アーマーガアタクシーから降りると、穏やかな風がの耳元を掠めていった。太陽の光に照らされて揺れる木々。生い茂る青々とした草。野生のポケモンたち。目の前に飛び込んできた広大な世界に、思わず息を呑む。
自分たちを運んでくれたアーマーガアと運転手に感謝と別れを告げ、はモンスターボールからエリキテルを繰り出した。彼は声を上げて姿を見せる。
「ワイルドエリアは初めてか?」ダンデが訊いた。
「以前、仕事の一環として来たことはあります。その際は天候調査のためだったので、今回の目的とは異なりますが」
「今日はとことんポケモンを見ていこうぜ!」
「もちろん」は頷いた。「そのつもりです」
はその場で片膝をつく。目先に広がるワイルドエリアに驚き戸惑っているのか。はたまた期待に胸を膨らませているのか。尻尾をこれでもかと振っているエリキテルを見て、思わず笑みがこぼれる。
正直なところ、ストレスに弱いエリキテルを慣れない環境へ連れ出すのには不安があった。何よりバトル経験が皆無に等しい彼を、野生のポケモンと対峙させてもいいのか。エリキテルの面倒をみる身としては、未だ拭いきれない感情がある。
しかし、どうやら高揚しているのは彼も同じようだ。新しい仲間に出会える興奮が如実に出ている。
ただ、ひとつだけ危惧していることがある。は注意深く辺りを見渡した。その動きが不審に思われたのか。ダンデから「どうかしたのか」と問われる。
「他のトレーナーさんと遭遇しないか心配で……」
「何か問題でもあるのか?」
大問題だ、とは胸中で苦言を呈す。
「チャンピオンがワイルドエリアにいると知られたら、人が集まってくるかもしれませんよ」
「大丈夫だ」ダンデは頷いた。「ここは広いし、余程のことがなければ人に会うことはない」
だから、と言ってダンデはを見た。
「は気にせず、オレの傍にいてくれ」
ダンデの台詞には困却寸前に陥る。この男は言葉の解釈というものを知らないのか。
先日の収録時のことを思い出す。マイク装着に手間取っていたADに対する言動の数々。正に厚意と好意の勘違いが生まれる瞬間だった。あの出来事を踏まえれば、いまの台詞に他意は含まれていないと考えていい。単にの身を案ずるため、目の届く範囲内にいてほしいという要求が込められていただけだ。
彼は解っていない。そういう軽はずみな発言で周囲に誤解の種を植え付けていることを。
「お気遣い感謝します。よろしくお願いします」
「まずはストーンズ原野から行こう」
「分かりました」
はタブレットを取り出す。ワイルドエリアの区画については調査済みだ。
現在地はナックル丘陵。ストーンズ原野はここから真南に位置している。ネットに掲載されている写真には、名の通りの巨大な岩があちこちにそびえ立っている。巨人の鏡池、もしくは巨人の帽子から迂回したほうが良さそうだ。
時刻は午後一時を過ぎている。日没までにはひとつでも良い成果を残しておきたい。
「それではチャンピオン。はぐれないように――」
気を付けましょう、という言葉は遠くへと駆け出した彼の背中と共に消えた。
待て待て、そっちは西だ。
溜め息をもらした。彼のお陰でガラル地方での二酸化炭素増加は止まらないだろう。タブレットを脇に抱え、突っ走る赤いマントを追いかける。
「チャンピオン、お待ちください!」
呼び声に対し、チャンピオンはぴたりと止まる。やがて振り返り、首を傾げた。
「そちらは逆鱗の湖です。これから向かうストーンズ原野ではありませんっ」
は手のひらをメガホン代わりにして叫んだ。相手と距離が離れているため、自然と声が大きくなる。
やがてダンデがとんぼ返りの如く戻ってくる。
「すまん。また道を間違えた」
「揚げ足を取るようですが、ここは舗装が行き届いていないので道という道はありません」
「だからか!」
「だからか?」何に合点したのか分からず、思わず疑問符を作る。「お節介でなければ、タブレットを見ながら向かいましょう。我々の現在地も判りますし、何より安全です」
その提案にチャンピオンも同意する。
昨夜、改めて区画エリアを調べておいて本当に良かった。は隠れて自身を賞賛する。
