ドリーム小説 07

 は一瞬、面食らったが、すぐに思考を目の前の男に切り替える。突拍子のない言動は今に始まったことではない。チャンピオンと顔を会わせてから日はまだ浅いが、短期間で何度も経験してきたことだ。
「失礼ですが、いま何と仰いましたか」
「ワイルドエリアに行こうと言ったんだ。きみのポケモンをゲットするために」
「わたしにはもうエリキテルがいます」鞄の中で眠っているモンスターボールを一瞥する。
 ダンデは納得できないのか。腑に落ちない様子で腕を組み、それをすぐに解いた。
はポケモンが好きなんだろ?」
「もちろん大好きです」
 愚問だ、と思う。寧ろ、この期に及んでポケモンのいない生活なんて考えられない。
「それならなお更行くべきだ。いまは想像がつかないかもしれないが、きみとの出会いを待っているポケモンがいるはずだ。ワイルドエリアに行けばきっと分かる」それに、と更に続ける。「仲間はたくさんいたほうが賑やかで良いぜ」
「仲間、ですか……」
「きみのエリキテルにも訊いてみてくれ」
 ダンデの言葉に引き寄せられたのか、の鞄から一筋の光が走る。モンスターボールから出てきたのは無論、エリキテル。頭を足先で掻いたあと、目の前の男を見上げている。
 ダンデはその場で片膝をつき、エリキテルの喉を指先でくすぐった。エリキテルは気持ち良さそうに襞をぱたぱたと動かしている。
「どうして」が呟いた。「エリキテルの気持ち良いところを知っているんですか」
が教えてくれたんだぜ」
「わたし?」
 ダンデはエリキテルを抱き上げる。そのままの腕へ引き渡し、彼の頭を撫でた。
「今回の収録も含めて、きみとエリキテルは仕事でも常に一緒にいるんだよな」
「はい。この子はパートナーですから」
「収録の合間だったかな。がエリキテルを労わるとき、決まって同じ場所を撫でていた。だから彼の良いポイントはそこなんじゃないかと思ったんだ」
 この男、本当に抜け目がない。何気ない行動にも常に目を光らせている。気難しいポケモンさえも落ち着かせる能力は才能によるものだと考えていた。しかし、もしかするとこういった鋭い観察眼によって、彼の能力は初めて発揮されるのかもしれない。
「よく、見ているんですね」
「オレもと同じで、ポケモンが大好きだからな」
 ダンデは気さくに笑うと、更に一歩近付いてきた。自然との視線は上を向く。
の答えを聞かせてくれないか」
 は口の中で苦味が広がっていくのを感じた。
 この男は正気か。双方の立場と状況を考えれば、誘いを断るなど非礼に値する行為だ。それとも彼は元来、断られることを頭に入れていないのかもしれない。そんな態度がよりを不快という名の海へ沈ませていく。
 は腕のなかの相棒を見つめた。視線に感づいたエリキテルがじっと見上げてくる。彼の大きな瞳に自分の浮かない表情が写り込む。夜空の下でも判るほど、乏しい顔をしている。
 考えるまでもない。答えはノーだ。しかし――。
 少しだけ、とが呟いた。「考えさせてください。今後の予定との兼ね合いもありますので、この場でお答えすることはできません」
 咄嗟に出たのは虚実を混ぜた答えだった。同時にダンデが翻意してくれることを願った。
 ダンデから説き伏される覚悟はしていた。だが彼は気にするなといわんばかりに頷いた。
「分かった。それなら返事を待とう」
「申し訳ありません」は頭を下げた。「次回の収録までにはまとめておきますので」
「来週か……」
 ダンデは考える素振りをとる。発せられた声色から読み取るに、どこか不服そうだ。
「明日では駄目か」
「あ、明日ですか?」
 随分と猶予がないな、とは途端に焦る。
は明日もここへ来るんだよな」
「はい。夕方から生放送がありますので」
「分かった」ダンデは頷いた。「それなら終わる頃にオレがここへ来る。それで構わないか」
 誘いの返事を聞くためだけにそこまでするのか。は慌ててかぶりを振った。
「チャンピオンがわざわざご足労する必要はありません。それならばわたしが……」
「オレがそうしたいんだ。それにここへは今後も来ることになる。リザードンの案内なしでも来られるようにしておきたいからな」
