午後五時過ぎた頃。はガイド役の二人と共にスパイクタウン入口まで歩いた。茂みを抜ければ九番道路へ出る。は振り返って頭を下げた。
「本日はお忙しい中、誠にありがとうございます。とても良い勉強になりました」
「また遊びに来いよ」男が言った。「スパイクタウンはいつだって歓迎するぜ」
是非、とは微笑んで頷いた。
「そうだ。あんたにこれをやるよ」
女から手渡されたのはタオルだ。傷やほこりがつかないよう丁寧に包装されている。
「こちらは?」が訊いた。
「お嬢の応援タオルさ。スパイクタウンでこれを持ってないやつはいないよ」
はしげしげとタオルを見た。少女の横顔が綺麗にプリントされている。
情報を常に取り扱う者として、彼女の存在は認知している。スパイクタウン出身のマリィだ。現在開催中のジムチャレンジでも目を張る戦績を残し、周囲からも注目を浴びている。くわえてその可愛らしい容姿で熱狂的なファンが次々と増加しているとのことだ。
「よろしいのでしょうか」
「それでマリィを応援してやってよ。あたしたちはあの人に勝ち残ってもらいたいんだ」
マリィが今回の大会に参加した理由を含め、エール団が彼女を応援する本源にはスパイクタウンの活気を取り戻したい意思があるのだろう。
「ありがとうございます。大切にいたします」
はタオルを綺麗に畳み、鞄へ入れた。
「ネズさんとの収録にはおれたちも現地に行くからさ。そんときはまた声掛けてくれよ」
「はい。よろしくお願いします」
「そんじゃあね」
二人の手厚い見送りを背に受けながら、はスパイクタウンを後にする。九番道路の標識が見えたところで立ち止まり、スマホで周辺の地図を確認する。
向かう場所はこの先の桁橋。エール団員から聞いた話を確かめるためだ。彼らを疑っているわけではないが、人伝ではなく自分の目で見たかった。
ルートナイントンネルは見た以上に長く、徒歩では時間がかかりそうだ。そこへ都合良くアーマーガアタクシーが客を乗せて停車した。は飛び立つ前に運転手を呼び止め、七番道路手前までの運賃を支払った。
長いトンネルの上を移動して数十分。話に聞いていた桁橋が見えてきた。夕焼けに照らされて石橋の路面が淡く光っている。とても綺麗な光景だった。
車から降りて桁橋を観察する。タブレットでナックルシティの写真を表示させ、見比べる。黒城から架かるものと比べ、現在立っている桁橋は確かに造りが少々異なるようだ。使われている素材に差異はないものの、全体的に色味がやや薄い。
は桁橋をスマホで写真におさめ、気付いたところを手帳に書き残した。そのまま七番道路を抜け、ナックルシティに架かる橋へ辿り着く。ここまで来ると人気も次第に増えてきた。
先ほど撮影した写真を見比べてみても、やはり色味が違うことがよく判る。こちらは城壁と同じ色に合わせている。当然といえば当然だ。手摺には金色の塗料が施され、均整のとれた厳かな黒城がさらに美しく見えた。
真ん中まで歩くと、親子と見られる少年と女性が何やら橋の下を覗き込んでいた。
も気になって彼らを真似てみる。眼下にあったのは自然に囲まれた線路だった。
間もなくナックルシティ行きの列車が走ってくる。速度を緩めた列車が桁橋の下を通った。親子は駆け足で反対側へ回り、去っていく様を追いかける。歓喜の声をあげる子供に対し、母親は和やかな笑みを向けている。とても仲睦まじい光景だった。
母親が子供の手を取った。彼女らは談笑を交えながらナックルシティへ入っていく。辺りの環境音で会話はよく聞こえない。だが、今日の夕飯は何かな、という言葉だけは聞き取れた。
自然な足取りではナックルシティの門を潜った。城壁に囲まれた街は穏やかな空気に包まれている。安穏な日々を過ごす様が見てとれた。
