気がつくと、いつも同じ音で目を覚ましている。
頭上付近で鳴り始めた目覚まし時計。は重たい腕を伸ばし、手探りでスイッチを押した。音を消してからしばらく停止し、やがてむくりと上半身を起こす。
時刻は四時十五分。日の出にはまだ早く、カーテンの隙間から漏れる光は街灯によるものだ。
は布団から抜け出し、ポケモンの顔を模したスリッパを履いてリビングルームへ向かう。その先ではパートナーのエレザードが待っていた。
「おはよう、エレザード」
挨拶を投げるとエレザードは首の襞を広げてにっこりと笑った。日の光が見えない時間に起きるにとって、彼の笑顔は太陽のような存在である。
戸棚からポケモンフーズを取り出し、小口切りにした木の実を添えて皿へ盛りつける。余程腹を空かせていたのか、エレザードは半ばがっつくように食べ始めた。その様子を眺めてからはトースターで焼き上げたパンをかじり、ロズレイティーを含んだ。
片手でスマホを開き、寝ている間に起きた出来事や人気の記事を順々に巡っていく。夜食におすすめの料理。ポケモンと人間が協力して制作した楽曲。ポケモンたちの寝顔。ありきたりな項目が羅列するなか、最も輝きを放つ人物を見つけた。
画面をタップしたの瞳に冠を模した帽子と赤い閃光が映り込む。それは彼女が瞬く度に姿を変え、どこか懐かしい過去を想起させるようにも見えた。
――もう、行かなくては。
は静かにスマホを閉じた。空になった皿を洗い、洗面台へ向かう。ドライヤーで髪を整え、未だ覚醒し切れていない顔面にブラシと紅色を走らせる。
縁取った唇を確認し、着替えているときだった。ばりばりと風が窓を叩く音が飛んできた。それを聞いたは鞄を持ち、モンスターボールを構える。
「エレザード。そろそろ行くよ」
しかしエレザードはボールには入らず、の足元まで駆け寄ってきた。
「入らないの?」彼の目線に合わせて膝を折る。「日光浴はまだできないよ」
それでもいい、と答えているのか、エレザードはが着ている服の裾を両手で掴んだ。その挙動がどうにも愛らしく見え、彼女は微笑みを浮かべて頷いた。
「分かった。いっしょにいたいのね」
それじゃあいっしょに行こう、と玄関の扉を開ける。その向こうにはアーマーガアタクシーが停まっていた。傍にはフライトジャケット姿の男が立っている。
男はと目が合うと、笑顔で手を挙げた。彼に応じてこちらも小さく手を振る。
「おはようございます、マークさん」
「おはようございます、さん。今日は一段と冷え込みますねえ。ああ、さむっ」
マークと呼ばれた男は身震いし、暖をとるように両手をポケットに突っ込んだ。
「今日はここまでお願いします」
はスマホの画面をマークに見せた。彼はどこか不思議そうに顎に手を添える。
「思ってもないところですね」マークが言った。
「どうか詮索はなしで」
こちらの心情を読んだのか。マークは何も言わずに頷き、口角を上げて親指を立てた。
先にエレザードが乗り、続いてが乗車する。シートベルトを着用してから通信機でアーマーガアに跨るマークに出発の合図を送った。
ふわりと体が浮かび上がる。車からの景色はあっという間に空色へと変わった。色といっても真っ暗だが、あと数分もすれば日の光が顔を出すだろう。
『さん、本当に構わないんですか』通信機からマークの声が飛んできた。『今日はガラルにとって特別な一日なんですよ。それなのに――』
「いいんですよ」彼を遮るように答える。「わたしが考えて決めたことですから」
『勿体ねえなあ』
少しだけ、とは言った。「眠ります。目的地に近づいたら教えてください」
『分かりました。おやすみなさい』
風に乗るアーマーガアの羽音を聞きながら、はゆっくりと目を閉じた。
目を覚ますと、視界は真っ暗闇だった。加えて若干の息苦しささえ感じる。
何かが、顔にくっ付いている――。
は『何か』を掴んで剥ぎ取った。暗がりでよく見えないが、手触りに覚えがある。これまで何度も触れ合ってきたのだから、目視せずとも判る。
明かりを点けようとしたとき、静電気にも似た痺れが腕に伝った。同時に閃光が駆け巡り、部屋の明かりが、ちかちかと点灯する。
思いもよらぬ光に思わず目を細める。視界の隙間から見えるのは黄色い物体、エリキテル。彼はと目が合うと、頭の襞を拡げて小さく鳴いた。
「エリキテル~~」は起き上がり、彼の首根っこを掴んだ。「もう、顔の上で眠るのは止めなさいって何度も言ってるでしょ。息苦しいじゃない」
エリキテルは状況を理解し切れていないのか、掴まれたまま首を傾げている。
「……分かってるの?」
彼は更に首を横に傾けた。不覚にもその仕草が可愛い、と感じてしまうのはトレーナー特有の甘さなのかもしれない。自分のポケモンはいつだって愛おしい。
