香の物が出たところで酒の手を止めた。後に運ばれてきた水菓子を満喫し、食事は全て下げられた。
これだけの美食は久方ぶりだった。比べるものではないが、グローサリーストアの弁当とは訳が違う。料理の出し方、魅せ方。調理方法のすべてから料理人の手間隙を感じられた。
腹を満たしたは縁側に立ち、庭園を眺めていた。異国の文化に詳しくないため、何がどんな意味を込められて飾られているのかは分からない。唯一感じ取れるものといえば、極東の地への感心だ。
今回の食事を踏まえ、よりジョウト地方への興味が沸いてきた。職業柄、長期休暇をもらえる機会は少ない。それでも行きたいときに行かなければ、ずっと立ち止まったままだ。
観光旅行も前向きに考えてみよう。そんな風に考えていると、背中に何かが掛けられた。
「寒くないか」ダンデが言った。
ダンデが羽織っていた上着だ。軽い素材にも関わらず、温かい。
「ありがとう、ございます」
「窓辺だからここは少し冷えるな」
はすかさず上着を取り払い、ダンデに渡した。「わたしは平気です。使ってください」
「オレは大丈夫だ。酒のせいでまだ少し熱い」
「ですが……」
「いいから」ダンデはに上着を返した。「風邪をひいて困るのはだろう」
体調管理を言及されると、言い返せない。過去にダンデとリザードンの世話をかけてしまった分、今は素直に聞き入れるべきだ。何より、彼は自身で決めたことを簡単には曲げない。曲げられない。は感謝の意を伝え、上着を羽織った。
縁側に設けられたソファーへ腰を下ろす。とダンデは少しだけ距離を空けて座った。
「今日は貴重な体験をありがとうございます。お料理も美味しいものばかりでした」
「喜んでくれたのなら良かった」
食べ慣れていない理由も相まって、つい食べ過ぎてしまった。はしたないことをしたな、とも思ったが、ダンデは何も言わなかった。
「私意ではありますが、ガラルではあまり馴染みのないお店へ連れて行くのには少し勇気がいりませんか。わたしなら慣れ親しんだレストランを選びます」
「は好きだろうと思った」
相変わらず、もの凄い自信だ。自分は一言も興味があるとは伝えていないのに。
「数年前、ジョウト地方のチャンピオンに招かれたことがあるんだ」
「ジョウト地方のチャンピオンといえば……」
「ワタルだ」
その名前なら聞いたことがある。通称ドラゴン使いのワタル。古来ドラゴン使いのトレーナーを輩出してきたフスベシティ出身のポケモントレーナーだ。彼の異名は各地へ轟いており、ラジオの収録中も時折、彼の名を耳にすることはある。何でも由緒正しいマントを常に身に付けているのだという。
はダンデを一瞥する。いまは私服だが、やはりマントは王者の象徴なのだろうか。それとも単に彼らが気に召して付けているだけなのか。真意は本人たちにしか分からない。
「ジョウトの地に触れてみて、オレは心底感激した。他者を迎え入れる姿勢、態度、心遣い。一人の人間としても学ぶべきことがたくさんあった」
流暢に話し出したダンデは言葉通り、感服の色を見せている。心なしか表情も明るい。
「何よりチャンピオンとして、ワタルからも強い影響を受けた。彼は素晴らしいトレーナーだった」
ダンデの話を聞きながら、はただ頷いていた。
他者から与えられる影響は凄まじい。それが例えほんの一瞬の出来事だとしても、人は人に魅了されてしまう。がラジオ放送局に身を置こうと決めたのも、とある人物に出会えたからだ。だからこそ、ダンデの言葉には共感できるものがある。
「料理もその一環で感じた魅力だった。最初は戸惑うことも多かったが、しばらく味が忘れられなくてな。その話をローズ委員長へ話したら、この店を紹介された」
「そんな経緯があったんですね」
まあ、とダンデはばつが悪いそうに頬を掻いた。「ワタルとのバトルは叶わなかったけどな」
