本番収録当日。は時間通りに目を覚まし、いつもと変わらぬ姿勢で仕事に望んだ。
午前中は生配信の『まちかどチャンネル』を担当し、休憩を挟んだ後、夕方からはチャンピオンを迎えての収録となる。予定としては約二時間。何事もなく進めば困難がないように思えるが、今回は相手が違う。
王者だ。ガラルの頂点に君臨しているトップスターなのだ。接し方は言わずもがな、誰もが熟知している点を外すことだけは絶対に許されない。
【Q.01】チャンピオン・ダンデの最強のポケモンであり、最高のパートナーとは?
「リザードン」
【Q.02】ダンデの決め台詞といえば?
「レッツ・チャンピオンタイム」
局内の手洗い場。は脳内で制作した暗記カードを捲っては、自問自答を繰り返す。
まるで受験生だ。いや、どちらかといえばラジオ局の入社試験に近い。時を戻し、あの頃の自分に向かって、貴女は今後、人間ひとりのために机にかじりつく羽目になる、と伝えても信じてもらえるとは思えない。
軽く化粧を直してから廊下へ出ると、エリキテルが笑顔で出迎えてくれた。
「あなたを頼りにしてるからね」
エリキテルは首を傾げる。恐らく何も解ってない。
壁に掛かっている時計を見やる。本番前のミーティングまで残り十五分前を切っていた。
少し早いが、スタジオ入りしておこう。は社員証を首に提げ、持ち場へ向かう。
道中で予想していた通り、スタジオにはディレクターの姿があった。彼はに気がつくと丸い背中を伸ばして微笑み、すぐに膝元の書類へ目を落とした。は空いている椅子へ腰を下ろし、原稿を黙読する。エリキテルは彼女の足元で手遊びを始めた。
程なくして他のスタッフを連れてルージュがやって来た。お疲れさまです、と軽く挨拶を口にしてからの隣へ座り、スマホのロック画面を見た。
「そろそろ時間ですね」言いながらルージュはスマホをしまった。「わくわくしてきました」
「ルージュちゃん、原稿頑張ったもんね」
「今回はかなり自信作です。あとはダンデさんが気に入ってくれることを祈るだけです」
「大丈夫。自信持って」
真意を持って言うと、ルージュは安心した様子で「ありがとうございます」と言った。
は腕時計を見やる。長針が予定時刻を越してさらに右へ傾く。
スタジオの準備は万端だ。スタッフも全員集まり、いつでも収録に臨める体制が整っている。
だが、困ったことに主役の姿が見えない。放送局に到着した報せも未だ届いていないのだ。
収録初日から遅刻か――の胸中で懸念の二文字がじわじわと滲み出す。先ほどまで椅子に深く腰を掛けていたダニエルも今では立ち上がり、忙しい表情で何度も腕時計を確認している。どうやら考えていることは同じのようだ。
は原稿を置き、ダニエルに歩み寄る。
「少し、遅いですね」は声を抑えて言った。
「もう到着していても、おかしくないはずなんだけどね」ダニエルも小声で答えた。
「どういうことでしょうか」
「もしかすると……」ダニエルは困った様子で眉尻を下げる。「迷っているのかもしれない」
「あ……」
の脳内で暗記カードが音を立てて捲られる。
【Q.03】ダンデの意外な弱点とは?
