ドリーム小説 10

 地面が鍵盤のごとく雨音を立てる。窓辺では結露が張り、滴同士が重なって消えていく。
 はエリキテルとリビングに隣接している寝室にいた。否、正しくは隠れていた。扉の隙間から向かい側を覗くと、見えたのは真新しい皿。ポケモン用の食事皿だ。中には新鮮な木の実を始め、個々の好みに合わせたポケモンフーズが盛られている。その絵を眺めてエリキテルが思わず生唾を呑み、涎を垂らしてしまう。
「エリキテル、ぐっと我慢よ」
 エリキテルは、はっとした表情で我に返り、頭を振るう。は彼の口元を拭った。
 紙くずを捨てようと立ち上がった時だ。扉の向こうから爪痕を擦り合わせるような足音が聞こえた。これは人間ではなく、ポケモンによるものだ。たちは顔を見合わせ、競い合うように扉の隙間を覗き込んだ。直後、両者の視界に岩飾りが見えた。
 イワンコだ。リビングに置かれている皿に近付き、慎重に匂いを確認している。珍しい食事を前にして、食欲よりも先に警戒心が働いているようだ。だが丸い尻尾は感情を如実に汲み取っており、嬉々とした様子で揺れている。
 イワンコが木の実に鼻先を付けた。舌先で触感を確認し、口を開けて食事を頬張る。
 その光景を見て、はすかさずスマホで撮影する。記念すべきイワンコの初食事である。写真だけでは満足できず、動画に切り消えて一部始終を録画した。
 その後もイワンコは木の実だけでなくポケモンフーズにも手をつけ、皿はあっという間に空になった。機会を見てはリビングへ移動し、皿の前で利口に座っているイワンコの前で両膝を折る。エリキテルも傍へ駆けてくる。
「イワンコ、ご飯美味しかった?」
 イワンコはややあってから小さく鳴いた。声色から推測するにご満悦のようだ。も安堵の息を吐き、その場で横座りする。
「改めて自己紹介するね」は胸元に手を当てた。「わたしは。ラジオ局でパーソナリティをしてるの。隣にいるのはエリキテル。あなたのお友達よ」
 エリキテルは軽く手を挙げて挨拶をした。イワンコの丸い目が彼に向けられる。
「ここはわたしたち三人のお家。走り回るにはちょっと狭いけど、気に入ってくれたかな」
 今度は何も答えなかった。確認ができたのは左右に揺れる尻尾のみ。
 ワイルドエリアという広大な自然から突然狭い空間に連れてこられたのだ。どれだけ利口な性格でも慣れるまでには時間がかかるだろう。は特に言及も詮索も入れず、ただ安心させる為にイワンコの頭を撫でた。
「エリキテル」は立ち上がった。「イワンコに家の中を案内してあげて」
 ここは彼の持ち前の明るさに頼ろう。エリキテルは任せろと言わんばかりに胸を叩いた。一定の距離を保ってイワンコに近付き、順々に家の案内を始める。ポケモン同士であれば、何か機縁を作れるかもしれない。
 ポケモンたちが探検をしている間、はタブレットを適当に開いた。画面に表示されているのは、多数のポケモンを飼育するブリーダーのアカウントページ。一般的なトレーナーとは異なり、ポケモンの育成に関して該博な知識を持つプロの資格を持つ者だ。今後、イワンコに関して不明な点があれば、彼の助言を頼りにしようと考えている。
 画面をスライドした時、スマホが震えた。同時に寝室からポッポの鳴き声が飛んでくる。
 時刻は午後九時。震えたスマホの画面には『チャンピオンタイム放送時間』の文字。専用のラジオアプリを起動すれば、すぐに聴取できる。オープニングの音楽が終われば、地声とは少し異なる自分の声が入ってくる。
 今回は確か――視聴者から事前に寄せられた質問にダンデが答える回だ。ソファーに倒れ、天井をぼうっと見つめながら放送に耳を傾ける。
『やはりダンデ選手にとって、リザードンは他ならぬ深い思い出があるということですね』
『もちろんです。彼は大切なパートナーですから』ダンデが笑う。『さんはエリキテルと二人で収録に臨んでますが、何か印象に残っている思い出はありますか』
『わたしですか?』
 質問に答えるべき人間が他人に訊いてどうする。当時は胸中でそんなことを呟いた。
『もちろんありますよ。ですが、話し始めたら収録時間が終わってしまいますので』
『それじゃあまたの機会に』
『そうですね』が微苦笑する。『まだまだダンデ選手への質問がありますから』