「立場上、安易にバトルを申し込めませんものね」
「ああ。本当はしたくて堪らなかった」
収録時にも言っていた。ワイルドエリア内のバトルはもちろん、公式戦以外のバトルを受け入れてはならない。連戦無敗を誇るチャンピオン故の厳しい規則。誰よりもポケモンバトルを愛する彼には、少々窮屈そうだ。
「言葉を交わすことは重要だが、オレたちはポケモントレーナーだ。バトルをすれば、自ずと相手を知ることができる。会話よりも明確にな」
「確かに」は深く頷く。「最も適切な方法ですね」
言葉よりもバトルで会話する。これだけ綺麗に収まる表現はなかった。時々ダンデとの会話が成立しない理由も、恐らくはここから来ている。
「何より、にも気に入ってもらいたかった」
「わたしに?」
「オレが良いと感じたものを、にも同じように感じて欲しい。例えそれがどんなものでも」
それ以上に嬉しいことはない、とダンデは微笑む。
は一瞬、気が緩みそうになった。酒の力か。ダンデの声が普段以上に柔らかく聞こえた。頬にかかった髪を耳にかけ、庭園を眺める。
「チャンピオンがお酒に弱いのは意外でしたけどね」
「そのことは忘れてくれないか」ダンデはうな垂れた。「男が酒に弱いなんて情けないだろ」
事実、ダンデは酒を二杯ほど飲んだところで酔いが回り始めた。見兼ねたが彼のグラスを奪い、余った分を全て飲み干したのだ。ふらつくほどではないが、ダンデと同じで頬が火照っているような気がする。
「こういう一面を収録中に話しておけば、話題としても美味しかったですね」
「」ダンデが抑揚をつけて呼んだ。
「大丈夫です。誰にも言いません。チャンピオンのイメージが崩れてしまいますから」
実際、当時の飲み場でダンデの醜態を目の当たりにした人物は他にもいるのだ。今さら慌てて隠したところで、既に彼らには知られている。もう手遅れだ。
しかし、彼の弱点を掴めて悪い気はしなかった。思わず心の中でほくそ笑んでしまう。
その時だ。ダンデは何かを思い出した様子で「そうだ」と呟いた。
「オレも訊きたいことがあるんだ」
「なんでしょうか」
ダンデは自らのポケットに探りを入れ、手のひらに何かを転がした。
出てきたのは一般的なモンスターボール。他人からすれば単なる捕獲道具だ。だが、そうではないことをは一目見ただけで判った。彼女は一瞬、ダンデの手元からボールを奪いそうになるも、落ち着いて勢いを抑制する。
「その反応を見る限り、持ち主はで間違いないようだな」
「あの、これをいったいどこで?」
「きみが倒れた時だ。エリキテルたちをポケモンセンターへ預けた時、これだけがその場で返された。使用前のボールなのかと確認しようとしたが、何故か開かなかった」
ダンデはスイッチ部分を押下した。彼の言葉通り、ボールは一切反応を見せない。当時の証明ができて満足したのか、ようやくの元へ手渡される。
「大事なものなんだな」
「はい。とても」
は頷いた後に「ですが」と声色を落とす。
「失くしたことすら気付かなかったのですから、説得力に欠けてしまいますね」
「あんな状態だったんだ。無理もない」
それほどまでに当時の自分は余裕がなかったのか、とは胸中で苦笑した。もう二度と失くさないよう、今後は何か対策をしなければならない。
「そのモンスターボールについて訊ねたい」
ダンデの問いかけにはすぐには答えず、無言でモンスターボールを見つめた。擦り傷の入った丸みを帯びた球体。決して綺麗とは呼べない紅白の表面に、彼女の顔が映り込む。伏し目がちの視線は泳ぎ、戸惑いの色を含んでいる。
「それは一体何なんだ。どうしてそんな不思議なものを持ち歩いていたんだ?」
詰問にも似た言葉を投げ続けるダンデに対し、は依然として口を開かない。
「言いにくいなら、無理に話さなくてもいい」
