マクワの計らいで『ホテル・イオニア』内のレストランを訪れることになった。
案内されたレストランは煌びやかなシャンデリアや分厚い絨毯が敷き詰められているものの、大衆的な雰囲気を漂わせていた。早めの夕食をとる親子連れから、アフタヌーンティーを囲いながら談笑する女性たちも多く見られる。中には学生と思われる若い層まで出入りしているようだ。これにはも拍子抜けした。
彼女はホテルや高層ビル等に入っている高級レストランが苦手だったからだ。個人の我が儘でマクワたちを困らせるわけにもいかず、真意を隠していた。
店内のスタッフとマクワは顔見知りだった。しかし多くの女性に支持される彼が一般客と同席すれば混乱を招きかねない。スタッフの計らいでたちは個室へ案内された。
席につくと、ウェイターが注文を訊きにやって来た。たちはディナーセットを頼んだ。
「是非、ポケモンたちを出してお待ちください。彼らの食事もお持ちしますね」
はエリキテル。マクワはツボツボ。サイトウはゴロンダを繰り出した。ポケモンたちは同室に設置されているプレイスペースへ行き、集まって遊び始める。
「バトルの後はこうしてテーブルを囲って食事をするのに尽きますね」マクワが言った。
「此処へはよく来るんですか?」が訊いた。
「気分によりますが、大抵利用します。ポケモンにも良い食事を与えてあげたいですからね」
「そうなんですか」
「それに今はここでしか食べられない季節限定のデザートを出していますからね」
言いながらマクワはサイトウを見る。彼女はどこか照れくさそうに頬を掻いた。どうやら説明を受けるまでもなく、デザートの存在は把握していたようだ。
「さん」
マクワに名を呼ばれ、彼に視線を向ける。
「本日は初めてのダブルバトルでしたが、手応えとしてはいかがでしたか」
は一考する素振りをとってから口を開いた。「サイトウさんから受けたトレーニング然り、複数のことを同時に行う難しさを痛感しました。ポケモンの状態を見定め、状況に添いながら的確な指示を送る。実戦は映像や誌面を眺めるものとはまるで違います。それらを冷静沈着に行えるマクワさんたちの凄さに感嘆しました」
「図らずとも、ぼくらの凄さが証明されたバトルになったようですね」マクワは一笑する。
「ありがたいことです」サイトウが言った。
「お二人と戦ってみて、学ぶべきことがたくさん見つかりました。ありがとうございます」
いえいえ、とマクワは手のひらを振った。「サイトウさんとも話していましたが、さんは技や特性を含めてポケモンバトルの知識が豊富です。経験不足ではあるものの、覚えも吸収も人一倍速い。恐らくはあらゆる情報を取り入れることに長けているのだと思います」
「放送局に勤める者としては、あらゆる知識を蓄えておくべきだと考えています。ですので、そう仰っていただけるととても嬉しいです」
「これからは実戦を重ね、ポケモンと共に基礎トレーニングを積んでいくのがベストでしょう。指示送りにはまだ躊躇いが見られますし、相手の動きも追い切れていませんでした。ポケモンに鼓舞されるのではなく、トレーナーとして貴女が彼らを導いてあげてください」
「精進します」は胸に手を当てて頷いた。
「大丈夫です」マクワはにこりと笑った。「さんたちは必ず良いコンビになりますよ」
「イワンコとの息もぴったりでした。磨きかかっていくのが楽しみです」サイトウが言った。
「ありがとうございます」
回復が終わったら今の言葉をイワンコにも聞かせてあげよう、とは思った。
「噛み付くを覚えたということは、進化までもう間もなくでしょうね」マクワが言った。
「進化、ですか」
イワンコの進化系といえば、ルガルガンだ。
「凄まじい成長速度ですからね。もし進化をお考えであれば準備しておくべきでしょう」
マクワの言う『準備』とは恐らく、どちらのルガルガンに進化させるかという意味だろう。
ルガルガン――太陽と月の力によって姿形や覚える技が異なる不思議なポケモンだ。
