休日の早朝。はランニングウェアを纏いながら朝ぼらけの海辺を走っていた。
放送局に入社してからというもの、体力維持の為に空いた時間は決まって同じコースを走る。早朝を選ぶのは、日頃から浴びる機会の少ない朝日を受けるため。さらに起床のサイクルを崩さないためでもあった。
アスファルトのような固い路面と比べ、柔らかい砂の上では推進力の吸収が凄まじい。脚に掛かる負担も大きく、体力維持だけに留まらず、強化にも優れたランニングコースだ。
ただ、日課になり始めた時と比べ、現在では走る目的や状況が大きく変わった。
まずは自身。彼女が装着しているワイヤレスイヤホンからは、ポケモンバトルにまつわる雑学が連続して出題されている。これは以前までは取り入れていなかったものだ。咄嗟の判断力を鍛えるため、サイトウに勧められたトレーニング方法を導入したのだ。
そしてもう一つはイワンコだ。ポケモンバトルの魅力に惹かれ、強さを求めるようになってから彼はの運動に付き添うようになった。最初こそ眠り眼で体を動かしていたが、いまでは目覚ましが鳴る前に起床し、を外へ促すほどまで夢中になっている。
は走りながら隣を見やる。イワンコが波打ち際を駆けている。岩タイプにも関わらず、彼は浜辺に押し寄せる白波を受けていた。足元が海水で濡れようとも平静さを保ち、敢えて苦手な水を受けて克服しているようにも見える。
強くなってリザードンと戦いたい。そんな思いが如実に現れる様をは見てきた。
だからこそイワンコの気持ちを大事にしたい。そして共に成長していきたい。に心境の変化を与えたのは間違いなくイワンコだった。
マクワを講師につけ、キルクスタウンへ通い始めてから間もなく一月が経つ。本日もランニングを終えた後、昼過ぎに彼と会う約束をしている。
程なくして折り返し地点が見えてきた。目印に立っているのはエリキテル。彼もまた朝のランニングに参加しているメンバーだ。彼はたちのように激しい運動はせず、頭の襞を広げて日光浴を満喫している。
青い目がを捉えた。広げている襞を閉じ、砂を巻き上げながら駆け寄ってくる。はイヤホンを外し、速度を緩めながら彼を受け止めた。
「おまたせ、エリキテル。寂しかったでしょ」
エリキテルは肯定を示さなかった。だが甘えるようにの腹に頭を擦り付ける。
はエリキテルを地面へ下ろし、黒い頭を撫でた。「お腹いっぱいになった?」
丸い腹を見せ、エリキテルは頷いた。どうやら日の光をたらふく蓄えたようだ。
は肩に提げているランニングポーチから水筒を取り出した。コップに水を注ぎ、水分を欲して舌を出しているイワンコに差し出す。
休憩も兼ねて付近のベンチに腰を下ろした。両脚を前へ伸ばし、空に引っ張られるように体を伸ばす。大口を開けて欠伸をしたのはここだけの秘密だ。
起動中のアプリを閉じ、時刻を確認する。走り始めてから既に一時間が経過していた。着々と体力がつき始めているのか。走った割にはあまり疲労を感じない。変化が目に見えるとやはり嬉しいものだな、と思う。
イワンコが水を摂り終えた。走り込みの後は実践練習を行う。技の強化はもちろん、ランニング中に鍛えた判断力を試す場でもある。
イワンコの実力はジムリーダーのお墨付きだ。反してはまだまだ未熟者。ポケモンと共に経験値を蓄えているものの、基から備わっている能力値は異なる。
実際問題、練習試合を重ねる中でも、はイワンコの動きを追い切れていないのだ。
周囲の状況を把握し、且つ相手に惑わされず、的確に指示を出すためには反復しかない。マクワに受けた指摘を踏まえ、彼と会う当日は必ず事前にイメージトレーニングを行うようにしている。
誰もいない貸し切り状態の砂浜をバトルフィールドに見立て、イワンコと共にその場に立つ。
始める前に軽くストレッチをしている時だった。エリキテルがの元へ駆け寄ってきた。普段なら砂遊びをし、完成した砂の城を見てほしい、と懇願するまでやって来ないはずだ。
「どうしたの」
エリキテルは指の先同士を突いている。それは子供が捩る動作に似ていた。
「もしかして、お腹空いちゃった?」
エリキテルはかぶりを振った。だが口は結ばれたままで、真情が上手く読み取れない。
今度はイワンコが言葉を投げかけた。エリキテルと会話を交わし、彼の心境を悟っている。
二人は頷き合った。エリキテルは駆け出すと、対峙するように向かい側に立った。イワンコは好戦的に身を構え、尻尾を振っている。
もしかして、とは言った。「エリキテル、イワンコの練習相手になってくれるの?」
エリキテルは襞から放電させて応えた。遠目からでも判る。彼の姿勢はやる気そのものだ。のんびり屋の彼が自ら加勢するとは思わず、は驚く。
だが直後、意外性に勝る感情が彼女を取り巻いた。
三人で共に戦う――その事実と光景には胸を弾ませずにはいられなかった。
理由は曖昧なままで構わない。エリキテルが自らの意思で決めたならば、望むものは何もない。
は靴紐をぎゅっと結び直した。滄海の彼方から朝日を浴びた風が吹きつける。
「ありがとう、エリキテル」は手をメガホン代わりにして言った。「無理はしないでね」
今度は小さな手で振り返された。その様子に頬を緩ませ、はイワンコの傍に立つ。彼女が脳内で思い起こすのは、ワイルドエリアでの一戦。野生のジグザグマ相手にも素早さで勝り、柔軟に対処する機転の良さは折り紙付きだ。
「イワンコ、エリキテルもすばしっこいからね。狙いを定めて確実に当てていこう」
イワンコが威勢良く鳴いた。彼の声を合図にエリキテルが電光石火で突っ込んでくる。
「まずは当てるところから!」