 いまの発言から察するに、どうやら収録初日に放送局までの道に迷い、周囲に迷惑をかけた自覚はあるようだ。そして自ら改善する策をこの場で練り込んでくる。これがポケモンバトルから培った作戦なのか定かではないが、自然と考えられたのならば予想以上の策士だ。
 はダンデからの提案を既に一度断っている。この状況で更に黒星を送る真似はできない。
「承知しました。それではお願いします」
「ああ。任せてくれ」
「ただ、ひとつだけお願いがあります。夕方は局内もスタッフの入れ替わりが激しい時間です。わたしも終わり次第向かいますが、もしもチャンピオンのほうが早めに到着した場合は別室でお待ちください。待合室への案内はこちらで手配しておきますのでご安心ください」
「分かったぜ」
 両者の確認がとれたところでは生放送が終わる時間に加え、早めに到着した場合にどこで待機すべきかをこと細かに伝えた。話をしている間、ダンデにスマホやメモ帳に筆を走らせる行為は見られなかったが、脳内で把握しているのだろうと考えた。いや、祈った。
 ダンデと別れた頃には、終電はとうに発車していた。頼りの帰宅手段を奪われてしまった。
 やむを得ず、は夜間料金が発生するアーマーガアタクシーを利用し、重い足取りで家路を歩いた。自宅に到着し、部屋の明かりをつけてから夜食の準備を始める。エリキテルも腹を空かせているようで、催促するように自らモンスターボールから飛び出してきた。
「今日も遅くなってごめんね」
 木の実が盛られた皿をエリキテルに差し出す。彼は、待ってましたとばかりに頬張り始めた。どうやら食べられれば時間帯は関係ないようだ。
 も椅子に腰掛け、食事を進める。普段ならば片手間に翌日の準備や時事問題の情報集めをしているものだ。しかし今日ばかりはそんな気分にもなれなければ、している暇すらない。
 は口元に運びかけていたカレーを食べる動作を止め、水の入ったグラスを傾けた。
 彼女の脳内を占めているのは、ダンデから勧められたワイルドエリアへの誘いだった。先ほどは適当なやり口で回避したものの、明日には正式な答えを提示せねばならない。
 正直なところ、仕事外でチャンピオンと会うことは極力避けたい。数時間の収録だけで通常以上に気力と体力を絞り取られているのだ。プライベートで彼の相手をするなんて、考えただけで疲労感を覚える。
 行きたくない要素は――他にもある。しかし、いまはそのことを思い出す時ではない。
 運びかけていたカレーを口に含み、足元を見やる。その先には小さな足を揃えて利口に木の実を齧るエリキテル。彼は最後のひと口を終えると空になった皿をキッチンまで運び、部屋の隅で散らかっている玩具で遊び始めた。ポケモンを模したぬいぐるみもあり、時々彼らに向かって何やら会話を交わす様子も見てとれた。
 ――きみのエレキテルにも訊いてみてくれ。
 わたしは自分よがりだな、とは思った。彼に説かれ他言葉を考えれば、あの場で踏みとどまるのはトレーナーとして適切な行動ではなかった。だからこそ彼も簡単に引かなかったのだろう。皆の手本となる立場ならば当然の行為だった。
 スプーンで皿底に線を描きながらカレーを口内へかき込む。後始末を済ませると、は一人遊びを続けるエリキテルの傍へと座った。
 彼は不思議そうな面持ちでこちらを見上げてきた。その目はあまりに純粋だった。
「エリキテル、あなたはどうしたい?」
 は黒い頭を撫でながら問うた。
「新しいお友達、ほしい?」
 ポケモンを捕まえることは何も人間に限った問題ではない。エリキテルにも関わることだ。もしも彼が仲間を欲しているのであれば、その思いに応えるのがトレーナーの役目。個人の事情で片付けてはならない。
 お友達、という単語に反応したのか。エリキテルは目を瞬かせ、やがてゆっくりと頷いた。
「そっか。会いたいんだね」

 翌日の夕方。は予定通りに夕方の収録を終え、エリキテルを連れたまま別フロアに位置する待合室へ向かっていた。
 数分前、受付係から連絡が入っていた。どうやらダンデは既に到着しているようだ。
 エレベーターへ乗り込み、階数ボタンを押す。静かな空間に背を預け、何となく外の景色を眺めてみる。広場の街灯はほのかに灯り、間もなく夕闇に染まろうとしている空ではアーマーガアタクシーが数台飛んでいる。なんでもない日常。いつも眺めている景色だ。