方向音痴。互いに言外すらしなかったものの、喉元まで出ていた言葉を必死に押し返す。
「本人へご連絡は?」
「さっきから何度もかけているんだが、気付いていないのか全く返事がなくてね」
なるほど。は更に訊いてみる。
「ここへは既に向かっているんでしょうか」
「恐らくね」ダニエルは頷いた。「二時間前に担当者から連絡を受けたから、確かな情報だよ」
「二時間前……」
チャンピオンが何処からやって来るかにもよるが、確かに時間が掛かりすぎている。
「あの、ディレクター」
「なんだい?」
「わたしが探しに行きましょうか」
「きみがかい?」ダニエルは目を丸くさせた。
「今回は時間を要します。夕方からは通常の生放送も控えていますし、次の番組へスタジオの受け渡しもスムーズに行わねばなりません。それにその……もしも迷われているのであれば、パーソナリティである自分がゲストを迎えるべきだと考えました」
ダニエルは一考する素振りをとった後、組んでいる腕を解いてひとつ頷いた。
「分かった。それなら頼まれてくれるかい」
「はい。お任せください」
話を聞きつけたのか。エリキテルが足元に擦り寄ってきた。彼もどうやら同行するようだ。
「入れ違いの場合は連絡するよ。ただし、見つからなくとも三十分以内には戻ってきてくれ」
「三十分以内ですね」
は時計を見た。五分前にアラームをセットする。
「承知しました。必ず見つけて連れてきます」
それでは、と言っては足早にスタジオを去った。狭い廊下ですれ違うスタッフに頭を下げながら、は脱力しそうな体を持ち堪えていた。
まさか迷子のチャンピオンを探る羽目になるなんて、誰が予想しただろうか。
エレベーター前を通るも、点灯している階数を見る限り到着まで時間がかかそうだ。非常階段の扉を開け、駆け足で階段を降りていく。
勢いよく飛び出したものの、ダンデが今何処で何をしているのか検討もつかない。だが考えなしに自ら捜索を提案したわけでもなかった。
これは個人的な見解になるが、チャンピオンならば、移動手段にアーマーガアタクシーを利用するはずだ。今から二時間前に発ったのであれば、彼を乗せにやって来た運転手がまだシュートシティ周辺にいる可能性は高い。最初に向かうならば駐鳥場だろう。
「行くよ、エリキテル」
事の重大さを理解していないのか、エリキテルは呑気に太陽光を浴びている。時々、彼のマイペースを心の底から羨ましいと感じるときがある。今が正にそうだ。
「もう~~」は彼を抱き上げた。「ご飯はさっきいっぱい食べたでしょう。行くよっ」
体重おおよそ六キロの小さな相棒を抱え、は目的地まで駆け出した。
だが、当ては全て外れた。スタジアムからホテル前の駐鳥場へ尋ねたが、チャンピオンを乗せた記憶はない、と口を揃えては首を振る者ばかりだった。
そんな馬鹿な。ならば彼は一体どんな方法で放送局へ向かっているのだろう。
徒歩――いや、そんなまさか。トップスターが呑気に歩いて現場までやって来るだろうか。
次の場所に当たろうとは再び走った。ぐずぐずしている暇などなかった。
駐鳥場の後に思いついたのは目撃情報だ。ネット上では『ダンデを見た』という情報が度々残されており、証拠写真が多数存在している。雑踏へ現れてはリザードンポーズを決め、颯爽と去っていく。それはまるでポケモンであり、流れ星のようでもあると呟かれていた。
の脳内では既にシュートシティの地図が広がっており、目撃現場をピンで刺している。ひとつを確認しては針を抜き、次なる目的地へと移動する。
しかし本人は愚か、一等星を囲う人だかりすら見当たらない。の額に汗が浮かんでいく。
はあっと重たい息を吐き、は一旦エリキテルを降ろした。消耗した体力を取り戻すために呼吸を整える。下を向くと汗が地面へぽつぽつと垂れた。手の甲で拭ってから頭を上げる。
広場の時計台を見上げれば、ダニエルに命じられた時間の五分前を指していた。スマホを確認するも、ダニエルからの連絡は未だ届かない。
もう、時間がない――。
「あっ、ダンデだっ」
は反射的に声のした方角を見た。少年がポケモンを連れて何かを仰視している。
彼らの真似をした。視界の先には大型ビジョンが待っており、昼間にも関わらず日差しに負けぬほどの電光にダンデの姿が浮かび上がっていた。少年はスマホを取り出し、その様子を写真におさめている。