体当たり、とは指示を送る。エリキテルは回避せず、イワンコの攻撃を受けた。
衝突の勢いで辺りに砂が舞う。イワンコは咄嗟に目を閉じたが、その隙にエリキテルが穴を掘った。ワイルドエリアで戦った時と酷似している。
――過去のバトルを覚えていたのか。
エリキテルの居場所が特定できず、視線を泳がせる。今のとイワンコは完全に当時のジグザグマと同じ状況だ。どこから反撃を仕掛けてくるか全く予想がつかない。嗅覚に優れているイワンコでも、地中に潜られては捜しようがない。
地中。の脳裏に閃光が走った。
「イワンコ、地面に向かって岩落とし!」
具現化した岩が地面に叩きつけられる。落下の衝撃で砂浜が揺さぶられ、最初に掘った穴からエリキテルが狼狽した様子で姿を現した。
電気タイプは地響きに滅法弱い。例え地面タイプの技を覚えていなくとも、着想次第で技を更なる強みへと変えることができる。これはポケモンだけではない。トレーナーが共に戦うからこそ発揮される絆の力。
マクワから諭されたことが、今なら解る。
エリキテルが無防備になった。仕掛けるなら今だ。
「そのまま噛み付く――」
エリキテルがぎゅっと目を瞑った。
「じゃなくて、甘噛み」
の優しい語気に合わせ、イワンコはエリキテルの腹部を労わるように噛んだ。
バトルを中断してエリキテルに駆け寄る。彼は擽ったそうに身を捩じらせていた。イワンコの牙が良い具合に彼の弱点を突いたようだ。
「エリキテル、大丈夫?」
エリキテルは姿勢を直し、身の安全を証するように両手を広げた。砂埃が付着しただけで、目立った外傷はないようだ。体力だけでも回復させておこう、とは携帯しているオボンの実を二等分し、エリキテルとイワンコに分け与えた。二人は嬉々として木の実を貪る。お陰で口元は唾液まみれだ。
「ワイルドエリアでの戦い方、覚えてたんだね」
エリキテルは力強く頷いた。内容を知らないイワンコは不思議そうに首を傾げている。
「わたしにとってもあのバトルは特別だったから、すごく嬉しい。ありがとう」
エリキテルの頭を撫でると、割り込むようにイワンコが鼻先を手の下に滑り込ませてきた。
自分にも構え、と言っているのだろうか。
世界一可愛いポケモンたちめ。堪らずは両手で二人の頭を撫でくりまわす。反撃の如く体当たりに近い抱擁を受け、勢いのまま砂浜に倒れた。お陰で全身砂まみれだ。腹の上で踊るエリキテルたちと笑い合う。
その時だった。見上げた天色の空に橙色の飛行物体が見えた。それは尾に炎を宿し、緑色の翼は雲を狩るように羽ばたいている。
あれは間違いなくリザードンだ。野生なんて珍しい。
悠長に考えていたのも束の間。の胸中で発想の乏しさがじわじわと拡がっていく。
ガラル地方でリザードンといえば何だ――。
緩んだ思考力にギアを入れた直後、リザードンの目がたちを捉えた。彼は一旦停止し、背に乗せている誰に向かって首を動かした。やがて砂浜に大きな影を描きながら降下してくる。
翼越しに見えたのは、紫色の髪と深紅のマント。もはや疑う余地も逃げる隙もない。の脳内で回っているモンタージュが静止し、想像通りの人物がひょっこりと顔を出した。
「!!」
太陽の光に勝るとも劣らない眩しい音がガラルの海に響き渡る。紛う方なきダンデだ。は背中に付いた砂を払いながら起き上がり、空を仰視する。
過去にも似た出来事があった。ワイルドエリアへ向かう道中、空から降ってきた自身の名。怪訝そうに見上げれば、今と同じ光景が広がっていた。当時と違う部分はリザードンポーズを決めていないところだろうか。あれには正直呆れかえった。
想起している間にリザードンとダンデが砂浜に降り立った。彼の特徴的な髪が風で揺らぎ、その隙間から大きな瞳が見える。目に入るもの全てが懐かしい色だった。
「」
ダンデは意味あり気な笑みを浮かべた後、さらに表情を明るくしてから歩み寄ってくる。
は大きく呼吸をしてから、その相知れない無敵の男の顔を見返した。
「ご無沙汰しております、チャンピオン」
「こんな場所でに会えるなんて思わなかったぜ」
「お変わりないようですね」
電話口と似たやり取りだな、とは思った。だが本人を前にすると、心持ちが変わる。
「偶然だとしても、きみを見つけることができて良かった。危うく通り過ぎるところだった」
「お言葉ですが」は胸の前で手を構えた。「先に見つけたのはリザードンではありませんか」
「ぐっ」ダンデはたじろいだ。「きみは本当に痛いところを突いてくるな」
「事実を述べたまでです」
「さすがだぜ」
「いまの褒めるような場面でしたか?」
問いかけはダンデの笑いで虚しく消された。これにはも諦念を抱かざるを得ない。
「元気そうで安心した」
は腑に落ちない様子で首を傾げた。「心配をかけるようなことはしておりませんが」
「オレはいつだってきみを気にかけてる」
は返す言葉に詰まった。恐らくは体調不良で倒れたことを今でも案じているのだろう。
だからこそ。同じ過ちを繰り返さぬようにこうして走り込みをしているのだ。もうあの頃の不束な自分とは違う。少しは信用してほしいものだ。
「お気遣いありがとうございます。ですが心配には及びません。もう倒れたりしませんから」
「また倒れたのか!?」
突如目を剥いたダンデにも驚く。
「それはいつの話だ。なぜだ。どこで!」
「お、落ち着いてください!」矢継ぎ早に責めてくるダンデを制す。「倒れたのはチャンピオンたちに助けていただいた時が最後です。以降は変わらず元気ですから」
必死の訴えにダンデは次第に鎮まっていく。やがて息を吐き、そうか、と声を漏らした。
「すまない。早合点してしまった」