 それでも普段と心持ちが違う。仕事の疲労は感じられないものの、この後に会う人物を考えるだけで胃がきりきりと痛み出しそうになる。 
 そんなことを考えている間にエレベーターの扉が開いた。長い廊下を歩き、待合室の前で立ち止まる。軽く深呼吸をしてから扉をノックした。
 部屋の中には誰もいなかった。テーブルにはダンデのために用意したものだろうか。客人用のカップが一つ置かれている。だが手をつけた形跡はない。
 手洗いへ行っているのだろうか。それとも一時的に席を外しているのだろうか。
 確認のために踵を返した時だった。視界に剣と盾の派手なマークが飛び込んできた。正体を視認する前に頭上から「」と声が降ってくる。
「よかった。ここにいたんだな」
 それはこっちの台詞だ。
「こんにちは」は頭を下げた。「お待たせして申し訳ございません」
「部屋で待つように言われたんだが、オレが迎えに行ったほうがいいと思ったんだ」
「な……なぜですか?」
「少しでも早くきみに会いたくて」
 悪びれる様子のないダンデに対し、は口を開けかけた。なぜ黙って待つことができなかったのか。そう告げようとしたが、苦言はため息へと変わった。
「お気遣いありがとうございます。ですが今後は待合室でお待ちください。チャンピオンほどの人物が一人で局内を歩かれてはいけません」
「そうなのか。分かったぜ」
 本当に理解したのだろうか。だがこれ以上相手にしていれば時間が溶けてしまう。はダンデを客人用ソファーに促し、自分は手前の椅子へ腰掛けた。エリキテルも傍へひょいっと座る。
「さっきまでの放送を聴いていたんだ」
「そうなんですか」
「ああ」
 局内では生放送の番組を聴衆できる部屋がある。待合室がその一つだ。
「ありがとうございます」
「オレと収録しているときと比べて、雰囲気が少し違うように感じたな」
「夕方は仕事終わりの方々だけでなく、塾帰りなどの子供にも人気なんです。自分でも明るいトークを意識しているので、そう仰っていただけると嬉しいです」
「なるほど。そういうことだったのか」
 それでは、とは続ける。
「早速ですが、昨日の件について……」
「ああ」ダンデは笑みを浮かべ、前のめりになる。「たちの返事を聞かせてくれ」
 は傍に座るエリキテルを一見する。相手も視線に気づき、目を丸くさせた。
 昨夜に熟考したことを想起する。エリキテルの意思確認から始まり、トレーナーとして経験も知識も浅い自分が二匹以上のポケモンを管理できるのか。現在の経済力で豊かな生活を送ることができるのか。ただポケモンを捕まえたい、といった願望だけでなく、命を預かる身として考えるべき点は多くあった。
 そして何より――自分自身が変化を求めるか求めないか。最終的にはそこへ行きついた。
 は軽く胸を隆起させ、息をついた。何も言わず答えを待つダンデを見つめ返す。
「行きます」
 ダンデの目が一瞬だけ見開いた。
「わたしたち、ポケモンを捕まえるためにワイルドエリアへ行きたいです」
 に同調するようにエリキテルが鳴いた。
 対してダンデは姿勢を直し、唇の隙間から白い歯を覗かせて満面の笑みを浮かべる。
「そうか。よかったぜ!」
 まるで自分のことのように喜ぶのだな、とは思った。
「あのう」
「何だ?」
「ワイルドエリアへはチャンピオンも同行するという認識でよろしいでしょうか」
「当然だろ」ダンデは即答した。
「そうですよね」
 何かの間違いであってほしいと願った自分の考えが浅はかだった。隠れて落胆する。
 は鞄から手帳を取り出し、今月のスケジュール管理表を膝元へ広げた。
「日程はいかがいたしましょうか。わたしは今週であれば明後日が終日休みです。難しいようであれば再来週の日程が決まり次第となりますが――」
「じゃあ明後日にしよう」
「えっ」
「ん?」
 は頁を捲る手が止まり、ダンデは不思議な面持ちで首を傾げた。
「あの、チャンピオンのご予定は?」
は明後日が空いているんだろう。ならその日でいいじゃないか」
 いやいや、とは手刀を振る。「わたしよりチャンピオンのほうが多忙なのでは?」
「よく訊かれるが、そんなこともないぜ。その日はたまたまオレも休みだっただけだ」
「そう、なんですか」想像に反する答えにはぎこちなく頷く。
「休みの日が重なるなんて気が合うな」