はため息をつき、エリキテルを下ろした。
「わたし、夢のなかで出勤してた」エリキテルに向かって独り言を放つ。「こんなの初めて」
欠伸をこぼし、布団から抜け出す。エリキテルも床へジャンプし、の後を追いかける。
その時だった。普段ならばまだ到着するはずのない分厚い羽音が部屋の窓を揺さぶった。不信に思い、カーテンの隙間から外の様子を窺う。
アーマーガアタクシーと運転手のマークが立っている。なにやら腕時計を気にしている様子だ。
おかしい。約束の時間にはまだ一時間もある。
そう考えた矢先、は一つの違和感を抱く。
朝は毎日、機械のごとく目覚ましのタイマーで起床の準備に入る。しかし今日は起きてから一度もポッポの鳴き声を聞いていない。
慌てて時刻を確認する。長針が想像の倍以上に進んでいる。普段ならば既に準備を済ませ、アーマーガアタクシーに乗車している頃だった。
寝坊だ――叫ぶよりも前には部屋を飛び出し、高速移動のごとく身支度を進めた。この際、朝食は車内でとるしかない。昨夜の内に服装を決めていたのが不幸中の幸いだった。
「おっ、遅くなってすみませんっ」
靴のかかとを直しながらアーマーガアタクシーに駆け寄る。今日は一段と黒い身体が怪しく光っているように見えた。
「寝坊かあ? さんにしては珍しい」夢のなかでも同じように笑っていたマークが言う。「俺は全然構いませんが、今日はちょいと飛ばしたほうが良いですかね」
「はい。よろしくお願いします」
よし来た、と彼は親指を立てる。「それじゃあ早速乗ってください。もうすぐ日の出だ」
は連れているエリキテルをモンスターボールへしまい、急いで車内へ乗り込んだ。乗車確認がとれると、マークの指示でアーマーガアが翼を広げて飛び立つ。定期タクシーを利用して数年が経つが、彼のアーマーガア以上に離陸が静かな子はいない。
間に合ってほしい、という願いと比例して今日の通勤飛行は荒く激しい。揺れる車内でサンドウィッチを頬張りながら、はアーマーガアとマークを案じる。
「マークさん、大丈夫ですか?」
『なあに、気にすることはない。こんなのしょっちゅうだ。それにこいつものんびり飛ぶより、このくらいスピードを出すほうが性に合ってますから』
「それなら良かったです。明日お詫びにサンドウィッチと木の実をご馳走しますね」
『良いんですか? そいつはありがてえ』
話している間に目的地が見えてきた。ガラル地方でも随一を誇る巨大なバトルスタジアムを構えるシュートシティだ。空高くそびえ立つローズタワーが朝日に輝いて目に眩しい。
オフィス街の一角にタクシーが停まり、は半ば駆け出すように下車する。通行料を払おうとスマホを取り出したが、マークはかぶりを振って遠くを指差した。
「支払いは明日で構いません。早く向かいな」
「ですが」ここまで言っては口をつぐむ。今は彼の厚意を受け取るべきだ。「ありがとうございます。明日必ずお支払いします」
「はいよ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
走りながら手を振り、は駆ける。先ほど腕時計を確認したが、時間にはまだ余裕がある。しかし慣れない寝坊をした不安からか、走らなければならない、という恐怖に追われていた。
最終的に彼女が歩幅を緩めたのは、勤務先のエントランスに着いてからだった。廊下ですれ違うスタッフたちと挨拶を交わす。スタジオへ向かうと、サブでは既にディレクターのダニエルが放送準備に取り掛かっていた。
「おはようございます」が言った。
「ああ、くん」ダニエルの渋い顔と目が合い、彼は帽子を取って席を立った。「おはよう」
「まだ時間、大丈夫ですよね?」
ダニエルは不思議そうに顔をしかめる。「何を言ってるんだ。いつも通りじゃないか」
「もしかしてさん、寝ぼけてるんですか」横から飛んできたのは若い女の声だ。「それとも寝坊して時間の感覚が狂ってるとか? いや、まさかな」
「ルージュちゃん、彼女に限ってそれはないよ」
「まあ、でしょうね」ルージュは淡々と答え、原稿と思われる紙面に目を落とした。
寝坊を見抜かれたのかと冷や汗を流したが、誤魔化せたようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「それじゃあ」ダニエルが胸の前で手を叩いた。「早速打ち合わせに入ろうか」
はい、とその場に集まったスタッフたちが頷く。
「今日も楽しく頑張っていきましょう。皆さん、よろしくお願いします」
挨拶を交わし、首に提げた社員証が小さく揺れる。
ガラルラジオ放送局――彼女の朝はここから始まる。