ドリーム小説 07

 が風呂から上がると、イワンコとエリキテルが涎を垂らしながらソファーで寝ていた。無防備な寝顔を照れしているのは部屋の明かりではなく、テレビから漏れるカラフルな色。氷タイプ使いのメロンがラプラスに指示を送り、フィールドを海へ変えている。波乗りを受けたウインディは倒れ、モンスターボールの光を浴びてトレーナーの元へ戻った。
 は濡れた髪をタオルで拭きながらイワンコたちの傍へ向かう。彼女が近寄っても彼らは起きる気配すら見せない。どうやら熟睡しているようだ。
 テレビの電源を落とし、二人を抱き上げて各々の寝床へ連れて行く。とも考えたが、は一考してから寝室へ向かった。布団で膨らみを作ってから二人をそっと置く。寝転んだ反動でエリキテルが仰向けになる。その格好には思わず吹き出してしまう。彼女の声に反応したのか、イワンコの耳が動いた。は咄嗟に片手で口を覆い隠したが、イワンコは目を覚ますことなく寝息を立て始めた。
 はほっと胸を撫で下ろし、彼らを一瞥してからリビングルームへ戻った。ドライヤーで髪を乾かしながら、そろそろヘアサロンへ行こうかな、と鏡の自分と相談する。プロデューサーの立案が通れば、ネズとの収録は公開放送になる。周囲の視線を集める場では普段以上に身なりに気を配らなくてはならない。
 良い機会だと思い、は行きつけのヘアサロンへ予約を入れようとスマホへ手を伸ばした。
 その時だった。仕事用のスマホがワークデスクの上で震えた。画面を見ると、アドレス帳に登録していない番号からだった。発信元の判らない相手をは不審に捉えたが、仕事関連の可能性を捨てきれず、訝りを抱えながら応答ボタンをタップした。
「お待たせしました。です」
『スパイクタウンのネズです』
 喉奥がきゅっと締まる音がした。は思わず顔からスマホを離し、何となく画面を見る。だが映っているのは通話時間と動揺し切った自身の表情だけ。
 は静かに深呼吸をし、少々お待ちください、と伝えてミュートモードへ切り替えた。受話口からは力無い声で「はあ」と返され、相手は無言で待っている。
 何故、スパイクタウンのジムリーダーから連絡が届いたのか――は脳内で整理する。不自然に相手を待たせているため、十秒以上の思索は許されない。
 辿りついた答えは数日前の出来事。はダニエルから公開放送の一件を聞き、その日の内にスパイクタウンへアポイントメントの連絡を入れた。その際、電話に応じたのは風変わりな訛りを含んだ若い男女。こちらの身分を伝え、訪問の旨を伝えると、彼らは「来るもの拒まず去るもの追わず」と答えた。
 電話番号を教えたのはその時だ。双方でスケジュールの確認を取ったあと、当日までに不明点があれば連絡してほしい、と伝えたのだ。まさかネズ本人から連絡を寄越してくるとは微塵も思わなかった。
 は鞄から手帳を取り出し、背筋を伸ばしながらワークチェアへ腰掛けた。
「お待たせしました。スパイクタウンのジムリーダー、ネズ様でいらっしゃいますね」
『ネズでいいですよ。様なんて柄じゃないんで』
 そういう訳にはいきません、とは胸中で訴えた。
「ご連絡、誠にありがとうございます」は虚空に向かって頭を下げた。「改めまして、わたくしはガラルラジオ放送局のと申します。本日はいかがなさいましたか」
『仲間から報告を受けたんです。数日前にラジオ関係者から連絡をもらったと。何でもジム巡りの挑戦者でもないのに町へ来るそうじゃないですか』
「はい。ラジオの収録前にスパイクタウンの見学をお願いしたく存じます」
 ネズは電話越しに溜め息を叩いた。『なるほど。ドがつくほど真面目みたいですね』
 それはお互い様だと思った。こうして電話をかけてくる辺りにネズの謙虚さが窺える。
「以前はいつでも可能とのことでしたが、念のためこちらのスケジュールをお伝えします」
 は広げた手帳を見ながら空いた時間を述べる。ネズは相槌を打ちながら聞いている。
「いかがでしょうか」