違う、とは心の中で唱えた。探しているのは虚像ではない。実像であり、本物の姿だ。
やがて腕時計のアラームが鳴った。それは敗北のサイレンのようにも聞こえた。
は踵を返すしかなかった。再び深い息を吐き、淡い期待を込めて放送局へ戻る。建物へ入る前に玄関口を見渡すも、やはりダンデの姿は見えない。
――いったい何処にいるんだ。
完全に諦めかけたときだった。上空から激しい突風が吹いた。髪が乱れ、入口を彩る花壇の花々たちが煽られるように踊る。は思わず目を塞ぎ、エリキテルが吹き飛ばされぬように小さな体を必死に抱き締めた。
まるで、暴風のようだ。
徐々に風がおさまり、辺りに静けさが戻る。
そっと目を開けると、最初に飛び込んできたのは深紅のマント。続いてビル風に靡く長い髪。黒い帽子。彼の傍で佇んでいるのは立派な炎を宿したリザードン。
後ろ姿だけなのに、情報量が多すぎる。はその人物がダンデだと直ぐに判った。
「ありがとう、リザードン。戻ってくれ」
彼は落ち着いた声色で言うと、相棒の体を撫でながらモンスターボールの光を浴びせる。
リザードンがボールへ戻る前、深緑色と目が合った。主人のマントと同じ色を宿した尻尾の炎が、一瞬だけ大きく燃え上がる。理由は分からない。けれどとても情熱的だった。
帽子のつばが放送局とは真逆の方向を指す。
は胸中で呼びかけた。こっちだ、と。
思いが通じたのか、ダンデがマントを翻しながら振り返った。自然と視線が絡み合い、黄金色の瞳にとエリキテルは捉えられる。
静かに『本物』が歩み寄ってくる。目の前に立たれて初めて判る。想像以上に、大きい。
「その瞳の色……」
ダンデは顎に手を添え、ずいっと顔を覗きこんできた。は思わず仰け反る。
「もしかして、放送局のスタッフですか?」
「そう、ですけど……」
そうか、とダンデは笑った。「ずっときみを探していたんだ。見つかってよかった」
悪気のない顔で放たれた言葉に、は大きな槌で頭を殴られたような衝撃が走った。
いま、この男は何と言った?
きみを探していた? 見つかってよかった?
脳内で二つの言葉が入れ混じり、やがて烈火の如く怒りが込み上げてくる。業を煮やすとは正にこのことだ。
「いまの台詞――」まとめてあなたにお返しします、と言いかけては咄嗟に口を閉じた。
落ち着け。私情に流されてはならない。相手はチャンピオンだ。今回のスペシャルゲスト。四週間にかけて仕事を共にする仲間だ。険悪な空気は作りたくない。
は咳払いをひとつこぼした。「チャンピオンは何故、わたしを探していたのですか?」
「何故って」チャンピオンは頬を掻く。「きみがオレを探しに出た、と言われたからだぜ」
彼の発言を推測するに、どうやらすれ違いで現場へ先に到着していたようだ。
「どなたからでしょうか」
「ダニエル、という男からだ」
「ディレクターからですか」は頷いた。「お言葉ですが、彼はチャンピオンが現場へ到着した時点でその場に留まるように仰いませんでしたか」
「どうだったかな」彼は首を捻る。「実は言うと、途中でスタジオを出て行ってしまったから、彼が何を言っていたか知らないんだ」
「は……」
「とにかく会えてよかったぜ!」
そんな満面な笑みで言われても。は眩暈を抑えることに必死だった。目の前の絶対的王者が、徐々に大きな子供に見えてくる。
だが、いまは苦言を呈している場合ではない。は必死に渋面を隠した。
「チャンピオン」
「ん?」
その何でもないような顔も、やや癇に障る。
「早速ですが、急いでスタジオへ向かいましょう。局内は少しややこしい作りになっています。どうかわたしから目を離さないでください」
「きみから?」
「そうです」
彼は一考する素振りを見せて、分かった、と頷いた。本当に解ってくれたのだろうか。
エントランスへ入り、社員証を端末にかざして分厚い扉を潜る。白く透き通った空間には一際大きいエレベーターが鎮座している。
「随分と大きなエレベーターだ」
「こちらは来客者専用なんです。チャンピオンも今後はこちらをご利用ください」
エレベーターへ乗り込み、は階数を押す。扉が静かに音を立てて閉まった。