気を取り直し、ワイルドエリアの冒険を始める。目的地までの道のりをある程度まで覚えたは、タブレットから世界へ視線を移す。
辺りを縦横無尽に飛び回る飛行タイプ。草むらで餌を探している虫タイプ。湖では絶滅危惧種のラプラスが群れを作って優雅に泳いでいる。それぞれが生態に似合った場所で暮らし、自然にとけこんでいる。素晴らしい光景だった。
移動中の車内で、敵意を向けなければ襲い掛かってくることはない、と言われたチャンピオンのアドバイスを思い出し、なるべく目を合わせないようにしていた。
しかし、否が応でも眺めてしまう。見るなというほうが酷な話だ。
「わあっ」は歓喜の色を漏らす。「ギギギアル」
遠方で佇むのは歯車ポケモンのギギギアル。複数の歯車を回転させ、縄張りを浮遊している。
「見て、エリキテル」は指差した。「傍にニダンギルもいる。向こうにはゲンガーも。野生のゲンガーなんて珍しい。あ、いま舌が伸びた。すごいすごいっ」
興奮が収まらず、思わずシャッターを切る。ポケモンを刺激しないように静かに、沢山。
ふと、エリキテルが駆け出した。すぐに引き返してきたと思えば、何かを咥えている。手に取ってみるとひし形の小さな欠片だった。
「これって星の欠片?」
話で聞いたことがある。一部のマニアで人気を集めているコレクションの一種だ。
「すごいね、エリキテル」は彼の頭を撫でた。「こんな素敵なものを見つけられるなんて」
エリキテルは満足げに笑みを浮かべる。
ここでは、はっとする。嬉しさのあまり、子供のようにはしゃいでしまった。
同時に一人の視線が気になり、ゆっくりと首を動かす。待っていたのはチャンピオンの満面な笑顔。まるで子を見守る親のような眼差しだ。は自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。
「な、何ですか」が視線を横へ逸らしながら言う。「そんな顔で見ないでください」
「楽しそうで何よりだと思ってな」
「こんなにたくさんのポケモンに囲まれる環境は初めてなもので、その、つい……」
いいじゃないか、とダンデが歩み寄ってくる。「オレもに喜んでもらえて嬉しいぜ。今日は普段の息抜きも兼ねて、めいっぱい楽しめばいいさ」
リフレッシュを求む原因が、まさか自分にあるとは微塵にも思っていないのだろう。だが彼の言うとおり、気を緩めていたのは確かだ。
「あの頃のみんなは、こんな気持ちだったんですね」
「何か言ったか?」
「いいえ」はかぶりを振った。「足止めさせてすみません。目的地へ向かいましょう」
巨人の帽子を抜け、一時間半ほど歩いたところでストーンズ原野へ到着した。写真で見た通り、巨大な岩が点々とそびえ立っている。見上げても先が見えないほどの高さだ。
ここに自分たちを待つ新しい仲間がいる――の心臓が小刻みに跳ねる。
「」ダンデが言った。「ここにはアマカジとジグザグマが棲んでいるはずだ。いまは天候が晴れだから、草むらを探していれば飛び出してくると思うぜ。特にジグザグマはすばしっこいからな。見つけたら全力で追いかけるんだ」
「分かりました。やってみます」
「応援してるからな」
はエリキテルと見合って頷き、草むらへ一歩踏み出した。あくまでチャンピオンは傍で見守っているだけのようだ。力添えをしてもらっているのは自分だが、正直、気が楽だ。常に彼から縛られていると、素直な感情が沸いてこない。
草むらに入って間もなく、とエリキテルの前で何かがうごめいた。は咄嗟に構え、エリキテルも対峙の体勢に入る。
次の瞬間、ジグザグマが飛び掛ってきた。白黒の毛を靡かせながら目の前を通り過ぎていく。ダンデの言葉通り、相手は想像以上に素早い。あっという間に陰へ隠れてしまった。
見失ってしまった、と思った矢先、再び眼下にジグザグマが現れる。は指示を送ろうとしたが、上手く立ち回れず先制攻撃を仕掛けられる。
エリキテルは電光石火を食らった。受け身が取れずに黄色い体は遠くへ吹っ飛んでしまう。
どくんっとのなかで不安の鐘が鳴った。
どうしよう、どうしよう――あぐね考えている間にジグザグマは踵を返してしまった。弱い相手だと見限られてしまったのだろうか。
