ドリーム小説 02

 少年アルがトレーナースクールから家へ戻ると、決まって複数の音楽が流れている。
 一つは夕食の準備を進める母の可笑しな鼻歌。次に自分の帰りを今か今かと待っていたワンパチの足音。突進の勢いで押し倒され、顔を舐められる。
「くすぐったいよ、ワンパチ」
 ワンパチはかみなり模様の尻尾を左右に振っている。見ているだけで静電気を帯びそうだ。
「ただいま、ママ」
「おかえりなさい、アル。いまミートパイ焼いてるから、出来上がるまでもう少し待っててね」
「うん。楽しみにしてる」
 アルは母と言葉を交わしてから自室へ向かう。背負っているモンスターボール型のリュックを勉強机に掛け、再びリビングルームへ戻った。
 ソファーへ腰を沈めると、すかさずワンパチが膝上に載ってくる。ふわふわとした毛並みはクッションのようで、思わず頬づりをしてしまう。
「今日もたくさん勉強したなあ」
 朝から夕方まで脳内に叩き込まれたポケモンバトルの知識を反芻する。
 今日の授業は『何故水タイプは草タイプに弱いのか。その理由をグループで導き出す』ことだった。最初は、何を当たり前のことを訊くんだ、と思った。だがよくよく考えてみれば、根本的な理由をアルは知らなかった。授業でそう教わったから。こうとしか答えられず、何も知らない自分が悔しくて、ポケモン図鑑を読みながら帰って来た。
 ポケモントレーナーとして旅立てるまで残り一年。それは同時にスクール卒業を意味する。
 アルは背もたれに身体を預け、壁を眺めた。額縁に収められた大きな『1』の数字。今年の誕生日に買ってもらったチャンピオンのレプリカユニフォームと真っ赤なマントだ。子供用はすぐに売切れてしまうから、と祖父が慣れないスマホを片手にパソコンの前にかじりついていた姿が今でも印象に残っている。
 ダンデ。ガラル地方最強のポケモントレーナー。アルにとっては正に星のような男――。
「ダンデもこんな風に悩んだのかなあ」
 視界の隅ではワンパチの尻尾が揺れている。
「ぼくも早く、ダンデみたいなバトルがしたい」
『時刻は午後六時を過ぎました。パーソナリティはわたくし、がお送りします』
 ぼうっとダンデのユニフォームを眺めていると、最後の音楽に意識を持っていかれる。
 ――始まった。アルは思わずワンパチを抱える。
『これからのお時間はポケモンチャンネル。皆さんの素朴な疑問はもちろん、ポケモンにまつわる素敵なエピソードを募集中です。番組の合間には現在のワイルドエリアをお伝えします。番組へのメッセージはお手持ちのスマホからお送りください』
 コールサインは『GOPK』。整った口調でスポンサーの名前が挙げられ、賑やかな音楽が流れる。母から聞いた話によると、アルが生まれる前にカントー地方で大流行していた楽曲だという。
「ねえママ。スマホ借りてもいい?」
「駄目って言っても使うんでしょう」母は水洗いをしながら一笑した。「いいわよ、使って」
「ありがとう」
 アルはスマホを起動し、ラジオマークのアイコンをタップした。配信中の番組をチェックすると、聴取者の数に合わせてメッセージが上から下へ流れている様が確認できる。アルも慣れた手つきで文字を打ち、画面の向こう側と言葉を交わす。とはいっても、彼女にメッセージを拾われない限り、一方的な会話になってしまうが。
『皆さんからたくさんのメッセージが届いております。ありがとうございます』
「ぼくのメッセージ、読んでくれるかな」
 ワンパチに問うが、特に反応はない。
『まずはラジオネーム“10番道路さん”からです。こんにちはさん。わたしは数年前からクマシュンがパートナーなのですが――』
 ううん、とアルは唸った。「なかなか拾ってもらえないなあ。文章が短いのかも」
 粘るように画面を突くが、この時間帯は仕事終わりの大人も含め、聴取者が多い。目立つようにポケモンスタンプを送っても、願いはあっという間に流れてしまう。