「いえ、こちらこそ」は頬を掻いた。「言葉が足りませんでした。申し訳ありません」
またやってしまった、と自責するも、今のは果たして自分が悪かったのか、とも思った。
言葉を交わすたび、数ヶ月前に味わった気苦労と戸惑いの数々が白波と共に運ばれてくる。この男といるほうがよっぽど身体に悪い。彼を撒くスプレーが存在するのなら是が非でも常備したいところだ。
だが人間は不思議なことに、経験を重ねるたびに慣れを覚えるものだ。離れた期間ですっかり薄れた対処方法も、本人を前にすれば体中の細胞が素早く反応する。
こう訊かれた場合はああ返す。ああ返されたら今度はそう切り返す。は軌道が読めないボールを予想しながらだだっ広い球場を駆け回り、対してダンデは平気な顔で常に全力送球を投げてくる。自分たちは出会うたびに地獄のポケベースを開催しているのだ。
微妙な空気が生まれ、互いに黙る。先に沈黙を破ったのはダンデだった。
「ところで、こんな朝早くから海辺で何を?」
「見ての通りです」は自分の服装を見せた。「朝のランニングですよ。今日のような休日と午前中に余裕があるときは、いつもここで」
「なるほど。そういうことか」ダンデはイワンコのほうを見た。「ポケモンたちも元気そうだな」
「はい。日に日にやんちゃになってます」
愉快な音楽が聞こえ、は視線を移す。
イワンコを先頭にエリキテルとリザードンが砂浜を駆け回っている。追いついたリザードンが前方の二人を攫うように抱えて低飛行する。料亭で食事をした際、大広間でも似たような遊びをしていた。
三人ともとても嬉しそうだ。再会を喜ぶポケモンたちを見つめ、は頬を緩ませる。
隣からも笑いが漏れた。は視線を戻す。黄金色と目が合い、主がそれを細めた。
「いかがなさいましたか」
「いいや」ダンデはかぶりを振った。「がそうして笑えるのは、彼らのお陰なんだな」
「そうですね」は小さく息を吐いた。「わたしが今こうして幸せでいられるのは、間違いなくあの子たちが傍にいてくれるからです」
「リザードンもか?」
「もちろんです」
「そうか」
ダンデの表情は見えない。だが、語気からして喜んでいるようにには聞こえた。
程なくしてリザードンが降りてきた。空中浮遊を満喫したエリキテルたちが駆け寄ってくる。
「遊んでもらえてよかったね、二人とも」
エリキテルたちは歓喜の声をあげた。特にイワンコは飛び跳ねる勢いで喜んでいる。
「リザードンも久しぶり」
会いたかった、と言う前にリザードンが頬擦りを求めてきた。は笑顔で応える。
彼女の隣ではダンデが膝を折り、エリキテルとイワンコを交互に見つめていた。エリキテルは写真を撮った時のように彼の腕を伝って肩に乗り、イワンコは岩飾りを顔に擦り付けている。慣れない人には苦行だろうな、とは思う。
だがダンデはそんな素振りを見せない。好意を振りまくイワンコを抱き上げると、頭から尻尾の先までをしげしげと見つめた。
「どうかしましたか」
「育っている」
「え?」
ダンデはイワンコを地面に降ろした。最後に丸い頭に手のひらを載せ、姿勢を戻す。
「最後に会ったときと比べて、明らかに成長している。岩肌も鋭い。目つきも変わった」
まさか。一目見ただけで僅かな変化に気付いたのか。何度も思うが、凄まじい観察力だ。
この時点では嫌な予感がした。
もしかして、とダンデが静かに呟いた。彼はぎらついた目でをじっと見つめる。
「がイワンコを育てたのか?」
彼の言葉には様々な感情が交錯していた。それらは期待でもあり驚喜のようにも見える。
ポケモンを育成するのは珍しいことじゃない。寧ろごく自然の行動であり、トレーナーが捕まえたポケモンを育てるのは、ある種の教育といっても過言ではない。
だが、それはあくまで一般論だ。これまでポケモンバトルに関心を向けられず、避け続けてきたとでは意味合いや捉え方にも差異がある。何よりダンデに勘付かれたことが、にとっては大きな痛手であった。彼には出来る限り悟られたくなかったからだ。
そう。隠したいのは自分だけ。イワンコは無関係だ。
ここまで訊かれたら隠し立てもできない。は気付かれないように観念の息を吐いた。
「はい」が言った。「その通りです」
ダンデの瞳が底光りしたように微かに輝き出した。次に見えたのは白い歯だった。
「やっぱりそうなのか!」
ダンデは今日一番の笑顔を浮かべた。想像通りの反応には堪らず微苦笑してしまう。相変わらず、他人の変化や進歩をまるで自分のことのように喜ぶ男だ。
「まさか」ダンデは、はっとした顔になる。「ランニングもトレーニングの一環か?」
「ご明察です」は頷いた。「元々は体力維持のために走っていたのですが、最近はイワンコも一緒に行くようになって。早朝の海辺は誰もおりませんし、技の練習もできるかな、と」
「随分と本格的に鍛えてるんだな」
予想以上だ、とダンデは口元に手を添えた。緩む口角を隠し切れていない。
「この子の気持ちに応えたかったんです」はイワンコを抱き上げた。「トレーナーとして、ポケモンの選んだ道を応援してあげたくて。最初は少し尻込みしていたのですが、彼らと共に戦うことが最も大きな力になると教わったんです」
「教わった?」
途端にダンデの語気が強まった。彼の感情の変化を表すか如く、海風でマントが靡く。
「誰かからバトルの手解きを受けたのか」
「そう、ですけど……」
「誰からだ」
気のせいだろうか。浮ついた言及とは打って変わり、まるで詰問のように聞こえたのは。
はややあってから「マクワ選手とサイトウ選手です」と答えた。最初にバトルの本質を説いてくれたのはマクワだが、サイトウも同じく感恩を捧ぐべき存在だ。
