は放送局内の手洗い場にいた。崩れかけた口紅を直し、服についた埃を払う。
腕時計を確認する。チャンピオンが恐らく、無事に、何事もなく到着するであろう時刻まで、残り四十分。リザードンの案内があるにせよ、彼のことだ。今回もぎりぎりまで現れないと考えていい。期待するだけ無駄な労力を使うことは、この四週間で嫌でも分かったことだ。
最後に鏡の自分と表情の練習をする。食事の場で引き笑いだけは避けねばならない。チャンピオンの観察眼を甘く見てはいけない。彼は突然、隙を突くような発言をするからだ。
はフロアへ移動し、適当な場所へ腰を下ろした。スマホでネットニュースを確認し、ポケモンクイズにまつわる情報を集める。時々画面の時計を確認しては、約束の瞬間が来るまでただひたすら待ち続ける。
よくよく考えれば、社会人になってから異性と二人で食事へ行くのは久しぶりだ。直近だとダニエルと今後の方針について話し合うため、酒屋へ足を運んだぐらいだ。他に男性と酒を交わしたといえば、やはり集まりでの飲み会程度。基本的に横の広がりが狭いため、真っ直ぐ帰ることがほとんどだった。
久方ぶりの食事相手がガラルの王者とは恐れ入る。今回の仕事を引き受けたときには、夢にも思っていなかった。誰も想像などできない。名前の付けようがない感情に駆られて、吐き出さなければいいのだが。
そんな風に考えているときだった。仕事用のスマホが震えた。相手はダンデだった。
は思わずアイコンを二度見した。時計を確認すれば、長針は約束の三十分前を指している。チャンピオンにしてはやけに早い。
鞄を手に取り、体をフロアの隅へ追いやる。周りに誰もいないか。聞き耳を立てられていないかを確認してから電話に応じた。
「です」
『ダンデだ。もうすぐ着くぜ』
嘘だ。早すぎる。油断していた自分を呪いたくなる。
「承知いたしました。入り口だと目立ちますから、駐車場へお越し願えますか。建物をぐるりと一周するだけで大丈夫です。目印としてわたしが立っています」
『リザードン、聞こえたか』
電話口からリザードンの声が届いた。どこまでも賢い子だ。信頼度しか上がらない。
『分かった。すぐに向かう』
向かうのはリザードンだろう、という突っ込みは胸に留めておいた。
リザードンの速さならば、ほんの数秒で着いてしまう。は指定した場所へ駆け出した。非常階段の扉を潜り抜け、黄昏の風を浴びる。駐車場を見渡すも、彼らの姿は見当たらない。さすがに急ぎすぎただろうか。
再びスマホに呼び出される。画面を見ずとも、かけてきた相手が判るのは謎の引力だ。
「どちらにおられますか」
うんん、とダンデは唸った。『恐らく、に言われたとおりの場所にいるはずなんだが』
嘘だ。問題なく到着したのなら、視界に特徴的なあの姿がうろついているはずだ。しかし、歩いているのは長い髪を靡かせている男性が一人。
ここでの思考が停止した。あの後姿。あの背丈。見覚えのあるシルエットだ。被っている帽子にもどこか既視感を覚えた。
唯一違うのは服装だ。赤いマントでもユニフォームでもない。恐らくは彼自身の私服。本人は大衆に馴染んでいるつもりだろうが、髪型とトレードマークのせいで全く溶け込めていない。寧ろ普段となんら変わりない。
やがて通話を交えながら、視線をも交わす。ダンデは目が合うと、歩み寄ってきた。
「、ここにいたんだな。随分と探したぜ!」
「チャンピオン、その格好は……」
「ああ」ダンデは、これか、と身なりを一瞥する。「さすがに普段の格好だとバレるからな」
「既にバレバレです」
「本当かっ?」ダンデは目を剥いた。
「このまま街を歩いたら間違いなく気付かれます」
「いけると思ったんだけどな……」
どこにいけるポイントがあったのやら。
は改めてダンデを観察する。頭から足の先まで間違いなくチャンピオンだ。芸能人が素顔を隠す為、眼鏡や帽子がよく用いられる。彼は帽子だけで身を隠し通せるとでも思ったのか。
チャンピオンの場合は逆効果だ。彼の勇姿に憧れて老若男女がレプリカユニフォームを持っているように、冠を模した帽子が全国的に販売されているのだ。帽子といえばダンデ、という方程式があるガラルでは、今の変装は意味を成さない。
特に長い髪は隠し切れるはずもない。イメージ性を崩さないため、個人の判断で散髪もできないはずだ。本人なりに考えた末での策なのだろう。