「アル~~」母に呼ばれ、頭だけを向ける。「聴いてるところ悪いけど、お皿運んでくれる?」
「はあい」
 スマホを置き、受け取った皿をテーブルへ並べる。カビゴンの腹を模した耐熱皿だ。
「今日もコメント打ってるの?」
「うん。でもなかなか読んでもらえないや」
「昔と違っていまはスマホで送れるもんね。最近はメールよりもコメントが主流だし」
「昔はメールだけだったの?」
 そうだよ、と母は頷いた。「でもまあ、録音配信で募集することはないんじゃないかな」
 母がエプロンを脱ぎ、食卓へ着く。アルは向かいの椅子へ座り、フォークを手に取った。
 食事の間もラジオの進行は続いている。パーソナリティは時には笑ったり、考える素振りが声から汲み取れるよう唸ったりと様々だ。
 アルの家庭ではテレビよりももっぱらラジオを流すことが多い。母が昔からラジオを好んでいた、ということもあり、アルは幼い頃から映像よりも声の情報を蓄えて育ってきた。その馴染みは今も尚続いており、現在は夕方から始まる『ポケモンチャンネル』を毎週欠かさず聴いている。
『クマシュンの鼻水は健康な証拠なんですよね。確か、自分に不快感を与えるものには鼻水を擦り付けるんだとか』は一笑する。『ワンパチやヨーテリーにも言えるのですが、一部のポケモンは鼻が湿っていると嗅覚がより鋭る傾向にあります。よく映画やドラマで人間が指を舐めて風向きを確かめるシーンがありますが、原理はそれと似ています』
さん、やっぱりポケモンに詳しいよね」
「色んな情報を提供するお仕事だから、アルみたいにたくさん勉強してるんじゃないかな」
 ポケモンで思い出した、と母が言った。
「八時からダンデくんの試合が放送されるって」
「知ってるよ」テレビのリモコンを持ち、テレビの画面を表示した「もう録画してる」
「なあんだ。やっぱり知ってたんだ」
「もちろん。試合のことなら任せてよ」
「そうじゃなくて、ダンデくんのことでしょ」
「うんっ」アルはテーブルの下で脚を揺らした。「今年はチャンピオンの試合、生で観たいなあ」
「去年はチケット、結局取れなかったもんね」
 ダンデの試合を含め、チャンピオントーナメント戦のチケットは必ず争奪戦になる。ネット上ではいつから販売開始なのか、今回は抽選販売なのか、と既に憶測が飛び交っている。アルは何度も抽選に参加しているが、ダンデの試合を生で観たことは一度もない。トレーナースクールの友人が当選する様を眺めているのにもそろそろ見飽きてきた。
 トーナメント戦でなくとも、せめて一目で良いからダンデの姿を見てみたい。液晶でも紙面越しでもなく、肌と心で彼のバトルを感じてみたい。胸の内でずっとそう願っている。
 だが現実は夢よりも厳しい。願うだけでチケットが取れるのであれば、今頃自分は毎日のようにスタジアムに赴き、間近でポケモンバトルを体験しているだろう。
 アルは溜め息を叩いた。無意識のことだった。
「ごめんね」申し訳なさそうに母が言った。「なかなか連れて行ってあげられなくて」
「本当は……行きたいよ。でもチケットが買えないのはママのせいじゃないから」
 これは事実で、精一杯の強がりだ。本当は行きたくて行きたくて堪らない。しかしアルは観戦チケットを取るために奮闘する母の姿を何度も見てきた。だからこそ一概に責められない。
「ようし」突然、母が腕まくりをした。「今回は何が何でも当ててみせる」
「えっ」
「おじいちゃんにも協力してもらってさ。ユニフォームを買ったときみたいに」
 アルは両頬を緩ませた。「ぼくも協力するっ」
「もう、馬鹿ね」母は指先でアルの鼻先を突いた。「わたしたちがあなたに観て欲しいのよ」
「え~~。でもママ、くじ運悪いじゃん」
「言ったなあ。見てなさい。今年の運を使い切ってでもダンデくんに会わせてあげるんだから」
「ほんとう?」
 もちろん、と母は強く頷いた。こんなに自信満々な表情は初めて見る。だからこそ、アルは本当に観に行けるかもしれない、と期待を膨らませた。