一般用との大きな差異といえば、やはり背後に広がるシュートシティの風景だろうか。眺望には十分すぎるほどの大きな絵。空を羽ばたくポケモンたち。彼らと共に暮らすトレーナーの姿が、この空間ではいつでも眺めることが出来る。エリキテルもいつもの調子でガラス板にへばり付いている。
「オレはダンデ」
四角い空間に太く、深い声が響いた。突然自分の名前を言うものだから、は驚く。
「きみの名前は?」
そういえば、まだ名乗っていなかった。はケースから名刺を取り出した。
「申し遅れました。といいます」
「か」ダンデは名刺を受け取る。「安心してくれ。こう見えて、人を覚えるのは得意なんだ」
自分はいま、一体何をフォローされたのだろう。気にせずは操作盤を見つめる。
「はバトルトレーナーじゃないのか?」
「どういう意味でしょうか」
これさ、とダンデは名刺を見せた。「リーグカード以外をもらったのは久しぶりだ」
ああ、とは頷いた。「わたしはただの会社員ですから。名刺での取引のみなんです」
「そうだったのか」
「何か不便な点でもございましたか」
「いや、寧ろ大満足だ」
扉が開き、先にダンデを下ろす。続いてが下り、スタジオへ向かう。後ろの男に時計が見えないように時刻を確認する。当初予定していた開始時刻を大幅にオーバーしている。
有り得ない――の眉間に険しく皺が寄る。
「時間は大丈夫だろうか」ダンデが言った。
「どうかご心配なく」は平静を保っていた。「何が起きても我々がすべて対応いたします」
廊下を進んでいると、自然と他の部署のスタッフたちとすれ違う。軽く挨拶を交わすも、彼らの視線はではなくその背後に注がれている。当然の反応だと思った。ダンデが訪れることは以前から局内でも話題の中心になっていたからだ。
「お待たせしました」がスタジオの扉を開いた。「チャンピオンが到着しました」
スタジオ内では、おおっ、と歓喜の声が上がる。ダニエルも安堵の表情を浮かべた。
「無事に会えて良かったです」ダニエルが言った。
「ご迷惑をおかけしました」ダンデが苦笑する。
は正直、その台詞はまずは自分に向けてほしいものだ、と思った。だがぐっと堪えた。
「早速ですが、ミーティングを始めます。チャンピオン、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
ダニエルとダンデが握手を交わす。はその様子を静かに見守るだけだった。
ミーティングは手短に済ませ、収録開始までの間、は原稿の最終チェックをしていた。昨夜は時間をかけて暗唱した。大抵のことはすんなり話せるだろう。
問題はチャンピオンだ。卓抜したポケモンバトルに比べ、座談の腕はどうだろうか。
聞いた話に寄れば、彼がラジオ収録に臨むのはチャンピオン就任以来なのだという。
確かに――チャンピオンをテレビや雑誌、新聞で目撃することはあっても、ラジオに登場した過去に覚えがない。が放送局へ入社してから数年経つが、大御所と呼べる人物と対談したのは数名のジムリーダーのみだ。ダンデと対面したのも、今回が初めてになる。
はダンデを一瞥する。現在はダニエルと会話を交えながらスタジオや収録ブース内の説明を受けている。対面して間もないにも関わらず、彼らは既に打ち解けている様子だった。
「さすがはチャンピオン。凄まじいオーラですね」
隣に座ってきたのはルージュだ。紙パックのジュースにストローを差し込んでいる。
「もしかしてルージュちゃん、彼のファンなの?」は何となく小声で訊いてみた。
「いえ。わたしは枯れ専なので、どちらかと言えばカブさんのほうが好きです。もちろん、ダンデさんの試合も好きですけどね」
「そうなんだ」
は安堵していた。『みんな』がチャンピオン・ダンデに夢中なわけではないのだ、と。
「そういえば、さんからはトレーナーの話とかあまり聞きませんよね。局内のほとんどはダンデファンですけど、さんはどうなんですか」
興味がない、とは口が裂けても言えない。しかも本人の目の前で。は適当に誤魔化した。
間もなくダンデとダニエルが戻ってきた。緩い円を描きながら中央に集まり、最終的な段取りを確認し合う。普段より入念にミーティングを重ねるのは、やはりチャンピオンの存在があるからだろう