『いつでも構いませんよ』
「さようでございますか」は手帳へ目を落とす。「それでは来週の水曜日、午後三時から二時間ほどお時間を頂戴します。よろしくお願いいたします」
『当日は連絡をいれず、好きに入ってきてください。町へ入れば誰かしら応じますから』
「承知しました。お気遣い感謝します」
『用件はそれだけです』
 本当にこれだけのために連絡を寄越したのか。電話口から聞こえる声は素っ気ないものの、短い会話の中で彼の優しさが垣間見えたような気がした。
「丁寧なご対応、誠にありがとうございます。当日を楽しみにしております」
『ああ、申し訳ない。名前は何と言いましたか』
「はい。わたくしと申します」
『判りました。仲間にも伝えておきます』
 それじゃあ、と言ってネズは通話を切った。はややあってから画面を閉じ、息を吐く。
 予想外の電話に肝を冷やしたが、想像の何倍も話しやすく、何より腰の低い人物だった。歌声に反して気だるさを含んでいたものの、耳馴染みのある声でもあった。ジャンルは違えど、も喉を使う職に就いているからこそ彼の良さが判る。
 スマホを操作し、ネズの楽曲を流す。ようやく全ての歌詞を諳んずることに成功し、最近ではエリキテルやイワンコも彼の歌を深く気に入っている。ネズの歌声には人間だけではなく、ポケモンの心を和ませる不思議な力があるようだ。
 流れている楽曲に鼻歌を交えながらヘアサロンの予約を入れる。生歌披露も含め、プロデューサーの立案が良い方向へ進むといいな、とは思った。

 翌日の昼下がり。は放送局内に設置されている資料室にいた。ラジオにまつわる知識本はもちろん、過去に放送した番組の記録などがファイリングされている。
 目の前に積まれた本から一冊をそっと抜き出す。想像していた表紙と合致させ、読みたい項目が掲載されているページまで捲る。
 静かに耽読していると、隣の席で大人しくしていたエリキテルが徐にテーブルへ飛び乗った。何をするのか、と彼と誌面を交互に見やる。エリキテルはそのまま山積みされた本の前に立ち、真ん中から分厚い本を抜き出した。無頓着な行動には目を剥く。
 重心を失った塔は、ぐらりと横へ傾く。咄嗟にが立ち上がり、本を引き留めようとしたが一歩間に合わなかった。本は激しい音を立てて床へ落下し、足元へ派手に散らばる。エリキテルは驚いた様子で頭の襞を開いた後、ゆっくりとそれを閉じた。
 は思わず、はあっとため息を吐いた。読んでいる本に手持ちの栞(ダンデのリーグカードではない)を挟み、本を拾い始める。エリキテルも加勢に入った。
「エリキテル、怪我はない?」
 エリキテルは平気そうに頷いた。はひとまず胸を撫で下ろす。だがすぐに面相を変えた。
 もう、とは眉間に皺を作る。「山積みにしていたわたしにも落ち度はあるけど、あんな風に抜き取ったら崩れるに決まってるじゃない」
 エリキテルは申し訳なさそうに目を閉じた。小さな指先同士をくっつけている。
「気になる本があったら、次からはわたしに声をかけてね」最も、資料室に収められている本はエリキテルが読むには難しすぎるが、とは心の中で呟く。
 エリキテルは小さく返事をした。どうやら相当堪えたようだ。未だに目が下がっている。は宥めるように丸い頭を優しく撫でた。
「すごい音がしたけど、大丈夫?」
 その時だった。本棚の裏からマキナが顔を出した。
 は、マキナさん、と言って彼女を見上げる。
「あ、ちゃんだったんだ」
「お騒がせして申し訳ありません。わたしの不注意で本を散らかせてしまって……」
「わたしもたまにやるわ」
 マキナは一笑し、足元に散らばっている本を拾い上げた。は頭を下げて謝意を述べた。
「何か調べものでもしてたの?」
「はい。でも大体は読み終わりました」
「それなら良かったわ」マキナはが読んでいた本から一冊を抜き出した。「わあ、これって災害時の対処についてまとめられたマニュアル?」
「そうです」は頷いた。