大きく分類すると、真昼の姿と真夜中の姿。最近の学界発表ではどちらにも属さない特別なルガルガンが確認されたとの情報も耳にしている。
しかしここで気になるのは、イワンコの棲息が確認されていないガラル地方で進化の条件を満たすことは可能なのか、ということだ。
元々イワンコが棲息しているのはアローラ地方だ。現地では太陽と月を司る伝説のポケモンの力を受けて土地や分明が発展し続けたとも云われている。
太陽の使者として崇められたソルガレオ。反して月の使者として崇められたルナアーラ。彼らの強大な力を浴びたポケモンたちは従来とは異なる姿へ変化を遂げた。
ガラル地方には昼夜を司るポケモンはいない。環境が異なるこの地で、果たしてイワンコに進化の光を浴びせることはできるのだろうか。
「進化のことはわたしの独断ではなく、イワンコ本人と話し合って決めたいと思います」
「さんらしい考え方ですね」
「ありがとうございます」は微笑んだ。「イワンコが進化を望めば、の話ですけど」
お待たせしました、と頭上から男性の声がした。先ほどのウェイターが飲み物を運んできたようだ。サービングカートに載っているティーカップが並べられる。摘みたての薔薇のような香りが辺りに漂った。
ウェイターが去り、各々紅茶を口に含む。
「わあ、美味しい」は思わず声を上げた。
「ぼくのお気に入りです」マクワは微笑んだ。「アローラで人気のロズレイティーですよ」
適時に合ったチョイスだな、とは思った。
「進化の話で思い出しましたが」サイトウがティーカップに手を伸ばす。「特性によっては珍しいルガルガンになる可能性もあるのではないでしょうか」
「そういえば……」
マクワのスマホロトムで覚えている技を調べてもらったが、特性だけは聞いていなかった。
利便性のことも踏まえ、自分もそろそろ古いスマホから買い換えるべきだろうか。
そんな風に考えながらマクワを見ると、彼はどこか悩ましげに腕を組んでいた。
「マクワくん?」
「そのイワンコの特性についてですが、実は以前から気になっていたことがあるんです」
マクワは組んでいる腕を解き、ロズレイティーをひと口飲んだ。
「彼の特性が判らないんですよ」
「判らない?」は思わず聞き返した。
はい、とマクワは頷く。「最初にスマホロトムでイワンコをスキャンした際、技構成や性格は視られましたが、特性だけが判別できなかったんです」
「確か、イワンコの特性は少し特殊なものでしたよね」サイトウがを見ながら言った。
「はい。恐らく全て挙げられます」
命中率が下がらない『鋭い目』。
歌うや欠伸を受けても眠らない『やる気』。
怯むたびに素早さが上がる『不屈の心』。これに関しては極めて珍しい固体にしか備わらない。
更にイワンコには特殊な特性が存在している。
それが『マイペース』。混乱状態に陥らず、相手の威嚇を無視することができる。効果としては他の特性と引けを取らない能力だが、イワンコにマイペースが備わっていることにより、太陽と月のどちらの影響も受けずに進化することが可能になった。
黄昏の姿――その名の通り、夕焼けを浴びたような毛色が特徴的なルガルガンだ。これこそ近年発見されたばかりの新種である。
は進化の可能性を含め、イワンコの特性についてかいつまんで説明する。
「確かに……変わってますね」サイトウが言った。
「実に珍しいです。親の遺伝で異なるならばまだしも、特性が不明なポケモンは初めてです」
は漠然とした不安に駆られる。
「特性がないと何かまずいのでしょうか」
「まずいというわけではありません。ただ、バトル以外では少々困るかと思います」
「どういう意味ですか?」
マクワはややあってから答えた。「確か、さんのエリキテルは乾燥肌でしたね」
はツボツボたちと遊んでいるエリキテルを一瞥してから「そうです」と答えた。
特性もあり、エリキテルは水浴びが大好きだ。反して、夏場の猛暑日は日除けの帽子が欠かせない。穏やかな気候であれば日光浴は可能だが、日照りには滅法弱い。