 そうですね、と零れそうになった台詞を呑み込み、は微苦笑を浮かべた。
「それでは明後日ということで」は紙面にペンを走らせた。「現地集合でよろしいですか。それともわたしがお迎えに上がりましょうか」
「そうだな。それなら――」
 集合時間と場所を言われ、はスマホでメモを残す。復唱して確認をとり、鞄へしまう。
「当日はよろしくお願いいたします」
「ああ。楽しみにしてるぜ」
 流れるように話がまとまったが、我ながらとんでもない約束をしてしまったとは思った。まさか休日にチャンピオンと過ごす(ポケモンを捕まえるためだが)ことになるとは。
 叶うのならば、今でも断りたいくらいだ。だが昨日ダンデにも説かれたように、エリキテルが新しい仲間を欲しているのであれば、彼の思いに応えるべきだと考えた。それが鉛の重さに匹敵する憂鬱を払い除ける活力になった。
 の個人的な感情としては、どんな状況でもダンデに教えを乞うのは少々気が引ける。それでもポケモンゲットに関して、これ以上頼りがいのある人物はガラルにはいない。今回だけは傲慢さを捨て、エリキテルのために彼の提案に乗ろうと腹を括ったのだ。
 はダンデと共に待合室を後にした。客人をその場で帰すわけにもいかず、出入り口付近まで先導する。来客用のエレベーターへ乗り込み、扉を閉めた。
 その直後だった。ポケットでスマホが震えた。画面にはルージュの名前があった。どうやらスタジオに忘れ物をしたようで、明日まで預かっていてもらいたいようだ。は背後のダンデを一瞥し、簡単に応えられるスタンプを送信する。既読はすぐにつき、ルージュからも可愛らしいスタンプが返ってきた。
「なあ、
 不意にダンデに呼びかけられ、は急いでスマホをしまう。
「すみません。なんでしょうか」
「きみに訊きたいことが」
 ある、と言おうとしたのだろうか。ダンデが言葉を続けようとした時、エレベーター内で電信音が鳴った。扉が開き、一階特融の冷気が足元を覆う。はダンデを先に降ろした。彼は何を尋ねるのかと考えたが、エントランスを抜けた後も特に動きは見えない。
「あの、訊きたいこととは?」
「あ、ああ」
 気のせいだろうか。どこか歯切れが悪く見える。
 怪訝さを抱えていると、ダンデの視線がの手に向けられていることに気付く。
はスマホを持ってるんだよな」
 はぎくりとした。「もちろんです」
「オレも持ってる」ダンデは自身のスマホを取り出した。「今後もしばらく顔を合わせるんだ。きみの連絡先を教えてくれないだろうか」
 は一拍置いてから、すみません、と言った。「例えチャンピオンからの要求だとしても、お教えすることはできかねます」
「なっ」ダンデは目を丸くさせた。「何故だ」
「どうしてもです」は身を守るようにスマホをポケットに隠した。
 それ以前に。仕事相手とはいえ、天下のチャンピオンが安易に連絡先を提示して良いのか。
 ダンデは腕を組み、短く唸る。「最後の収録までには教えてもらえないだろうか」
 断固たる思いではかぶりを振る。五感が叫んでいるのだ。この男に連絡先を教えてしまえば最後。休日は休日でなくなり、仕事や趣味に費やす時間は激減するに違いない、と。
「そうか。分かった」ダンデが言った。
 彼らしい潔い返答だ。しかしその考えは甘かった。
「いまは辛抱しよう。だが、オレも無敵と呼ばれる男だ。必ずきみから聞き出してみせるぜ」
 ――駄目だ。どんなに抵抗しても、この男に燃料を投下する行為にしかならない。
「もう、お好きにしてください……」
「ああ、好きにするぜ!」
 この日、は考えた。何故自分は彼のために時間を割こうなどと思ったのか。
 答えなんてものは無い。目の前で笑みを浮かべている無敵の王者が一体何を考えているのか、さっぱり掴めないからだ。

 約束の日は意外にも早くやって来た。は昼食を取り、既に支度を済ませていた。
 モンスターボール。きずぐすり。木の実。必要な道具は全て鞄に詰まっている。
 昨夜は仕事終わりにポケモンセンターへ寄り、ポケモンの捕まえ方について調べていた。ラジオ局に入社する前からポケモンの生態については詳密に学んできた。タイプ相性や技、特性。クイズ形式で出題されれば、一通り答えられる自信がある。