がこの街を訪れるのは初めてではない。最後に訪問したのは数年前。ナックルシティユニバーシティの生徒をゲストとして呼ぶに際し、講義風景や学内を視察するためにダニエルと共に足を運んだ。
城壁を仰視しながら、昔の出来事を想起させる。視察も兼ねて見学に訪れた部屋ではポケモンの生態にまつわる講義が行われていた。にとっては少し懐かしい光景だった。前方に設置された大きな黒板。教卓を中心に扇形に広がった室内。座席は軽く見積もっても五十人は収容できそうだ。それらが隙間無く埋まっていた。
入ってきた見学者に見向きもせず、生徒たちはただひたすら講師の言葉に耳を傾けていた。講義を受ける横顔は正に真剣そのもので、手元のスマホやノートに内容を書き写していた。その光景はどの場所へ行っても変わらず、講義が終われば歳相応の会話で盛り上がったり、復習し合ったりする様子が見て取れた。
その後、複数の生徒らに話を訊いてみて、それが見せ掛けではないことが判った。
彼らは単位を取るためにやむを得ず出席しているわけでもなければ、自分勝手な内職のために後方の席に座っているわけでもなかった。
各々が掲げた目標に向かって日々勉励している。そんな彼らを見て、は心底驚いた。
自分が見てきた光景と全く違ったからだ。
記憶は更に過去へ遡る。が放送局を目指すため、郊外の大学へ通っていた時だ。の大学では講義室の席が埋まることはまずあり得なかった。それどころか彼女のように最前席で受講する生徒は少なく、ほとんどが後方の席で閑談を交わしたり、必要性のない道具を机へ広げて遊んだりしていた。
孤独、とまでは思わなかった。だが周囲から見れば、自分は明らかに浮いていただろう。目的と目標を持って大学へ通っているのに、周囲はその姿を物珍しそうに見てくる。彼らと考えの差異が生じていることは、時間の経過と共に微かに感じ取っていた。
曖昧に延ばしていた答えを突きつけられたのは、入学して半年が過ぎた頃だった。はいつものように講師が来る前にノートを広げていた。
「ねえ」
声を掛けてきたのは同級生の女だった。無論、名前は知らない。だが何度も講義を受けている同志であることと、彼女の肩に止まり木の如くココガラが羽休めしている姿に見覚えがあったため、認知はしていた。
「何でしょうか」同い年でもは敬語で返した。
「あなたさ、教養学科志望の子でしょ」
どうして知っているんだ、とは内心驚いた。自分など眼中にないと思っていたからだ。
「そうですけど……」
「なんでこんな講義、真面目に受けてるの?」
は彼女の言っている意味が分からなかった。返答に困っていると、相手は諦めた様子でため息を吐いた。それがさらにを困惑の渦へ引き込む。
「思ったより気難しいわね、あなた」
は何も言えず、ただ瞬きをするだけだ。
「そんなんだからなお更、友達できないのよ」
最後の去り際、捨て台詞のごとく囁かれた言葉は今でも忘れることはない。
だが恐らく。彼女らがに異端の眼差しを向けていた理由はそれだけではない。と周囲とでは明らかに違う部分がもう一つだけあった。
「あの……」
そんな風に思い返しているときだった。背後から服をくんっと掴まれた。は振り返った。
左右に軽く結われた癖のある髪。白地のワンピースにイーブイを模した子供用のポシェットを提げている少女が立っていた。その表情はどこか不安げだ。
はその場で膝を折った。「どうしたの?」
少女は口を結んだ後、徐々に目を潤ませた。その変わり様には思わずぎょっとする。
「あのね」少女の声は震え出した。「あたし……」
「ゆっくりで大丈夫よ」
宥めるように声を掛けると、少女は感情を落ち着かせるように深呼吸をする。
「あたしね、パパとはぐれちゃったの。探しても全然見つからなくて」
どうやら迷子のようだ。事情を把握したはハンカチで少女の涙を優しく拭き取った。
「そうだったんだ。心細かったね」
うん、と少女は息継ぎをしながら頷く。