「ポケモンの特性と聞くと、最初に浮かぶのはバトルでの利点です。しかしポケモンセンターで勤務しているジョーイさんや専門医からすれば、人間でいうアレルギーや抗体に近しい存在だと聞きました」
の脳内で浮かんだのは、日光アレルギーを持つ子供の話だった。何となく点けたテレビに映っていたのは、太陽が沈んだ夜間にブティックへ行く少年の姿。彼は日光に当たると皮膚に炎症を起こす光線過敏症を患っていた。その為、日中は出かけることができず、店を訪れる際は事前に連絡を入れているのだと話した。
番組の出演者からネットショッピングの利用を提案されたが、生地の肌触りや実際の着心地を確かめるには店へ行かないと判らない、と深い悩みを打ち明けていた。
人間とポケモンで種類は違えど、日照りが苦手なエリキテルと類似しているな、と思った。
「特性が不明のままだと、治療にも影響が及びます」続けてサイトウが口を開く。「人間は治療を行う際、麻酔を打ち込むときがありますよね。ポケモンの場合、状態異常に耐性を持つ個体に麻酔を打っても効果は得られません。治療の痛みに耐えられる子もいれば、体力が保てず死んでしまう子もいます。特性は所謂、診療簿のような役割も担っているので、そういった面ではとても重要な存在なんですよ」
「そんなこと、今まで考えもしませんでした」
「ぼくは知り合いの受け売りですけどね」
「わたしは自分が連れているポケモンに麻酔の効かない子がいるので、気をつけています」
やはりジムリーダーはバトルに長けているだけではない。強さだけではなく、ポケモンのあらゆる可能性に目を光らせている。は二人の提言を味得した。
「ずっと聞きそびれていましたが」
これからマクワに何を問われるのか。は何となく直感で読み取ることができた。
「イワンコは何処でゲットしたんですか?」
やはりそうきたか、とは下唇を舐めた。
「わたしもガラル地方でイワンコを連れているトレーナーに会ったのはさんが初めてです」
話していいものか迷ったが、ここまで助力してくれた彼らに隠し事はできないと思った。
が口を開こうとした時だった。再びウェイターがやって来た。彼の登場により、に向けられていた疑念の視線が解かれる。
ウェイターの傍では蝶ネクタイを締めたルカリオ。メイド姿のアマージョが立っていた。給仕の手伝いだろうか。立ち姿が様になっている。
ポケモンたちの格好に見惚れていると、脚を生やしたディナーセットが歩み寄ってきた。思わずは料理を凝視する。皿の下から円らな瞳が現れた。
「わあ、タイレーツ」歓喜の色を零したのはサイトウだった。「可愛らしいですね。わたしが連れている子たちよりちょっとだけ大きいかも」
歩く料理の正体はタイレーツだった。彼らは料理が盛られた皿を慎重に運んでいる。頭に載っているディナーセットはルカリオたちの手によって並べられる。空になったティーカップには新たな紅茶が注がれ、テーブルの脇ではポケモン用の食事が準備されていた。
プレイスペースで遊んでいたエリキテルたちも旨そうな匂いを嗅ぎつけて集まってくる。
空腹に襲われていたたちは急場を凌ぐ思いでフォークを手に取った。上品な口当たりでとても旨い。ポケモンたちも喜悦を散らしている。
「美味しいですね」
「ええ、とても」
食事の手を進めながら、は盗むようにマクワとサイトウを交互に見やる。
料理が運ばれてきたことにより、不自然に会話が途切れてしまった。しかしどうやら彼らは気に留めていないようだ。既に興味の対象はディナーセットへ向けられている。食事の満腹感でどうか気を紛らわしてほしい、と密かに念を送った。
淹れたての紅茶を口に含み、先ほどまで話題の中心だったイワンコについて黙考する。
特性が不明なことに対して不満を覚えているわけでもなければ、危惧する要素もない。
の切なる願いは単純なこと。環境に縛られることもなく、他人に生き方を圧し付けられることもなく。健康に育ち、自分らしく生きてくれさえすればそれで良い。
ただ単純に、謎だった。
イワンコは一体何処から来て、どんな親から生まれて、何故をパートナーとして選んだのか。マクワが言うようにイワンコには不明点が多すぎる。