 その機会がワイルドエリアでの一件なのか。じわじわと先日の出来事を想起する。
 イワンコをゲットした経緯は半ば事故に近かった。は無論のこと、経験豊富なダンデも稀に起こるケースだと言いながら酷く驚いている様子だった。
 予期せぬ展開だったとはいえ、モンスターボールの持ち主は。イワンコのパートナーになる資格は十分ある。そう言って彼女の背中を押したのは紛れもないダンデだった。
 は最初こそ、予想外の捕獲に戸惑った。だが、ポケモンを欲した自分たちの思いに偽りはなく、イワンコが収納されたモンスターボールを見て、このまま野生に帰すことはできない、と考えた。
 その場でエリキテルと相談した結果、イワンコを手持ちに加える決断を下し、今に至る。
『――とのことです。ダンデ選手、いかがですか?』
 思い返している間にもラジオ放送は進んでいた。はスマホの音量を上げる。
『プライベートで行くところといえば、やはりワイルドエリアです。広大な自然には強く逞しいポケモンが多く棲息していますからね。ゲットにはもちろん、心身を鍛えるには相応しい場所です』
『運が良ければ、トレーニング中のダンデ選手に会えるかも、ということでしょうか』
『よくいますよ』ダンデが一笑する。『何度かバトルを挑まれたこともありました。協会の規定でワイルドエリア内でのバトルが禁止されている為、やむを得ず断りましたが。あの時は申し訳ないことをした。スタジアムであれば、いくらでも挑戦を受けていたのに』
『やはりダンデ選手と会うに相応しい場所は、バトルフィールド上なのでしょうね』
『皆さんには、来月から開催されるジムチャレンジに是非、挑戦してもらいたいです。オレたちの力はチャレンジャーがいて初めて発揮されますから。戦う相手がいるからこそ、強くなれる。オレは誰の挑戦でも受けて立ちます』
『ダンデ選手、リザードン級に熱いご回答をありがとうございます』
 紙を捲る音がした。
『質問はまだまだたくさんあります。最後までお付き合いください』
『いつまでも付き合いますよ』
 は言葉にならない叫びを口内で上げた。両手で顔を覆い、大きなため息を吐く。
 駄目だ。内容が全く入ってこない。話題にワイルドエリアが挙がった瞬間から忘れたくても忘れられない記憶が襲い掛かってくる。
 ダンデに質問メッセージを送った聴取者に罪はない。悪いのは彼だ。間違いなくあの男。
 連呼される名前。窮地の後に交わされた抱擁。どこまで知りたいかと迫る声。全てがの心情をかき乱す材料であり、困惑の種。前回までは大きな波乱もなく対応できたが、次回はどんな顔でダンデと顔を合わせればいいのか分からない。
 収録ブースは魔法の部屋だ。心底思う。ダンデから話を振られても、普段のしがらみなど忘れて笑顔で対応することができる。呼び慣れない彼の名前も口外できる。スマホから聞こえる自分の声はまるで別人格だ。
 あの人の前で笑えるんだ、わたし。
「……頭痛い」
 そんな風に考えていると、寒気に襲われた。常備している鎮痛剤を服用し、ブランケットに包まる。雨が降っているせいだろうか。いつもより体が冷たい。
 やがて探検を終えたポケモンたちが傍へやってくる。が本調子でないことに気付いたのか。エリキテルはミ彼女の額に手を当て、労わるように鳴いた。
「大丈夫。熱はないみたいだから」
 でもありがとう、とは相棒を撫でる。エリキテルは納得した様子で頷いた。
さんは本当に良い返しをしますね』
『ありがとうございます。冥利に尽きます』
 明後日は三回目の収録。つまりは残り二回。ようやく折り返し地点へやって来られた。
『今回も話足りないくらい、楽しいです』
 ああ、もうそれ以上喋らないでくれ。
 は倒れこむように寝転んだ。室内ではまやかしの笑い声が延々と木霊していた。

 翌日の昼下がり。は午前中の生放送を終えて社員食堂へ来ていた。
 昨夜まで降り続けた雨はすっかり止み、いまではエリキテルの大好物が輝いている。
 彼の食事と日向ぼっこも兼ね、本日はテラス席で昼食をとっている。気合いを入れるために作ってきた手製の弁当。好物ばかりを詰め込んできた。