そんなことを言って。ここで真相を聞かずに満足する男でないことは判っている。
黙考の末、は視線を戻した。
「これは……わたしが実家を出るときに母から託されたものです」
「きみの母親から?」
「そうです」が頷く。「昔からお守り代わりにしているのですが、わたしもどんなポケモンが入っているのか知らないのです。一度も開いたことがないので」
「オレも何度も試した。リザードンにも頼んだが、びくりともしなかったぜ」
ダンデの物言いには一瞬、力任せに開けたのではあるまいな、と疑念を抱いた。心なしか傷が増えているのはそのせいだろうか。
「過去に業者へお願いしたのですが、特殊な機械を用いても開くことはありませんでした。そもそも中にポケモンが入っているかどうかも判りません」
「ますます不思議なモンスターボールだな」ダンデは考え込むように腕を組んだ。
仮にポケモンが入っている場合、中身はどんな状態なのだろうか。ボール内環境は種類によって異なると聞くが、が所持しているのは一般的なモンスターボール。小さな球体に飢渇状態を凌ぐ道具が備わっているとは考えにくい。
はふと、エリキテルの姿を思い浮かべた。彼は空腹になれば自らボールを飛び出し、食事を求めてくる。他にもシャワーの蛇口を捻れば、水浴びができるのかと期待して飛びついてくるときもある。どんな原理なのかは判らないが、やはりボールには外側からではなく、内側から開くシステムも備わっているのだろう。
家を出て数年が経過した今でも、ポケモンは自分の意思で飛び出すこともなく、ボールも機能しない。以上の点を踏まえれば、中身は空洞か、もしくはポケモンではない他の可能性も浮上してくる。
「きみは母親から何も聞かされなかったのか」
「はい」は即答した。
「それなら判断のしようがないな」
その先をダンデは追究してこなかった。彼ならばどこまでも詮索を入れる人間だと思っていたが、踏み止まるべき領域は弁えているようだ。
ともあれ――。
「見つけてくれたのがチャンピオンでよかったです」
「なぜだ?」
「あなたは他人の私物を悪用したり、勝手に使ったりする人には見えませんから」
不確定に満ちている代物でも、大切なものに変わりはない。正常に機能しないモンスターボールなど、最悪の場合、破棄の対象になっていたかもしれない。拾い主が目の前の男で良かった、とは素直に思った。
考えながら本人を見ると、彼はどこか居心地の悪い表情を浮かべていた。黄金色の目は空を泳ぎ、明らかに動揺している。その様子を見て何も考えつかないほど、は察しの悪い人間ではない。
「チャンピオン」はダンデに詰め寄った。「わたしに何か隠してますか」
「何もしてない。そんな目で見ないでくれ」
ダンデは胸の前に突き出した手で制する。それでもは訝る姿勢を弱めない。
「本当ですか」
「ほ、本当だ」
珍しく頬に汗を流しながらのけ反るダンデに対し、は姿勢を戻して腕を組んだ。
「後で虚言だと発覚した場合、それ相応の対処をとりますけどよろしいですね」
「それ相応の対処」
「場合によってはあなたを法的に訴えます」
「法的に」
「よろしいですね」は抑揚をつけて言った。
「……構わないぜ」
なんだ、今の不自然な間は。だが、ここまで口を割らないということは、彼の言葉に偽りはないのだろう。悪事を働くようには見えないのと同時に、嘘を吐くことも不得手に見える。今回はこちらが勘繰り過ぎたようだ。は姿勢を戻した。
「わかりました。わたしも必要以上に詮索を入れてしまいました。お詫びします」
誤解が解けて安心したのか。ダンデは強張った肩を落とし、息を吐いた。
「ですが、ひとつだけお願いがあります」
「お願い?」
「このことです」はモンスターボールへ視線を落とす。「これを受け取ったとき、安易に他人へ見せてはいけないと言われたんです。恐らくは開かないことが理由だと思うのですが、言いつけを守るためにはチャンピオンのご協力が必要になります」