「わたしとしてはお巡りさんのところへ連れて行きたいんだけど、それでもいいかな?」
「あたし、ここのお巡りさん苦手」
「えっ」予想外な発言には目を剥く。
「何かよく分からないんだけど、目が怖いの」
は過去に街中ですれ違った警察官を思い出す。確かに彼らは円ら過ぎる瞳をしている。しかしそれが恐怖の対象と捉えたことはなかった。
迷子の子供と遭遇した際、まずは警察に送り届けるのが正しい方法だと教わった。もしもここがショッピングモールであれば、案内所へ連れて行くべきなのだが、生憎ここは街中だ。警察を拒む子供を彼らに引き渡すのは果たして正解なのだろうか。子供を相手する機会が少ないため、適切な対処が浮かばない。
そうだ、とは言った。「大人に声を掛けるのってすごく勇気がいることだよね。どうしてわたしに声を掛けてくれたのかな」
少女は口を結んでから開いた。「お姉さんは優しそうに見えたし、大丈夫だと思った」
「そうだったんだ」
「お願い」少女はの片手を掴んだ。「お姉さん、あたしといっしょにパパを探して」
こんな風に懇願されては断れない。は掴まれた小さな手に自分のものを重ね、頷いた。
「分かった。わたしが探してあげる」
「ありがとう」少女は笑みを浮かべた。
どうやら少しは気を戻したようだ。ひとまず付近のベンチへ座らせ、迷子の経緯を訊く。
「まずはあなたのパパの特徴と、どうして離れ離れになっちゃったのか教えてもらえるかな」
「ええっとね……」
少女は時間をかけて事情を話した。父親の外見や特徴。彼と最後に会った場所と時間まで。子供にしては的確な言葉で、曖昧な情報は見当たらなかった。子供らしさといえば舌足らずな面だけで、大人の目線から見ても利口な子であることがよく判った。
「つまり」が言った。「今日はパパと二人でナックルシティに買い物へ来て、パパが飲み物を買いに行っている間に逸れちゃったってことかな」
「うん」少女は素早く頷いた。
「パパからは待ってなさいって言われたんだ」
「そうだよ」
「それでずっと待ってたんだね」
ここで少女に異変が生じた。ぶらぶらと動かしていた脚を止め、ややあってから頷いた。
純粋な心を持つ子供を疑いたくない。しかしいまの反応には躊躇いがあるように見えた。以前にも似たようなことをした人物がいる。誰とは言わないが。
恐らく――少女は父親の言葉を守れずに街を歩き回ってしまったのだろう。先ほどの反応を見るまでは、その場に子供を置き、飲み物を買いに行った父親に原因があると考えていたが、どうやら一概に彼だけを責めるわけにはいかなそうだ。
かといって、他人であるが子供相手に自論を投げるわけにもいかない。いま成すべきことは目の前の少女を無事に親元へ帰すこと。何より少女の言葉が偽りと決まったわけではない。ここは嘘でも何でも、子供の言うことを信じてあげるべきだ。
「話してくれてありがとう。パパの特徴と逸れた場所が判れば、何とかなるかも」
「本当?」少女の目には期待が宿っていた。
「わたしに任せて」は胸に手を当てた。「まずは街の人たちにパパのことを聞いてみよっか」
ベンチから腰を浮かせると、不意に少女から手を握られた。は少しだけ困った。例え迷子とはいえ、他人の子供へ安易に触れるべきではない。
だが求められれば話は別だ。は小さな手を緩く握り返した。とても温かかった。
は少女が提げているポシェットを見た。黒いマジックペンで名前が記されている。
「わたしはっていうの」
「?」少女は不思議そうに首を傾げた。「なんかどこかで聞いたことある名前……」
まさか両親がラジオを聴いているのだろうか。それは都合が良すぎるか、とは思った。
「あたしはルビィ」
どうやら記されている名前通りのようだ。
「すごく綺麗な名前だね。宝石みたい」
「ありがとう。あたしも気に入ってるんだ」