 手に取ろうとしたグラスへ水が注がれる。ポケジョブで派遣されたキルリアだ。放送局のマークが刺繍されたウェイトレス服がよく似合っている。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの」
 キルリアは目を細めて微笑んだ。
「ねえ、写真撮ってもいいかな」
 キルリアは頷く前にポーズを決めた。
 可愛すぎる。は思わず連射した。角度を変えて撮影ボタンを押し続ける。
「どうもありがとう」
 感謝の意を伝えると、キルリアは別のテーブルへ向かった。同じ行為を繰り返している。
 嗚呼、ポケモンは癒しのパワーに溢れている。の心は幸せに満ち溢れた。これで今後の収録も乗り越えられそうだ。再度、キルリアの背に謝意の念を送る。
 残りの弁当を食べようとフォークを手に取ったとき、食堂内がざわついた。はテラス席にいるため、直接騒ぎを感じ取ったわけではない。自分と同様、陽に当たりながら談笑していたスタッフが、半ば興奮状態で屋内へ駆け込んだのだ。
 まさか。は嫌な予感しかなかった。
 その場から動かずに騒ぎの原因を探る。わずかに見えたのは深紅のマント。黒い帽子。想像と特徴が合致する。間違いなくチャンピオンだった。
 は目印になりやすいエリキテルをモンスターボールへしまった。弁当に蓋をし、明後日の方向を見る。鞄も足元に隠した。彼には何度も見られているからだ。
「チャンピオン、サインくださいっ」
「勿論だぜ」
「息子があなたの大ファンなんです。来月のチャンピオンカップも頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。期待に応えます」
 食堂内はプチパニックに陥っていた。こうなることは予想できたはずだ。何故ここに?
 は盗むように人だかりを見やった。ダンデは寄せられた要求にひとつひとつ丁寧に応えている。どこに携帯していたのか、サインペンを取り出しては字を走らせ、リザードンポーズを決めている。彼のファンサービスを生で見たのは今回が初めてだ。雑誌やファンの言葉通り、手厚い返し方だ。
 ダンデの周りにはマクロコスモス社のスタッフが直立している。恐らく、彼が局内で迷わないように着いてきたのだろう。英断だと思う。
「ダンデさん、相変わらずかっけえなあ」
「この間の試合も勝ったんだろ? ほんとすげえな」
 近くから話し声が飛んできた。は首を動かす。入社したばかりだろうか。真新しい白シャツを着た男の二人組だ。タンブラーを片手に談話している。
「おれ、ジムチャレンジ辞めて正解だったわ」
「なんで?」
「だってさ、ダンデさん相手じゃ絶対勝てねえし」
「だよなあ」片方が声を濁した。「確かに最強だけど、挑む側として若干萎えるよなあ」
 は再び、オフィス街の景色を眺めた。
「負けた悔しさとか知らないんだろうな」
「公式戦、連戦連勝だしな」
「負けて欲しいとは言わないけどさ。負け続ける身にもなってほしいよなあ、なんて」
「お前、ポケモンバトル向いてねえよ」
「だよな」男が笑った。「自分でもそう思う」
「ダンデさんと同期の先輩がいるんだけど、あの人がいるから夢を諦めたんだってさ」
 まじかよ、と相手の男は毒気を交えた声を零す。
「チャンピオンってどんな気分なんだろう。やっぱり女にモテるもん?」
「そりゃあお前――」
 途端、二人の会話が不規則に途切れた。
 どうしたのかと顔を戻すと、テーブルへ大きな影ができた。気の利いたポケモンが日焼けしないようにパラソルでも掲げてくれたのだろうか。

 天から降ってきた声。地位に似合った高さから注がれる、それに相反する名前。
「見つけた」
 見上げた先にはチャンピオンの笑顔が待っていた。長髪が日光に照らされ、煌いている。
 ふと、視界の隅で何かが動いた。先ほどまで流暢に話していた男たちが、この場からそそくさと立ち去ろうとしている。逃げるような足取りだった。
 は鞄からタブレットを取り出した。素早く文字を打ち込み、液晶画面を提示する。
「みがわり」が呟いた。
 画面に映っているのは、ポケモンがみがわりを使用する際に置いていくぬいぐるみ。自らの体力を削る代わりに攻撃を回避するテクニック技だ。
 ややあってダンデは放つ。「火炎放射」
「みがわり」
「エアスラッシュ」
「みがわり」
「そんなに使ったら体力が無くなるぜ」