「これから着替えるわけにもいかないからな」
は口元に手を添え、ダンデを凝視する。
「?」
「髪型を変えたら……いけるかもしれません」
「髪型?」ダンデは首を傾げた。
は鞄から化粧ポーチを取り出した。
「もしよろしければ、わたしに任せていただけませんか。悪いようには致しませんから」
「いいのか?」
「ちょうど良い場所がないので、非常階段へ座っていただくことになりますが……」
「構わない」
非常階段へ案内し、段差を椅子代わりにしてダンデを座らせる。は彼の背後へ回った。
自ら提案しておいて何だが、チャンピオンの髪に触れても良いのだろうか。彼の正体を隠すためとはいえ、思い切ったことを言ってしまったな、と思う。
「こんな場所で申し訳ありません。すぐに終わりますので、ご辛抱ください」
「きみに任せた」
はダンデの髪に触れた。恐らくはスポンサーからもらった質の良いシャンプーを使っているのだろう。憎たらしいほど指通りが良い。感情が指先に出ないように丁寧に梳かし、頭上付近でひとつに束ねる。
思った以上に毛量が多い。は前屈みになる。
「ずっと黙っていますけど、痛くないですか」
「痛くはない、が」
「何ですか?」
「何でもない。気にしないでくれ」
は更に疑問符を増やした。特に詮索は入れず、髪形が崩れないようにヘアゴムを巻き付ける。最後にトレードマークの帽子を被せ、後ろ口から結び目を抜き出した。一般的なポニーテールだが、ダンデの場合は正にガラルポニータの尾のようだ。
「いかがですか」
はダンデへ手鏡を見せた。我ながら上出来だ。最初と比べてより身近になった。
「動きやすいな!」
「動きやすさではなく、見た目の話です」
「問題ない。のお陰で助かったぜ」
「良かったです」はポーチをしまった。「これで気付かれずに済むといいのですが」
「気付かれたら、その時はその時だ」
「チャンピオンならそう仰ると思いました」
改めて外へ繰り出す。これから向かう店はダンデしか知らないため、は何もできない。だが、彼に道案内を任せられるはずもない。予約を入れたことまでは聞いたが、目的地へたどり着けるかどうかは別の話だ。
「チャンピオン、お店への道順はご存知ですか」
「あっちだ!」
どっちだ。思わずは肩を落とした。最終兵器のタブレットを取り出し、店名を検索する。幸いにもシュートシティに看板を構えているようだ。ネットでは外観の写真が載っていないため、頼れるのは表示された地図のみ。
「アーマーガアタクシーを呼びましょうか」
最も効率的且つ、確実な方法だ。はスマホを取り出した。しかしダンデの手で制される。
「タクシーは呼ばなくていい」
「ですが、ここからだと少々時間がかかります」
仮に徒歩でも予約の時間には十分間に合う。だが、距離を考えれば空を頼るべきだ。
「と二人で歩いて行きたいんだ」
は一考した後、黙って頷いた。
「本日はチャンピオンへのお礼の場でもあります。そう仰るのであれば、歩いていきましょう。ただし、道案内はわたしが行います。よろしいですか」
「もちろんだ」
「それでは行きましょう。こちらです」
はタブレットを片手に歩き出した。自然と隣にはダンデがやって来る。髪型で雰囲気が変わった分、少しだけ妙な気持ちだ。決して言葉にはしないが、よく似合っている。ファンが今の彼を見れば新たな要素に熱を入れるに違いない。
こうして歩いていると、ワイルドエリアでの出来事を思い出す。当時のチャンピオンは方向音痴にも関わらず、向こう見ずに走り出した。今回も道が判っていなかったにしろ、勝手に駆け出すような真似はしなかった。短期間で彼も学んだのかもしれない。
「、腹は減ってるか?」
「はい。本日の昼食は軽く済ませましたので、いい調子にお腹が空いています」
そうか、とダンデは笑った。「オレも今夜は時間をかけてゆっくり食べようと思う」
恐らくは時間に追われている身なゆえ、急いで食べることに慣れてしまったのだろう。
「あの、チャンピオン」
「どうした?」
「ひとつ、お訊ねしたいことがあります」
は素朴な疑問をダンデにぶつけてみる。初回の収録から気になっていたことだ。
「これだけ多忙に追われているにも関わらず、何故マネージャーを雇わないのですか?」
