ジムチャレンジ開会式から五日後。ガラル地方では大会への熱気が徐々に高まっていた。
はエリキテルと共に放送局の食堂にいた。太陽の光を浴び続けるエリキテルを一見し、タブレットとの睨み合いを始める。画面に表示されているのは、ポケモンの生態についてまとめられた論文。野生のポケモンがモンスターボールに入ってから、トレーナーの指示を従うまでの過程が記されている。
だが、目ぼしい情報は見当たらない。はタブを閉じて新たな単語を打ち込んだ。
イワンコの吠え癖や威嚇行為を解明するべく、は検閲を繰り返している。原稿を確認する時間をとられるのは惜しいが、愛するポケモンのためだ。彼の気持ちを汲み取ってあげるのもトレーナーの大切な役目である。
ふと、の調べる手が止まった。エリキテルが不思議そうに彼女を見ている。
「大丈夫だよ、エリキテル。休憩が終わるまではお腹いっぱい浴びていいから」
エリキテルは頷き、再び頭の襞を広げた。は手のひらで口元を隠し、軽く息を吐く。
イワンコの思いを理解したい。しかし、導き出た先で彼にしてあげられることは何だ。
仮にイワンコがダンデたちの試合を見て感化されたのであれば、イワンコの進むべき道は穏やかな生活ではなく、強者が集うバトルフィールドになる。彼の気持ちに応えるなら、逡巡の隙もなくはバトルトレーナーに成るしかない。
バトルを毛嫌いしているわけではない。ただ単純に自信がない。経験も実力も絶無に等しい。実力を見誤り、故意にポケモンを傷つける真似はしたくない。
再び検索の手を動かすと、気になる記事を見つけた。外国のサイトだ。は翻訳機を使った。
過去と未来が絡み合う街、ソウリュウシティ。市長を担いながらもジムリーダーを務めているシャガという人物にまつわる文章だった。
シャガは古き良き街を守りながら、常にポケモンとの共存に重きを置いている。イッシュ地方で起きたポケモン強奪事件を踏まえ、より一層彼らとの絆を深めるべく必要がある。トレーナーはポケモンの思いを汲み取ることが重要――そしてこう続いている。
例えモンスターボールといえど、気持ちまで縛ることなど出来ない――。
の口から、はあっと厚い息が出た。単に知識を蓄えた社会人の悩みと経験を積んだジムリーダーの言葉とでは重みと説得力が歴然だ。思わず空を仰いでしまう。
その通りだ。自分がバトルを敬遠したところで、ポケモンの気持ちは変えられない。
はスマホを取り出し、メディア欄を開いた。エリキテルとイワンコが映っている。
彼らは決して、人間の感情をコントロールするために存在しているわけではない。
生き物だ。ポケモンなのだ。野生から解放されても根本は変わらない。人間も同じだ。戦いたいと心が叫んだ瞬間、秘められた本能は解き放たれる。
――イワンコを頼んだ。
別れ際、あの男に託された言葉。彼に頼まれるまでもなく、責任は果たすつもりだ。いまのイワンコのパートナーは自分なのだから。
彼の真意を汲み取るつもりはない。だが、ポケモンといっしょならできる――気がした。
「すごく真剣な顔してるわね、ちゃん」
頭上から明るい声が降ってきた。タブレットから目を離すと、泣きぼくろが印象的な麗人が微笑んでいた。両手には昼食が載ったトレイがある。
「マナコさん」は素早く起立した。
「呼び捨てにしてって何度も言ってるのに」
マナコは苦笑をこぼすと、空いている席を一見した。が座っている向かい側の椅子だ。
「座ってもいいかしら。空いてる席がないのよ」
「勿論です。どうぞおかけください」
「ありがとう。助かっちゃうな」
マナコが席に着いたところで、も腰を下ろした。
マナコはが入社した頃、研修中に世話になった人物だ。当時は制作部に所属していたようだが、現在は総務課で業務をこなしている。若造のからすれば、マナコの働きぶりは完璧かつ潔癖だ。顔を合わせる機会は少ないものの、にとっては恩義を抱く人物である。
はテーブルに広げているタブレットやスマホを片付けた。
「こうしてお話しするのも久しぶりですね」