『そろそろエンディングのお時間です』
 もうそんな時間か。アルは再度テレビのリモコンを手に取り、ダンデの試合観戦を待つ。
『この後八時からはシュートシティで行われる試合中継をお送りします。本日は連戦無敗の記録を伸ばし続ける無敵のチャンピオン・ダンデ選手とジムリーダーたちによるエキシビションマッチです。どうぞお楽しみに』
 朝からずっと楽しみにしてた、と心の内で突っ込みを入れる。テレビ画面では既に前番組が終わっており、見慣れたコマーシャルが流れている。
 母が空いた皿を片付けるために席を立った。アルもそろそろラジオを切ろうと手を伸ばす。
『番組の最後にお知らせがあります』
 こんな時になんだろう、と『視聴を止める』のボタンを押さずにスマホを握る。
『来月から始まるジムチャレンジに先駆け、ガラルラジオ放送局では開会式までの期間内、スタジオにスペシャルゲストをお呼びいたします。スペシャルゲストはこの後、シュートシティで熱い戦いを繰り広げてくれるチャンピオン・ダンデ選手です』
「えっ」
 予想だにしない告知にアルは素っ頓狂な声を出す。スマホを握る手に汗が滲んでいく。
『ここでしか聴けない話はもちろん、チャンピオンカップへの思いについて伺っていきます。配信開始は来週の土曜日から。番組ホームページでは既に特設サイトを公開しております。ダンデ選手への質問や熱いメッセージを送ってみませんか? 締め切りは配信日の前日正午まで。皆さまからのメールを心よりお待ちしております』
 それではまた、この時間でお会いしましょう。の声に混ざってエンディング曲が流れ、やがて天気予報士による一週間の空模様が報じられる。明日は晴れ、明後日も晴れ。天候が変わりやすいガラル地方にとっては比較的珍しい並びだ。
 いや、驚いているのはそこじゃない。
「アル」
 母がやって来る。両手にはバニプッチ型のアイスクリームが二つ握られている。
「ダンデくんが出ること、知ってた?」
 アル、ぶんぶんと激しくかぶりを振った。
「また楽しみが増えたね」
「ダンデがラジオに出るなんて珍しいよ!」
 彼の情報ならどんなことでも見逃さない、聞き逃さないアルは珍しく動揺していた。恐らく同等の感情を抱いているファンは五万といるだろう。
「そっかあ。ダンデくん、ついに出るんだ」母はアイスの蓋を外す。「ママも楽しみだな」
「ぼくもぼくも」
「それにしても最近本当にすごいわね。どこのメディアでも引っ張りオクタンなんだから」
「引っ張り……なに?」
「あれ、聞いたことない?」
 引っ張りオクタンっていうのはね、と母の説明を聞く前にテレビ画面が切り替わった。スタジアムに集まったサポーターの歓声から始まり、眩い光が室内を明るく照らす。
「ほらママ。試合始まるよ。詳しい話はあとあと!」
「はいはい」
 アルは張り付くようにソファーへ座り、自分と母の間にワンパチを挟んでテレビを凝視する。
 白い煙から現れた見慣れたシルエット。黒い帽子。たなびく長い髪。王者ダンデだ。傍を歩いているのは相棒のリザードン。今日も尾の炎が熱く燃え上がっている。
 今夜の試合を観終わったら、ダンデへのメッセージを考えよう。画面越しに揺れた赤いマントを見て、アルはそう強く思った。

 スタジオの『収録中』ランプが消灯し、はヘッドフォンを外して水を含んだ。座りっぱなしで凝り固まった背中を伸ばし、隣の席を見やる。
「お疲れさま、エリキテル」は彼の頭を撫でた。「今日のアシスト、すごく良かったよ」
 エリキテルは嬉しそうに体を伸ばし、小さく鳴いた。
 ペットボトルを片手にサブへ向かう。場にいるスタッフ同士で労いの言葉が交わされていた。
「お疲れさま」ディレクターのダニエルが額に浮かぶ汗を拭った。「今日はピッタリだったね」
「昨日は十秒余らせてしまったので、自分でも計っていたんです。無駄がないように」
「そうだったのか」