ジムリーダーを含め、芸能界の人間には補佐役が必要である。ポケモンバトルの他にも彼らにはやるべきことが山ほどあるからだ。
だから尚のこと、ダンデには他の誰よりもマネージャーが要るべきだ。道案内にしろ、スケジュール管理にしろ。一人で全てをこなすには限度がある。
差し支えがなければ、是非疑問に答えて欲しい。は何も言わずにダンデの返答を待つ。
ややあってダンデの口が開いた。「前はいたんだ」
「そうなんですね」
ごく当然のことだ。今さら驚くことでもない。しかし過去形であることが気にかかる。
「チャンピオンになったのは子供の頃だからな。その時代は大人に任せていた部分もある。だが駄目なんだ。オレはすぐに迷うし、リザードンで移動したほうが早いと陸を離れてしまう。周りがオレたちに着いて来られなくなるんだ。だから辞められることが多い」
まずいことを訊いてしまった。は後悔し、ダンデへ謝罪の念を静かに送る。
「申し訳ありません。あまり良くない過去を掘り返すようなことを訊いてしまって」
「そうか?」ダンデは一笑する。「事実を言っただけだぜ」
本人は言葉通りに振舞っているように見えた。それでもは申し訳ない思いに駆られた。
特に着いて来られなくなる、という発言は邪険に扱えない。社員食堂で偶然、耳にした男たちの会話。彼らとチャンピオンの発言からは脈略を感じるからだ。
「そういうはどうなんだ」
「わたし、ですか?」
「きみは何かと一人で抱え込みやすい」
誰のせいだ、という怒りはそっと鎮めた。
「風邪のときだって、誰にも悟らせなかったんだろ」
「それはまた別の話ではありませんか? あれは体調管理を怠ったわたしの責任です」
事実を述べたが、ダンデには笑われてしまった。これにはも渋面を作ってしまう。
「いまの笑うところでしたか?」
「いや、ならそう言うだろうと思った」
話し込んでいる間に目的地に着いた。一風変わりない建物だ。だが、一歩先へ進むと異国を思わせる雰囲気を醸し出していた。静かに佇む小池。丸みを帯びた暖色の灯り。東屋が設けられた美しい庭園。ガラル地方では見かけない光景ばかりだ。
例えるならばジョウト地方のエンジュシティ。そしてアローラ地方のマリエシティだ。前者は伝説のポケモン、ホウオウを祀る黄昏の町。後者はジョウト地方を彷彿とさせる街並みが印象的な石畳の町。はどちらにも訪れたことはないが、観光雑誌では必ず目にする地名だ。何より、ジョウト地方には大きなラジオ塔もある。以前から興味はあった。
が踏み入れた場所は、まるでその二つを足して割ったような世界。シュートシティの開拓率は自負していたが、町の一角にこんなオリエンタルな店があるとは知らなかった。
店内は世界観がより如実に表れていた。ポッポを模した木彫り。墨絵で描かれたライコウ。至るところにガラルでは目に掛かれないポケモンたちが並んでいる。
「ようこそいらっしゃいました。チャンピオン」
群青色の着物を着た男性が現れた。顔立ちがはっきりとしている。見るからに好青年だ。
「彼女が話していただ」
「お初にお目にかかります。当料亭の店主です」
「はじめまして」は会釈する。「と申します」
店主はを見て、にこりと笑った。
「丁重に扱って欲しい」
「勿論です。お部屋へご案内いたしますね」
男性に促され、はダンデに続いて廊下を進む。足音は鈴が鳴るように気品に聞こえる。
雰囲気も相まって身が引き締まる。極東の地では室内で靴を脱ぎ、裸足のまま歩き回る話を聞いたことがあるが、いまこの場では靴のままで良いようだ。冷え込みが激しい季節、裸足で歩くなど考えただけで凍り付いてしまいそうだ。
何より――先ほどのチャンピオンの立ち振る舞い。収録ブースで見せたあどけない表情とは異なり、世間で言われる『出来る大人』の空気を纏っていた。
改めて、ダンデという人格に圧倒される。
案内された部屋は広く、そして静かだった。中央にはガラル式のテーブルが鎮座している。窓辺からは先ほど見かけた庭園が見える。その先ではシュートスタジアム前を流れる大きな運河の水面が揺れている。各所の光に反射して星が瞬いているようだった。
それ以外は何もない。チャンピオンの言葉通り、二人で話す為に必要な空間だけが備わっていた。
「それでは、モンスターボールをお預かりします」
「ボールをですか?」