少女改めルビィの手を引きながら、周辺の人々に声を掛けて事情を説明する。さらに父親の特徴や自分たちと同じく人捜しをしている人物に会わなかったか確認を取る。しかしそう易々と目ぼしい情報は得られない。
ナックルシティは城壁に囲まれた街だ。昔のまま姿は変わらず、城内を含めて全てを見て周るには最低でも三日を要する広さを誇っている。さらに街のいたるところには入り組んだ小道が点在している。それらをひとつひとつ確認するには時間が惜しい。
東西に位置するポケモンセンターにも立ち寄ったが、やはり結果は変わらなかった。既に夕日は沈み、芳しい結果が残せないまま、辺りは小夜に染まる。
は頭を悩ませる。人探しにこれだけ時間と労力を使うとは思わなかった。
下手に歩き回るよりは人の出入りが激しいポケモンセンターで待つべきかと考え、はこの場で父親を待つ提案を持ちかけた。ルビィも歩き疲れたのか、何も言わずに同意した。
事情を呑み込んだジョーイは、温かい飲み物とひざ掛け毛布を用意してくれた。もう一方のポケモンセンターにも改めてルビィの居場所を伝え、父親らしい人物がやってくれば西側の店舗を訪れるように話がまとまり、ひとまず足を休める。
「パパ、全然見つからないね」
父親と出会えない寂しさと不安からか、ルビィは徐々に顔色を曇らせていく。
このままではいけない。は解決の糸口を探るようにルビィを観察する。目についたのは肩から提げているイーブイを模したポシェットだ。
「そのポシェット」が言った。「最初見たときから思ってたけど、すごく可愛いね」
「ありがとう。ママが作ってくれたんだよ」
「えっ、そうなの?」
まさか母親の手製だったとは。てっきり市販で売られているものだと思っていた。精巧に作られたそれを思わず仰視してしまう。
「あたしね、ポケモントレーナーになったらイーブイをゲットするのが夢なんだ」
「そうなんだ」は微笑んだ。「素敵な夢だね」
「はポケモントレーナーなの?」
「そうなのかな」は頬を掻いた。本職を名乗ればいいものの、何故か言い出せなかった。
「じゃあ、お友達たくさん持ってる?」
「お友達?」
「ポケモンだよっ」
子供の瞳、正に瞬く星の如し。上目遣いでを見つめるルビィの目がきらきらと輝く。
これは期待に応えざるを得ない。気を良くしたはモンスターボールを取り出した。
「もちろんよ」
「見せて見せてっ」
半ばがっつくように要求され、は口角を上げる。
「みんな、出ておいで」
エリキテルとイワンコを繰り出す。二匹のポケモンを見て、ルビィは歓喜の声を上げる。
ボールの中で事情を聞いていたのか。見覚えのない少女にもエリキテルたちは警戒せず、求められた熱い抱擁を受け入れている。イワンコも最近は周囲に気を遣えるようになり、無闇に岩飾りを擦り付ける行為はしなくなった。ただし、だけは例外だ。
両脇に二匹を抱えたルビィはご満悦のようだ。その様子にの表情も自然とほころぶ。
「こんな風にポケモンに触ったの初めて。は素敵なお友達がたくさんいるんだね」
「ありがとう。自慢のポケモンたちなんだ」
「それじゃあ、あたしの宝物も見せてあげる」
ルビィはポシェットから絵本を取り出した。表紙には彼女の大好きなイーブイがいる。
「いつもパパが読んでくれる絵本。ポケモンたちが山登りをするお話なんだよ」
「どうしてイーブイが表紙なの?」
「絵本のなかのイーブイは天気予報が得意で、みんなを助けてくれるんだよ。予報が外れてもみんなはイーブイを責めたりしないし、寧ろ今度は当たったらいいねって慰めてくれるの」
ルビィは膝の上に絵本を置いた。画用紙で綴じられた絵本は一枚分のページが分厚い。捲られた紙面に描かれているのは、彼女が説明したとおりの絵図。山登りをしたり、イーブイの予報を聞いてキャンプテントを張ったりしているポケモンたちの様子が描かれていた。