 マキナが手に取ったのは、国から企業向けに配布されている防災用の危機管理マニュアル。ガラル消防署監修の元、多くの会社で常備されているものだ。会社によって策定は異なるが、ラジオ放送局は何より情報を取り扱う職務。他事業と比べて少し特殊な指針となっている。
 パーソナリティを初め、聴取者へ情報を伝える者は一週間に一度、マニュアルに目を通す規定が設けられている。いかなる事態も迅速且つ冷静に対処できることが第一の狙いだ。も入社してから欠かさずマニュアルを読んでいるため、殆ど内容を覚えている。
「わたしも制作部にいた頃は読んでたわ。たまあに抜き打ちされるのよね」
「そうなんです。だから気が抜けないというわけではありませんが、ポケモンの対処も含めてためになることも書いてあるので良い勉強になります」
「相変わらず頑張り屋さんね。研修時代の頃とちっとも変わってないわ」
 マキナは向かいの席に腰を下ろした。ややあって思い出した様子で、あっ、と声を出す。
「今のは成長していないって意味じゃなくて、常に初心を忘れないってことだからね」
「ありがとうございます」
 は微笑し、席に着いた。テーブルに広げている本を片付け、端に避けて揃える。
 そうだ。ちょうどエリキテルもいることだ。またリオルと会わせてやりたい。
「今日はリオルを連れているんですか?」
「ごめんなさいね。今日は別行動なの」
「別行動?」
 予想外の返事には疑問符を浮かべる。
「業務が遅くまでかかりそうだから、終業の時間までポケジョブへ出してるのよ」
 これ見て、とマキナはスマホを提示した。画面には青空と芝生を背景にデフォルメされたリオルがゴールに向かって走っている。下部には勤務終了までのタイマーが刻まれている。
「まだ小さいからあまり激しい仕事はさせたくないんだけど、リオルは格闘タイプじゃない。ボールに収めておくより自由に動けたほうがストレスも溜らないかな、と思って」
 なるほど、とは合点した様子で頷いた。
「何よりリオルがやる気みたいなのよ。育成としても助かるし、派遣登録しちゃおうかしら」
 ポケジョブの利便性はよく耳にする。ガラル地方に点在する企業がポケモンセンターに設置されているロトミをはじめ、派遣サイト等で常に募集を呼び掛けている。ネットでもポケジョブの求人広告は頻繁に掲示されているため、目にかかる機会は多い。
 放送局内にもポケジョブで派遣されたポケモンはよく見かける。現に資料室ではエスパータイプのポケモンがスタッフと共にファイルを整理したり、仕分けたりしている。他にもが日頃から利用している社員食堂では多彩なタイプが業務をこなしている。最近では厨房に立つマルヤクデが記憶に新しい。
 主に企業への助勢がメインだが、最近ではポケモンを鍛えるためではなく、私生活に時間を追われているトレーナーが預り所として活用するケースも多い。
 マキナが正にそうだ。バトルで資金を稼いでいるバトルトレーナーとは違い、彼女たちには本業がある。育成までに時間が割けず、ポケモンたちに不満を抱かせる事案も少なくはない。
 本来の預り所ではなくポケジョブを選ぶ利点として挙げられるのは、まずは無料であること。ポケモン自身も現場ごとに経験値を蓄えられること。他にも集まったポケモンたちと交流を深めるだけではなく、報酬として便利な道具がもらえることも選ばれる要因だ。
「バトル以外でも経験値を得られる、というのは嬉しいですよね」が言った。
「そうなの。いまの時期はジムチャレンジで腕に自信のあるトレーナーがたくさんいるから、迂闊にバトルもできないのよね。極力負けたくないし」
「目が合えば勝負ですもんね」は苦笑する。
「まあ、ちゃんと断ればいいんだけど、ポケモンがやる気だったら応えるしかないもの」
 マキナの話を聞きながら、はイワンコが眠っているモンスターボールを一瞥する。
 イワンコのことを考えれば、仕事の合間にも彼を鍛えてあげるべきだろうか――。