「エリキテルっ」はエリキテルに駆け寄り、小さな体を抱えた。「大丈夫? 痛くない?」
エリキテルは平気そうに答えた。
「ごめんね。次はちゃんと指示を送るから」
は回復スプレーを吹きかける。エリキテルの傷は癒え、元気そうに頭の襞を広げた。
背後からダンデが歩み寄ってくる。彼の足音はにとってある意味、恐怖の対象だった。
情けない姿を晒してしまった。まともに指示も出せず、ポケモンを逃がしてしまった。一体どんな苦言を呈されるのか、頬に嫌な汗が流れる。
背中に突き刺さる視線を浴びながら、は振り返った。ダンデは笑ってもいなければ、軽蔑の眼差しを向けることもなく、ただ無表情だった。それがより一層を不安にさせる。
「」
「はい」
「怪我はないか?」
意外な第一声には拍子抜けする。ややあってから「ないです」と弱々しい語気で答える。
「そうか。ならよかった」
「みっともない姿を見せてしまいました」
「そんなことないぜ。きみは逃げなかった。バトルに向き合えただけでも十分すごいぜ」
「ありがとう、ございます」
褒められるとも思わず、は動揺する。
「エリキテルもまだ戦えそうか?」
エリキテルは肯定のごとく頷いた。ダンデは彼の反応に、そうか、と笑顔を浮かべる。
その時だ。次なる好機が草むらから現れる。黒い陰の正体は先ほど同様、ジグザグマ。特徴的な長い舌を垂らしながらたちを凝視している。
愛らしい見た目といえ、野生のポケモンは侮れない。少しでも指示が遅れてしまえば、またエリキテルに怪我を負わせてしまう。
思わず後ずさると、後ろから肩に手を置かれた。腕を辿っていくと、ダンデと目が合った。
「大丈夫だ、」
は瞬きをせず、ダンデを見つめる。
「きみならやれる」
どこからそんな根拠が出てくるのか。しかしこの男の場合は自分自身が根拠なのだろう。
さあ行け、とばかりに背中を押された。はエリキテルの隣に立ち、相手の位置を定める。ジグザグマも感化されたのか、前足を踏み出した。
二度も同じ失態は犯さない。は好機を逃がすまいと、すかさずエリキテルに指示を送る。
「エリキテル、電光石火!」
エリキテルが標的に向かって突っ走る。見事、ジグザグマに命中する。
喜ぶ暇もなく、相手も臨戦態勢に入った。ジグザグマの砂掛けが舞い上がる。
「エリキテル、地面に潜ってかわしてっ」
エリキテルは素早く土を掘り、砂埃を回避する。
目の前から姿を消えたエリキテルにジグザグマは動揺している様子だ。どこへ消えたのか、と潜った穴を覗き込んだ瞬間――はそこに狙いを定めた。
「いまよ、十万ボルト!」
じっと身を潜めていたエリキテルが現れ、高く飛び上がって電撃をお見舞いする。十万ボルトはジグザグマに直撃し、その場に倒れ込んだ。
「!」遠くからチャンピオンの声が飛んでくる。「いまだ。モンスターボールを!」
は彼に頷きかけた。モンスターボールを取り出し、ジグザグマに向かって投げる。だがボールが当たる直前、ジグザグマはむくりと起き上がった。そのまま器用にボールを避け、茂みの奥へ駆け出してから姿を見せることはなかった。
その場にモンスターボールだけが残り、は胸に溜まった息を吐き出した。無意識に抑えていた胸から手を離し、脱力する。どうやらゲット失敗のようだ。
「ごめんね、エリキテル。わたしがもう少し早くボールを投げておけば良かった」
気にするな、というように彼は鳴いた。
「」ダンデが草を掻き分けてやって来る。「怪我はないか。エリキテルも」
「はい。大丈夫です」
エリキテルも小さな手を挙げて応えた。
「なかなか良いバトルだったぜ」
「でも、また逃げられてしまいました」
「最初から全ては上手くいかないものさ。今は自分たちが出来たことを賞賛しよう」
とエリキテルは自然と見つめ合い、互いの健闘を祝してハイタッチを交わした。
「確認のために聞くが、実戦は今回が初めてか?」
「はい」は頷いた。「見様見真似でやりました」
「見様見真似?」
「以前、局内の休憩所でポケモンバトルの中継が流れていたんです。どなたのバトルかどうかは判らなかったのですが、放たれた火炎放射を避けるために、すかさず地面へ潜って回避する――その画が妙に焼き付いていて。先ほどの状況と類似していたので、実践してみました」