「あたし、イーブイの可愛い見た目も好きだけど、何にでも成れるところが大好きなんだ」
時に子供は下手な詩人よりも深甚なことを言うものだ。も思わず聞き入ってしまう。
「大人になったらケーキ屋さんにもなりたいし、ポケモンレンジャーにもなりたいの」
「なりたいものがたくさんね」はふふっと笑う。
「でもね」ルビィはどこかばつが悪そうに頬を掻いた。「その前にお姉ちゃんにならなきゃ」
「どういうこと?」
「あたし、来月からお姉ちゃんになるから」
は、はっとした表情になった。「もしかして、ママのお腹には赤ちゃんがいるの?」
うん、とルビィは頷いた。「パパが言うには確かいまはリングマ……あれ、なんだっけ」
「臨月のことかな」
「あっ、多分それだ。だからママはいま病院にいるの。最近はパパといることが多いんだ」
「そうだったんだ」合点した様子では頷く。
「パパのことは大好き。寝る前はいつも絵本を読んでくれるし、音痴だけどお歌も歌ってくれるんだよ」でも、とルビィは瞼を伏せた。「やっぱりママに会えないのはすごく寂しい。でもルビィはお姉ちゃんになるからしっかりしないと駄目だよって」
あたしは今のままでも十分しっかりしてるつもりなんだけどな、とルビィは小さく呟いた。感情の機微に敏いポケモンたちは慰めるように彼女へ擦り寄る。
は伸ばした手を一度引っ込めた後、ルビィの肩に自分の手のひらを静かに載せた。
「?」不思議そうにルビィが訊ねる。
「ルビィがお姉さんになっても、いまと変わらずママたちに甘えていいんじゃないかな」
ルビィの丸い目が一瞬だけ見開いた。
「しっかりしてほしいとは言ったけど、甘えたら駄目とは言ってないと思うんだ。お姉さんになってもルビィには変わらず甘えてほしいし、たくさん頼ってほしいって考えてるよ」
子を持った親はそういう存在だ。直接言葉にはせず、は心でルビィに訴えかけた。
「もそうだった?」
「え?」
「ママたちにたくさん甘えた?」
「もちろん」は微笑みかけた。「だからルビィも遠慮せず甘えたり、頼ったりしていいの。たまには下の子と譲り合ったりしてね」
「それじゃあ、もお姉ちゃんなの?」
「それがね」は申し訳なさそうに言った。「実は一人っ子なんだ。だから有益なアドバイスとは程遠いかもしれない。偉そうにごめんね」
「そんなことないよ。あたしはみたいなお姉さんになりたいって思ったもんっ」
今度はが目を見開いた。やがて安堵の息を含めて「ありがとう」と笑って見せた。
その時だった。眼鏡をかけた細身の男性がもの凄い形相でポケモンセンターへやって来た。その場にいた全員の視線を集めるほどの剣幕だった。
男性は屋内へ足を踏み入れるや否や、何もないところで躓き、勢いのまま正面カウンターまで転がっていく。その様子は正に高速で回転するドンファンのようだ。文字通り踏んだり蹴ったりの男性を案じ、ジョーイが慌てて彼に駆け寄っている。
騒がしい人が入ってきたな、とルビィを宥めようとすれば、彼女は途端に立ち上がった。視線は紛う方なく目の前の男性に結ばれていた。
もしかして、とが思った直後、ルビィは横たわっている男性に向かって駆け出した。
靴の音に反応したのか。男性はむくりと起き上がり、駆け寄ってくるルビィを見て目を潤ませた。
「パパっ」ルビィは男性に抱きついた。
「ルビィ~~~~!!」
男性は眼鏡が割れるほどの勢いで涙を噴射した。これではまるで人間版ハイドロカノンだ。
どうやら間違いない。ルビィが捜していた父親は目の前で抱擁を交わしている人物のようだ。あれだけ毅然と振る舞っていたルビィが涙腺を緩ませ、安堵した様子で涙を流していることが何よりも証拠だ。まだ十歳にも満たない子供なのだ。不安で堪らなかったに違いない。
はエリキテルたちと顔を見合わせ、少しだけ困ったように笑って肩をすくめた。