 エンディングへ入るとディレクターが配信終了までの時間を秒刻みで指折りする。はガラス越しに彼のカウントダウンを見ながら締めていくのだが、昨日はゲストとの会話が妙なところで切れてしまい、謎の空白が生まれてしまったのだ。
「上手くいって良かったです」は息を吐く。
「きみのそういう真面目なところ、素晴らしいね。僕も負けちゃいられない」
「恐縮です」
 ダニエルは腕時計に目を落とす。「明日も早いから、今日はこのまま終わりで良いよ」
 無論、そのつもりだ。あと数分もすれば次の番組が始まる。スタッフも入れ替わり、も帰宅の準備を進める。傍ではエリキテルが欠伸をこぼしている。
「あの」帰る前にはダニエルに訊いた。「チャンピオンが来るのは明後日ですよね」
「ああ、そうだよ」ダンデくん、と彼は付け加える。
「ルージュちゃん」
「はい。なんですか?」離れたテーブルでキーボードを叩いている彼女が首だけを向ける。
「申し訳ないんだけど、当日の原稿コピーをもう一部だけもらえないかな」
 いいですけど、とルージュは鞄を漁りはじめる。「もしかして、無くしたんですか?」
「まさか」は手刀を振る。「前にもらったのは自宅にちゃんと保管してあるの。ただ、移動中に読めたら便利だな、と思って」
「そういうことでしたか」それなら、とルージュはスマホを取り出した。「データで送りますよ。印刷する手間も省けますし」
 確かにそうだ。は彼女の提案にのり、互いにスマホを構えてデータを送受信する。
「届きましたか?」
「ばっちり」はピースサインを送った。「どうもありがとう」
「いえ」ルージュは微笑んだ。「わたしの原稿、舐めるように読んでください。面白いので」
 それだけ言うと、彼女は再びキーボードを打ち込み始めた。もの凄い手捌きだ。
 ルージュは入社してから間もなく構成作家に抜擢されたキャリアウーマンだ。周囲と比べて年齢が少し離れているものの、後れを取らない実力を持っている。
 本人の言葉通り、彼女の原稿は読んでいてわくわくする展開が多い。ポケモンやガラル地方の魅力を伝えるための知識が蓄えられているからだ。も文章を読んでいて心地よさを覚えることも多々ある。
「ああなったらしばらく止めないだろうね」ダニエルにそっと耳打ちされる。「でもまあ、残業は身体に毒だから、タイミングを見計らって帰らせるよ」
「なら、これを渡しておいてください」
 取り出したのは小さなチョコレート菓子だ。疲れが溜まっているときには糖分が一番効く。
 ダニエルの分も合わせて渡し、は静かにスタジオを後にする。無事に仕事を終えられた安心感だろうか。朝に歩いてきた廊下と仕事終わりとでは、心なしか景色が違って見える。
 会社の外へ出ると、冷たい夜風と共に歓声が飛んできた。シュートスタジアムからだ。試合が始まってしばらく経つが、熱狂の渦は収まることを知らない。この調子だとあと数時間は静まらないだろう。日が暮れても相変わらず賑やかな街だな、と思う。
 は客を待つアーマーガアタクシーの運転手へ歩み寄った。相手は直ぐに気がついた。
「いいですか?」
「もちろん」運転手は言った。「試合中なんでね、お客さんが来ないんですよ」
「そうみたいですね」
 エリキテルと共に乗り込み、行き先を伝える。間もなく車体が浮かび上がり、シュートシティの景色が眼下に広がった。中でも一際目立つのはやはり大きなスタジアム。光を好むエリキテルは窓に顔をくっ付け、尻尾を振りながらその様子を眺めている。
 はスマホへ視線を移した。先ほどルージュから受け取った原稿データを確認する。スライドしても中々終わりの見えないページ。文章は短く、簡潔にまとめるをモットーにしている彼女がこれだけの文量を用意するのには、ひとつの大きな理由がある。
 ダンデ。ガラル地方最強のポケモントレーナー。目の前の巨大なスタジアムで観客たちの視線をひとつに集めている正に世界の中心。
 試しに検索フォームへ『ダンデ』と打ち込めば、彼にまつわる情報がこれでもかと表示される。強さについてまとめられている記事、試合中の写真、愛用している道具の詳細など、挙げると切りがない。みんなが彼に憧憬の眼差しを向けている。