「そう、か」
「何か、おかしかったでしょうか?」
突然考える素振りをとり始めたダンデに、は不安に駆られる。確かに王者と比べて、いまのポケモンバトルは物足りなさがあったかもしれない。しかし、手応えはあった。ゲットは叶わなかったものの、今までにない興奮を覚えたのは確かだ。
チャンピオンの答えを待っている時だった。何処からともなく、甘い香りが漂ってきた。エリキテルも釣られるように歩き出し、は慌てて後を追う。
「チャンピオン、行きましょう」
「ああ」
先ほどの真意はまた後ほど問いただそう。はチャンピオンを連れて匂いを辿った。
匂いの在り処は他でもない、とエリキテルが探していたアマカジだった。木の実が成っている木の下で気持ち良さそうに日向ぼっこをしている。端から見ても写真に収めたくなるほど愛らしい光景だ。
はモンスターボールを取り出した。だが、ダンデの手によって制される。
「どうしたんですか?」思わず小声で訊いた。
「、あれを見ろ」
ダンデも同様、控えめな声で目配せをする。
視線の先を辿ると、数匹のアマカジが群れになって集まっていた。中には進化系のアママイコやアマージョも混ざっている。どうやら仲間連れのようだ。日向ぼっこをしていたアマカジは目を覚まし、小さな房を揺らして皆の元へ駆け寄っていく。
これではゲットは出来ない。は何も言わずにモンスターボールをしまった。
「どうする?」ダンデが訊いた。
「諦めます」は即答した。「次に期待しましょう」
「それじゃあ、次は砂塵の窪地だな」
「ここから近いですね」はタブレットの画面を確認しながら言った。
近いと言えども、ワイルドエリアは広く大きい。時間は少々掛かるだろう。はエリキテルを一度モンスターボールへしまった。少し休ませてあげなくては。
続いて探すのはガーディ。天候が良ければ姿を拝めるそうだが、果たしてどうだろうか。次のポケモンに会える楽しみを胸に秘め、足場の悪い自然道を進む。
「、疲れてないか」ダンデが言った。
「平気です」は額に浮かぶ汗を拭う。「こう見えても体力には自信があるんです」
「そうなのか」
「ラジオ局で働くからには、体調管理を第一に考えねばなりません。朝は毎日早いですし、曜日によって出社時間も異なります。喉も常に労わらないといけません。パーソナリティーの立場としても収録に空きを作るわけにはいかないんです」
「きみは仕事熱心だな」
「チャンピオンも」が呟く。「毎日大変ではありませんか。ラジオを含め、色んなメディアに出ずっぱりのなか、ポケモンやバトルにも気を配り続けて」
「好きでやっていることだ」ダンデは前を見据えながら即答した。「苦痛を覚えたことはない」
「そうですか――あっ」
答えを聞いた後、は後悔の息を吐いた。
「どうした?」
「あ、いえ。こういう素朴な質問は収録までとっておくべきだったな、と。せっかくリスナーの方々からいただいたメッセージに似たようなものがあったのに……」申し訳ないことをしました、とは付け足す。
ダンデは一笑した。「はこんなときでも仕事のことで頭がいっぱいなんだな」
「好きでやっていることですから」誰かと同じことを言ってしまったな、と思う。「こうして自然を歩いているなかでも、仕事に使える要素がたくさん見えてきます。知識を蓄え、自分の力にしていかなくては」
閑談を続けていると、目の前に大きな窪地が見えてきた。砂塵の窪地だ。立っている場所からもかなりの高低差がある。高所恐怖症なわけではないが、未開の地には戸惑いを覚える。
「オレが先に降りよう」
チャンピオンは躊躇なく飛び下りた。柔らかそうな砂が彼を受け止め、綺麗な着地を支える。
も彼に続こうとする。しかし、目線の下で両腕を広げて待っている男が気になった。
「な、なんですか。そのポーズは」
「受け止めてやろうと思って」
は手で制した。「ありがとうございます。お気持ちだけ受け取っておきます」
「いま、受け止めて欲しいと言ったのか?」
あの男、どれだけ都合の良い耳をしているのだろう。
は崖縁に腰を落とし、重力に身を委ねた。無論、チャンピオンの支えは不要だった。