素直に答えたにも関わらず、ダンデは口を閉ざしたままだ。時々考える素振りをとっては目を伏せ、瞼を震わせている。先ほどまでタネマシンガンの如く言葉を投げてきたとは思えないほど静かだった。
ふとエリキテルと目が合う。彼はダンデを一見してから物憂そうに両手を広げた。はエリキテルの行動の意味が何となく読めた気がした。
「」やがてダンデが口を開く。「これは個人的な質問なんだが、答えてもらえるだろうか」
彼にしてはやけに畏まった訊き方だ。戸惑いながらもは頷いた。
「彼――マクワとはどういう間柄なんだ」
何を問い出さされるのかと思いきや、言葉通りの疑問だった。は拍子抜けする。
ただ、ダンデの気持ちも分かる気がした。頂点に立つ者として。王座を狙われる立場として。周囲から無敵と称された男でもジムリーダーの事情には興味があるはずだからだ。さらにのようなリーグとは無関係の人物が知り合いというのなら、なお更だった。
「そうですね……」
は黙考し始める。言われてみればマクワとは過去に一度顔を合わせただけで、それ以降は陰ながら互いを認知していた。旧友と呼ぶには少し厚かましく、知り合いと呼ぶにも欠けるものがある。
しかし何度もトレーニングに付き合ってくれているのだ。敢えて呼ぶならこれしかない。
「友達、でしょうか」
「友達か」
「マクワ選手とは仕事を通じて親しくなったんです」
放送局で働いていれば、名の知れた著名人と顔を合わせる機会がぐんっと増える。だがそれは廊下ですれ違う程度で済む場合もあれば、人物がやって来た、と人伝に聞くだけに終わるときもある。運が良くても名前や顔を覚えられる程度だ。簡単に有名人と親密な関係になれるとは限らない。それに落胆してこの業界を去る者をは何人か見送ってきた。
ただ、のような本人と直接会話をするパーソナリティのような立場は少し異なる。同じ空間で対話を交わした分だけ記憶は濃くなり、関係を深めやすい。良い例が正にここにいる。ダンデの場合はまた特殊だが。
「イワンコがやる気になった直後、マクワ選手と交わした収録がきっかけでした」
「収録?」ダンデが首を傾げる。
「ジムリーダーをゲストに招いた番組です」
ダンデはさらに首を捻った。この様子だとどうやら知らないようだ。
は現在進行中の企画について話した。キバナとの収録はまだ公に発表されていないため、ネズとの公開放送までの概要を丁寧に説く。
ダンデは「知らなかったぜ」と言った。やはりの予想は正しかった。
「仕方ありませんよ。最近はどのメディアもジムチャレンジのことばかりですから」
「そうか」
ダンデの返答はあまりに素っ気なかった。これにはも内心むっとしてしまう。
「それで、何故マクワに頼もうと思ったんだ」
「周囲への心遣いはもちろんのこと、収録中にポケモンについて語る彼を見ていたら、教わるのならマクワ選手に頼みたいと思ったんです。そして実際、彼の指導を受けてわたしもイワンコも成長できましたし、まだ完全とは言い切れませんが、バトルの楽しさも――」
「彼とバトルもしたのか!?」
前触れもなく大音声で叫ばれ、思わずは大きくのけ反った。まるで爆音波だ。
感情の起伏が読めないことは知っている。だがここまで激しいのも珍しい。やはり話題がポケモンバトルだからか。それとも他に理由があるのか。現状では窺知する余裕はなさそうだ。
それにしてもだ。
ポケモンバトルをする意味を見つけてほしい、と言っておきながら、何故彼はここまで詰問を続けるのか。
は深呼吸をし、飛び出そうな感情を抑え込む。
「なにか不都合でもございましたか」
「いや……」ダンデは黙考の末に口を開く。「最初にバトルを望んだのはイワンコだと言ったな」
「そうです」エリキテルはあまり好戦的な性格ではありませんので、と付け足す。
「そうか」
それなら仕方ないな、とダンデは呟いた。はそれを聞き逃がさなかった。
「どういう意味でしょうか?」
「きみが気にすることじゃない」
ただ、とダンデは抑制をつけて言った。彼の表情は心底不満気で、眉の間に皺を刻む。
「オレたち、という選択肢はなかったのか」
「それは……」
「ポケモンバトルなら適任のはずだ」
は言葉が続かなかった。逃げの口実が浮かばないわけではない。浮かんだところで自分の首を絞める行為にしかならないと悟っているのだ。
忙しそうだったから。申し訳ないから。王者の手を煩わせてしまうのを避けたかったから。そんな取るに足らない釈明など、この男の前では意味を成さない。世間でまかり通る気遣いも全て一蹴の対象になる。反論したところで無駄な足掻きにしかならない。
「確かにマクワは優れた才能を持つ素晴らしいトレーナーだ。それはオレも認めよう」
けれどもだ。ダンデは更に苦言を呈す。
「にはオレがいるだろ」
まるで心臓に鎖を繋ぐような口振りだった。は瞬きもせず、黄昏色の目を見つめる。
「それとも、オレでは力不足か」
「いえ、決してそんなことは……」
は堪らず視線を逸らした。ダンデが怒気を放っているのは間違いない。しかしここまで迫られると居心地が悪い。まるで自分が親に悪事を咎められる子供のように思えてきた。
視界の隅でダンデが動いた。不貞腐れたような顔を片手で覆い、大きく息を吸い込んだ。
「すまない。責め立てるような訊き方をした」
唐突な謝罪には動揺した。それを口にしたダンデ自身が傷ついたように見えたからだ。
「今回はイワンコのこともある。たちが満足する道に進めたのなら、それに越したことはない。ポケモンバトルへの一歩を踏み出せたのは、オレたちにとっても嬉しいことだからな」