 日中はエリキテルと収録をこなす必要があるため、イワンコに割く時間はほぼ皆無。帰宅後は原稿や資料チェックに加え、ポケモンたちの世話や翌日の準備に追われて手が回らない。詰め込みすぎれば以前のように体調を崩しかねないため、現状がの限界である。
 しかし、それはあくまでの考えだ。休日を利用してキルクススタジアムでトレーニングをすることになったと言えど、イワンコが満足するかは本人次第だ。
「そういえば」マキナが胸の前で両手を合わせた。「過去のプレゼント当選者の情報をリストアップしてくれたのってちゃんだったのよね」
「プレゼント当選者のリストアップ、ですか」は過去に行った業務を想起させる。「もしかして、他の部署に代わって打ち込んだデータのことでしょうか」
 そうそう、とマキナは頷いた。「本来は総務課が受ける仕事だったのに、わたしの部下が他人任せにしたみたいね。本人の名前で確認が入ってなかったからおかしいなと思ったの。部下に問いただしたら、ちゃんがやってくれたことが判明したってわけ」
「そういうことでしたか」
「わたしからも礼を言うわ。本当にありがとう」
 いいえ、とは胸の前で手のひらを振った。「力になれたのなら良かったです」
「ちゃんとチェックしておいたからね」
「問題ありませんでしたか?」
「ばっちり」マキナは頬付近でポーズした。「部下にはわたしからきちんと叱っておくから」
 マキナが笑顔で拳を固め、は思わず身震いした。
 研修時代のことだ。新入社員の歓迎会が開かれた際、彼らに悪ふざけをする社員たちがいた。酔った勢いなのか、先輩風を吹かせたいのか。当事者だったには後者のようにも見えた。とにかく質が悪く、言い返せないことばかりを言及されて窮屈な思いをしたことがある。
 そこに喝を入れたのがマキナだった。彼女は「ちょっと待っててね」と笑うと、社員たちの首根っこを掴んで別室へ移動したのだ。その後の出来事はいまでもよく覚えている。会食を続けながらしばらく待っていると、どこかで破壊光線でも放たれたのか、とばかりの衝撃でその場がぐらりと揺れたのだ。
 やがてマキナに連れられてきたのは屍になった社員たちだった。を含めた新入社員の前で頭を下げ、その後は彼女たちの前に現れることはなかった。
 マキナから一体どんな制裁を受けたのか。その話はいまでも社内の語り草となっている。
「あ、さん」
 次々と見知った顔ぶれが集まってくる。資料室の扉から顔を出したのはルージュだった。彼女はの向かいに座っているマキナに一揖し、歩み寄ってくる。
「やっぱりここにいると思いました」
 は席を立った。「どうしたの?」
「プロデューサーから原稿チェックが下りたので、さんにお渡ししておこうと思って」
「ありがとう。ルージュちゃん」
 はルージュから原稿のコピーを受け取った。くわえてスマホにもデータを受信する。
「それじゃあ、わたしも仕事に戻らなきゃ」マキナは席を立った。「お先に失礼するわね」
「お疲れ様です」は軽く腰を折った。
 マキナは軽く手を振りながら資料室を後にする。彼女の後姿をとルージュが見届ける。
「あの方、どなたでしたっけ」
「総務課のマキナさんよ。わたしが研修時代にお世話になった人で、以前は制作部にいたの」
「へえ、同じ部署の人だったんですか」
「ルージュちゃんはキャリア採用だったし入社時期も違うから、あまり知らないかもね」
 本を片付け、共に資料室を後にする。きちんと施錠されているか確認し、廊下を歩く。
 は腕時計を見た。時刻は午後四時。随分と長い間、資料室にこもっていたようだ。昼間の収録を終えてから既に二時間が経過していた。
 明日はマクワからの誘いを受け、キルクススタジアムへ向かうことになっている。夕方の収録が終わったら帰りに手土産の菓子折りでも購入したいところだ。
 思案に暮れていると、隣から視線を感じた。は腕時計を服の裾で隠し、ルージュを見る。
「どうかした?」
 目が合うと彼女はかぶりを振って視線を前へ移した。「すみません。何でもありませんでした」
