ドリーム小説 05

 サブスタジオではディレクターのダニエルが指折りに数を報せている。
 はヘッドフォンを装着し、テーブルの上で利口に座るエリキテルを一瞥した。
 やがて時報が鳴り、爽やかな音楽が流れる。イッシュ地方のカラクサタウンで活動している音楽グループから提供してもらったものだ。
「時刻は午前九時となりました。これからのお時間はまちかどチャンネルをお送りします。パーソナリティはがお届けいたします」
 は手元の書面に目を落とす。
「始めに本日のお天気をお伝えします。放送局シュートシティはこの時間も晴れています。午後にかけては次第に雲が多くなってきますが、雨は降らない見込みです。明日は晴れ間が続き、穏やかな日差しが出るでしょう。ワイルドエリアでは乾燥にお気をつけください」
 はエリキテルに目配せする。彼はカフボックスを操作し、音声を切り替える。収録ブースには音楽に続いて広告が流れた。その間、は給水を行う。
 朝の生配信は『まちかどチャンネル』から始まる。ガラル地方にまつわる情報はもちろん、各地で活躍する人物やポケモンたちを紹介していくコーナーを展開している。最近ではネットで人気を博している話題を取り扱ったり、ワイルドエリアでどんなポケモンが暮らしているのかドキュメンタリー風に綴ったりと、放送局でも人気の配信番組だ。
 最初は大役を任され、緊張と戸惑いもあった。しかし、傍にはいつだってエリキテルや頼もしい仲間がいてくれる。彼らと共に力を合わせ、毎日の声を聴取者へ伝え続けている。
 最初の収録が終わるのは正午。昼になれば自動的に報道局へ音声が切り替わり、パーソナリティの仕事はひとまず区切りがつく。
「ありがとう、エリキテル」
 は背伸びをし、エリキテルの頭を撫でる。
「今日もタイミングばっちりだったよ。今日は久しぶりにランチでも行こうか」
 エリキテルは歓喜の色を見せた。
 収録ブースを抜けると、スタッフが入れ混ざりで次の番組に向けて準備を進めていた。
 はダニエルに歩み寄る。「お疲れさまです」
くん、お疲れさま。エリキテルもよく頑張ってくれたね。良いアシストだった」
 エリキテルは照れくさそうに頭を掻いた。
「夕方の収録までには戻ります。ミーティングに必要なものがあればご連絡ください」
「そうだ。夕方といえば――」
 ダニエルが思い出した様子で呟く。
 は手帳を取り出した。本日は午後七時から合同会議が予定されている。他局のスタッフを本社に招致し、今後のラジオ番組作りについて合議することになっている。
 が合同会議に参加するのは今回が初めてではない。過去に何度かダニエルに誘われ、他局のスタッフと名刺交換をした経験を持っている。
 だからこそ――会議とは名目だけの酒の場という化けの皮を知っている。
「はい。承知しております。今回は参加すると自分から申し出ましたから」が言った。
「ありがとう。本当に助かるよ」
「いえ」はかぶりを振った。「前回は断ってしまいましたから。その時のお詫びです」
 本音を言ってしまえば、ただ騒ぐだけの宴会はなるべく避けたかった。しかし慕うべきダニエルの面目を保つためにも、続けて首を横へ振ることはできなかった。
 これもひとつの勉強だ。そう割り切った。
さんも誘われたんですね」
 横から飛んできたのはルージュの声だ。彼女はタブレットを抱えながら歩み寄ってくる。
「ということは、ルージュちゃんも?」
 はい、と彼女は頷いた。「こういう集まりって正直面倒くさいんですけど、タダで美味しいお酒が飲めるらしいので行ってみようかな、と」
 下心を隠さぬ言い草には思わずぎょっとする。ルージュの思い切りの良さは凄まじい。
「まあ、形式はともあれ一応会議だからね」