「ありがとうございます」それは水分を奪われたような情けない謝意だった。
「ただ、ひとつだけ頼みがある」
その先を乞うようにはダンデを見上げる。
「今後、が助けを必要とした場合、誰よりも先にオレたちを頼ってくれ。他の誰でもない。一番にオレの存在を浮かべてほしい」
「チャンピオンを、ですか?」
「不満とは言わせない」
不満とは思わない。ガラル地方でダンデたちに勝る者は存在しない。そんな局面でも彼らが力を振るえば、解決しないものはないだろう。
が延々と抱えているのは戸惑いだけだ。
何故、そこまで自分にこだわり、尽くすのか。
何故、道方向にはあれだけ疎いのに、こうして自分を見つけ出すのに長けているのか。
何故、この男の言葉を聞いていると――。
は胸を軽く隆起する。一度視線を落としてからダンデを真っ直ぐと見据え、口を開く。
「ならばわたしは、チャンピオンの手を借りぬように今後もより一層気を引き締めます」
ダンデは意表を突かれたような顔になった。だがすぐに不服そうに表情を曇らす。
「、オレは本気で言ってるんだ」
「承知しております。チャンピオンが嘘を吐くような人間には見えません」
「だったら――」
前へ出るダンデを制したのはの手だった。それをそのまま自身に胸に当てる。
「チャンピオンを頼るということは、わたしがそれだけ追い込まれた状況だということです。それを未然に防ぎたいんです。可能であれば、わたし自身も辛い目に遭いたくありませんし、チャンピオンにも同じような思いを味わわせたくないんです」
あなたは、と言っては視線を逸らした。海風で乱れた髪を耳に掛ける。
「あなたは、優しい人ですから」
意外な言葉だったのか、ダンデは言葉を詰まらせた。
「何事も自分のことのように捉えるチャンピオンなら、辛いことも感傷的になるはずです。個人の問題で負の感情を分け与えたくないんです」
「オレは嫌とは微塵も思わない」
すかさず即答されてしまい、はどぎまぎする。
「寧ろひとりで抱え込まれたり、他の誰かに先を越されたりするほうがずっと嫌だ」
は息を吸い込んだ。しかし返しが出てこず、ただ一言、分かりました、と言った。
「それでチャンピオンの気が済むのなら」
「ああ」ダンデは表情を明らめた。「のためならどこへだって駆けつけるぜ」
「ありがとうございます。ですが、あまり期待はしないでくださいね」
「何故だ?」
「チャンピオンの言葉を借りるようですが……」
言いかけた時だった。彼女のふくらはぎに何かが巻き付いた。エリキテルの腕だ。彼はが提げているランニングポーチを指差している。この中には人数分の朝食が入っている。
は自身の腹を擦った。そういえばランニング後の食事をまたとっていない。
「ごめんね。お腹空いたよね」
エリキテルは更に乞うように這い登ってきた。肩に乗った彼の顎を撫で、機嫌をとる。
「申し訳ありません。わたしたちはこれから朝食をとりますので、ここで失礼します」
「それならオレたちもいっしょに食べよう」
「えっ」
リザードン、とダンデはの肩越しに相棒を呼んだ。背後から温かい風が吹く。
「お前もまだたちといっしょにいたいよな」
リザードンは頷くように首を動かした。
それなら、とは辺りを見渡した。目に留まったのは休憩に使っていたベンチだ。ダンデとポケモンたちを連れて浜辺を歩き、そこへ腰掛ける。
は予め用意していたポケモンフーズと木の実を取り出し、各々の皿に盛り付けた。エリキテルとイワンコの前に差し出し、傍に補給用の飲料水を添える。イワンコも腹を空かせていたのだろう。二人はがっつくように食べ始めた。
準備しているのは彼らの分だけではない。続いて出てきたのはバスケット型の弁当箱だ。中身は至って普通のサンドウィッチ。による手製だ。
はひとつを頬張った。冷めても美味しいところがサンドウィッチの利点だ。そして職場の食堂より、海辺で食べるほうが美味しく感じるのは気のせいではない。恐らくは潮の香りがスパイスとなっているのだろう。
腹を満たしていると、隣から視線を感じた。は口内を空にしてからダンデを見る。彼は頬杖を付きながらこちらをじっと見ていた。
何か付いているのか。は口周りを拭うが、屑などは見当たらない。
「……何でしょうか」
「食べているを見ていた」
は頬に熱を集める。食事をとる姿がはしたないと少なからず自覚があったからだ。
調子が狂う――気にせずもう一口を含もうとした時、は違和感を覚えた。
ダンデが何も食べていないのだ。相棒のリザードンはポケモンの輪に入って木の実を食べているにも関わらず、彼は食事をとる素振りを見せない。
先ほどの口振りからして、自分と同じように何か準備があると思っていたのだが。
「チャンピオンは召し上がらないのですか」
「オレのことは気にしないでくれ」
ダンデが言った直後、彼の腹の虫が鳴った。本人はばつが悪いそうに頬を掻く。
耐え切れずが吹き出した。彼の威厳を貶さぬように、と丸く開いた口を手で塞ぐ。
「いま、子供みたいだと思っただろ」
「思っていませんよ」は目尻を擦った。
あなたのことは出会ったときから大きな子供だと思っている、とは胸中で呟いた。
は弁当箱に目を落とす。残るサンドウィッチは二つ。隙間を埋めるために作ったもの。自分の好物を詰め込んだひと回り大きいもの。
少し悩んでから彼女は後者を掴み、ダンデに差し出した。彼はとそれを交互に見る。
「よろしければどうぞ」
ダンデなら嬉々として受け取ると思ったが、予想に反して彼は利口に待っている。
その様子には怪訝そうに首を傾げる。
「もしかして、サンドウィッチ苦手でしたか」
ダンデは小さくかぶりを振った。やがて上目遣いがちに「いいのか」と訊いてきた。