ひとしきり涙を流し、平静を取り戻した父親は周囲に頭を何度も下げた。やがてルビィに手を引かれての目前までやって来る。はポケモンたちをしまい、軽く会釈した。
「っ」ルビィは笑顔を浮かべた。「パパに会えたよ」
「良かったね」
ルビィの嬉しそうな様子にも微笑み返す。
「どうもはじめまして」父親が言った。「ルビィの父です。大変お世話をおかけしました」
「無事に再会できてよかったですね」
「、すごく優しかったの」ルビィが父親の手を握りながら言った。「手を繋いでくれたり、ポケモンを見せたりしてくれたんだ。楽しかったよ」
「こら、お姉さんを呼び捨てにしたら駄目だろう」
「気にしないでください。わたしもルビィちゃんと仲良くなれて嬉しかったですから」
すみません、と父親は苦笑した。
借りていた道具をジョーイに返し、は親子と共にポケモンセンターを出た。少し離れた場所まで歩き、街灯の下で立ち止まる。
「貴女は確かさん、でしたよね」
「はい」
父親はポケットから紙切れを取り出した。アーマーガアタクシーの自由乗車券だ。
「どうぞこちらをお受け取りください。娘を見守ってくれたせめてものお礼です」
「お礼だなんて、そんな」は手を振った。「声を掛けたのはルビィちゃんですから」
「それでもさんに感謝しているんです。何もせずに貴女を送り出すわけにはいきません」
「……よろしいのでしょうか」
「勿論ですよ」
父親は微笑んだ。それはルビィが笑ったときと酷似しており、やはり親子なのだと再確認する。
は乗車券を受け取った。彼の厚意に甘え、今日はこれを利用して帰宅しよう。
それでは、と父親が言った。「わたしたちはここで失礼します。再三申し上げますが、今回は本当にありがとうございました。今後は娘から目を離さないように十分気をつけます」
そうですね、とは言えず、は黙って頷いた。
「ねえ、」
ルビィが最初のように服の裾を掴んできた。は「なあに?」と言って膝を折る。
「あのね」ルビィはそっと耳打ちを立てた。「に声を掛けたのにはちゃんと理由があるんだ」
「理由?」
「はね、あたしのママに似てるの」
「わたしとルビィのママが?」
「見た目は全然違うんだよ。上手く説明できないけど、フンイキって言えばいいのかな」
はルビィの手を見た。小さくも温かく、時に大人よりも力強い彼女の手。
最初に彼女から手を繋がれたのは、逸れない為に結んだものではない。例え偽りだとしても、離れて過ごす母親のぬくもりに触れたいと思う子供の欲求だった。
しかし、まさか自分が彼女の母親と似ているとは微塵も考えなかった。同じく女として生まれたからか。それとも子供にしか見えない何かがにはあったのか。
どちらにしても、少女の寂しさを消し去ることができたのだ。とても嬉しい言葉だった。
「あたし、に言われたこと忘れないからね。これからもいっぱいパパたちを頼るよ」
「こちらこそ頼ってくれてありがとう。ルビィに会えてわたしもすごく楽しかった」
「あたしがイーブイをゲットしたら、そのときはまた一緒に遊ぼうね。約束だよっ」
「うん、約束」
契りを交わした後、父親に手を引かれてルビィが遠ざかっていくのをは見送った。
一人になった途端、平穏さが戻ってくる。それは街を訪れた際に浴びたものだった。
いや、現状は穏やかさも物寂しさのほうが濃いような気がする。それを今まで隠していたのはルビィの存在だ。子供が傍にいるだけで、自分まで若返ったような気持ちになった。ポケモンと触れ合う彼女の笑顔には心を浄化させる不思議な力を感じた。
はルビィの言葉を反芻する。彼女が夢に向かって走る様を想像するだけで瞼の奥がじんっと熱くなる。
過ぎた時間を取り戻すことはできない。はスマホに表示された長針が傾いたのを見て、アーマーガアタクシーを呼び出した。