 ダニエルが抑揚をつけて言うも、ルージュは顔色ひとつ変えずに次の手を切り出す。
「会議の席にお酒を出す時点で、それはもう話し合いじゃないですよ」
 それは確かにそうだ、とも思った。
 その後、いくつかの指示がダニエルから出され、三人は散り散りとなってスタジオを出た。
 スタジオを後にし、はエリキテルを連れてシュートシティの繁華街へ向かう。
 今日のランチはどこでとろうか。信号待ちの間にスマホで店を調べる。
 検索候補は百五十一。どこか懐かしい数だ。検索方法を人気順から新着順へ並び替え、サムネイルと紹介文を比べながら模索する。
 放送局で働くようになって早数年。シュートシティは熟知しているつもりだったが、この街は今も尚、開発が進められている発展地。ギアチェンジの如く新たな店や高層ビルが建ち続けている。ガイドマップを制作する会社はさぞ大変だろう。
 辺りの人が歩き出した。しかし歩行者の信号は依然、停止を示している。は周囲に流されまいと、色が変わるのを黙って待ち続ける。
 ふと、向かい側で信号を待つ親子に目がいった。少年はまだ五歳ほどだろうか。小さな手を母親のそれと繋いでいる。心温まる光景だった。
 信号が変わり、歩き出す。足元ではエリキテルが障害物を避けるように人を撒いている。
「ダンデくんのラジオ、面白かったね」
「うんっ。さんもポケモンに詳しいし、トークは聴いてて全然飽きないしね」
「収録スタジオはシュートシティにあるのよ」
「じゃあそこに行けばチャンピオンに会えるんだ」
「それはちょっと違うけど」
 親子とすれ違ったとき、の耳に届いた会話。思わずそちらへ目がいってしまったが、人混みにまぎれて声の正体は何処かへ消えてしまった。
 信号を渡った先で、は思わずほくそ笑んだ。何だかとても良いことをした気分だ。
 視聴者からメッセージは幾度か受け取ったことがある。しかし、それらはあくまで質問やゲストを交えての感情だ。その上、視聴者の生声を直接聴ける機会も少ない。だから尚のこと嬉しかった。
 何より、テレビやスマホでの動画視聴が主流になりつつある世の中で、小さな子供がラジオに耳を傾けてくれているだなんて。例えチャンピオンが目当てだったとしても、ラジオ文化を継続していきたいと考えるにとっては、この上ない幸福だった。
 今日は少し贅沢なものを食べよう。検索方法を価格が高い順へ変更し、選んだ店へ向かう。店内には十数名ほどの客が入っていた。昼間でも若干の余裕が見える。
 窓辺の席へ座ると、ウェイターが注文を取りにやって来る。はランチプレートを頼んだ。
 食事が運ばれてくるまでの間、周囲の目がないことを確認してからタブレットを操作する。数日後に収録予定の『チャンピオンタイム』の原稿をチェックするためだ。
 次回はいよいよ、ファンから寄せられた質問にチャンピオンに答えてもらう。視聴者が最も注目する場面だ。取りこぼしがないように何度も確認せねばならない。
 短期間だったとはいえ、集計した質問の数は大よそ三万。ガラル地方の人口と比べれば可愛い数だが、ラジオへ送られるメッセージの数としては恐ろしい数値だ。さすがはチャンピオン、といったところか。
 は食前の紅茶をひと口含む。エリキテルは添えられたポフレを頬張った。
「エリキテル、チャンピオンのことどう思う?」
 は声を潜めて訊いた。しかし、丸い頭は見向きもせずにポフレを食している。
 思わず苦笑を浮かべる。恐らく、彼はチャンピオンについて言及することはないのだろう。元来他者に干渉しないタイプだ。そういうところが好きなのだが。
 鞄から雑誌を取り出す。読みたいページを探していると、栞の場所で動きが停止した。姿を見せたのはベンチに佇むダンデの姿。