ダンデは広げている腕をようやくしまった。「きみは一人で何でも出来てしまうんだな」
「お褒めに与り光栄です」
服についた砂埃を払い、荒野を見渡す。先ほどとは打って変わり、屈強なポケモンたちが生息している区域だ。自然との身も引き締まる。
ガーディは何処にいるのだろう。きょろきょろと首を左右に動かすが、赤い縞模様は見当たらない。チャンピオンも周囲を探してくれているが、芳しい返事はない。
「手分けして探そう」
ダンデはリザードンを繰り出し、の傍へ促す。
「彼女といっしょにいてくれ。何かあれば頼む」
ダンデの指示にリザードンは頷く。そのままダンデは背中を向けて逆方向へ歩き出す。
「待ってください」
そんな彼を引き留めたのは他でもないだ。彼女の声にダンデはすぐさま振り返る。
「どうした?」
「いえ、あの……」は目を泳がせる。「お言葉ですが、リザードンを託されるのは少々荷が重いです。もしも野生のポケモンが飛び出してきたら、まともに指示できる自信がありません」
ですから、とはダンデを見つめる。
「二人で一緒に探しませんか」
の提案にダンデは一瞬目を見開いた。一考する素振りをとってから口を開く。
「オレと一緒にいたいってことか?」
「違います」は即答した。「わたしの不注意でリザードンに怪我を負わせたくないんです」
「なるほど。そういうことか」ダンデはそことなく残念そうに呟いた。「それなら心配無用だ。オレのリザードンは強い。どんな相手でも負けないぜ」
そういうことじゃない、という反論がは喉元まで出ていた。だが、虚しくもダンデは既に走り出しており、あっという間に砂塵の彼方へ消えてしまった。
どこまでも自由勝手な男だ。辟易したはリザードンを一瞥する。彼はこちらの心境を察しているのか、ばつの悪そうな表情で頬を掻いている。様子を見るに、どうやら日常茶飯事のようだ。一日のみならず、四六時中ダンデと行動を共にするリザードンには同情の念を抱かざるを得ない。
「リザードン、お願いできるかな」
リザードンは低く鳴いた。まるで「まかせろ」と答えてくれたようにには聞こえた。
頼もしい炎に連れ添ってもらい、まだ見ていない方角を探す。先ほどまで晴れていた天気も徐々に砂嵐へと変わっていき、本格的にワイルドエリアの厳しさを体感し始める。うっかりしていると砂が鼻に入ってしまいそうだ。喉は何がなんでも死守しなければ。
そんな思いを察してくれたのか。リザードンは大きな翼で砂埃から守ってくれた。
「ありがとう。リザードン」
優しくも温かい声でリザードンは応える。どこまでも頼りになる存在だ。
ふと、主人のことが頭に浮かんだ。ダンデは一人で大丈夫だろうか。引き留める前に走り出したため、落ち合う機会や場所を伝え損ねてしまった。こんな視界の悪い場所で迷子になっても探し出せる自信は到底ない。彼ならサイドンが襲い掛かってきても受け止めそうだが、立場的にも大きな怪我は負わないでもらいたい。
オレの傍から離れるな――言った本人が離れては意味がないだろう。の黙考は続く。
「この辺りにもいないか……」
同調の如くリザードンが唸る。
更に足を進めようとした時だった。突然、砂地が大きく左右に揺れた。に限らず、リザードンまでふらつくということは、相当巨大なポケモンが近くにいるということだ。地響きと共に何かを破壊する音も聞こえる。
は唇を舐め、周囲を警戒する。重い足音が着実にこちらへ向かってきている。
リザードンがの前へ出た。人間の目には見えない何かを捉えたようだ。
やがて目の前に凶悪ポケモンのバンギラスが現れた。写真や文献で見たことはあっても、本物を間近にしたことはない。あまり大きさに思わず足が竦む。
こんな大きなポケモン、どう対処すれば――こちらが怯んでいる間にバンギラスの咆哮が響き渡り、ストーンエッジで襲い掛かってきた。
「避けて、リザードン!」
当たってしまえば効果は抜群だ。は決死の思いでリザードンに指示を出す。こちらに応えたのか定かではないが、彼は素早い動きで攻撃を避けていた。
も間一髪のところで避け、傍にリザードンが戻ってくるのを待つ。
