『今夜九時からは恐怖! 本当にあった怪奇現象スペシャルをお送りします』
ペンを走らせるの動きを止めたのは、テレビから飛んできたアナウンサーの声だった。不気味な内容に反してプロンプターの原稿を読み上げる彼女のそれは明るく、終始興奮している様子である。
程なくしてコマーシャルへ変わった。だが映像が切り替わった後も同様の宣伝が流れる。
『シンオウ地方の深き森で繰り返し起こる不可解な消息事件。その真相とは?』
ここでの興味は失せた。再びペンを走らせ、収録に必要なネタを書き加えていく。
「へえ、怖い番組やるんだ」
向かいの席でテレビを仰視したのはルージュだ。彼女は目には関心の色が含まれている。
「わたしの勝手なイメージだけど、ルージュちゃんは心霊系とか興味ないと思ってた」
「正直言ってあまり得意じゃないんですけど、怖いもの見たさってやつですかね」
「それ、観てから後悔するやつじゃない?」
例の通り、たちは放送局内にいた。場所はスタジオではなく、フリーアドレス制で設けられている小さなフロアだ。屋内を照らす暖色の明かりが淡く光り、壁に設置されたテレビ音が反響している。オフィス内で自由に番組を変えられる唯一の部屋でもある。
無事に夕方の収録を終え、今夜の夕食は買って帰ろうかな、とが思案していた時、タブレットを抱えてスタジオを去っていくルージュが目に留まった。何となく声を掛けると、彼女は残って業務を行うと答えた。そんなルージュに感化され、も一時間ほど残って作業を進めることを決めた。
現在フロアを利用しているのはとルージュを含めれば五人。他の三人はグループで、時々談話を交えながら各々キーボードを叩いている。はポケモンクイズの問題を熟考しては、資料探しの旅を繰り返していた。
「さんは全然興味なさそうですね」わたしの勝手なイメージですけど、とルージュは笑う。
「ポケモンの怪奇現象は好きなんだけどね。人間が関わると何か裏があると考えちゃって」
「作為的な番組とかたまにありますもんねえ」
「そうそう」は頷く。
随分と前のことだ。天気予報を見ていると、番組が心霊特集へ変わった。前半はポケモンが引き起こした不可思議な現象だったため、そこまでは注意深く観ていた。しかし後半は明らかに人間が模造品を作り、それを幽霊に見立てたものばかりであった。臆見かと放送が終了した後に動画を確認すると、作為的であったと当事者のコメントでからくりが判明した。それ以来、人間が関わる怪奇現象系には懐疑的な目を向けるようになった。
「でも、今回テレビで取り上げる怪談話はポケモンによる悪戯って説も挙がってますよ」
「そうなの?」
「あはは」ルージュは一笑した。「ポケモンの可能性が出た瞬間、目の色変わりましたね」
「ついね」は少し恥ずかしくなった。
「番組でどんな風に紹介するかは分かりませんが、目撃者によるとロトムの仕業らしいです」
「ロトムってあのロトム?」
「そうですよ」
ルージュはタブレットを操作する。画面に表示されたのは森に囲まれた古雅な洋館だ。見る限りかなり老朽化が進んでいる。そして先ほどテレビ内で紹介された建物と酷似している。どうやら取り上げられるのは、この洋館で間違いなさそうだ。
下部へスライドさせると、テレビの前で白い閃光が走る写真が目立つように掲載されている。凝視すると微かにロトムの顔が見えた。
「肝試しにやって来た人間たちをここに棲みついたロトムが脅かしてるみたいです」
「ロトムは悪戯好きって云われてるからね。性質と並べて考えれば筋が通ってるかも」
「これ以外にも怪しい目撃情報があるんですよ。食堂には宙に浮いた男性がいたり、撮影者の隣の部屋に影のない女の子がいたり……とか」
「ちょ、ちょっと待って」
ルージュの発言には思わず手で制した。
「それが本当であるかは置いといて、隣の部屋に女の子がいたってどうして判ったの?」
「写真に残ってたんですよ」
これです、とルージュはページを更に下へスライドさせる。室内を俯瞰して撮った写真だ。真ん中の部屋に写っている人物は記事をまとめた本人だろうか。黒塗りのカメラを携えている。彼がいる場所とは他に両脇にも別室が設けられている。
左の部屋に変わった様子はない。だが反対側はどうだろう。は視線を横へ滑らせた。
――いる。白いベッドの傍で佇む少女の姿が。
これはいつの年代に撮影されたのか。現代の加工技術であれば、いくらでも変造可能だ。計画的に少女を隣の部屋に立たせ、彼女の影を精巧に消せば心霊写真として十分成り立つ。
だが、が着目したのはそこではない。
「これは撮影者のデータ、もしくはフィルムに残された写真だって言ったよね」
「そうですよ」
「それならさ」
この写真は一体どうやって撮影したんだろう。
「どういう意味ですか?」ルージュは首を捻った。
「隣の部屋に女の子がいた証拠がこの写真であることは判る。だけど、こんな俯瞰的に撮るなんて不可能じゃない? 例え天井に張り付いてパノラマ撮影したところで、部屋は壁で遮られているでしょう。こんな風に繋がっているように撮るなんて無理よ」
「言われてみれば、確かにそうですね」
とルージュは同時に顔を見合わせる。恐らく考えていることは同じだろう。
――ならばこの写真を撮影したのは、一体誰だ?