 しかし、捕まえ方だけはさっぱり分からない。体力を削り、状態異常になれば捕獲率が上昇する、とは記されていたが、いまいち感覚が掴めていない。
 モンスターボールの投げ方は何度も練習した。エリキテルにぬいぐるみを持ってもらい、左右に動く標的に向かって投球を続けた。お陰で朝から若干の筋肉痛だ。
 スマホで時刻を確認する。そろそろ時間だ。エリキテルのモンスターボールを携え、は家を出た。外では心地良い風が吹いていた。天気にも恵まれ、いつもより空が高く見える。
 だが、この青空も天候に左右されやすいワイルドエリアでは意味を為さない。巨大な大自然の変転は、長年ラジオで報道しているからこそ分かることだ。
 はスマホを取り出し、先日書き残したメモを確認する。集合場所はワイルドエリア。ナックルシティ入り口付近で落ち合うことになっている。最寄り駅からナックルシティはそう遠くはない。時間に余裕を持って出てきたため、遅れることはまずないだろう。
 問題は向こうだ。あくまでも自ら指定した場所と時間に約束通りやって来るだろうか。
「ないだろうな……」
 時間通りに向かっているにせよ、たどり着けるかどうかは別の話だ。
 案じて問うたが、彼は「ワイルドエリアには何度も行ったことがあるから大丈夫だぜ」と自信満々に言っていた。本人には申し訳ないが、信頼度は皆無に等しい。
 待つことには慣れている。時間通りに来なければ、エリキテルと付近を散歩していよう。
 そんな風に考えているときだった。先日、チャンピオンと遭遇した自動販売機に差し掛かったところで、彼のものと思われる声が聞こえた。
 は思わず立ち止まり、周囲を見渡す。しかし、平穏な歩道には他に誰もいない。
!!」
 今度ははっきりと聞こえた。風と共に聞き馴染みのある重い羽音も混ざっている。
 は空を見上げた。一台のアーマーガアタクシーが飛んでいる。車窓から顔を出し、さり気無くリザードンポーズを掲げているのは考案者ご本人だった。
「チャンピオン?」
 何をやっているんだ、あの男は。
 彼は続けて何かを叫んでいるが、長い髪が強風で煽られて何ひとつ聞き取れない。
 やがての傍へアーマーガアタクシーが着地する。車からチャンピオンが降り、から歩み寄る。
「どうしたんですか。こんな場所で」
「空からの姿が見えた」
「わたしの?」
 ああ、とダンデは頷く。「すぐに判ったぜ」
「あの距離で、ですか」
 ダンデは一瞬、小突かれたような顔になったが、すぐに笑みを浮かべる。「だって、オレを見つけてくれたじゃないか」
「すみません。いつの話でしょうか」
「初めて収録を交わした日だぜ」
「ああ」は合点した様子で頷く。「あの時は見つけたというより、気付いたというか……」
「そうだとしても、嬉しかった」
 あなたを喜ばせるつもりはなかったのだが。
「あとは、そうだな――」彼は顎に拳を添えたまま、視線だけをこちらへ寄せた。「お返しだ」
「お返し?」
 真意が解らず、首を傾げる。だが追及も虚しく、チャンピオンは既に背を向けていた。
」彼は車の窓を開けると、乗るように促す。「せっかくだから乗っていくといい」
「代金はわたしもお支払いします」
「何を言ってるんだ」ダンデは鼻の上に皺を作った。「オレはチャンピオンなんだぜ。こういう時は、お願いします、で良いんだ」
 確かに。この男の前では変に畏まるよりも、顔を立てるほうが正しい選択かもしれない。
「……分かりました」
 は彼の厚意に甘え、車へ乗り込んだ。奥へ体を詰めると、隣にチャンピオンが座る。窮屈ではないが、やはり二人が乗ると余裕はなくなる。
 考えてみれば、こうして彼と隣り合わせで座るのは初めてだ。相手の顔が見えないというだけで、奇妙な緊張が走る。それ以前に彼はプライベートでもユニフォームとマント姿なのか。
 思考を巡らせている間に車体が浮かび上がった。あっという間に地上を離れ、窓からの景色は空色に染まる。
 空を住処とするポケモンたちが気持ち良さそうに翼を広げている。本来ならばスマホを取り出して撮影しているところだが、隣の存在が邪魔をする。
 離陸してから間もなく一分。だけにあきたらず、ダンデも一切言葉を発しない。は景色を見ているため、彼がどんな表情をしているかは判らない。もしかすると寝ているかもしれないし、案外同じように景色を頼んでいるかもしれない。