視界は激しい砂嵐。この気象を引き起こしているのは、恐らくバンギラスの特性だろう。
戻るために目印にしていた足跡は、先ほどの衝撃で無くなってしまった。逃げるにしても、どこまでリザードンを庇いきれるかどうか判らない。
はごくり、と唾を呑んだ。この状況でとるべき行動はもうひとつしかない。
「リザードン」
我ながら震え声だなと思う。だがリザードンは鼻で笑うこともなく、前に立ってくれた。
リザードンは果たしてどんな技を覚えていただろう。は高まる緊張を抑えながら、ダンデが最後に出た試合を思い出していた。
バンギラスは再びストーンエッジを繰り出した。先ほどに比べて出が素早い。
の脳内で映像がフラッシュバックする。
「リザードン、エアスラッシュ!」
効果はいまひとつだが、彼の強さならストーンエッジをも壊すことが出来るはずだ。
リザードンは大きな翼で風の刃を作り出し、岩石に向かって放った。寸前まで迫っていた攻撃は粉微塵になって消え、バンギラスによる攻撃の勢いがおさまる。
やはり間違いない。リザードンはこちらの指示に耳を傾けてくれている。他人のポケモンは経験値の低いトレーナーであればあるほど従わなくなると聞いていたが、違うのだろうか。
だが、例え従えるポケモンが強くとも、バトルに疎いは完全に未熟者だ。畳み掛けるように強力な技を連発してくるバンギラスに反応が追いつかない。次々と繰り出される攻撃を避けることで精いっぱいだ。
火炎放射。ソーラービーム。いや、後者は発射までに時間がかかる。とても指示が出せない。このままではリザードンに致命傷を負わせてしまう。それだけは絶対に許されない。
考えあぐねていると、バンギラスが大口の奥で光線を溜め込んでいる光景が視界に入った。
瞬きをした瞬間、は目の前が真っ白になった。
「リザードン、火炎放射だ!」
途端、耳に届いたのは聞き慣れた声。拙い指示の何百倍も自信に満ち溢れた熱い声。皮膚に熱気を感じ、リザードンが火炎放射を放ったことが判る。
はその場に尻もちをついていた。無意識に両腕で顔を覆い隠していたらしい。
視界をそっと開放すれば、ひし形模様が飛び込んでくる。見覚えがある。チャンピオンマントの裏地だ。
「」
名を呼ばれ、ゆっくりと頭を上げる。真上にはダンデの顔があった。バンギラスと対峙するリザードンに背を向けたままその場で片膝を付き、左腕で赤いマントを広げている。まるでの体を覆うように。
「怪我はないか」
「は、はい」
「離れてすまなかった」
ダンデは立ち上がり、リザードンに歩み寄る。先ほどの火炎放射で勝負はついたようだ。バンギラスが起こした砂嵐も止み、一帯の景色が開けた。
ダンデはリザードンの体を撫でている。目立った外傷はないようだが、回復用のスプレーを吹き掛けている。彼の労わりにリザードンは喉を鳴らした。
あっという間の出来事には半ば放心状態だ。
「」
ダンデがへ手を差し伸べる。はややあってから彼の手を取った。勢いよく引っ張り上げられ、そのまま肩口へ引き寄せられる。
突然の行為には困惑を露わにする。
「」
再び名を呼ばれ、は思わず肩を震わせた。
「あ、あの」
「怪我はないか」
低い声で囁かれる。しかし、どこか温かい。
「先ほども、同じことを訊いていました」
「確認だ」
ありません、とは言った。「チャンピオンとリザードンのお陰で助かりました」
「そうか」彼の息が耳に掛かる。「よかった」
相手の表情は見えない。けれど、最後の言葉は微かに震えているようだった。
彼らしくない。先ほどはあれだけ大きく、逞しい声を上げていたというのに。
混乱に苛まれていると、ダンデから勢いよく体を引き剥がされた。お陰で肩が痛い。
「すまない」
「い、いえ」
「本当にすまなかった」
「もう大丈夫です。謝らないでください」
何度も繰り返される謝罪には戸惑う。彼が詫びる必要はどこにもないはずなのに。
「ポケモンを探そう」ダンデは帽子のつばを下ろした。「直に暗くなる」
ダンデはリザードンを連れて歩き出した。は彼の後ろを少し離れて着いていく。
胸に伝わる心臓の音がうるさい。それが自分によるものなのか。それとも彼によるものだったのか。互いの体が離れたいまでは知る術はない。