は身震いした。不可思議な写真を閉じ、タブレットの電源を切る。
「……止めよっか。この話」
ルージュは何も言わずに何度も頷いた。
背筋に冷気を覚えた時だった。前触れもなく室内の明かりが音も立てずに、ぱっと消えた。
向かいからルージュの小さな奇声が漏れる。同室で作業を進めていたグループも驚きの声を上げている。会話の相乗効果でも焦りと恐怖の色が胸中で広がっていくのを感じた。
「えっ。なんなの急に。ほんと止めて」
だが狼狽するルージュを見て、は平静さを取り戻していく。自分以上に怯えている者が周りにいると、自然と平常心になるあれだ。
冷静になって辺りを観察する。フロアに設置されたセントラルヒーティングは暖風を送り続けており、テレビも絶えず光を放っている。停電による作用ではなさそうだ。何よりここはラジオ放送局。そう易々と電力が落ちるはずもない。
他に考えられる要因とすれば――は瞼を閉じ、考え付く答えを手繰り寄せる。
その時だ。テレビの音声に混ざって微かに機械的な羽音が聞こえた。それは解決の糸口を開く鍵であり、の目を開かせる材料だった。
「あれ、おれのスマホが起動しない」
グループの一人が呟いた。は怯えるルージュに一声掛けた後、彼らに駆け寄る。
「すみません」が言った。「いま、スマホが起動しないと仰いましたか?」
「そうなんです。さっきまで動いてたんですけど」
は室内をぐるりと見渡した。「そのスマホ、もしかしてロトムが搭載されてますか」
その通りです、と男性は頷く。
「恐らくあなたのロトムが部屋の電力を奪っています。明かりが消えた理由はそれです」
「ええっ。そうなの?」男性は目を剥いた。「ロトムってスマホから勝手にいなくなるんだ」
再び近くで謎の鳴き声が聞こえた。今度は聞き間違えようがない。完全にロトムのものだ。
「ロトム、戻って来いよ~~」
男性の声に反応したのか。一箇所で点滅している電灯からロトムが姿を見せた。彼が出てきたお陰で部屋の明かりは元へ戻り、眩い光にたちは目を細める。
「おっ、明かりが点いた」男性が言った。
「びっくりしたあ」彼の同僚と思われる女性が安堵の息を吐く。「おばけの仕業かと思った」
「ロトムの悪戯だったみたいですね」
非論理的な現象でなくてよかった。も密かに胸を撫で下ろした。
ロトムは自分が悪事を働いたことなど気に留めない様子でたちの前へ飛んでくる。
「すみません。おれのせいで驚かせてしまって」
「いえ、わたしは全く平気です」
少し驚いたけど、という本音は胸に留めておいた。
「おいこらロトム。勝手に出ちゃ駄目だろ」
男性が軽く叱咤すると、ロトムは口で険しい山を作った。明らかに不服そうだ。
「どうしてそう脹れるんだよ」
「この子も気分転換がしたくなったんじゃない?」助言したのは傍にいた女性だ。「あんた、スマホの電池が切れそうって言ったじゃん。電気はロトムにとってはご飯みたいなものだし、例え機械が大好きでも、他の家電や機具で遊びたいのかも」
「その可能性は十分あり得ますね」が頷いた。
「なあんだ。そういうことか」男性は合点した様子でロトムを見つめる。「これからはお前と遊ぶ時間も作るよ。気付いてあげられなくてごめんな」
ロトムは自身の思いが通じた嬉しさからか、男性の周りをぐるぐると回り始めた。どうやら図らずともポケモンの悩みも解決できたようだ。
「ルージュちゃん、大丈夫?」
が元の場所へ戻ると、戸惑いの色を隠し切れていないルージュと目が合った。
「何とか平気です」ルージュは額の汗を拭った。「情けないところを見せてしまいました」
「余計なお世話かもしれないけど、今夜の心霊番組は観ないほうがいいんじゃない……?」
「自分もいまそう思いました」
はああ、と暖色の光を取り戻した空間にルージュの重たい溜め息が漏れた。