「隣に空腹の方がいらっしゃるのに、自分だけ悠長に食べられませんよ」
ようやくダンデはサンドウィッチを手に取った。その手つきは壊れ物を扱うようだった。
「ありがとう、」
「いえ」
は水筒の蓋を取り、水を口に含んだ。
飲みながらダンデを一瞥する。彼のひと口は大きく、一度でほぼ半分を食べてしまった。そして飲み込む速度も凄まじく、口内の膨らみはあっという間に食道から胃袋へ消えていった。
食べるのが速すぎないか。愕然とするを余所に、ダンデは彼女を見て笑顔を浮かべた。
「美味いぜ!」
は目を瞠った。告げられた絶賛の声は、彼女にとって不覚極まりない言葉だった。
そんな風に自分の料理を「美味い」と褒めてくれる存在など、今までいなかった。
大人になる前から一人暮らしを続け、手料理を口にする人物は自分以外いなかった。料理を振る舞いたいと思える親しい友人もいなければ相手もおらず、自分の料理がどんな味なのか。果たして他人の口に合うのかどうか、判定を下す人物がいなかった。
食事を共にするポケモンはいても、来客用に購入した椅子は未使用のまま。常にテーブルの脇で静かに佇み、その人物が現れるのを待っている。
はゆっくりと息を吐いた。弁当箱に残っているもう片方を手に取り、口を開く。
「お口に合ったのならよかったです」
「ああ。かなり美味い」ダンデは更に頬張る。「ポケモンたちにも食べさせてやりたいんだが、どの店で買ったのか教えてもらえないか」
「えっと……」は気まずそうに頬を掻いた。「すみません。それ、わたしの手製なんです」
海の向こうからキャモメの鳴き声がした。押し返す白波に貝殻が浚われていく。
「どうりで、美味いと思った」
「それはどうも、ありがとうございます」
は片手で顔を隠した。思わず緩んでしまいそうな頬を見られたくなかったからだ。
「手作りなら先に聞いておきたかったな」
「別に言うことでもないと思いましたので」
「もう半分も食べてしまった」ダンデは落胆した様子でうな垂れた。「勿体ないことをした」
大袈裟なことを言う人だ、とはポケモンたちを眺める。食事を終え、リザードンの股座をエリキテルたちがトンネルのように潜り抜けている。
駆け回るイワンコの姿を見て、の脳内にとある言葉が思い浮かんだ。
「アローラでマナーロ」
「何だって?」
「イワンコの生態を調べる為に当たって、アローラ独自の文化を見つけたんです」
はスマホを取り出し、保存しているタブを開いた。画面を拡大し、ダンデにも見せる、
「アローラ地方は大自然に恵まれた土地。木の実を始めたとした食用物が盛んで、市場では野生のポケモンから誰にでも皆で物資を分け合うんだそうです」
アローラは現地の挨拶であると同時に『分かち合い』を意味する言葉でもある。もしもここがアローラ地方であれば、食事を分け合う行為もごく当たり前のことで、謙遜や遠慮の素振りなど見せないのだろう。
「そして皆既月食の日、太陽と月の神と崇められるソルガレオとルナアーラ。輝きさまと呼ばれるポケモンに祈りを捧げる祭事があるんです。現地ではマナーロ祭と呼ばれています」
「初めて聞く言葉だな」
「そういえば、わたしもアローラだけでマナーロの意味は調べていませんでした」
分からないことがあれば調べる。基本中の基本だ。はスマホでマナーロを検索した。
結果はすぐに出た。その文面を追い、言葉の意味が判明した時点での息が止まった。
『あなたとわたしは共に生きていきます』
スマホの設定で照明が自然と消え、真っ黒な液晶にとダンデの顔が映り込む。画面越しに視線が絡み、二人は導かれるように顔を見合わせる。
いつの間に距離を縮められたのか。ダンデの顔は正に目と鼻の先にあった。黄金色にの顔が映り、対して彼女の瞳にはダンデの顔が浮かんでいる。
遠くでイワンコが鳴いた。二人は、はっとした様子で顔を逸らした。ほぼ同時だった。
頬に受ける海風が妙に心地いい。走っていた時はあんなに冷たくて鋭かったのに。
理由を確かめたかった。手のひらを頬へ添えようとした時、突然背後に気配を感じた。
振り返るとリザードンが立っていた。自らを壁にし、を覆うように鎮座している。
いつの間に傍へやって来たのか。思案を巡らせた次の瞬間、遠くから人の声が聞こえた。どんな人物なのかは判らない。だが少なくとも二人はいる。イワンコが鳴いた理由は恐らくそれにあった。
はモンスターボールを出し、急いでイワンコたちをしまった。こういう時、光さえ届けばしまえる便利な機能に改めて有難味を覚える。
普段は人など通らないはずなのに。こういう時に限って――の胸中で焦りに色が広がる。
「あれ?」男性と思われる人物の声がした。「あそこに座ってるの、ダンデさんじゃないか」
「冗談言うなよ」さらにもう一人が言う。「でも、リザードンがいるからやっぱり本物か?」
虚実を明らかにするためか。ダンデはその場で振り返り、軽く手を振って見せた。二人組みと思われる男性は辺りに歓喜の声を響かせ、興奮を露わにする。まじで本物だ、どうしよう、と戸惑いの色を表出させる。
「お前、ファンだろ。サインもらって来いよっ」
最初にダンデの存在に気付いた男性が言った。
相手の返答次第では、彼らは間もなくここへやって来る。はどうすべきか考えあぐねた。
電光戦火の勢いでこの場を離れても、間違いなく彼らに気づかれてしまう。然りとて黙って迎えてしまえば、彼らはダンデに握手やサインを求める前にの存在に気付き、なぜ二人でいるのか、と言及するだろう。
こうなればエリキテルのように穴を掘り、男性たちが去るまで地中で身を潜めるか?