「秘密にしてほしいってことだよな」
「ご認識の通りです」は深く頷いた。
「もちろん構わないが、それならどうしてオレに話してくれたんだ?」
無頓着ともとれるダンデの問いには思わず、むっとした。
「ボールについて最初に訊ねてきたのは、チャンピオンではありませんか」
「あっ」ダンデは口を丸くさせた。「そういえばそうだったぜ」
察しが良いのか悪いのか。場面によって変化するダンデに態度に思わず惑う。
「だが、最初にオレは言ったはずだ。無理に訊きはしない、と」
「ボールを届けてくれたことも含めて、チャンピオンには聞く権利がある。色んな観点を含めて、あなたになら教えても良いとわたしが判断したんです」
だから気負う必要はない。そう伝えると、ダンデの口元が微かに緩んだ。
「何かおかしな点でもありましたか?」
「いや」ダンデは小さく笑いをこぼす。「ただ、少なからずオレはきみに信頼されているんだと思ったら嬉しくてな。前のならそんなことは言わなかった」
確かに――以前の自分なら、秘匿すべきことを他人に話すのは無論のこと、ダンデに私情を語るなど決してしなかったはずだ。短期間であまりにも濃い時間を過ごしたせいか。それとも表向きでは決して見られない彼の素顔を前にし、知らぬ間に気を許してしまったのか。自身も真意は判らない。
それに、とダンデは目を細める。「と秘密を共有するのは悪くない」
「秘密、ですか」
「ワイルドエリアのことも、今回のことも。何かと秘密を持ちかけてくるだろう」
「チャンピオンは有名人ですから。わたしの迂闊な言動で厄介事に巻き込まれてしまっては、会社やリーグにご迷惑がかかります」
何より、今はジムチャレンジ前。例え仕事の延長線上だとしても、ワイルドエリアや今回の一件が世間に広まることだけは避けたかった。保身のためではあるが、チャンピオンの立場である彼の風当たりが悪くなるような行為はしたくない。
「なるほど。そういう名目だったか」
「他に何か理由がありますか?」
「は何も浮かばないのか」
売り言葉にも聞こえたが、はじっと堪えた。浮かばない、とただ一言答える。
「人は秘密を共有すると、心の距離が近づくんだぜ」
告げられた心理的思考にはどきまぎした。そんな風に捉えられていたとは知らず、これまで幾度となく覚えた罪悪感に襲われる。
彼女は職業上、常に時間から追われている。限られたなかでは、つい簡明且つ簡約に言葉をまとめがちだ。その癖がダンデの前では全て仇となっている。そして経験上、そんなつもりはなかった、は一切通用しない。自分が過去に起こした言動を抹消できても、ダンデのなかでは一生消えない。釈明を図ったところで、彼の心を変えることはできない。
「」
いつの間に俯いていたのか。は顔を上げてダンデを見た。彼は目が合うと、自分の傍を静かに叩いた。まるでがポケモンたちを呼ぶときのように。
「……何でしょうか」
「傍へ来てくれないか」
わたしはイワンコか。は渋面を抑え込む。
「申し訳ありませんが、お断りします」
「なぜ?」
「もう十分なほど傍にいると思うからです」
自分で言って自分の台詞が恥ずかしかった。だが事実だ。一人分の間が空いているだけ。ワイルドエリアでカレーライスを食べたときはもっと近かった。
反応が返ってこない。不信に思い、はダンデを見やる。彼は手の甲で口元を隠していた。
「チャンピオン?」
「、もしかして酔ってるのか」
「いえ、極めて正常です」
少し嘘を吐いた。二人分の酒を飲み干した影響で、酔いが回り始めている。
「ならば何故、そんなことばかり言うんだ」
「え?」
「今日はオレにとって都合の良いことばかり起こる」
まさか――わたしはまた言葉を足さなかったのか。