棲息が確認されていないガラル地方でイワンコと出会えたのはただの偶然なのか。それともダンデが唱えた感情論の通り、に惹かれてやって来たのか。新しくできた家族との時間を大切にするあまり、不透明な部分に目を向けていなかった。
あの男と知り合ってから、身の周りで不明点が知らぬ間に増え続けているな、と常々思う。
最も――チャンピオン以上に謎に満ちた存在は宇宙の果てまで探しても見つからないが。
「さん」
いつの間にか手を止めていたのか。サイトウに呼ばれてはフォークを動かした。
「もしかして苦手なものでもありましたか」
「いえ、どれも大好きなものばかりですよ。食後のデザートを考えていたんです」
「そうでしたか」サイトウはふふっと笑った。
主食を済ませた後はデザートが運ばれてきた。マクワの言葉通り、季節の木の実を贅沢に使用したケーキだ。念願のスイーツを前にサイトウは嬉々とした表情で頬張る。彼女は本日一番の笑顔を浮かべ、その様子をとマクワは温かい目で見守っていた。
が最後のひと口を食べたとき、マクワのスマホロトムが鳴った。彼は断りを入れてからスマホを耳に当てた。は気にせず紅茶を含む。電話口からは回復が終わったという言葉が微かに聞こえた。恐らくはポケモンセンターからの着信だろう。
は腕時計に目を落とす。短針は六時を指している。回復完了の予定時刻はもう少し先だ。
マクワは通話を切った。「ジョーイさんからでした。予定より早く回復が終わったそうです」
そういうことか、とは合点する。
「ただ、急患が入った関係で可能な限り早めに引き取りに来てほしいとの連絡でした」
「それならわたしが行きます」は片手を軽く挙げた。「回復道具を切らしてしまったので、引き取りのついでに揃えておきたいんです」
「よろしいんですか」マクワが訊いた。
「もちろんです。お二人はどうぞお掛けになってお待ちください。すぐに戻りますから」
「それではご厚意に甘えますね」
「お任せください」
は鞄を持ってレストランを後にする。するとエリキテルが後ろから駆け寄ってきた。
「エリキテルも一緒に来てくれるの?」
エリキテルは両手を挙げて頷いた。彼の笑顔には思わずほっこりしてしまう。
「ありがとう」
はエリキテルに毛糸の帽子を被せた。寒くないようにマフラーも巻き付ける。まん丸とした身格好はダルマッカのようだ。は思わず笑いを零す。
改めて外へ出ると、異様な光景が飛び込んできた。路面の雪が青色に染まっているのだ。
は手袋を嵌めながら空を仰ぐ。そして視界に広がる景色を見て、思わず白い息を零した。
夕刻とは思えないほど、青色に染まっている。雪に囲まれた町では珍しく、雲ひとつ浮かんでいない。まるで天地が逆転し、海が浮かび上がっているかのようだ。地平線は微かに白んでいるものの、淡い紅色から藍色へのグラデーションがとても美しかった。
自然現象だろうか。はすかさずカメラを起動し、写真におさめる。肉眼とカメラでは若干の相違が生じてしまうものの、美しい景色には変わりなかった。
不意に服の裾をエリキテルに引っ張られる。は、はっとした様子でスマホをしまう。
「ごめんね。早く行こう」
駆け足でポケモンセンターへ向かい、三人分のモンスターボールを預かる。数が合っているか確認を行ってからポケモンたちを鞄の中へしまう。フレンドリィショップでは回復スプレーと元気の欠片を購入し、その場を後にした。
再び外へ出ると、空の様子は既に変わっていた。濃紺の空が広がり、次第に星が顔を出す。
はスマホを取り出し、先ほど撮影した神秘的な空と現在の状態を見比べる。やはり普段から目にする夕焼けとは色合いが異なるようだ。
こういう景色は誰かと共有したほうが良いのだろう。しかし思い当たる人物がいなかった。
「あれえ? さんじゃないですか」
どこかで聞いたことのある声だな、と思った。聞こえた方向を見ると、アーマーガアタクシーの運転手と目が合った。とはいっても相手は飛行用ゴーグルをしているため、定かではない。