そんな風に考えていると「」と呼ばれた。ダンデの声は限りなく小さかった。
は「なんだ」と意を込めて彼を見返す。
「ワイルドエリアでの一件を含め、オレたちがここで会ったことも秘密にしたいか」
「そうですね」は力強く頷いた。「いまは大切な時期です。波風を立てたくありません」
「それなら良い方法がある」
「それは――」
なんですか、と問うた言葉は風に消えた。咄嗟にダンデから腕を引かれ、気づいた時には彼の脚の間に座っていた。は何が起こったのか分からなかった。
停止した思考力にスイッチを入れたのは、背中に伝わる心臓の鼓動。肩に流れるダンデの髪。そして背後から漏れる異性の吐息。
ようやくは現状を把握し、自分たちがとんでもない格好で密着していると気がついた。
恥ずかしいにも程がある。身を離すため、は腰を浮かせようとした。だが思い留まる。ここでダンデという名の防壁から逃げれば、確実に勘付かれてしまう。
まさか――チャンピオンは抵抗できないと知った上でこんな暴挙を提案したのか。
「、安心しろ」
前触れもなく耳元にダンデの声が降ってきた。は思わず身を硬直させ、息を殺す。
「まだ食うような真似はしない」
含みのある言い方だった。取りはしたが、食うのはまだ先だとでも言いたいのか。
最早、は何も考えられなかった。崩れた平静を必死に拾い集めるも、動揺という感情の隙間から全てこぼれ落ちてしまう。それは頬に流れる汗となり、砂浜に音も立てずに消えていく。
「確かにファンだけど、いまは完全にオフだろ。こういう時に邪魔したらまずいって」
「お前、そういうところは真面目なのな」
「そういうところってどういう意味だよ」
ほら行こうぜ、と男性たちの声が遠ざかっていく。は気を抜かず、静かに身を潜める。
その時だ。彼女の体を囲うように褐色の腕が伸びてきた。どこに持っていたのか。ダンデの両手には二枚のリーグカードとサインペンが握られていた。ダンデは慣れた手つきで自身のサインを走らせる。それをリザードンに渡し、男性たちに渡すよう指示を送ると、リザードンは翼を広げての彼らの元へ飛んで行く。
はその方角へ耳を澄ませる。急追してきたリザードンに対し、男性たちは喫驚するも、目前に飛んできた王者の相棒に酷く感激している。
サイン入りのリーグカードを受け取ったのか。随喜の言葉をダンデへ投げてきた。
返事とばかりにダンデはその場でリザードンポーズを掲げる。男性たちの顔は見えずとも、狂喜に達していることは間違いなかった。
自分がここにいなければ、チャンピオンたちは彼らの元へ行けたのではないか――は申し訳ない気持ちに駆られ、謝罪の念を抱く。
程なくして男性たちはその場を後にし、任を終えたリザードンが舞い戻ってくる。
「サンキュー、リザードン。休んでくれ」
さも何事もなかったかのように、ダンデはリザードンをボールへ戻した。はリザードンに助けを乞うたが、顔を上げた先には既に虚空だった。
この場にポケモンがいない。それは頼みの綱がなくなり、ダンデとの対峙を意味する。
もう身を隠す必要性はなくなった。が逃げ腰を浮かせようとするも、腹に回された片腕に拒まれ、呆気なく身を沈められてしまう。
「あの、チャンピオン」
「どうした」
「もう、大丈夫です。離してください」
「駄目だ」ダンデは腕に力を込めた。「こうでもしないと、は捕まってくれないだろ」
わたしはポケモンか。だが、そんな風に突っ込みを入れる余裕は徐々に奪われていく。
「彼らも言ってくれたじゃないか。いまはオフだ」
「それとこの状況に繋がりが全く見えません」
「オレの好きなようにしてもいいってことだ」
「人はそれを短絡思考といいます」
「すまない。波の音で聞き取れなかった」
不意にダンデの頬が髪に触れた。は体を震わせ、背筋をぴんっと張った。
「、これだけは言わせてくれ」
ダンデは力を緩めた後、の膝上で両手を組んだ。まるで祈るように見える。
「ずっと会いたかった」
熱を帯びた声で、そんなことを言うな。
限界だった。は心の中でダンデに詫びを入れ、彼の靴先を思い切り踏みつけた。
ダンデが声を上げた。痛みの衝撃で拘束が緩み、隙を見ては脱出する。そのまま波打ち際まで歩き、急上昇した体温を鎮めていく。手のひらを扇代わりにし、紅潮した頬も冷やす。
信じられない。チャンピオンも。そして自分も。
は案ずるようにダンデを見る。彼はうな垂れた状態から立ち上がっているところだった。帽子のつばで表情を隠しながら歩み寄ってくる。
は身構えた。攻撃を繰り出せば、相手から同等の反撃が返ってくると思ったからだ。
しかしダンデが他人に、ましてや女に手をあげるとは思えない。かといって意図的に相手を困らせるようなことをしてくるとも考えにくい。
明確な答えが見つからない――ダンデに対して抱える感情は決まってこれしかなかった。
「……痛くないですか」
言動が矛盾していた。だが冷静になった今では、ダンデに謝罪を述べる立場にあった。
「色んな意味で効いたぜ」
「余計なお世話かもしれませんが」は抑揚をつけて言う。「ああいうことを安易にしないほうが身のためですよ。後で困るのはチャンピオンです」
「ああいうこと?」
は言葉で説明させる気か、と目で訴えた。しかしダンデは疑問符を増やしていく。その様子に断念を込めた息を吐き、何でもありません、と言った。
ポケットの中でスマホが震える。折り返し地点からゴールまでの目標タイムを告げるアラームだった。どうやら走る予定の分だけ、時間を食われたらしい。
「朝食もとれたので、わたしはこれで失礼します」
「ちょっと待ってくれ」
まだ何かあるのか。は返そうとした踵を戻した。
「なんでしょうか」
好きな色、とダンデは言った。「の好きな色を教えてくれないか」
「心理テストは信じませんよ、わたし」
「そうじゃない。真剣に訊いてるんだ」
確かに。ダンデの目にはその通りの光を宿している。何か裏があるようにも見えなければ、他意が含まれているようにも聞こえない。