は慌てて釈明する。「わたしはただ、事実を申し上げただけです。他意はありません」
「それをどう捉えるかはオレ次第だ」
何も言い返せない。は思わずたじろいでしまう。
妙な空気を作り出しているのは、いつもダンデだと考えていた。
違う。自分も同罪だ。
は自らの失態を呪った。ダンデに真意を伝えるためには余るほどの言葉が必要。それは先日、痛いほど思い知らされたばかりではないか。
人間として、責を果たす大人として。己の過ちから逃げたくはない。だが、これまで何度も逃避してきた。トラブルを逃れる為に。目の前の男から逃げる為に。
懸念していた感情の渦がうごめき始めた。
本来の目的である食事は済んだ。そろそろエリキテルたちの様子を見に行きたい――。
「だめだ」
この男は他人の心も読めるのか。腰を浮かす前に、熱を帯びた大きな手に逃げ道を絶たれた。掴まれた手から伝わる温度が異様に高い。酒の影響か。本人による高揚か。できれば前者であってほしいと願った。
「行かせない」
何より、乱暴に肩を掴んだとは思えないほど優しい。
「オレをこんな気持ちにさせたのはだ」
それは、こっちの台詞だ。
「だけなんだ」
掴まれた手に指を這わせ、絡み合う。
「オレから離れようなんて許さない」
心臓が騒がしいほど鳴っている。解っている。酒のせいだ。は胸の前で拳を握り締めた。
「」
そっと手が解かれ、優しい声で囁かれる。
「きみの顔が見たい」
「それにどんな意味があるのでしょうか」
「見るだけでいい」
「見ても面白いものは何もございません」
「オレを見てくれるだけでいい」
言い方が卑怯過ぎる。これで見なければ、王者の面は物足りないと言っているようなものではないか。ここまで質の悪い男だとは思わなかった。
は逸る鼓動の如く、瞬きをする。相手との距離を測りながら静かに首を動かした。
「顔が真っ赤だ」
「お酒のせいです」
「酒のせいにするなんてらしくない」
は顔がむっとなるのを抑えた。「そういうチャンピオンも顔が赤いです」
「こんな風にさせたのは誰だと思う」
「お酒でしょう」
「だ」
「違います」
「頑なだな」ダンデはふっと笑った。
これ以上は耐え切れず、は視線を逸らした。頭が沸騰して溶けてしまいそうだ。
自分の解釈とダンデの考えに相違があったと判明した瞬間、絶望した。これまで以上に彼の考えが読めなくなり、不明点が山積みで恐ろしくなった。絶対にあり得ない、と唱え続けた臆見が横切るたび、心が乱されて気が気じゃなかった。
チャンピオンに限って『それ』はない。女に現を抜かしている暇があれば、無敗記録を伸ばすためにトレーニングを重ねるに違いない。異性とはいえ、食事へ誘う理由も仕事の一環としか考えられない。
しかし、どんなに振り払っても答えが定まらない。他にあるのなら誰か教えて欲しい。
「なあ、」
名を呼ばれ、横目でダンデを見やる。
「きみはもう気付いてるのか」
「何にですか」
「はは」ダンデは微かに鼻で笑った。「どうやらその様子だと、理解すらしてないな」
今の言い方には含みがあるように思えた。消えかかる戸惑いを手繰り寄せ、捕まえる。
「どういう意味ですか?」
途端、耳元に酒交じりの熱い息がかかる。
「すまない」
「え?」
「これだけは教えられない」
正に悪辣とも思える囁きだった。
頑ななのはどっちだ。肝心なことは口にせず、思わせぶりな態度を取り続けているのは。
自分は散々逃げてきた。王者の振る舞いから。その分だけ謎の溝は深まり、今ではひとりでに断崖絶壁まで追い込まれている。もう逃げ場はない。
ならばもういっそのこと、飛び越えてしまえばいい。
会うのはこれで最後だ。最後ならそれらしく、真意を確かめて蹴りをつけるのが筋だ。
「チャンピオン」
は背筋を伸ばし、ダンデを見据えた。彼女を見つめるダンデの目の色が変わった。
