそうか?」
「どうにかならなきゃ、こんなに世間様から騒がれたりしないさ。ちょっと下がってな」
老人はレイルから一歩遠ざかった。
「あんたの宝物ってどんなのだ」レイルは右手に軽く力を込めながら訊いた。
「結婚指輪だよ。三年前に病で旅立った妻との証なんだ。どうしても取り返したい」
「なるほど」レイルは頷いた。「そりゃあ確かに俺の力を使ってでも取り返したいわけだ」
レイルは親鳥を刺激しないよう、注意を払いながら巣のなかを探った。少し離れたところから老人の視線を感じる。恐らく手元を見ているのだろう。
クリスタルベアラーの能力をどのように扱っているのか、とクァイスやシドなどから以前訊かれたことがある。だが説明しても理解された試しはない。ただ言えるのは己の感覚のみで、頭で考えるよりも細胞が反応すると言ったほうが正しい。現にこうして指輪を探っているが、決して脳内に巣の様子が見えているわけではない。
指輪らしきものを見つけた。幸いにも雛鳥や卵の傍にはなかったようだ。レイルは音を立てずに金属だけをそっと引き抜き、手元へ戻した。
「これか」指輪を老人へ見せた。
「そ、そうですっ。ああ、良かった。本当に」
老人は指輪を嵌めた。小さな宝石だが、太陽の光に反射して輝いている。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「礼を言われるほどのことじゃない」
クリスタルベアラーの能力を使って感謝の意を述べられるなど、慣れていないことだ。相手がリルティ族なら尚のこと。レイルは正直どんな顔をしたらいいか分からなかった。
だからこそ――訊いてみたくなった。
「あんた、周りから変わってるって言われないか」
「どういうことかな?」
「平気な顔でクリスタルベアラーに声をかけるやつなんて、王都にはそうそういない。ましてやあんたはリルティ族だ。誰よりもベアラーの存在を毛嫌いしてるはずだろ」
老人は表情を変えることなく、しばらく思案する様子を見せてからゆっくりと答えた。
「確かに、世間から見ればそうかもしれないね」しかし、と彼は組んでいた腕を解く。「きみは何か悪いことをしたわけじゃないし、クリスタルベアラーだからといって一概に悪と決めつけるのはわたしの考えとは違うかな。現にこうして老人の頼みに嫌な顔せず引き受けてくれただろう? そういう出会いは大切にしたいんだよ」
昔ながらのリルティの誇りとは程遠いけどね、と老人は微苦笑を浮べながら言った。
何となく――この男を選んだ女の気持ちが分かるような気がする。他とは異なる思想を持ち合わせていることに変わりはないが、彼にとってそれは『変わりない』ことなのだろう。
レイルは知らず知らず、老人へ偏見の目を向けていることに気がついた。
リルティ族は皆、クリスタルベアラーに嫌悪感を抱いているに違いない――と。
「気分を悪くさせてしまったかな」
いいや、とレイルはかぶりを振った。「あんたみたいな人が他にいることを願ってるよ」
「きみは辛くないのか?」
「なにが」
「周囲からの目だよ」
レイルは笑みをこぼした。「そんなことを気にしていたら、心が幾つあっても足らない」
これから先は苦手な内容だ、と何かを察知したレイルはそのまま歩き出そうとした。
「待ってくれ」老人が控えめに叫んだ。「わたしはここで庭園の世話をしている者だ。今日の出会いと恩は決して忘れないよ。なにか困ったことがあれば、ここへ尋ねてくれ」
レイルは特に振り返ることもなく、ただ後ろ手を振ってからその場を静かに後にした。
がらがら、と重たいものを引きずる音が聞こえる。同時にどよめき声が飛んできた。レイルの興味を引くには十分な材料だった。
遠くから様子を覗けば、そこには大きな荷物を積んでいる木製のワゴンが佇んでいた。しかし荷物の大半が地面へ散らばっている。それらを慌てた様子で拾い集めているのはだった。