「既に色んな意味でゼロに近いです」
「なに」ダンデは回復用のスプレーを出した。ジムリーダー御用達の回復の薬だ。「良かったら使うか?」
「わたしはポケモンじゃありません!」は思わず立ち上がってしまった。
「なんだ、元気じゃないか!」
 ダンデは笑いながら道具をしまった。は渋面が滲み出るのを必死に抑え込む。
 どうしてこの男は、いつもいつも――。
 は観念を込めた息を吐き、ダンデと向かい合う。
「わたしに何か御用でしょうか」
「御用?」ダンデは首を傾げた。
 違う。首を傾げたいのはこっちのほうだ。
「わたしに何か御用があったから、会いに来たのではないのですか?」
 ああ、と彼は合点した様子で言った。「がここにいると聞いたから、会いに来たんだ」
 彼のこういった言動には一生慣れる気がしない。正直、いまは一憂する気にもなれない。昨夜から少しだけ嫌な眩暈がする。指先も冷たい。後者は厄介な男が目の前にやって来た緊張によるものだと払い除ける。
「理由は分かりました」は腕時計を見る。「しかし、ミーティングは一時間後です。随分と到着が早いように思われますが」どんな風の吹き回しだ、という言葉は呑んだ。
「今日は収録が終わったら、すぐに次の仕事へ向かわなくちゃならない。その前にイワンコについて話を聞いておこうと思ったんだ」
 ああ、とは不覚にも合点する。彼にしては真っ当な理由だな、とも思った。
「そういうことなら」は座っていた椅子を引いた。「こちらへお掛けください」
「きみが座っていた椅子にオレが……?」
「勘違いしないでください」は抑揚をつけて言った。「立場上は、という意味です」
 ダンデは腑に落ちない様子だったが、の言うとおりに腰を下ろした。
 一度は厄介な視線を回避するため、この場を離れようと考えた。だが冷静に思い返せば、彼が自分に声を掛けるのはごく普通のことだ。収録内容も局内では周知のはず。こうして向かい合っていれば、ただのミーティングにしか見えないだろう。
 は再度、時刻を確認してから口を開いた。
「申し訳ありませんが、今日はイワンコを連れてきていないんです」
「そうなのか」残念だな、と彼は言う。
「安心してください。ただトリミングへ連れて行っただけですから。昨日なんてエリキテルと部屋中を駆け回っていたんですよ」
「二人とも仲良くなれたんだな」
「はい。随分と賑やかになりました」でも、とは首を捻る。「どうしてイワンコがワイルドエリアにいたんでしょう。書籍図鑑で調べてみても、発見された例はありませんでした」
 ガラル地方でイワンコが繁殖していると判れば、生態系に新たな一ページが生まれる。この場合、発見者はどちらになるのだろうか。この際誰でも構わないが、はイワンコが海を渡ってきた経緯を解き明かしたかった。
 ガラルからアローラへの直行便は出ていない。カントーを経由するにしても、イワンコが空を乗り継いできたとは考えにくい。
 他に考えられるとすれば、迷子だ。ジムチャレンジ前になると、海外から多くの観光客が集まる傾向にある。熱狂的なファンであれば、観戦のためだけにアパルトメントを借りる者も多い。彼らから逃げてきた、あるいは逸れた可能性も考えた。しかしモンスターボールはイワンコを拒むことなく、綺麗に体を収めた。他人のポケモンであれば、まず入らないだろう。
「もしかすると……」
 が黙考していると、ダンデが口を開いた。彼ならば何か判るのだろうか。
「いや、そんなはずはないか」
「何か分かるんですか?」
「いいや」ダンデは考える素振りを解いた。「現状では分からないことが多い。だが、オレはこうも思うんだ。イワンコがに惹かれてやって来た、と」
「素敵な感情論ですね」決して皮肉ではない。
「ポケモンは未知な部分も多い。だからこそオレたちは彼らを知りたいと思える。だろう?」
 まあ、とは頷いた。「イワンコがボールに入ったときは正直驚きましたけど、今となっては野生へ返すことなんてできません。もう大切な家族ですから」
「念のため、知り合いの研究員にイワンコのことは報告しておいた。何か判るかもしれない」
 研究員の知り合いか。チャンピオンにもなるとさすがに顔が広い。試合やメディア関連以外にも、ポケモンの生態について考慮しているのだろうか。