「どうした?」
「わたしはここへたどり着く前、お訊きしたいことはひとつと申し上げました」
ああ、とダンデは呟く。「そうだな」
「ですがもうひとつだけ、チャンピオンにお訊ねしたいことがあります」
「聞かせてくれ」
はふうっと息を吐いた。覚悟の儀式だった。
「チャンピオンはこれまでに、一目惚れというものを体験したことはありますか」
ダンデは一瞬、目を見開いた。それでもは決して逸らさず、彼の心境を読み取る。
これ以上に適切な質問は見つからない。困惑の渦中ではこれしか思いつかなかった。
やがてダンデがの手を離し、黙考を始める。太ももに片肘を置き、長い指を口元に添えている。彼が考え事をするときに見かける素振りだ。横顔は真剣そのものだった。その表情には思わず息を呑む。
庭園を彩る水のせせらぎが木霊する。ダンデが熟考する時間と比例するように、オドシシを威す道具として称されている鹿威しの竹筒へ水が溜まっていく。
はひたすらに待った。待ち続けるしかない。例えどんな答えが返ってこようとも。それが彼の真意であるのなら、不明よりは楽だと判断した。
ダンデがゆっくりと姿勢を解いた。が目を逸らさないのと同様、彼も見つめ返す。
「……ある」
は生唾を飲み、高鳴る心臓を抑え込んだ。
「ヒトカゲだ」
竹筒に溜まった水がこぼれ落ち、石を叩いた。風情をぶち壊す間の抜けた音に聞こえた。
数秒前まで漂っていた怪しげな空気が変わっていく感覚を覚えた。の頭上にはヤドランも腰を抜かすほどの疑問符が浮かんでいる。
――いま、この男は何と言った?
「失礼ですが」は抑揚をつけて言った。「いま、何と仰いましたか」
「ヒトカゲだ」
「ヒトカゲ」
「ああ」
淡々と答えるダンデには疑問符が止まらない。
酒の影響ではない。これは紛れもない彼の素だ。世界広しといえども、この流れでヒトカゲを挙げる人間は彼だけだ。は化けの皮が剥がれる音を聞いた。
「最初のパートナーは炎タイプだと思ったんだ」
続いて不意打ちを食らい、はい、と返す。
「オレはかつてのヒトカゲに一目惚れをして、リザードンと勝利を重ねてきた」
「はい」
「そしてチャンピオンタイムに至る」
の体力はほぼゼロに近かった。
「もちろん、ヒトカゲ以外も今の仲間たちは一目見て気に入ったポケモンばかりだぜ」
「さようでございますか」
ややあってダンデはいつもの調子で首を傾げた。
「それがどうかしたのか」
「いえ、特に深い意味はありません」
は手で制し、ダンデと距離をとった。そのまま両手で顔を覆い隠し、強くうな垂れる。
一体、どこまで予想を裏切れば気が済むのだろうか。このダンデという男は。
白だ。紛れもない白。この状況でポケモンの名を挙げる辺り、ダンデから一目惚れを受けた可能性は皆無に等しく、好意を抱かれている線も無い。彼は幾度となく自分が特別だと唱えるが、それは誰にも等しく言えることなのだ。
ただの自惚れに過ぎなかった。ただの憶見に過ぎなかった。様々な意味を含め、死に値する恥ずかしさが波のように押し寄せてくる。
最高に安堵して、最低に落胆させられた。身体中の力が抜け落ち、ついには床に両手をついて倒れ込んでしまう。こんなに脱力したのは生まれて初めてだ。
「?」
大丈夫か、とダンデが片膝を付く。
「問題ありません。少し酔っただけです」
「手を貸そう」
ダンデの手を甘んじて取り、立ち上がる。心臓も頬もすっかり落ち着きを取り戻した。
「すまない。オレの分も飲ませたせいだ」
「平気です。ご心配なく」
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫です」
ふらふらとした足取りでテーブルへ向かう。コップ一杯の水を飲み干し、口を拭う。手の甲に付着した口紅が血反吐のように見えた。