セルキートレインから降りてきた乗客たちが彼女を横目で眺めている。しかし長い階段を上ったあとに他人の世話を焼く余裕などないようで、みなの脇を通り過ぎていく。
彼女は周囲に助けを求めることなく、大きな荷物をワゴンの上に載せ続けている。
その目がレイルを捉えた。はレイルを見て一瞥すると、片づけへ戻った。
ついにレイルの足が動いた。近くに転がっている袋を持ち上げる――が、あまりの重さに腕が床に持っていかれる感覚を覚えた。女が軽々持てる重量ではない。
「それ、すごく重たいんですよ」
袋を肩に担ぎながら彼女が近づいてきた。その姿にレイルは思わずぎょっとする。
「ごめんなさい。わたしがレイルさんを見つけてしまったばかりに手伝わせてしまって」
「いったい何が入ってるんだ、これ」
「コーヒー豆です。これから倉庫へ運ぶつもりだったんですが、車輪が壊れたみたいで」言いながらはワゴンを見やる。確かに片方の車輪が崩れていた。
「こんだけの量を運べば、そりゃ壊れるだろ」
「いつもは大丈夫だったんですよ。まあ、無理をさせているなとは思ってましたけど」
「どこまで運ぶんだ」
「え?」
「この量を一人で運んでたら日が暮れるだろ」レイルは一度手放した袋を持ち上げた。「暇だから手伝ってやる。あんたには前にサービスしてもらったからな」
「でもあれはお店のものであって――」
「人の厚意には素直に甘えときな、お姉さん」
は何か言おうとしたが口ごもり、ありがとうございます、と言った。
車輪を直し、載せられるだけの荷物を積んでからはワゴンを引き始める。レイルもいつものようにクリスタルベアラーの能力で運ぼうと考えたが、何故だろうか。彼女の前では迂闊に力を出せなかった。
その理由は――先ほどのリルティ族のように『変わっている』者の一人だからだ。
「今日はクァイスさんとご一緒じゃないんですね」
「別にあいつといつも一緒ってわけじゃない」
「でも、すごく仲良しじゃないですか」
「仲良し、ねえ」
やつとは知り合って数年になるが、互いに仲が良いという認識は持ち合わせていない。
本意を問いただしたことはないので詳しいことは知らない。だが、本人が言うにはクリスタルベアラーの能力とポテンシャルを買った上で組んでいる、と言っていた。
やつはセルキー族でありながらも、犬猿の仲とも呼べるリルティ族の許で金を稼いでいる。他のセルキー族から見れば、それは一族にとって屈辱とも呼べる姿であり、見方によっては国に尻尾を振っている犬に見えるだろう。だからこそクァイスはセルキーズギルドへは気軽に戻れないし、長であるバイガリもやつとは大きく距離を置いている。
王都へ頻繁に足を運ぶクァイスは所謂『異端者』であり、レイルもそれと同じだ。種類こそは違うがクリスタルベアラーだ、と煙たがられる自分とクァイスは似ているといえば似ている。実際、そういった変わり者同士で馬が合ったのかもしれない、とは薄々感じている。
「クァイスとは知り合って長いのか」
「そうですね――」は考える素振りを見せたあと、三週間くらいでしょうか、と答えた。「朝方に突然いらっしゃったんです。眠気覚ましに何かないか、と。こんなことを言ってしまったら失礼に当たるかもしれませんが、王都内でセルキーの方を見かけることはないので、すぐに覚えました。それから徐々にいらっしゃるようになって、今に至ります」
「あいつ、たまに図々しいだろ」
「そんなことないですよ」彼女は控えめに笑った。「とても気さくで優しい方です。クァイスさんのお陰でわたしもいまの仕事が楽しいと感じることができますし」
それに、と言っては立ち止まった。
「レイルさんにもやっと会えましたから」
「やっと?」
それはいったいどういうことだ――問いただそうとしたが、彼女が先に口を開いた。