 はダンデのリーグカードを手に取る。相変わらずラミネート加工が目に眩しい。幼少期、近所の少年たちが集めていたポケモンカードに若干似ている。あの頃のカードは今でも販売しているのだろうか。最近はあまり見かけなくなった。
 正直なところ、保管場所に未だ悩んでいる。
 咄嗟に浮かんだ用途が栞だった。本人についてまとめられた書籍のみに使っている。
 興味がないとはいえ、もらったものを無闇に捨てるわけにはいかない。恐らくは名刺代わりに渡したものだ。仕事を共にする立場としては、彼の存在を邪険に扱うこともできない。本人も半ば自己満足で寄越したものだろう。深くは考えなかった。
 大物であるダンデからリーグカードをもらったときは心底驚いた。しかし、所謂有名人と呼ばれる人物からリーグカードを渡されたのはこれが初めてではない。
 数年前――とある人物からもらった過去がある。それは今でも大切にしまってある。
『先日シュートスタジアムで行われたダンデ選手によるエキシビションマッチ!』
 壁掛けのテレビから声が飛んできた。はティーカップを置いて見やる。
『彼の無敵の力はいったい何が理由なのか。本日はポケモンバトル専門家をスタジオにお呼びしております。どうぞよろしくお願いいたします』
『よろしくお願いしますう』
 ニュースキャスターと中年男性が向かい合っている。昼時の人気番組だ。
 はすぐにテレビから目を離した。注文したランチプレートが運ばれてきたからだ。
 リーグカードを栞として再度しまおうしたときだ。食事を並べるウェイターの手が止まった。
「それ!」
「えっ?」
「あ……」
 ウェイターは手で口を塞ぎ、周囲を見渡した。やがて声をひそめて訊いてくる。
「もしや、そちらはダンデさんのリーグカードではありませんか?」
 しまった。見られてしまった。は動揺を隠しながらリーグカードを雑誌へ挟んだ。
「そうですけど」は向かいの席へ鞄を置いた。「それがなにか」
「どうもこうも。ダンデさんのリーグカードはなかなか当たらないんですよ。しかもいまお持ちだったのはラミネート仕様のサイン入り。プレミアものですっ」
 興奮気味に熱弁するウェイターに、は思わず顔を引きつらせる。
 恐らく、いや間違いない。彼はチャンピオンのファンだ。それもかなり熱の入った支持者と見える。自らの立場を忘れてしまうほど、彼のリーグカードに夢中になっている。
「そうなんですか」
 知らなかったです、とは言わなかった。口外すればややこしいことになりそうだったからだ。
「ええ。そうなんです。いいなあ。自分、ダンデさんが優勝したときからずっと好きで」
「そうなんですか」
 正直、温かいうちに昼食をとりたいものだ。早く離れてくれないだろうか。
 自分までチャンピオンのファンだと思われたくない。それがの本音である。
「どちらで手に入れたのですか?」
 本人から直接、とは言えない。仮に暴露したところで、到底信じてもらえないだろう。
 は適当に受け答えする。なるばく空威張りが出ないように。チャンピオンの威厳や純粋なファンである彼の気持ちを踏みにじる発言を避けるように。
 ウェイターから別のリーグカードとの交換を求められたが、は丁重に断った。もしも何かの機会で抜き打ちをされたとき、咄嗟に証明できなければまずい。
 諦めて業務へ戻ったウェイターを見届け、はランチプレートに手を合わせた。昼食はすっかり冷め切ってしまっており、思わず渋面を浮かべる。
『いやあ、やはりダンデ選手は素晴らしい才能を持ったトレーナーのようですねえ』
『みんなが憧れる気持ちも解かりますね』
 間延びした声が店内を占め、は冷めた料理も相まって味をまったく感じられなかった。

 時刻は進んで午後八時半。合同会議は予定通りに執り行なわれた。今回招致した放送局のスタッフはおよそ数十名。腕利きのプロデューサーを始め、今年就いたばかりの新社員まで多種多彩な面々が多く揃った。