運転手で自分の名を把握している人物といえば、思い当たるのは一人しかいない。
答え合わせの如く、その人物は飛行用ゴーグルを外して笑みを浮かべた。白い歯が眩しく光る。
「こんなところで会うとは奇遇ですねえ」
「マークさん」は声を明らめた。
マークは軽く手を挙げながら歩み寄ってきた。
「もしかして休憩ですか?」
「まあ、そんなところです」
本当は、と言いながら彼は後ろを見やる。付近の駐鳥場ではアーマーガアが佇んでいた。
「相棒のメシを買いに来たんですけどね」
キルクスタウンには人気なステーキハウスがある。恐らくはそこで調達するのだろう。
「そういうさんはどうしたんですか」
「ええと……」
「スマホを掲げてましたが、道にでも迷いましたか」
は、そうだ、と思い付いた様子で言った。マークは常に空を相手に仕事をこなしている。彼なら写真の現象について何か知っているかもしれない。
腕時計で時間を確認する。あと五分ほどならマクワたちも待ってくれるはずだろう。
実は、と言いながらはスマホで撮影した空の風景をマークに見せた。彼は顎に手を添えながら興味津々に画面を覗き込んできた。
「これは?」マークが訊いてきた。
「今から十五分ほど前に撮ったものなんです」
「ほ~~~~う」
「初めて見る光景だったので咄嗟に撮ったんです。もしかして珍しい現象なのでしょうか」
もしもそうじゃなかったら少し恥ずかしいな、と思いながら有益者の答えを待った。
ややあってマークは姿勢を戻した。彼は合点した様子で手を打ち、表情を明明とさせた。
「こいつはブルーモーメントですよ」
「ブルーモーメント?」
初めて聞く言葉には首を傾げる。彼女の足元ではエリキテルが真似事していた。
「夜明け前や夕暮れの後に見られる珍しい現象の一つですよ。ガラル地方ではよく見られる光景ですけど、今の時期は滅多に見られないだろうなあ」
は思わずスマホに残した奇跡的な瞬間を眺める。少しだけ人生を得した気分だ。
「俺も今の仕事を始めて何年も経ちますが、ここまで綺麗な空は初めてみましたよ」
「そんなに珍しいんですね」
「こんな綺麗な色は一瞬で変わってしまいますからね。地球と太陽からの贈り物ってやつです」
どうやらとても貴重な体験をしたようだ。はブルーモーメントの写真が消えないようにロックを掛けた。後でイワンコにも見せてあげよう。
「マークさんにお聞きして正解でした」はスマホをしまった。「ありがとうございます」
「伊達に空を飛んじゃいませんからね」
マークは誇らしげに腕を組んだ。その様子にはふふっと笑い、そうですね、と言った。
「さんはこれからお出掛けですか」
「はい。もう少しだけ」
「俺たちはしばらくキルクスにいますので、お帰りの際はどうぞお声掛けください」
「ありがとうございます。助かります」
「それじゃあ、俺はステーキハウスへ行きます。相棒のメシも買ってこなくちゃあ」
店に向かって駆け出したマークを見送り、もエリキテルを連れてレストランへ向かう。ホテルのエントランスを通ると、そこでは既にマクワとサイトウが待っていた。彼らは目が合うと微笑みかけてきた。
「すみません。お待たせしました」
「ぼくたちもいま出てきたばかりですから」
会計は既に済んでしまったのだろうか。自分の食事代くらいは払おうと財布を取り出すも、マクワから手で制されてしまった。
「どうかぼくの顔を立たせてもらえませんか」
そう言われてしまっては何も言えない。は無言で財布をしまい、心の中で頭を下げた。
預かっているポケモンたちを持ち主に返し、中身を確認してもらう。どうやらポケモンは皆、すっかり元気になったようだ。二人は丁寧に謝意を述べた。
今後の予定について訊くと、サイトウは学校の課題が残っているため、帰宅を所望した。も明日は早朝から収録だ。原稿はアーマーガアタクシー内で確認できるものの、今日はもうポケモンたちを休ませたい。
それぞれの意見を集約した結果、この場で解散することになった。ホテルを出てから自然な足取りでモンスターボールを模した温泉の前へ向かう。