「ここが倉庫です。いま扉を開けますね」
はワゴンを置き、胸ポケットから取り出した鍵で扉を開けた。薄暗いが、掃除が行き届いているようで見かけよりは埃臭くない。
レイルは抱えている荷物を言われたとおりの場所へ置いた。は積んでいる荷物を軽々と持ち上げ、あっという間にワゴンは空になった。
彼女は額の汗を拭った。「ありがとうございました、レイルさん」
「俺は自分の抱えている荷物を運んだだけだ」
「でも、駅前でわたしの手伝いをしてくれたのはレイルさんだけでしたから」
「それは」レイルは頬を掻く。「あんな風に目が合ったら、誰だって手を貸すと思うぜ」
「そうだとしても、わたしは嬉しかったです」
倉庫から出ると、は鍵を閉めた。同時に遠くから昼を告げる鐘が鳴った。
「レイルさん、これからお時間ありますか?」
「デートにでも誘うつもりか?」
「いいえ」は即答した。「お礼に一杯ご馳走させてください。是非レイルさんに飲んでいただきたいものがあるんです」
そこから時計広場へ移動するまでの間に数分もかからなかった。レイルは半ば無理やり彼女に連れられてカフェスペースまでやって来た。
はカウンターの裏へ隠れると、間もなく腰に黒いエプロンを巻いて戻ってきた。両手に『マスカレイド』と書かれた看板を抱え、それを店の前に誇らしげに飾っている。恐らく、看板が立っていることが開店の証なのだろう。
「どうぞ、こちらへ」
「別に長居するつもりはないぞ」
「立たせたままお待たせさせるのが嫌なんです」
レイルは周囲を見渡す。「人の目が気になるのか? あの店は客にそうさせるんだと」
「そう捉えていただけても構いません」は気にしないといった態度で笑った。
レイルは椅子へ座った。それを確認すると彼女は再びカウンターへ戻り、注文を受けることもなく何かを作り始めた。
正直――と接してからコーヒーが飲みたいとは考えていた。
それは先ほど運んでいた荷物の中身がコーヒー豆であった、ということも理由に含まれている。腹が空いているときに美味そうな匂いが漂ってくれば、そこから料理を想像するまでの時間は速い。そして空腹を満たすために料理店を探すのは当然の欲求だ。今回はその例えと少しだけ似ている。
考えている間にも、周囲に挽きたてのコーヒー豆の香りが漂い始めた。カウンターでは依然としてが機械とにらみ合いをしている。何をしているかは分からないが、彼女がたった一杯のために至誠を尽くしていることだけは分かる。
そんな彼女に近づく者が現れた。クラヴァット族の男だ。彼はカウンターを指先で叩き、作業中の彼女を呼んだ。はすぐに手を止めて客と向き合い、お待たせしました、と頭を下げた。
「客が来たらすぐに来いよ」
男の声は低かった。レイルの角度からは見えないが、恐らくを睨みつけている。彼女の顔つきが若干強張っているのがその証だ。
「大変申し訳ございません」
彼女は深々と頭を下げた。その姿を見て、レイルはそこまでする必要があるかと思ったが立場上、そうせざるを得ないのだろうな、と状況を呑み込んだ。
「悪いと思ってるならさっさと作れ。氷を多めにして、ファムミルクで割ってくれよ」
「ファムミルクでございますね」
「ああ、あと。おれは魔物の死骸が入った豆なんて飲みたくないからな。この意味分かる?」男はカウンターに両手をつき、に顔を近づける。威圧的な態度だ。
「承知しております」
「じゃあすぐに出せ」
「かしこまりました」
「そういうのもいいからさっさと作れよ」
は、お待ちください、とは答えず、すぐに作業に取り掛かった。
男の背後ではレイルが右手に力を込めていた。いつどこで派手に転ばしてやろうか、と考えている間に、が中身の入ったカップをカウンターに載せていた。
――おかしい。
男が注文をし終えてから、まだ十秒も経っていない。レイルが瞬きをする前、彼女はまだリサイクルカップを手に取っていたはずだ。