 だがスタッフ同士で今後の番組作りについて意見を交わしていたのは、最初の一時間だけ。酒が並び始めてからはが予想した通りの光景が目の前に広がった。
 頬を赤らめながら大口を開ける上司たち。スマホを片手に話題の写真を共有するスタッフ。騒がしい会話の中に『ラジオ』の言葉など、ひとつもありはしない。
 その様子をは喧騒から離れた場所で眺めていた。飲みかけのグラスを持ち上げ、喉の乾きを潤すためにひと口含む。アルコールの強い酒ではないようだが、配分を誤ればあっという間に酔いが回ってしまいそうだ。
 昔からこういった空気には慣れない。先ほども他局でパーソナリティを務める人物を見かけ、声を掛けようと試みた。しかし相手は既に出来上がっており、思わず退避してしまったのだ。同業者の話に興味はあるが、酔っ払いの話には耳を傾けたくない。
 散会するのはまだまだ先だろうな、と腕時計を見ていたときだ。頭上から「さん」と声が降ってきた。聞き馴染みのある音には顔を上げる。
「ここにいたんですね」ルージュがグラスを差し出してきた。「これ、結構美味しいですよ」
 は「ありがとう」と言って受け取る。試飲してみると確かに美味しかった。
 ルージュは何も言わずに隣の椅子へ座った。自身のグラスを傾け、騒ぎの中心を一瞥する。
「絡まれたくないので逃げてきました」
 同情のようには微苦笑する。
「わたしもここにいていいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」ルージュはスマホを取り出す。「ドラマの続きでも観ようかな」
 そう言ってルージュは動画視聴アプリを起動させた。再生ボタンをタップするとやがて二人の少年が諍いする映像が流れ出す。どうやら字幕版のようだ。
「イッシュの映画なんですけど、今月からガラルでもようやく配信されるようになったんです。さんはご存知ですか?」
「うん。ついこの間に最新話を観たばかり」
「やっぱり」ルージュは声を明らめた。「最近ネットで話題ですもんね。伏線がもの凄いって」
 ドラマのあらすじは至ってシンプルだ。孤児院で出会った少年たちが共に成長し、厳しい境遇の中で社会を生き抜いていく物語である。特に注目を浴びる部分として挙げられているのは、作中にポケモンが一切登場しないこと。他の作品では必ず登場するポケモンの姿が見えず、第三章に進んでも尚、出演者は人間のみ。視聴者の中には『ポケモンが生まれる前の世界ではないか』と考察を立てている者も多い。
「最新話で主人公たちが兄弟だって知ったときは鳥肌立ちました」ルージュが言う。
「そうそう」が頷く。
「見終わった後、自分だけじゃ整理し切れなくてネットの反応を読み漁っちゃいましたよ」
 でも、とルージュは動画を一時停止する。
「ひとつだけ気になるところがあるんです」
「気になるところ?」
「主人公は自分たちが兄弟だと知ったとき、兄は親友をすぐに弟として認識し始めたと言ってますけど、そんな簡単に割り切れますかね。例え小さい頃から同じように過ごしてきたとしても、実感するまでに心の整理とか必要だと思うんです」
 確かにその通りだ、は思った。主人公たちの深層が明かされたときのことは今でもよく覚えている。しかしその際は展開に圧倒され、彼らの感情を考える余裕がなかった。
「ファンタジー的に言えば、細胞とか血が反応するんでしょうか」
「どうだろう」は考える素振りをとった。「もしかしたら、お母さんが赤ちゃんを産んだときにわたしの子だ、と思う気持ちと似てるかもしれないね」
「なるほど。わたしも生き別れの兄弟と再会したら、彼らの気持ちが分かるのかも」
「そのときになったらまた感想を聞かせて」