「そうね。最近こっちも忙しいから。さっきなんて廊下の電球が壊れて大変だったのよ。壊したのは制作部の人なのに、こういうのは総務課の仕事だから頼みます、なんて言っちゃって。今日はせっかくスペシャルランチにしようと思ってたのに」マナコは頬を膨らませ、溜まった鬱憤を晴らすようにパンを頬張った。
「総務課の方にはいつもお世話になっています。エントランスの花も毎日変えていますよね」
「気付いてくれた?」マナコは前のめりになった。「あれはわたしが変えてるの。シュートシティに行きつけの花屋あるんだけど、最近は通うのが日課になってて」
「もしかしてインテレオンがいるお店ですか?」
「そうそう。ちゃんもお得意さんなのね」
はい、とは頷いた。偶然にも話題が重なり、は少しだけ胸を弾ませる。
マナコはエリキテルを見た。「エリキテルも相変わらず可愛いわね。太陽の光がご飯なの?」
「木の実も好物なのですが、日差しが一番お腹に合っているみたいなんです」
「じゃあ、わたしのポケモンも紹介しようかな」
マナコはベルト部分からモンスターボールを取り出した。ただのボールではない。艶やかな装飾が印象的なゴージャスボールだ。
彼女はボタンを押してポケモンを繰り出した。姿を見せたのは波動ポケモンのリオルだ。
「わあっ、リオル」
「ワイルドエリアでゲットしたのよ。捕まえるまですごく時間かかっちゃったわ」
マナコの言葉通り、ワイルドエリアでリオルを捕まえるのは至難の業だ。特定の天候になるまで待機する必要があるほか、出現率も極めて低い。だからだろうか。ガラル地方では比較的、リオルを連れ歩いているトレーナーが少ない。
リオルと目が合った。彼は愛らしい笑みを浮かべる。の心臓に矢が刺さる音がした。
「……可愛いですね」は胸を押さえながら言った。
「この子、捕まえたばかりで友達がいないのよ。エリキテルと仲良くなれないかしら」
「勿論です。おいで、エリキテル」
エリキテルを呼び出し、リオルの前に立たせる。互いに挨拶を交わし、静かに見つめ合う。やがてリオルから手を伸ばした。エリキテルの頭の襞が気になるようだ。リオルにも似たような房が具わっている。親近感を沸かせているのかもしれない。
「この子たち、少し似てますね」
「確かにそうね。頭飾りなんてそっくり」
エリキテルは丸い房を、リオルは長い襞を握る。既視感を覚えたと思えば、小さな女の子が髪を左右に結んでいるあれだ。
次第に二人は打ち解けていく。エリキテルが自慢げに襞を広げて見せれば、リオルは目を輝かせながら小さな手を上下に振っている。どうやら友達になれたようだ。とマナコはメタモンの如く表情を崩し、小さなポケモンたちの挙動を見守っている。
「お友達になれたみたいですね」
「この子、人見知りだから不安だったんだけど、エリキテルにお願いして正解だったわ」
「エリキテルは誰とでもお友達になれる子なので」
「そういうところ、もっと推していきましょ」
ポケモンたちはテーブルから下り、たちの足元で独自の遊びを繰り広げ始めた。
その様子を見て、イワンコにもエリキテル以外の友達を作らせるべきだ、とは考えた。
ここで重要なのはダンデと交わした秘め事だ。イワンコをどの程度まで隠すべきなのか。トリミングへ連れて行った際、店員から言及されることはなかった。が体調を崩した際、ポケモンセンターのジョーイから生態や獲場所について問われることもなかった。冷静に考えれば、イワンコの存在を知っているのは自分とダンデだけではない。ワイルドエリアでの出来事を明るみにしなければ良いだけだ。
いや――は一度踏みとどまった。
独断するよりもダンデに一報を入れるべきだろうか。自分たちが抱える秘密に彼がどの程度の重要性を感じているか確かめる必要もある。かといって、そんなことのためにわざわざ連絡を入れるのも億劫な上、面倒だ。
「そういえば、ちゃんよね。ダンデさんと録音収録したパーソナリティって」
「はい。わたしが担当いたしました」
ダンデの名が挙がり、は内心、どきりとした。
「配信も聴かせてもらったわ。すごく良かった」
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