間もなく午後九時へなろうとする頃、テレビでは例の心霊番組が始まった。身を思って恐怖体験をしたルージュは無言でリモコンを取った。切り替わった画面では公共放送のキャスターが落ち着いた声色で一日の出来事を報道している。
ルージュが帰宅の準備を始めた。も思いがけない事態で集中力が途絶えてしまった。このまま無闇に作業を続けるよりは、大人しく帰ることが明日のためにもなるだろう。広げている道具をかき集め、ルージュと共に切り上げることにした。
二人で放送局を出て、駅へ向かうためにシュートスタジアム前の運河に沿って歩き出す。
水面に揺れる街の景色を眺めながら、は違和感をひとつ抱えていた。
隣を歩くルージュの距離が異様に近い気がする。いまの自分たちはまるでバイバニラだ。
「ルージュちゃん」
そっと声を掛ければ、彼女はびくっと肩を震わせた。
「ご、ごめんね。大丈夫?」
「わたしこそすみません。自分でもまさかこんなに耐性がないとは思わなくって……」
自分たちの距離感に気付いたのか。ルージュは軽く頭を下げてから、そっと身を引いた。
「タイミングが最悪だったもんね。わたしも驚いたし、ちょっと恐かったよ」
「ああ~~」ルージュは頭を掻きむしった。「あんな風に腰抜かしちゃった。情けない~~」
「……誰にも言わないほうがいい?」
「お願いします」ルージュは抑揚をつけて言った。
普段クールで何事にも動じない彼女が、実はホラー要素が苦手だったとは思わなかった。落ち込む本人には申し訳ないが、意外な弱点を知ることができ、は少し得した気持ちになった。
運河を架ける大橋が見えてきた。頬に海からの冷たい風を受けながら橋を渡る。
「さんは苦手なものとかあるんですか」
「わたし?」は一考する。「急に訊かれるとあんまり思い付かないかも」
「うわあ、防御高っ」まるでミカルゲじゃないですか、とルージュは付け足す。
「それはミカルゲに失礼よ」は苦笑しながら手刀を横へ振る。「咄嗟に浮かばないだけ」
「見破って弱点狙うしかないですね。あっ、でも今ならフェアリータイプでいけるかも?」
「ポケモンバトルじゃないんだから」
思わず二人で笑い合う。先ほどを比べてルージュも自然と話せるようになってきた。怯える彼女を自宅まで送り届けるべきか迷ったが、この様子なら心配なさそうだ。
公園沿いの歩道を歩きながら、ふと街灯に括りつけられたストリートフラッグに目がついた。過去に何度も見ているチャンピオンカップの旗だ。そのまま真っ直ぐ進んで広場へ出れば、大企業の広告が連続して流れる大型ビジョンがたちを出迎える。
「相変わらずこの辺りは夜でも明るいですね」ルージュが大型ビジョンを仰視しながら言う。
「少し眩しすぎるけどね」
目映い映像から視線を落とすと、頭上からダンデとリザードンの声が降ってきた。この場で彼らの存在を浴びるのには慣れている。今更見上げるものでもない。
「ダンデさんって色んな邪気とか祓ってくれそう」
確かに。最強を謳われる彼ならばポケモンでも成しえないことを遂げてしまいそうだ。
「試しに拝んでみる?」は冗談半分で言った。
「ああ」予想に反してルージュは合点した顔を浮かべた。「ちょっとやってみますね」
ルージュは顔の前で手を合わせた。まさか本当にやるとは思わず、は一驚する。
視線を上へ戻し、改めてダンデを仰視する。
苦手なものと自分の弱点――深紅のマントを静思させれば、過去の出来事が浮かび上がる。
にとってダンデが厄介な存在であることは確然たる事実。収録中に何度も味わった決して合わさることのない波長。それは先日受けた電話でも変わらず、顔を合わせていようがいなかろうが、チャンピオンと自分とでは会話から何まで全てが噛み合わない。