店主に告げられ、は思わず訊き返す。
「ここではトレーナーとポケモン、それぞれが別の部屋で食事をするんだ。ポケモンは食事を済ませたら広間で遊べるようになっている」ダンデが答えた。
ポケモンたちと食事を共に出来ないのは残念だが、ここは黙って従うべきだ。
「分かりました。みんなをお願いいたします」
はエリキテルとイワンコを預けた。ダンデも同様にモンスターボールを引き渡す。
店主はポケモンたちを預かると、一度退散した。その間、は物珍しげに部屋を見渡す。
「チャンピオン、ここは?」
「ローズ委員長と以前、食事をした店だ。ジョウト食なんだが、は好きか?」
「はい。最近ではグローサリーストアでよく見かけますから。仕事で帰りが遅いときはよくお弁当を買うのですが、よく手に取りますよ」
「気に入ってくれたか」
本音を言ってしまえば、格式高い店へ来てしまった、と不安もあった。しかし今は違う。
「はい。とても」は頷いた。「素敵なところです」
「の希望通りのままとはいかなかったが、気に入ってくれたのなら良かったぜ」
「意外すぎて驚いているんです。てっきりシャンパンが出てくるお店だと踏んでいたので」
「驚かせるのもチャンピオンの役目だからな」
ダンデが椅子を引き、を見つめる。
「座って待とう。直に料理が運ばれてくる」
「分かりました」
引かれた椅子へ腰掛ける。立場としてはチャンピオンが上だが、食事の場では彼を立てるべきだ。はダンデの気遣いを受け入れた。
あまりに慣れすぎていて、少々調子が狂う。恐らくは玉座に就いてから、ひと通りの礼儀作法を覚えたのだろう。普段のチャンピオンと思えないほど、似つかわしくないことばかりだ。
寧ろ、今まで立場が逆転していたのだ。その反動がいま、一気に跳ね返ってきている。
ダンデも帽子を取り、正面へ座った。
「帽子をとった姿は新鮮ですね」
「食事のときくらいはな」
「こうしてチャンピオンと向かい合って座っていると、収録時のことを思い出します」
「つい最近のことだったじゃないか」
「言われてみれば、その通りですね」
は合点した後に、あっと声を漏らした。
「どうした?」
「今日はチャンピオンタイムの配信日ですっ」
思わず腕時計に目を落とす。まだ時間に余裕はあるようだが、この状況では叶わない。
「すっかり忘れていました……」
「配信中にパーソナリティーたちが食事をしているなんて、誰も想像しないだろうぜ」
「アーカイブで確認する他ありませんね」
いまの時代ならば録音視聴が可能だ。専用のアプリケーションを活用すれば、二週間前までの配信を自由に聴くことが出来る。特に『チャンピオンタイム』のような特別ゲストを招いての番組では一定期間内データを保有することも許されている。
「チャンピオンは配信をお聴きになりましたか?」
「リアルタイムではなかなか聴けないが、感想なら弟からよく聞くぜ」
そうだ。チャンピオンには弟がいるのだ。初回の収録時に話していたことを思い出す。
「離れていても連絡を取り合うなんて、弟さんと仲が良いんですね」
「ああ。世界一のチャンピオンファンだ」
ダンデの笑みには弟への愛情が込められているように見えた。訊かずとも分かる。世界一の名に恥じないほどの兄弟愛が、彼らに存在していることを。チャンピオンの弟も兄に似て、こんな風に笑うのだろうか。少しだけ会ってみたくなった。
「には弟や妹、兄や姉はいないのか」
「わたしは一人っ子なんです。だからでしょうか。兄弟の存在には少し憧れます」
「なら兄や姉がいたほうがいいだろうな」
「そうでしょうか?」
「きみはもう少し他人に甘えたほうがいい」
そんな風に談話しているときだった。部屋へ料理が運ばれてきた。店主のほかにも召し物を着付けた女性たちが入ってくる。佳人ばかりだ。
彩りよく盛り合わされた酒の肴。小鉢へ控えめに盛られた山菜。漆塗りの器には海の幸が並んでいる。魅せ方が既に美しい。極東の地のわびさびが伝わってくる。
失礼致します、と頭上から声が聞こえた。店主が料理をテーブルへ並べている。はその様子を黙って眺めた。ひとつひとつの手先の動きが丁寧だ。
全ての料理が整い、店主たちは会釈して部屋を去った。は胸に溜めた息を吐き出した。
「はあ。少し緊張しました」
「すまない。やはりこういう店は苦手だったか」