「あのう」
 いつの間に立っていたのか。テーブルの傍には麗人たちが佇んでいた。営業部の者だろうか。ラジオ局内のスタッフにしては、やけにめかし込んでいる。身に付けているワンピースもキルクスタウンのみで販売している人気商品だ。も以前、同じものを色違いで購入した覚えがある。
 訊かずとも分かる。ダンデのファンだ。それもただの支持者というわけでもない。
「ダンデさん。サイン、いただいてもいいですか?」
「勿論」彼は朗笑した。
「わあ、ありがとうございます」
 目の前でやり取りが行われる。は完全に空気と化し、膝に置いたままのスマホを眺める。ミーティングが始まるまで残りわずかだ。
 王者の立場――何処か引っ掛かる。不意に先ほど聞き耳を立てていた話が脳裏を過ぎった。
 ダンデは世間からと尊敬と憧憬の眼差しだけを浴びていると思っていた。ガラル中の人間から愛され、慕われ。そして華やかな道を突き進む絶対王者。
 だが、それは節穴に過ぎなかった。
 光があれば闇もある。ダンデの偉大な功績に盾突く者もいれば、彼らのように妬む者も存在する。光が輝けば輝くほど、影は濃くなっていく。自らの感情を自由に吐き出せるツールが普及するこの時代。バッシングの声は否が応でも本人に届くはずだ。
 チャンピオンは自らに注がれる激情や直情をどのように捉えているのだろうか――。
 はダンデを一瞥する。彼は未だ目の前の支持者たちと言葉を交わしている。例えどんな相手であっても、彼は王の姿勢を崩すことは決してない。
 多くのスポンサーを背負う重圧のマント。
 誰もが憧れるナンバー『1』の数字。
 決して外すことのない王者の帽子。
 目の前にいる男は無敵のダンデ。頂点に君臨するだけでなく、ガラル地方の全てを担う者。
 改めて思う。何故、こんな偉大な男が同じ目線で自分の前に座っているのだろうか。
?」
 ぼうっと眺めていると、黄金色と目が合った。気付けば一連の対応を終えていた。彼にサインを強請った女性たちが喜悦の色を散らして屋内へ消えていく。
「どうかしたのか」
「い、いえ……」
 そんな真っ直ぐな目で見つめないで欲しい。は思わず視線を斜め下へ移した。
 表出すらしないものの、胸中でダンデへの悪態を吐いているのは、紛れもない事実。言葉は違えども、先ほどの陰口には微かな同調性を覚えた。
 わたしは同じだ。彼らが抱えている暗愚な心と。
「もしかして、オレを見ていたのか?」
「残念ですが、違います」
「嘘だ」ダンデは身を乗り出した。「オレはきみの視線を感じた。だから目が合ったんだ」
「チャンピオン」は抑揚をつけて言った。「ここではお静かに願います」
 膝の上で拳を握る。昼間の太陽が徐々に傾き、をさらに影で包み込む。反しダンデは日の光で輝き、眩しさを帯びていく。
 オレは、とダンデが言った。「オレはと会ったときから、思っていたことがある」
 何が、とダンデをそっと見つめる。
「きみの瞳は綺麗だ」
 いいや、それは違う。
「だから目が離せない」
 あなたが見た光は、わたしの瞳に映った自分自身だ。甘い台詞で嘘を囁かれても嬉しくない。
 は再び、不吉な眩暈に襲われる。ワイルドエリアでの一件を終えてから、どこか変だ。家を出る前に体温は測った。熱はなかった。喉も通常通り、調子が良い。
 解かっている。原因は解明済みだ。ただ完治までには、残り二回の山を越えねばならない。
「お褒めの言葉、感謝します」
「本当に伝わったのか?」
「分かっています。チャンピオンが常に嘘偽りなく、何事にも真っ直ぐなことは」
 は鞄を持ち、立ち上がった。
「チャンピオン、そろそろお時間です」は遠くでダンデを見守るマクロコスモス社のスタッフを一瞥する。「あちらの方々はよろしいんですか?」
「ああ」ダンデも起立する。「が案内してくれるほうがオレも嬉しいからな」
「分かりました。それではご案内いたします」
 あと少しだ。全てが終われば、何もかもが片付く。炎の渦の如く襲い掛かる邪念から解放される。
 は背後のダンデに気付かれないように額を手のひらで押さえ、食堂を出た。


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