噛み合わない。そんな風に自分とチャンピオンを比べたり、自分にとって彼がどんな存在か考えたりすることなど、数ヶ月前なら絶対にしなかった。これまでたちは決して交わるはずのない線の上にいたのだから、当然といえば当然だ。
今更出会いを変えることはできない。事実に抗っても疲れるのは自分だけ。最も楽な方法は現実を受け入れることだと解っていながらも、彼といる間はそんな余裕は微塵にもなかった。
あの男がこれまでの全てを乱していた。に諦念を抱く余裕が生まれたのは、ダンデと過ごす時間が無くなったに他ならない。
「それでは、わたしはここで」駅前に到着したところでルージュが立ち止まって言った。
「あっ、ちょっと待ってくれる?」
は腕時計に目を落とした。次の発車時刻まではまだ余裕がありそうだ。ルージュにその場で待つように伝え、は駆け足で向かいの建物へ入った。
数分も経たずには白い袋を提げて駅前へ戻った。手元のそれをルージュへ渡す。
「よかったら、これもらって」
「これは?」ルージュは袋の中を覗き込む。
「クスネのしっぽ型のジェラート」
は自分の分を開けて見せた。紙袋と同じ色のカップに半透明の蓋が被っている。
中身は説明した通り、クスネの大きな尾を模したジェラートだ。淡い茶色部分はミルクチョコレートが使用され、下部の濃い部分はブラックチョコレートが練り込まれている。若い女性を中心に写真映えする、とネット上で注目を浴び始めている逸品だ。
「嬉しいですけど……どうして?」
「ぐっすり眠れるようにお守り」
「お守り?」ルージュは首を傾げた。
「ゴーストタイプはあくタイプに弱いから。それを食べたら今夜は安心して眠れるかなって」
少し安直過ぎたかな、とは苦笑する。
ルージュはかぶりを振った。受け取った白い袋を大事そうに抱え、笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「よかった」は微笑んだ。「ルージュちゃんがチョコレート好きってことは知ってたから。見た目はもちろんだけど、味もすごく美味しいって評判なんだ。良かったら感想教えてね」
「分かりました。味わって食べます」
ルージュはひとつ頷き、踵を返した。駅構内へ去った彼女を見届け、はタクシー乗り場へ向かう前に付近のテイクアウト専門店で弁当を購入した。
駅前の駐鳥場にはアーマーガアタクシーが一台も停まっていなかった。客を待機している運転手は皆、シュートシティの専属だ。街の外へは飛んでくれない。
頼めるのはやはり彼しかいない。電話でマークを呼び出すと、彼はものの数分でやって来た。何でも丁度ローズタワーへ社員を送り届けた直後だったのだという。以前にキルクスタウンで遭遇した時といい、最近は何かと彼とタイミングが合う。
いつものように最寄り駅へ到着する。車から降りると、外灯がちかちか、と点滅していた。
「それじゃあさん、また明日」マークが言った。「暗いから気をつけてくださいよ」
「ありがとうございます」
飛び去るマークを見送り、は帰路を行く。彼の言葉通り、外灯がまともに点いていないだけで辺りは一層暗くなる。奇妙な空気が漂う家路をは足早に進む。
その道中でとある異変に目が留まり、歩みを止めた。
自動販売機の明かりが消えている。それは夜道を照らす目印でもあり、この道を毎日のように通るにとっては少し変わった光景だった。
珍しいこともあるものだな、と考えている時だった。のスマホが鞄の中で震えた。通知タブを開くと、覚えのない宛名からのメッセージだった。
『うしろ』
表記されている文字を見た瞬間、は周辺の温度が一気に低くなる感覚を覚えた。同時に背筋がぴんっと張り、堅氷でも覆ったような寒さに襲われる。
まさかユウレイ――ここまで考えてはかぶりを振った。非科学的なものは信じない。