オーラ。言われてみれば、彼には他人を寄せ付ける力はあっても、引き離すような気配は一切感じられない。最強の王者、という名の通り威厳な空気を含んでいるかと思っていた。
しかし、彼がスタジオ入りしてから場の空気は目に見えて変わった。スタッフの動きも軽やかで表情に固さがない。ダンデが到着する前は緊張で身が千切れそうになっていたスタッフたちも普段以上の働きを見せている。
これがチャンピオン・ダンデの力なのか――。
「あの、最後にひとついいですか」
挙手したのは、他でもないダンデだった。
皆の視線が彼に集まる。無論、も同じだ。
「いかがなさいましたか」ダニエルが訊いた。
「皆さんの話を聞きながら、ずっと不思議に思っていたのですが」
チャンピオンが不思議に思うこともあるのか。この場にいる彼以外の喉元が上下に動いた。
「今回の収録は生配信じゃないんですか?」
「は……」
のなかで“辛抱”という言葉に亀裂が入った。
この男、まさかとは思うが――。
ええと、とダニエルが困惑の色を含めて告げる。「チャンピオン。最初にお伝えしたとおり、今回を含め、次週からの収録は全て録音収録となっています」
「録音」
「はい」
つまり、とダンデは両腕を組んで首を傾げた。「今日は配信されないということでしょうか」
「仰るとおりです」
「なるほど!」ダンデは合点する。「まずいな。弟たちに悪いことしてしまった」
は慌てて今回の企画内容についてまとめられている書類を確認する。
――配信方式:録音収録
間違いない。紙面にも目を通せば分かる場所に記されている。彼はこれを見落としたのか。それに生放送であれば、呑気にミーティングなどできるはずがない。秒刻みが命のラジオ放送。そこへ遅れてやってきた人間が放つ発言とは到底思えない。
「チャンピオンには、弟さんがいらっしゃるんですか」訊いたのはルージュだ。
「自慢の弟ですよ」ダンデは飄々と答える。「今日はラジオの収録に行ってくるから、時間になったら家族みんなで聴いてくれ、と連絡したんです。まさか録音だったとは。迂闊でした」
スタジオ内はダンデの笑い声で埋まり、スタッフたちも釣られて微苦笑を浮かべる。
も場の空気を乱さぬように口元に弧を描いたが、辛抱は既に壊れ、厭きれ返っていた。
ダンデを収録スペースへ案内し、向かい合う形で着席する。は手元にタイムウォッチを起動したスマホと原稿を置き、周辺のチェックを行う。ついお節介でダンデに機器の説明をしようとしたが、先ほどダニエルと話し合っていたことを思い出し、首を引っ込めた。
「チャンピオンはラジオ収録が久方ぶりだと伺いました。心境はいかがですか」
例え相容れない相手だとしても、目の前に座っているのは収録を共にする者だ。は双方の緊張と空気をほぐすために適当な質問を投げかけた。
「いつもと変わらないぜ」
「そうですか」
さすがはチャンピオンだ。僅かな隙さえ見せない。
「ただ、話し相手がきみで良かったと安心している」
は虚を突かれた様子で瞬きをした。まるで予想していない返答だったからだ。
「どういう意味でしょうか?」
ややあって彼女は訊き返した。率直な思いだった。
やがてダンデは答える。彼の目には迷いの色など一切見えず、真っ直ぐとを貫いた。
「となら楽しくやれそうだからな」
これが最後の決め手だった。
「これからよろしくな、」
「こちらこそ、チャンピオン」
適切に応じた満面な笑みの下で、は拳を固めた。
わたしはこの男と一生反りが合わない――と。
波乱続きの初回収録が終わったのは、予定通り二時間後のことだった。が懸念していたスタジオの引き渡しや生放送の準備に関しては、ダニエルの先見の明をもって大事には至らなかった。どうやら彼は『ダンデが遅れてくる可能性』を見通し、前もって時間を余分に確保していたようだ。これにはも瞠目した。
収録を終えたダンデは次の仕事へ向かうため、早々に放送局を後にした。スタジオは矢継ぎ早に次のスタッフたちへ回し、も帰宅の準備を済ませた。
スタジオ内のスタッフに別れを告げ、疲弊した体に鞭を打ちながらエレベーターを呼び出す。
今夜は夕食を作る気力もない。タクシーに乗る前に駅前で弁当でも買って帰ろう。
扉に反射して、自身の顔が写る。の顔面には疲労困憊という文字が張り付いていた。
「くん」