驚いているのはレイルだけではない。傲慢に構えて物を飛ばした男もあまりの提供の早さに固まってしまっている。先ほどまで目障りなほどに動いていた足先もぴたり、と止まっていた。
「お客さま?」が言った。
「え?」
「ご注文のお品はこちらでよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」男の声から毒気は抜けていた。
は、良かった、と笑みを浮かべた。
「先ほどは対応が遅れてしまい、大変申し訳ありませんでした」彼女は丁寧にお辞儀をする。「今後は先ほどのような不手際がないように努めて参りますので、これに懲りずまた当店をご利用ください」
「分かってんなら、いいんだ」
男は飲み物を手に取ると、動揺した様子を隠し切れないまま踵を返した。その様子をレイルは横目で見つめ、すぐに視線をへ変えた。彼女は男の姿が見えなくなると、息を吐いていた。剛胆をもってしても、さすがに堪えたのだろうか。
ふと、と目が合った。彼女は微苦笑を浮べたから歩み寄ってくる。その手にはマグカップが握られていた。
「レイルさん、お待たせしました」
はマグカップをテーブルに置いた。
「こちらは現在考案中のコーヒーです。上にクリームが載っているので少し甘めですが、深煎りしているので苦味も味わえるようになっています」
どうぞ、と持ち手を正面へ回し、飲むように促された。
コーヒーよりも先に訊きたいことがあるのだが――。
冷める前に飲んだほうがいいか、とレイルは全体を混ぜてから一口含んだ。以前飲んだコーヒーに比べて確かに甘いが、彼にとっては丁度いい加減だった。
「いかがでしょうか?」
「悪くないんじゃないか」
「本当ですかっ」
「強いていうなら」レイルはもう一度啜った。「苦味を調節できるといいな。俺は丁度いいが、クァイスならもう少し苦いほうがいいなんて言いそうだ」
は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐにふふっと笑った。
彼女の反応にレイルは頭上に疑問符を浮かばせる。
「俺、何か可笑しなことでも言ったか?」
「いえ」ただ、とは続ける。「お二人はやはり仲が良いんだな、と」
いまの発言にそう感じさせる要素があったのか解らず、レイルの疑問符がまたひとつ増えた。しかしには、気にしないでください、と軽く流されてしまった。
それにしても、とレイルが言った。「あんた、意外と度胸あるな」
「どういう意味ですか?」
さっきの、とレイルは男が消えた先を顎で示す。「あんな態度とられて、よく表情を変えずにいられるな。俺だったら眉のひとつくらいは動くぞ」
ああ、とは腑に落ちた面持ちになる。「店員として、とるべき対応をしたまでです。あのようなときはお客様の気持ちに合わせることが大切だと教わりましたから。抵抗してしまっては、返って相手を触発しかねません」
「同じクラヴァットとは思えないな」
「種族が同じでも、考え方は人それぞれです」
確かに――。先ほど庭園で会ったリルティ族の老人も同じことを言っていた。例え種族に特徴があったとしても、それは世界が勝手に定めたことだ。本来はそうではなく、そうなるべくように自分たちが操られているだけかもしれない。
「偉そうにべらべらとすみません」
「別に構わないさ」
「ご用件があればお気軽にお申し付けください。わたしはカウンターにいますので」
「じゃあ、訊きたいことがある」
「はい。なんでしょうか?」
「さっきの注文、何をしてあの速さで作れたんだ」
レイルの問いにの瞬きが増えた。しかしすぐに口元に弧を描いた。
――企業秘密です。
それだけ言い残し、彼女は背中を向けた。その後ろ姿に偽りはなかったが、レイルの目はある一点に注がれていた。それがどこなのかは、彼にしか分からない。