誰かが茶化しているに違いない。
意を決して振り返る。だが人影は見当たらない。の額に嫌な汗が浮かんでは流れていく。
再びメッセージを確認しようとした時だ。スマホが謎の光を帯びながら宙へ浮かんだ。
「えっ」
当然は驚き、スマホを取り戻そうと腕を伸ばす。しかし彼女を嘲笑うかの如く、スマホは縦横無尽に動き回り、やがて帰路とは別の方向へ飛び出す。
「ち、ちょっと待って」
語り掛けも虚しく、スマホは遠ざかっていく。は慌ててスマホを追いかけた。
辿り着いた場所は何ともおどろおどろしい墓地。ここはポケモンの魂が眠る場所なのか、モンスターボールの形が刻印された墓石がいくつも並んでいる。墓碑銘にはポケモンの愛名と思わる文字が刻まれており、中には墓参の形跡もあった。
開きかかった白い花が夜風で揺れる。以前の住居から移り住んで数年が経つが、茂みを抜けた先にこんな場所があるとは知らなかった。
は息を呑み、墓地内へ足を踏み入れる。辺りは白い霧で覆われ、非常に視界が悪い。草木が怪しく音を立てるたびに彼女の心臓がどきっと跳ねる。
一区域抜けた先でスマホを見つけた。今度は浮かんでおらず、ただ地面に落ちていた。
は指先でとんっとスマホに触れる。しかし何も起こらない。どうやら先ほどの不思議な力は作用していないようだ。安堵の息を吐いて拾い上げる。
その時だ。月光に伸びるの影が独りでにうごめいた。それは次第に形を変えていき、の足元に砂地獄のような黒い渦が浮かび上がる。
続いて遠くから遠吠えが聞こえた。聞いたことのあるポケモンの鳴き声だった。しかし混乱と戸惑いが彼女を支配するいま、咄嗟に正体が思い浮かばない。
正体不明の声に怯んだのか。渦を巻く影の動きが微かに鎮まった。
やがて足音が聞こえた。そしてか細い肉声。
「だめだよ、ゲンガー」
往生するの前にやって来たのはオニオンだった。白いお面で素顔を隠している。
「こ、こんばんは」オニオンが言った。
も挨拶を返そうと思った。だが金縛りにあっているのか、口も体も動かせない。
オニオンが、はっとした様子で肩を震わせた。「すみません。いま技を解かせます」
不気味な影の動きが完全に止まった。次第に不自由さが消えていき、見覚えのあるポケモンが笑い声と共にその正体を現す。
幽暗な墓地に紅い瞳がふわりと浮かび上がる。シャドーポケモンのゲンガーだ。彼は呆然としたを小馬鹿にするように笑い出した。
「お、お怪我はありませんか」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」オニオンにつられても思わず言い淀む。
「よかったです」
まだ完全に状況を把握し切れたわけではない。だがは思考力を取り戻しつつあった。
「ぼくのポケモンたちがあなたをここへ連れてきたみたいです。驚きましたよね」
「少しだけ」はぎこちなく頷いた。
「悪さしようと思ってしたわけじゃないんです。ただ、遊びたかっただけだと思います……」
オニオンは何とも歯切れ悪く言った。は気にしない様子でかぶりを振る。
「大丈夫です。最初は幽霊かと思って驚きましたけど、ポケモンの悪戯なら呑み込めます」
「あ、ありがとうございます」
仮面を被っていて表情は見えない。だが彼の声色で微笑んでいることだけは判った。
話していると、オニオンの背後からゴーストタイプのポケモンが霧の中から顔を出した。彼が連れているポケモンだろうか。それとも野生だろうか。闇色に染まった墓地に似合う顔ぶれが並んでいる。タイプも相まって空気がひんやりと冷たい。
「たくさんポケモンがいるんですね」が言った。「昼間じゃ見られない子ばかりです」
「きっと珍しくお客さんが来たから、みんなも嬉しいんだと思います」
「お客さん?」