「今日は大変お世話になりました」は二人に向かって深々と頭を下げた。「イワンコは新しい技を覚えられましたし、わたしもトレーナーとして成長を感じることができました。お二人には感謝しかありません。本当にありがとうございます」
「こちらこそ」サイトウが言った。「ラジオでお会いする機会は逃してしまいましたが、ポケモンバトルを通じてさんたちと言葉を交えたことを嬉しく思います。今後もさんの活躍を応援しています」
とサイトウはどちらからともなく握手をした。次に交わすのはいつになるだろうか。
「それと……これは餞別です」
の手のひらに何か歪なものが載せられた。サイトウから渡されたのは元気の塊だった。ショップは勿論、大型の百貨店でも販売していない希少な代物だ。
「これはとても貴重なものでは……」
「即席で準備したものですし、お気になさらず。きっとさんのお役に立つと思います」
は元気の塊を一見してから両手で包み込み、胸に引き寄せた。
「ありがとうございます。大切に使います」
本来ならば使わない場面が来ることを願いたい。しかしバトルに身を置く者としては、常備しておいて損はないだろう。は道具袋にしまった。
「マクワさん、本日はありがとうございます。ジムをお借りするときにはご連絡しますね」
「いつでもお待ちしていますよ」マクワが言った。「さんとのダブルバトルも途中ですし」
「その時まで、サイトウさんに教わったことを力点に置いてトレーニングに励みます」
「楽しみにしています」
それでは失礼します、と丁寧にお辞儀をしてからサイトウは上着を羽織り、場を去った。は彼女の後姿を見届け、マクワと向き合った。
「それではわたしもこれで」
「今日はお疲れさまでした。やはりトレーナーの成長を間近で見られるのは良いものですね」
ぼくもうかうかしていられません、とマクワは口角を上げながら前髪をいじった。
「来週もまた、よろしくお願いします」
「こちらこそ。道中お気をつけて」
「ありがとうございます」
は会釈をして歩き出したが、すぐに立ち止まってマクワに駆け寄り、耳打ちを立てた。
「ご飯のお礼は、また今度」
マクワは一瞬、不意を突かれた様子を見せた後、肩をすくめて苦笑を浮かべた。
改めて彼に別れを告げ、はエリキテルを連れてアーマーガアタクシー乗り場へ向かった。マークは既に食事を済ませ、律儀にたちを待ってくれていた。
運賃を先払いし、車内へ乗り込む。やがて星が瞬く夜空へと飛び立つ。あっという間にキルクスタウンの町並みは遠退き、静かな時間がやって来る。
はモンスターボールからイワンコを出した。彼はの膝上に乗ると、首飾りを思い切り頬へ擦り付けてきた。成長に比例して痛みも徐々に増してくる。しかしこれがイワンコの愛情表現と分かっているからこそ、甘んじて受け入れてしまうのだ。
車内の空気にも慣れたようで、今ではエリキテルと頭を並べて外の景色を眺めている。時々眼下を指差しては騒いでいる。こうして見ると兄弟のようだ。
明日の原稿をチェックするため、タブレットを取り出したときだ。仕事用のスマホが震えた。
頭に浮かんだ人物は三人。ルージュか。ダニエルか。それともネズからの電話だろうか。
ロック画面を外して通知を見た瞬間、の心臓はこの上なく体に悪い跳ね方をした。条件反射で電源ボタンを押し、一度画面を消灯させる。
ちょっと待って。胸中で平静を唱え続ける。
目の錯覚でなければ、表示されていたアイコンは『あの男』のものだった。しかし見間違いの可能性も考えられる。かといって確証を得るのも億劫だ。仕事用のスマホでメッセージを受信する相手といえば、ルージュかダニエル。残るは彼しかいないからだ。
は虚空に視線を泳がせてから画面を点けた。
『ダンデからの一件のメッセージ』。
やはり――チャンピオンからだった。
最後に彼と連絡を取り合ったのはいつだったか。の記憶が正しければ、それこそ最後に顔を合わせた日から文字のやり取りは一度も交わしていない。
意を決してメッセージ欄を見る。次の瞬間、見開かれたの目が青色に染まった。