『みんなが決めた! ダンデの最高バトル集』
『みんなが憧れるスーパースター!』
『みんなが注目! ダンデの強さの秘訣とは?』
 その『みんな』に果たして『自分』は含まれているのだろうか。いや、恐らく入っていない。
 こんなことを言うと身も蓋もないが、昔から彼に興味がない。日常的に名を耳にしても、特に反応を残すほどでもない。それだけの存在。
 決して彼を嫌っているわけではない。ポケモンに対する愛情やバトルでガラルを盛り上げていきたい、という意思は伝わってくる。ただ、それ以上の感情が沸いてこないのだ。彼のように強くて無敵なトレーナーで在りたい、と願ったこともない。
 だからこそ、今回のパーソナリティとして選ばれたときは複雑な思いに駆られた。この世界にダンデと言葉を交わしたい人間は山の数ほどいる。にも関わらず大した知識もなく、熱狂的なファンでもない自分が彼らを差し置いて王者と向き合って良いものなのか、と。
『お客さん』通信機から声をかけられる。『ちょいと相談したいことがあるんですが……』
「なんでしょうか」
『一瞬だけで良いんです。ダンデの試合を観てもいいですかね。息子が大ファンでして……』
 そういうことか。は時計を確認する前に頷いた。「もちろんいいですよ」
『おおっ、ありがとうございます!』
 風向きが変わり、車体は西へ傾く。もスマホから手を離し、スタジアムを眺める。巨大なフィールドに佇むポケモンたち。どちらもキョダイマックス状態だ。爆音と共にリザードンが大技のキョダイゴクエンを放つ。見ているだけで汗が噴き出そうだ。通信機からも盛り上がっている様子が窺える。
 やがて双方の巨大化が解かれた。運転手が言うには”チャンピオンが勝った”らしい。
『いやあ、息子も喜んでましたよ』
 運転手の声は興奮気味だった。本当は彼自身がダンデのファンなのではないか?
『スマホロトムに乗り換えて正解だった』
「それは良かったです」
 結局、は最後までポケモンバトルへ熱い視線を向けることはなかった。
『お客さんも観ましたか? 最後のキョダイゴクエンかっこよかったですよねえっ』
「そう、ですね」
 どうにも曖昧な言葉しか返せず、は表情が見られない状況でよかったと思った。
 その後は安定した飛行で自宅へたどり着き、ひと段落ついたのは十時過ぎだった。スマホで一日の出来事を眺め、時々流れてくるポケモンたちの可愛らしい動画に心を癒す。あっという間に時間が過ぎ、エリキテルの寝息が聞こえてからは重たい腰を上げた。
 向かう先はワークデスク。積み重なった雑誌から一冊を抜き出す。付箋で印をつけていたページを開いては内容をノートに書き写し、タブレットを立ち上げて動画を再生する。液晶に映し出されたのはチャンピオンの姿。いまから二年前に撮影された試合映像だ。
 ダンデに興味がない。そんな私情、今後の仕事には関係のないことだ。
 チャンピオンが来るのではない。来てくれる。多忙に追われるなか、時間を割いて足を運んでくれる。ならば自分はダンデに応えられるだけの態勢を整えるべきだ。何も知らない状態で会えば、進行や返答にも必ずボロがでる。それだけは決して許されない。
 バトル、ポケモン、玉座についてからの戦歴、ヒーローインタビュー、メディア展開。企画が決定した瞬間から、はダンデにまつわるありとあらゆる資料をかき集めた。調べていればおのずと興味が沸いてくる。そう考えたときもあったが、彼への思いは依然変わらない。その理由は明白だった。
「この人……」
 はダンデの写真を眺めながら呟いた。
「調べても調べても、掴みきれない」
 恐らく今の自分は『王者ダンデ』という偶像を見ているだけで、実像を全く知らないのだ。


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