「この時間はぼく以外、誰も来ませんから……」
は「あっ」と声を漏らした。
事前に聞いた情報が正しければ、オニオンは日頃から人気を避け、遺跡や墓場などでゴーストポケモンと対話するのを好んでいる。
「お邪魔して申し訳ありませんでした」
「謝らないでください。本はといえばぼくのゲンガーが連れてきちゃったんですから」
自分の名に反応したのか。先ほどのゲンガーがオニオンの陰に隠れるように姿を見せた。
「わたしのスマホにメッセージを送ったり、飛ばしたりしたのはあなた?」が訊いた。
ゲンガーはひとつ頷いた。
「やっぱり」は合点する。「すっかり驚かされちゃった。さすがはゲンガーね」
が参ったように言うと、ゲンガーは嬉々として笑い出す。至極ご満悦のようだ。
ロトムを含め、下手な心霊番組よりポケモンのほうがよっぽど恐ろしい。どれだけ人間の技術が進歩しても、彼らの超能力に敵うものはないだろう。
彼の笑いにつられてポケモンが近寄ってくる。その中にの関心を引くポケモンがいた。
ミミッキュだ。普段は人前に姿を現さず、日の射さない暗い場所や深い森で暮らしているポケモンだ。野生で見かける確率も低く、広大なワイルドエリアで見つけて捕獲するのは至難の業だともいわれている。無論、も野生のミミッキュを見るのはこれが初めてだ。
は膝を折り、おいで、とミミッキュを呼んだ。相手も彼女を視認し、傍で立ち止まる。
ミミッキュが尻尾を向けた。それはピカチュウが同志と顔を合わせる際、互いの尻尾に電気を溜めて挨拶を交わす動作に似ていた。
握手を求めているのだろうか。愛らしい立ち振る舞いには頬をほころばせる。
そして互いに触れ合った瞬間だった。ばちんっと電気のような鋭い痛みがに駆け巡った。感じたことのない衝撃には小さくのけ反る。ミミッキュも怯えた様子で素早い動きで彼女と距離をとった。
「だ、だいじょうぶですかっ」オニオンが言った。
は自身の指先を見た。僅かに赤く腫れている。症状としては火傷に近かった。
「問題ありません」それより、とはミミッキュを見た。「あの子に怪我はありませんか」
オニオンのお面が横を向く。彼はミミッキュにそっと触れ、大事がないか確認している。
「大丈夫です。どこも痛くないようです」
良かった、とは胸を撫で下ろす。
しかしミミッキュは他人を傷付けてしまったショックからか。それとも不可思議な現象に恐れを覚えたのか。逃げるようにこの場を去り、霧の中へ消えてしまった。
意図的でなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。は自責の念に駆られる。
それにしても――。
今の衝撃は何だったのだろう。まるで燃えるような痛みだった。毒タイプのポケモンに触れて怪我をするならまだしも、ミミッキュの尻尾はただの材木だ。他者に害を及ぼすものは一切含まれていない。単なる静電気ではないことも確かだった。
ふと、人の視線を感じた。オニオンのものだ。お面越しでも凝視されているのだと判る。
「いかがされましたか」
「えっと、その……。どうしてゲンガーがあなたをここへ連れてきたのか考えていて」
「えっ」は目を見張った。「単に遊びたかっただけじゃないんですか?」
「悪戯であることは間違いありません。ぼくのゲンガーの性格を考えれば、ですけど」
ただ、とオニオンは突然口ごもった。
「ただ……?」はその先が気になった。
オニオンは更に声をくぐもらせる。だが今更隠し立てもできないと悟ったのだろう。
「い、言ってもいいんでしょうか」
一握りの勇気を口に含んだような言い方だった。ややあってからは頷いた。
「憑いてるんです」
「え?」
「ずっとあなたの中にいるんです」
言葉では説明しようのない、非常に厄介なものが。