マナコは身を乗り出し、口元に手のひらを添えた。
「ねえ、実際に本人と話してみてどうだった?」
「チャンピオンの印象ということですか?」
「そうそう」
は一考する素振りをとる。正に見せかけの動作だった。以前、会議中にも同型の質問をされたからだ。当時の回答をそっくりそのまま口に出す。まるでスマホに登録されている定型文のようにすらすらと出てくる。
「それじゃあ表向きとあまり変わらなかったのね」
「裏表のない方だと思います。テレビで見るままのチャンピオンが来た、というか」
嘘だった。彼は裏表どころか実像がはっきりしない。何を考えているかさっぱり判らない男だ。
「なるほどねえ」
マナコはスマホを取り出し、何かを打ち込み始めた。は少し気になり、訊いてみた。
「何か役に立つものでもありましたか?」
「わたしの弟がね、ダンデのファンなのよ」
そう言って画面を見せてきた。も活用している有名なメッセージアプリだ。相手は弟だろうか。過去の会話文から見ても、そうである可能性が高い。
「後輩がダンデさんと収録する、なんて言ったら感想を訊いてほしいって言われちゃって。ごめんね。勢いだったとはいえ、立場を利用するような真似しちゃって」
「いえ、気にしないでください」
「あまり大きな声じゃ言えないけど、わたしはダンデさんにあんまり興味ないから」マナコは苦笑を浮かべながら口元に人差し指を添えた。
予想していなかったマナコの本音には驚いた。同時に同じ意見を持っている人間が職場内に存在していたことに対し、否が応でも親近感を抱いてしまう。
は思わず「わたしも」と口走りそうになった。だが言葉を抑え込み、口をつぐむ。
いけない。これだけは口が裂けても言ってはならない。自身の気の緩みを胸中で叱咤した。
の立場からすれば、今すぐにでもマナコの手を取って握手を求めたい。しかしいまはダンデと収録を交わしたパーソナリティの姿。本音を暴かれてしまっては、誤解を招きかねない。
ダンデと収録を交わし、彼の印象が出会う前と変わったのは事実だ。あんなことが連続して起これば、誰だって嫌でも変化を起こす。
ただそれだけだ。興味をそそる要素どころか、突飛な言動に悩まされてばかりだった。
もはや呪いのようだ。ようやく出会えた同志にすら真情を打ち明けられない。このもどかしさを作り出しているのはこの世界を含め、ダンデとの立場にある。パーソナリティになってからこの金縛りを味わうのはこれで何度目だろうか。自分の置かれた世界がこんなにも生きづらいとは思わなかった。
「興味ないとは言ったけど、ダンデさんが推薦したチャレンジャーは少し気になるわね」
「推薦者は二人でしたね」
他にもローズ委員長の推薦枠から一人。スパイクタウンのネズからも一人出ている。そういえば、イワンコに気を取られてチャレンジャーの詳細を確認していない。
そんな風に考えていると、マナコはスマホを取り出し、が望むものを提示した。
「今年の出場者はこの人たちみたいよ」
「ありがとうございます。失礼します」
はマナコのスマホを受け取り、画面をスクロールする。子供から大人まで、今年も数多くの選手が参加しているようだ。今後の収録上、出場者たちの名前や顔振りを一致させておく必要がある。ジムリーダーを含め、やることは山積みである。
指を動かしていると、ひと際目立つ人物に視界を奪われた。は思わず注視してしまう。
「どうかしたの?」マナコが訊いた。
「ああ、いえ……」はマナコを一瞥してから画面に目を落とした。「出場者の中で知り合いに似ている子がいたのですが、人違いでした」
それよりも、と言いながらは画面をスクロールをさせ、スマホを相手に見せた。
「この子、誰かに似ていませんか?」
「ああ、その子ね」
少年の名前はホップ。背番号は『189』。
「ダンデさんの弟さんでチャンピオンの推薦者よ」
マナコの言葉には合点する。どうりで見覚えがあると思った。兄とよく似ている。
は改めて弟であるホップを観察する。髪や瞳の色もチャンピオンと全く同じ。何よりの想像通り、笑った顔が瓜二つだ。生き写しを見ているかのようだ。