 しかし、目的地のワイルドエリアまではまだまだ時間を有する。このまま沈黙を続けていたら、気を遣いすぎて腹を壊してしまいそうだ。
 意を決し、はダンデのほうへ顔を向ける。
「お」
「わ」
 は逃げるように視線を落とした。想像の何倍よりも近くに彼の目があったからだ。まさかこんなに早く目が合うとは思わなかった。
 いや、それよりも――。
「あの、チャンピオン」
「どうした?」
「もしかして、ずっと見ていたんですか」
「何をだ」
「わ……わたしを」
 自分から聞いておいて何だが、無性に恥ずかしくなってきた。必死に赤色の高揚を抑える。
 寧ろ、今のチャンピオンの訊き方には悪意があった。まるで言わされた気分だ。
「ああ」ダンデは微笑んだ。「きみを見ていた」
 はどんな顔をすべきか分からなくなった。ダンデに抱いたのは疑念だけだ。
 彼は照れ隠しなどせず、思ったことをさも当然のように口にする男だ。清々しいほどに。それが更にを困惑と勘違いの渦に引きずり込んでいく。
「捕まえるポケモンを考えていたのか?」
「いえ」は鞄からスマホを取り出した。画面を操作し、保存しておいたページを開く。「ゲットしたいポケモンは予め決めておきました」
「準備がいいな」
「ワイルドエリアは広大ですから。闇雲に探し回っていたら切りがありません」
「それもそうだ」それで、とダンデは続ける。「ゲットしたいポケモンは?」
 は画面を数回タップし、表示されたページをダンデに見せた。
「この子たちのなかから選ぼうと思っています」
「どれどれ」
 チャンピオンが更に距離を詰めてくる。長い髪が前へ流れ、の肩に触れる。見た目以上に柔らかく、心なしか良い香りがしたのは気のせいだ。
「ガラルのジグザグマにガーディ、アマカジか」
「エリキテルと二人で決めたんです」
「それならやはり、当初の落ち合い場所であるナックルシティ方面を目指したほうがいいな」
 は目を剥いた。「生息地が判るんですか?」
「言っただろ? ワイルドエリアには何度も行ったことがあるって」彼は口角を上げた。「確かにあの場所は迷いやすいが、ポケモンが何処にいるのかは判る。天候によって顔を出さないやつらもいるが、の挙げたポケモンなら問題ないぜ」
「すごい」思わず感嘆の言葉を贈る。「まるでポケモン図鑑みたいですね」
 ダンデは軽く笑った。「昔はよく図鑑と睨みあいをしていたからな。その頃の記憶が残ってるんだ」
 チャンピオンの子供の頃か。は頭上に白い雲を浮かばせ、彼の幼少期を想像してみる。しかしどれだけ考えても、大人顔のまま体の小さい彼がポケモンを探したり、今のように誰かを振り回していたりしている図が思い浮かんでしまい、堪らず吹き出してしまう。
、何を笑ってるんだ」
「笑ってません」
「じゃあ何故、口元を隠しているんだ」
「笑ってなんかいません」は肩を震わせる。
「笑ってるじゃないか」
 感情を必死に抑えこみ、は口を解放した。お陰で口紅が少し落ちてしまった。
 そういえば、と鞄の中身を確認する。「モンスターボールは二十個で足りますか?」
「わざわざ持ってきたのか?」オレが準備しておいたのに、とダンデは付け加える。
「他にも回復薬を三つ。状態異常を治す木の実をそれぞれ二つずつ持ってきたのですが……」
 ポケモンセンターを訪れた際、フレンドリィショップの店員に尋ねた。ワイルドエリアでポケモンをゲットする場合、どの程度まで準備しておくべきなのか、と。返ってきた回答とアドバイスに耳を傾け、最終的には先ほどの個数をまとめて購入した。
 果たしてこの判断にチャンピオンの判定はどう下りるのか。は息を呑んで待機する。
」ややあってダンデが口を開いた。「モンスターボールは幾つだと言った?」
「二十個です」
「回復薬が三つ。木の実は二つだったな」
「はい」
 ダンデは一度、反対側を向いた。やがて顔を戻し、懐から道具袋を取り出す。中を開けて見せてくれると、と同じものが同じ数だけ収納されていた。
 は瞬きが止まらなかった。

 落ちた目を黄金色へ向ける。
「やっぱりオレたちは気が合うみたいだ」


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