 冗談を交えながら話していると、スマホの画面が切り替わった。どうやら着信のようだ。
 ルージュは「すみません」と軽く断りを入れてから席を立ち、この場を離れた。
 自分もそろそろ重い腰を上げようか、と考えたとき、は背後から人の気配を感じた。足音が聞こえたほうへ顔を向ければ、先ほど声を掛けようとした同業の男性が立っていた。
「どうも、はじめまして」
 男性は朗らかに笑った。グラスを持つ手とは異なるほうをへ差し出してくる。
 は素早く立ち上がった。相手の顔を一瞥し、ややあってから手を取った。
「はじめまして。ガラルラジオ放送局のと申します」
「挨拶が遅くなってすみません。出されたお酒があまりにも美味しかったもので、つい」
「いえ、こちらこそ」
 は手を離そうとした。しかし汗ばんだ男性のそれは、がっしりと彼女を掴んでいる。
 不審な行動には思わず相手を見つめる。
「ダンデといっしょに番組に出た人ですよね」
「はい。その通りです」
「今後もダンデと会う機会ってあります?」
 詰問にも似た問いかけにはややあってから「あります」と答える。
 男性はその返しを待っていたとばかりに表情を明らめた。ここでようやく手が解放されるも、の手のひらは彼の手汗でまみれていた。彼女は相手に悟られないように不快感を拭う。
 こちらの心情には目もくれず、相手は半ば慌てた様子で一枚のカードを差し出してきた。それはが先日、ダンデから受け取ったリーグカードだった。
 この時点では先の展開を察した。
「野暮なお願いだとは思うんだけど……」
「なんでしょうか」
「サインをもらえないかな」
「申し訳ありませんが」はにこりと笑う。「私はチャンピオンではありませんので」
「そんなの判ってるよ。誰もきみのサインが欲しいなんてひと言も言ってないだろう?」
 それは小馬鹿にするような笑いだった。
「ダンデにサインをお願いしたいんだ。今日はそれを頼むために来たんだよ」
「そうでしたか」
 は深呼吸をし、相手を見返した。
「再度申し上げますが、それは受け取れません」
「ええっ、どうして?」
「サインを求める隙や暇がないんです。初回の収録だけでもチャンピオンは想像以上に多忙な方だと見てとれました。挨拶を交わすだけで精一杯です」残念ですが、と言っては差し出されたリーグカードを手で制する。「お力添えできません」
 男性は押し返されたリーグカードとを交互に見つめ、口元を歪めた。
「……本当に無理?」
「申し訳ありません」は頭を下げた。
 彼は溜め息をつきながらリーグカードを戻した。去り際に不服そうな舌打ちを鳴らし、足早に仲間の元へ向かったのが印象に残った。
 その後、飲み会の名を模した合同会議は散会し、は片付けを済ませてから職場を出た。淀んだ空間に長時間いたせいか、普段より外の空気が美味しく感じる。胸に溜まった鬱憤を浄化させるために両手を左右に広げて体を伸ばし、歩き出す。
 近場のタクシー乗り場では、乱酔した人物が同僚に支えられる姿が見えた。暗がりでも判る。にダンデのサインを要求してきた男性だ。
 目も当てられぬ醜態に目を逸らしたところで、脳内を占めるのは先ほどの会話。口先ではああ答えたものの、ダンデにサインを求めるのは恐らく想像よりも容易いのだろう。温厚な性格であるチャンピオンならば、快く了承するに違いない。
 ただ、ああいった要求を一度受けてしまえば、自分も書いてもらおう、と願う人間が出てくる可能性は十分に考えられる。それだけは避けたかった。
 一定期間といえど、王者ダンデと関わりを持つことの恐ろしさが身に沁み込んでいく。今後も難題を顔も知らぬ人物に乞われるのかと考えるだけで気が滅入る。
 駅前の広場にたどり着き、時計を見やる。夕食の時刻はとうに越えていた。エリキテルが腹を空かせているに違いない。