ダンデからの送られてきたのは一枚の写真。それもが撮影したブルーモーメントだった。撮影場所はワイルドエリアだろうか。荒野と思われる岩肌が見える。痺れる親指でサムネイルをタップすると、空の海を飛んでいるリザードンが確認できた。
は自身で撮影した写真と見比べる。恐ろしいほど似ている。寧ろ――全く同じ光景だ。
呆然としていると、追い討ちをかけるように再びスマホが震えた。チャンピオンからだ。
『のお陰で写真の送り方を覚えたぜ!』
は思わず鼻で笑いそうになった。データの送り方を教えたのは一体いつの話だ。
キーボードの上で指を泳がせる。何か言葉を返すべきなのだろうが、適切な案が浮かばない。考えあぐねる間に新たなメッセージを受信する。
『リザードンがきみたちに会いたがってる』
予想外な朗報には頬を緩める。
『それは嬉しいです』はややあって返信する。『わたしたちも会いたいです』
『オレもだ』
「オレも?」
文脈にそぐわない返信には首を傾げる。彼の真意を巡らせていると、再び通知が届く。
『オレもに会いたい』
忘れていた。彼はこういう男だった。は顔面を片手で覆い隠し、思わずうな垂れた。
対面での会話も相当な体力を使うが、文字だけで真意を伝える歯がゆさと難しさを痛感する。数日に渡ってマクワやサイトウたちの堅実な振る舞いを受け続けてきたからこそ、前触れもなく飛んできた規格外な発言に火傷してしまいそうだ。
『お気遣いいただき、ありがとうございます。お言葉ですが、現在は時期的にも安易に面会するのは避けたほうがよろしいかと存じます』
『は文字を打つのが早いな』
『スピード勝負ですから』
『高速移動でも使ったのか?』
この万年ポケモンバトル男め、という脳内で浮かんだ文字を消し、文章を作り直す。
その時だった。突然電話がかかってきた。言うまでもなく相手はチャンピオンだった。は何気なくポケモンたちを一瞥してから応答ボタンをタップした。
「です」
『ダンデだ』
メディアで彼の声は聞き慣れているはずなのに、何だか懐かしい。気のせいだろうか。
ややあってからは口を開いた。
「ご無沙汰しております」
『久しぶりだな』
それはほぼ同時だった。電話口からはダンデの笑い声が飛んでくる。咄嗟に耳からスマホを離した。
『やっぱりオレたちは気が合うな』
勢いのまま、そうですね、と言いかけては口を咄嗟に結んだ。こんなの本音じゃない。
「何か緊急のご連絡でしょうか」
『きみは相変わらずだな』ダンデは一笑した。『用事もなしに電話したらいけないのか?』
相変わらずなのは貴方のほうだ。どうしてそうやって相手を困らせる訊き方をするのか。立場や状況を考えれば、肯定などできるわけがないのに。
どう答えるか思考を巡らせていると、通信機から風を切るような音が聞こえてきた。
『さん、そろそろ到着しますよ』
はスマホから顔を離した。「ありがとうございます。準備しておきます」
通信が遮断され、は態勢を戻した。
「申し訳ありません」
『もしかして、いま外にいるのか?』
「はい」正しくはアーマーガアタクシーの中ですけど、と付け足す。
ダンデは一拍置いてから、そうか、と言った。
『それなら、また掛け直そう』
また掛けてくるのか、と大儀そうにするも、これで一旦通話が終わるならいいかと思った。
『気をつけて帰るんだぜ』
「ありがとうございます」
『おやすみ、』
「おやすみなさい」
ダンデから通話を切ったのを確認してから、は終了ボタンを押した。再びメッセージ画面に戻り、彼から送られてきた空の写真が表示される。特に深入りせず、電源を落とした。
だがその後、ダンデから折り返しの連絡は来なかった。自宅へ戻り、就寝前になってもスマホが震えることはなく、は少々拍子抜けした。
ベッドに身を沈めると、枕元にイワンコとエリキテルがやって来た。川の字になって自身で撮影したブルーモーメントの写真を眺める。
この時のは気付いていない。自身の口角が微かに上がっていたことを。その事実を知るのは、スマホの画面に映ったもう一人の彼女だけだ。