は黙考した。シンプルな質問だが、これといって特別好んでいる色はない。服装は季節の移ろいと流行りに合わせて切り替え、化粧品も地肌に合ったものを選んでいる。敢えて挙げるならば手持ちのポケモンに似た色を集めがちだ。だがそれでは答えにならない。
「随分と悩んでくれるんだな」
「すみません。あまり訊かれないものですから」
そうだな、とダンデは腕を組んだ。「例えば、白と黒ならはどちらが好きだ?」
「白と黒ですか」
極端だな、と思いながらもは再度考える。脳内に広がったのは明るいほうだった。
「その二択なら、白です」
「白だな」ダンデは頷いた。
「ですが、何故いきなりこのようなことを?」
「いまはまだ内緒だ」ダンデは口元に人差し指を添えた。「答えはまたいずれお見せしよう」
どうやらこの男は、まだ何かを企んでいるようだ。
そしてこうなったら彼は梃子も動じない。特に詮索も入れず、は聞き流した。
考えたところで、どうせ的は全て外れるのだから。
「本日も最後までポケモンチャンネルをご聴取いただき、ありがとうございます。最後に番組恒例、ポケモンクイズを出題して皆さまとお別れしたいと思います」
は原稿に目を落とした。出題する前にクイズ番組で多用される効果音が流れる。
「隠し事をするプクリンが抱えるものってなあんだ」
サブスタジオに指示を送り、ポケモンに添った音楽を流す。今回はプリンの子守唄だ。
「今回はプクリンに関するクイズです。正解者の中から抽選でタマムシデパート出展のポケモンぬいぐるみをプレゼントいたします。締め切りは次回の番組前日まで。ご応募は公式サイトにて受け付けております。皆さまのチャレンジ、お待ちしております」
それではまた、この時間でお会いしましょう。別れの挨拶を最後に、番組は無事終了した。は時計を確認してからヘッドフォンを外す。エリキテルはカフボックスから手を離し、汗を拭う仕草をとる。
収録ブースを抜け、サブスタジオで放送時のミスがないかを確認する。ダニエルから話を聞く限り、目立った失敗はなさそうだ。聴取者の数も以前と比べて上昇傾向にあり、早速クイズの回答メッセージが送られてくる。
「くん、今週もお疲れさま」ダニエルが言った。
「お疲れさまです」
「来週はついにネズさんとの公開放送だね。なんだかわたしもわくわくしてきちゃったよ」
「そうですね。わたしも事前にスタジオを見学しましたが、図面で見るより広い場所でした」
「お互い良い経験になるといいね」
「はい」は微笑みながら頷いた。
次回の原稿を持ち、スタジオを出る時だった。背後から「さん」を呼び止められた。振り返るとルージュが手を軽く挙げて立っていた。
「お疲れさまです」
「ルージュちゃんもお疲れさまでした」
彼女と共にスタジオを去り、廊下を歩く。
「さっきのディレクター、やけにうきうきしてましたね」ルージュが言った。
「そうね。最近は番組自体も盛り上がってるし、単純にリスナーが増えるからじゃないかな」
「前にあんなこと言っておいて、何だかんだネズさんのファンなんでしょうか」
「どうだろう。ネズ選手の場合、彼の音楽性を推す人もいれば、ダイマックスを使わないシンプルな戦いを支持する人もいるだろうし……」
直接会った感想から推測するに、ネズはどちらの支持者も喜んで受け入れる姿勢であった。ポケモンバトルではガラル地方で実質三位の実力を持ち、音楽活動に至っては新盤を出せばグラモフォンチャートの首位は必ず彼の名が挙がる。
「でも、あの人もバンドマンだからな……」
「どういうこと?」
「さんは知らなくていいことです」
最近は何かとうやむやにされることが多い。仕方のないことだ。誰にだって他人に打ち明けられない秘密もあれば過去もあるのだから。
二手に分かれる場所で二人は立ち止まった。
「それじゃあ、わたしは別の枠がありますのでここで失礼しますね」ルージュが言った。
「うん。また明日ね」
踵を返す彼女の目がの背後に向けられた。つられて振り向くと、プロデューサーが足音を鳴らしながら駆けて来る姿が見えた。遠目でよくは見えないが、彼の手元には用紙が握られている。
ルージュが気にしない様子で去っていく。やがての前にプロデューサーがやって来た。
「さん、ここにいたんですね」
「お疲れさまです」は頭を下げた。
彼の額には汗が浮かんでいた。表情も普段より増して険しく、目を泳がせている。
ただ事ではないと、は直感で分かった。
「いかがなさいましたか」
「ちょっとこっちへ」
案内されたのは人気の少ない非常階段の前だった。どれくらい静かなのかというと、設置されている自動販売機が放つ熱が聞こえるほどだ。
プロデューサーは周りに聞き耳を立てられていないことを確認してから、声を潜めた。
「これから話す内容は、きみにとって非常にデリケートなものになるかもしれない」
その口調から察するに、逼迫した事態に直面するのは自分のようだ。は息を呑んだ。
「単刀直入に言うと、ラテラルタウンでビート選手が不祥事を起こした」
「ビート選手が、ですか」
は正直拍子抜けした。身構えたわりに自分に然程関連性のない報せだったからだ。
だが彼女の反応にプロデューサーは弱ったように眉を寄せる。
「その反応だと、やはり知らないようだね」
「どういう意味でしょうか」
「これを見れば、判る」
差し出されたのは一枚の用紙だ。余程見られては困るものなのだろうか。裏返しのままだ。彼の手汗のせいだろうか。紙面が若干波立っている。
はそれを裏返した。文面を読む前に飛び込んできた字面に体中の血液が騒ぎ出す。心臓が忙しなく動き始め、急激に喉が渇いていく。
「これが放送局に送られてきた。差出人は判らない。ロトムを経由したこと以外はね」
用紙に記されているのは、ガラル地方の住人に割り振られている識別番号。の本籍地を始め、住所や家族構成など、彼女の出生や職業に関する個人情報がまとめられている。見る限り正式なものだ。
家族構成の事項欄には何故なのか、赤の他人であるはずのビートの名前が並んでいる。
あり得ない――は何度も胸中で唱え続けた。
「単なる悪戯だと考えれば信憑性は薄い。だがもしも、この書類が本物であれば――」
きみとビート選手は、血の繋がった姉弟だ。