 彼のために何か美味しい菓子でも買って帰ろうか、とスマホを取り出そうとしたときだ。背後から「くん」と声を掛けられて振り返る。駆け寄ってきたのはダニエルだった。
「すまない。職場を出たら部下にはなるべく声を掛けるべきではないと分かってはいたんだが」
「いえ、気にしないでください」
「今日はありがとう。助かったよ」
 は肩をすくめて笑ってみせた。するとダニエルは何やら周囲をぐるりと見渡し始める。
「どうしたんですか?」
「ああ、いや……息子からお菓子を買ってきてほしいと連絡が入っていて」
「そうですか」は自然と笑みを零す。
「わたしはそういうのに疎くてね。おすすめのお店があれば、教えてもらえないだろうか」
「それならば……」
 は大通りの先へ視線を送った。ストライプ柄の旗が目印の小さな店が建っている。人気の店を検索している際に挙げられていた菓子店だ。
「あちらのお店はクッキーが美味しいと評判です」
「クッキーか。それは良いね」
「迷惑でなければ、ご一緒してもいいでしょうか。わたしもポケモン用のお菓子を買いたくて」
「もちろんだよ」
 案内も兼ねてはダニエルと共に菓子屋へ向かう。扉鈴を鳴らして店内へ入れば、数人の店員と制服姿のアママイコが笑顔で迎えてくれた。
 壁棚にはいくつもの瓶が陳列しており、中身はすべてポケモン用の菓子で詰まっている。はエリキテルが好きそうな種類を選び、店員に袋詰めしてもらう。
 会計を済ませると、ショーケースの前で吟味するダニエルが目に入った。どうやらどれを選ぼうか迷っているらしい。彼の眉間に寄る皺が何よりもの証拠だ。
「当店で一番人気なのでこちらになります」
 見兼ねた店員が商品を勧めた。ダニエルは助けを得た顔で頭を上げ、微苦笑を浮かべる。
「それではこちらを二ついただけますか」
「かしこまりました」
 彼が決断した時点では店を出た。やがて店の袋を提げてダニエルが出てくる。どうやら満足のいく買い物ができたようだ。満悦さが表情に滲み出ている。
「ありがとう。とても雰囲気の良いお店だった。きみの目利きに頼って正解だったよ。息子も喜んでくれるに違いない」
 徐にダニエルは袋から菓子箱をひとつ取り出し、それをへ差し出した。
「これはきみの分だ」
「え?」は目を丸める。
「ポケモンを労わるのは結構だが、自分のことも忘れちゃいけないよ」
 荷物を増やしてすまないね、と言いながらダニエルは手提げ袋に菓子箱を入れ、改めてに手渡した。彼女は戸惑いながらも厚意の形を受け取り、ありがとうございます、と伝える。
「それじゃあ、また明日スタジオで」
 ダニエルは気にしない様子で軽く手をあげ、この場から去った。雑踏へ消えていく彼の後ろ姿を見届けた後、も駅前のタクシー乗り場へ向かう。その間、ダニエルから受け取った気遣いと感謝の塊を見つめ、自分も他人を気遣える人間になろう、と考えた。
 そう思ったのも束の間、広場へ戻ると大型ビジョンに映るダンデが視界に飛び込んでくる。幸福に満たされたこの状況で、深紅のマントは目に痛い。
 今日は何か起こるたびにチャンピオンが浮上してくるな、とは彼の存在の大きさを再確認する。
 いや――これまで気に留めていなかっただけで、ダンデは世界に点々としていたのだろう。
 道行く人々の口から発せられるのは彼の名前。スマホのロック画面もダンデ。子供が夢見る相手もダンデ。学生が読みふけっている雑誌の表紙もダンデ。
 ガラルにはこんなにもダンデで溢れかえっている。その気配を感じ取ったのは、自分に白羽の矢が立てられた瞬間からだ、とは刺し口を押さえた。


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