「……そう?」
 は少し気になったが、彼女の言葉を信じた。
「時間が合うときで構いませんので、さんとまたいっしょにご飯を食べに行きたいです」
「うん、わたしも」は笑顔で頷いた。「今回の企画が落ち着いたらいっしょに行こう」
「楽しみにしてます」
 ルージュと閑話を交わしていると、突き当たりでダニエルと鉢合わせした。彼は「わあっ」と間抜けな反応を見せ、被っている帽子の位置を直した。
「やあ、二人とも」
「お疲れさまです」が言った。
「これからスタジオへ向かうのかい」
 とルージュは同時に頷いた。ダニエルも向かう先は同じのようだ。狭い廊下では並んで歩けないため、彼を先頭には再び歩き出した。
 ふと、廊下に張り出されているポスターに目が向く。ポケジョブの求人紙だ。街中でよく目にする大企業に加え、が数年前に担当したナックルユニバーシティも掲載されている。どうやらポケモンを強化するためのテスト訓練者を募集しているようだ。今のイワンコにはぴったりの条件だと思った。
 エレベーターを待っている間、はポスターを見ながら募集要項をスマホに書き残した。
さん、ポケジョブするんですか?」
 訊いてきたのはルージュだった。は良い機会だと思い、彼女に質問を投げた。
「ちょっと気になってね。ルージュちゃんはワタシラガたちを出したことはある?」
「ありますよ。三日前はガラル消防署の依頼でアロマセラピーを用いた仕事を受けました」
「へえ、そんな仕事もあるんだね」
「他にも色々とありますよ」ルージュはスマホを取り出した。「グソクムシャは昔から車好きなので洗車のお手伝いでたまに送り出しますし」
 これがそのときの写真です、とルージュから画像ファイルを受信した。表示されたのは文字通り洗車するグソクムシャだ。心なしか楽しそうに見える。
「企業によりますが、時間があるときはこうして写真を送ってきてくれるんです。仕事でポケモンの相手ができないときは利用することが多いかな」
 思った以上に手厚い対応だな、と思っているとエレベーターが到着した。はボタンを押しながらダニエルたちを先に乗せ、最後に自分でドアを閉めた。
「ディレクターはあるんですか?」
 個室に響いたのはルージュの声だ。彼女の投げかけにダニエルは「何の話?」と聞き返す。
「ポケジョブです」
「ポケジョブかあ」
 ダニエルは腕を組んで天を仰いだ。気のせいだろうか。普段から温厚質実な彼にしては渋面を浮かべているように見える。事実の見解は正しかった。
「実は……あまり良い思い出がないんだ」
「そうなんですか」ルージュは淡々と答えた。
「ああ」ダニエルは帽子を深く被る。その横顔は憂いを含んでいた。「随分と前にポケモンを一匹派遣させたんだが、戻ってこなかったんだよ」
 そんなことが、とは目を剥いた。無論、ルージュも同様の反応を示している。
「昔は企業以外にも個人で仕事を募集している時期があったんだ。わたしはとある依頼にポケモンを送り込んだんだが、何年経っても戻ってくることはなかった。依頼主に問い合わせても繋がらなくてね。当時の運営会社に対応を求めたんだが、冷たく突き放されてしまったよ。今はローズ会長のお陰で大きな問題が起きることはないだろうけど、わたしはどうしてもね」
「そんなことがあれば敬遠するのも無理ないですよ」ルージュが言った。「酷い話です」
「暗い話になってすまなかったね」ダニエルは首の後ろを掻いて苦笑した。「ポケジョブを悪く言うつもりはないが、くんたちも十分気をつけるんだよ」
「肝に銘じておきます」
「ようし。それじゃあ切り替えていこうか」
 エレベーターが止まり、ドアが開いた。は先にダニエルを降ろした。彼は謝意を述べると胸ポケットからハンカチを取り出した。後ろ姿からでは目視できなかったが、目頭を押さえているように見えた。


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