「いえ」はかぶりを振った。「人に見られていないのなら平気です」
「気を遣わないで好きなように食べたらいい。誰も見ていないぜ。オレ以外は」
「チャンピオンが相手なら、尚更気になります」
「オレのことが気になると言ったのか?」
「もう適当に流してください」
店主の話に寄れば、ポケモンは既に料理を平らげ、大広間で遊び回っているという。遠くの部屋が少しだけ騒がしいのはそれが理由だろうか。イワンコがリザードンに技を繰り出してなければいいのだが。エリキテルも一緒だ。心配は無用だろう。
「、酒は飲めるか?」
「はい。人並み程度ですけど」
「せっかくだから飲もうぜ」
「チャンピオンはお酒、平気なんですか?」
しばらく沈黙が続き、ダンデは、ああ、と頷いた。
「いまの間、明らかに怪しいですよ」は疑念の視線を向ける。「もしかして弱いんですか?」
ダンデは酒を酌みながら苦笑を浮かべる。どうやら図星のようだ。少し意外だった。
「自覚はないんだが、酔っ払うと手に負えないらしい」
「いったい何を仕出かしたんですか」
「ここじゃあちょっと、言えないことだ」
は万が一に備え、酒瓶を自分の傍へ置いた。チャンピオンとは今回、食事をしに来た。酔っ払いを介抱するつもりは更々ない。
最初の一杯は挨拶として交わそう。しかし、酌み交わしてはならない、と危険信号が点滅している。
音を出さずに乾杯を交わす。は静かに白酒を含んだ。口当たりの良さに緊張が徐々に解れていく。度数はそこまで高くないようだ。
作法に従って手を合わせ、続けて食事を取り始めた。予想通り、ジョウト食は口に合う。
「本当に美味しい」
「は好き嫌いとかなさそうだな」
「そうですね。基本的には何でも食べます」
ふと、ダンデを静かに観察する。これまでの作法も含め、器や箸の持ち方も綺麗だ。
がさつな男なのかと思えば、平気な面で予想を覆していく。まだまだチャンピオンの欠点を内偵している自分に嫌気が差す。何かないのか、この男には。
考え込んでいると、目が合った。は反射的に逸らしてしまう。胸中を悟られたくない。
「は何をしていても仕草が綺麗だな」
「え?」
「仕事にしろプライベートにしろ、人一倍振る舞いに気を遣っているように見えるぜ」
「そう、でしょうか」
気にかけたことはなかった。社会人としてとるべき対応を行っているまでだ。
その時だった。鞄の中でスマホが震えた。この鳴り方はメッセージではない。電話だ。
「……申し訳ありません」
は一度断りを入れ、スマホを確認する。だが画面に表示された番号を見て、応答せずに自ら通信を遮断した。今後、いかなる通知も鳴らないようにスマホの電源を落とす。仕事用にも同様の処置をとった。
「お騒がせしました。もう大丈夫です」
「電話だったんだろ。良かったのか?」
「構いません」
は箸を持とうとした手を膝の上に置き、ダンデの目を真っ直ぐと見つめた。
「いまはチャンピオンとの時間のほうが大事ですから」
食事の場でスマホを鳴らしてしまうなど、失礼に当たる行為だ。は深く反省した。今回はチャンピオンだから許されたものの、上層部の前ではより一層注意を固めよう。最終的に咎められるのはダニエルだ。彼には迷惑を掛けるわけにはいかない。
そんな風に考えながら料理を口へ運ぶと、変なものが視界に飛び込んできた。
何故かは分からない。チャンピオンが帽子で顔を隠している。心なしか肩も震えている。
「チャンピオン、いかがなさいましたか」
彼から返事はない。凝視していると、チャンピオンは帽子から顔半分を覗かせた。
顔が――火炎放射であぶられたように赤い。
「もしかして」が言った。「もうお酒が回っちゃったんですか」
「いや、そうじゃない」
「お水でも飲みますか?」
チャンピオンに一杯の水を汲む。だが、彼はどこか気恥ずかしそうに目を逸らした。
やがて黄金色の瞳がを捕らえる。帽子で口元を覆ったまま、上目がちで見つめてくる。
「オレもきみと同じだ」
「え?」
「この瞬間が何よりも大事で、特別だ」
ダンデの言葉を聞いた瞬間、は全て分かった。
彼が帽子で表情を隠した理由も。珍しく顔を火照らせた経緯も。こちらが何気なく放った言葉で、無敵の王者の心をかき乱してしまったことも。
そして頬に熱が集まっていくのは酒のせいだと、何度も心に言い聞かせた。