背後から優しい声が掛けられ、はダルマッカ落としのごとく疲弊の面を切り捨てた。
振り返るとミックスオレをそっと差し出された。
「お疲れさまでした」
「ディレクター」は飲み物を受け取った。「ありがとうございます。お疲れさまです」
「今日は収録前に走らせてすまなかったね」
いいえ、とはかぶりを振った。「わたしが提案したことです。謝らないでください」
何故、あなたが謝るのだろう。謝るべきは、間違いなくチャンピオンなのに。
「こちらこそ申し訳ありませんでした。あの場で待機していれば、こんなことには……」
「いいんだよ」それに、と言ってダニエルは声を抑えた。「結局ダンデくんが到着したのは、きみが戻ってくるほんの数分前だったからね」
どちらに転んでも結果は同じだったということか。は気づかれないように肩を落とした。
「彼がくんを探しに出たとき、連絡を入れようか迷ったんだ。けれど今回はわたしの判断ミスだったね。きみに余計な心配をかけてしまった。本当に申し訳ない」
はひたすらにかぶりを振った。
「慣れない状況下で気苦労をかけるかもしれないが、最後までいっしょに乗り切ろうね」
「もちろんです」は力強く頷く。
「それじゃあ、わたしはこれで失礼するよ」
ダニエルは再びスタジオへ向かい、姿を消した。疲れているのは彼も同じだろう。
自分も彼のようにもう少し広い心を持てていれば、チャンピオンの言動を許せたのだろうか。
は胸に溜まった黒い靄が晴れていく感覚を覚えた。彼には感謝してもし切れない。自分を含め、いつだって周囲のケアを怠ることはない。
ダニエルのためにも、今回の企画は無事にやり遂げねばならない。はそう強く思った。
「あっ、さん」
エントランスへ向かうと、受付のスタッフに呼び止められた。彼女は名前こそ知らないが、退勤の際に自然と顔を合わせるので、顔見知りでもある。
「なんでしょうか」
「ダンデさまからお預かりものがございます」
「チャンピオンから?」
の脳裏にダンデの顔が浮かぶ。ふつふつと怒りが煮えたぎるのを懸命に抑える。
受け取ったのは一枚の白い封筒だ。宛名も何も記されていない、至ってシンプルなものだ。
「に渡しておいてくれ、とのことです」
「そう、ですか」
この期に及んであの男は何を考えているのだろうか。ひとまず封筒を鞄へしまった。
脳内のルート通り、駅前で弁当とポケモン用のフルーツポフレを購入した。気晴らしにショッピングでもしていこうか、とも考えたが、自宅へ帰りたい欲が勝った。
早く帰って湯船に浸かりたい。欲求を抑えきれず、は特急のアーマーガアタクシーを利用した。金額は通常の二割増しだが、半分の時間で目的地に到着する便利なシステムだ。
帰宅したは抱えている鞄や荷物をフローリングへ置いた。浴槽に湯を張り、お気に入りの入浴剤を放り込む。次第にじゅわじゅわっと泡が噴き出し、浴室に良い香りが充満していく。エリキテルにはケロマツ印の小さな桶を用意した。
「出ておいで、エリキテル」
モンスターボールからエリキテルを出すと、妙に静かだった。ポフレを買ってあげたときはあんなに喜んでいたのに。
よく見ると愛らしい二つ目は静かに閉ざされており、小さな寝息を立てていた。
彼も今日は慣れないことの連続で疲れが出たのだろう。は起こさないようにエリキテルを専用の寝床まで運び、太陽柄の毛布を優しく掛けた。
今夜の風呂は普段より増して長かった。入浴剤の香りも相まっての心は浄化される。
寝る支度を済ませてワークデスクへ向かったとき、床に置いたままの鞄が気になった。翌日のために中身を整理していると、例の白い封筒が出てきた。
人の気苦労も知らずに笑うチャンピオンの顔がちらつき、鎮まったはずの黒い靄が再発する。例えどんなに性格が良かろうが、にとっては時間や約束事に無頓着な人間は昔から苦手だった。
頭を揺さぶって邪気を振り払う。せっかく風呂で癒された意味がなくなってしまう。は無の感情を抱えたまま封を切った。
出てきたのはダンデのリーグカード。煌びやかにラミネート加工された表面には、直筆と思われる彼のサインが走っている。
筆跡で判る。恐らく彼はそこまで字が上手くない。
「……圧倒的に、要らない」
本日最初で最後の本音がようやくこぼれ、は深いため息をダンデに向かって叩いた。