弟が決勝戦まで登りつめれば、夢の兄弟対決になる。これはメディアも目が離せない。
「あっ、もうこんな時間」マナコが腕時計を見ながら言った。「わたしそろそろ戻らなきゃ」
マナコが立ち上がり、も席を立った。
「今日はありがとう。久しぶりにちゃんと話せて楽しかったわ。また機会があったらリオルといっしょに遊んでちょうだい。きっと喜ぶから」
「ぜひ。エリキテルとお待ちしております」
「それじゃあね」
マナコは済ませた食事を下げ、リオルを連れて食堂を去って行った。
は彼女らの背中を見届けたあと、力が抜けたように椅子へ腰を下ろした。久方ぶりに顔を合わせた先輩にすら胸中を打ち明けられない。元来友人が少ない自覚はあるものの、ここまでくると交流的なエリキテルが羨ましく思えてくる。
「だからこそ」はエリキテルを抱き上げる。「わたしはあなたに惹かれたんだけどね」
腕の中でエリキテルが首を傾げた。
「イワンコのこと、ちゃんと考えなきゃ」
そのためにはポケモンに詳しく且つ、バトルに長けている人物に相談する必要がある。独断的に事を進めるよりも、第三者にイワンコの様子を視察してもらう利点はあるはずだ。
やはりポケモンの生態に詳しいジョーイだろうか。シュートシティ駅前の彼女ならばイワンコを知っている。ダンデとの秘め事を守りつつ、円滑に事を進められる人物としてこれ以上に適任な人物はいない。
帰りに寄ってみようか、と考えているときだった。エリキテルが不満そうに鳴いた。
「どうしたの?」
エリキテルはじたばたと暴れている。腕から解放すると、彼はの鞄へ頭を突っ込んだ。仕事用のスマホを取り出せば、催促するように画面を叩いている。ロック画面を外してほしいようだ。望み通り鍵を外す。
何をするのかと観察していれば、いつ操作を覚えたのか。エリキテルは慣れた手つきでメッセージアイコンをタップし、トーク画面を開いた。ポケモンが人間の動作を覚えることがあるという話を耳にしたことがあるが、まさかスマホを扱えるとは思わなかった。
表示されているのはダンデのアイコンだった。は思わず渋面を浮かばせる。
「……な、なに」
エリキテルはアイコンを叩いている。
まさか、とは言った。「チャンピオンに連絡しろって言ってるの?」
肯定の如く、エリキテルは笑顔で頷いた。太陽に勝るとも劣らない笑みがの胸を刺す。可愛い相棒の頼みでも答えはノーだ。
「だめよ。チャンピオンはいま忙しいの」
そんなことない、と言うばかりにエリキテルは頭の襞を揺らした。何故だろう。言語は判らないはずなのに、彼の言葉が何となく読み取れてしまう。
「リザードンに会いたいの?」
エリキテルは頷いた。
「それはわたしもいっしょ」
だが、そんな我が儘は通らない。何よりダンデとリザードンはチャンピオンカップに向けて多忙を極めているに違いない。彼らが抱える重責に比べたら、が抱えている悩みなど些細なものだ。気軽な連絡を求められたといえど、王者たちの手を煩わせるわけにはいかない。
イワンコがバトルをしたがっているかもしれない。そう聞いたときの彼の反応は目に見えている。の知るダンデならば、自分のことのように喜ぶに違いない。
はそれが何となく嫌だった。彼の思うままに操られているようで、応えているようで。
――のなかで答えを見つけて欲しい。
ダンデの言葉がリフレインする。彼がどんな意図を込めたのか、それも考えろというのか。
は声に出さないまま余憤を表し、一気に力を抜いてテーブルへ顔を突っ伏した。
そして仕事終わり。はイワンコを連れて駅前のポケモンセンターへ寄ったものの、急患が入った影響でジョーイに相談することはできなかった。
帰宅後もイワンコは遠吠えを続けた。ポケモンバトルを消せば大人しくはなるが、も仕事の資料としてジムリーダーの試合を観察せねばならない。
徳など得ない頑迷など捨て、駆け込み寺としてダンデたちを頼るべきか。はリモコンとスマホを握りながら、血眼になって考えていた。
だが、その悩みは直に解決へと向かう。とある人物との出会いと手厚い協力によって。