人々が眠りについた真夜中。ネアポリスの街で、一台の車が走行していた。向かった先は街外れにあるアパルトメント。建てつけは決して悪くないが古い建造物だ。太陽がない夜でも、ベランダには下着などの洗濯物が干されているのが見える。
停まった車の運転席から一人の男が降りた。男は胸元を大きく開き、特徴的な柄のスーツを身に纏っている。ブローノ・ブチャラティは反対側にある助手席の扉を開いた。そこにいるのは女で、真夜中に溶け込みそうなほどの真っ黒なスーツを着ている。
は差し出された手を取り、車を降りた。
「グラッツェ、ブチャラティ」
「目標はここにいるのか?」ブチャラティはアパルトメントを見上げる。
「目標なんて言わないの。これから会いに行くのは、わたしの大切な取引相手なんだから」
「そいつは失礼した。ついクセでな」
はポケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。辺りには誰もいない。いるとすれば、ベンチの上で新聞紙に体を包まれながら寝ている浮浪者くらいだ。静まり返った場所では、鳴り続く呼び出し音までよく聞こえる。
「やっぱりだめ。繋がらない」は通話を切った。
「妙だな。これで何度目だ?」
「寝てる……わけないか」
「なぜ言い切れる?」
「彼は真面目な性格でね、交わした約束は必ずと言っていいほど守る人なの。わたしからこんな夜更けに会う約束をお願いされても、ね」
とにかく行きましょう、と先行するにブチャラティは続いた。アパルトメントは六階まであり、古い造りのためエレベーターはない。音を立てないように階段を上り、最上階へとたどり着く。
六階には、全部で三つの部屋がある。階段から一番離れた扉の前に着くと、この部屋にいるの、とは声には出さず口唇の動きだけで伝えた。ブチャラティは無言で頷き、一歩後ろへ下がる。
はインターホンを鳴らした。しかし、中から人がやって来る気配は感じられない。確認のためにもう一度鳴らすも、やはり反応がない。扉の向こうに違和感を覚え、は静かにドアノブを回した。鍵は掛かっていない。廊下は足元が見えないほど暗いが、忍び込んだ部屋の奥からは光が漏れている。
明かりの点いた部屋へ行くと、そこには一人の男がいた。彼はがこれから会おうと約束していた男に間違いはないのだが、様子がどこか妙だった。ソファーに寝転んでいる体勢がとても窮屈そうなのだ。うつ伏せになり、まるで自分の体を抱き締めるかのように寝ている。
の額には汗が浮かんでいた。息を呑み、更に奥へ進む。ふと周囲を見渡したは、叫び出しそうになるのを必死に抑えた。
「な、なに……これは……」
壁には、赤い液体が飛散していた。しかもそれはまだ新しく、意識すると血生臭い匂いも漂ってくる。明らかに異様な光景だった。
は震えたままの体で男へ歩み寄り、鞄から薄手袋を取り出して手に嵌めた。自身を抱き締めている男の体を起き上がらせて観察すれば、彼は口から血を流していながら、奇妙なほど安らかな寝顔を浮かべていた。手首に指を当ててみると、もう脈はない。
死んでいる――は力なく頭を振り、動かない体を静かに元に戻した。
「」
突然背後から名前を呼ばれ、思わず肩を浮かせて振り返った。部屋の前で待機していたはずのブチャラティがそこにいる。
驚かせないでほしい――。一気に波打った鼓動を抑えながら、はブチャラティと向き合う。ブチャラティは今回の取引とは関係がなく、ただ興味本位でついて来ただけだったが、目の前に広がる光景はさすがに予想していなかった。
「これは一体どういうことだ」
「そんなのわたしが訊きたいくらい。どうしてこんなことに……」は視線を逸らした。
ブチャラティは男の遺体を見る。「その男がきみの取引相手だったのか?」
「そう。彼の口から流れている血や、壁に飛び散っている血はまだ新しい。季節的にも空気が乾燥している今、それがまだ乾いていないということは、わたしたちがここへ来る数時間前に死亡したことになる。他殺なのか自殺なのかは判らない。でも……」
「でも、なんだ?」
「彼は自分を、恨まれやすい性格だと言っていた」
そのことが本当ならば――とが言いかけたところで、二人は玄関へ神経を尖らせた。
玄関の向こうから人の気配を感じる。殺気はないが、明らかに自分たちのいるほうへ向かっている。
ブチャラティが目配せをする。足音を立てずにこの場から去ろう、という意味だろう。は咄嗟に窓から逃げ出そうとした。しかし、ここはアパルトメントの最上階である六階。この高さから落ちれば、数秒後には遺体として発見された彼の後を追うことになる。
どうすればいい、と戸惑っていると、後ろからブチャラティに体を掴まれた。
「ブッ、ブチャラティッ?」
「おいおい、騒ぐんじゃあない。見つかればオレたちは犯人扱いされちまうぜ」
「どうする気?」は小さな声で言った。
「ここから滑り落ちる」
ブチャラティはを肩に担いだ。
「ちょ、ちょっと待って」
「しっかり掴まってろ。まあ、オレのジッパーできみを繋いでいるから、心配ないだろうが」
ブチャラティの言動が全く理解できず、身動きもとれないは部屋の様子を窺った。ドアノブが回り、部屋に入ってきた黒い影。
一瞬だけ、その人物と目が合ったような気がした。
そう思ったつかの間、の体が急降下する。心臓から何まで空へ飛んでいきそうな浮遊感に、思わずブチャラティの体にしがみつく。勢いよく地面へ体を打ちつけてしまう結末を予想していたのだが、いつまでたっても衝撃は訪れない。強く瞑っていた目を開けると、こちらを気にかけるように見つめているブチャラティと視線が交わった。
ブチャラティ――呼ぼうとした口を、手の平で咄嗟に塞がれる。
ブチャラティは人差し指を口元に当てた。耳を澄ませていると、近くで車のエンジン音が聞こえてくる。自分たちが乗ってきたものとは別の音だ。車は走り出し、どこかへ消えていった。遠くなる音と比例して、の口を塞ぐブチャラティの手の力も弱まる。
「もう……いいだろう」
ようやくまともな呼吸を許され、は胸に溜まっていた息を吐き出した。
「しかし、死体と対面することになるとは」
「連絡がつかないから嫌な予感はしていたけれど、まさかあんな状況になっているなん、て……」は血の臭いを思い出し、胃液を吐き出しそうになる。
「大丈夫か?」ブチャラティがの背中を撫でる。
「ごめんなさい、大丈夫。ブチャラティはさすがってところね。あれくらいはもう見飽きてる?」
「訊きたいのか?」
「……遠慮しておこうかな」
それにしても――。
あの高さから勢いよく飛び降りたのにも関わらず、自分たちには傷一つないどころか痛みさえ感じない。ブチャラティの足腰がどれだけ鍛えられているのかは分からないが、普通に考えればあり得ないことだ。
は飛び降りる前のことを思い出す。ブチャラティは自分の体を担ぐように抱え、そのあとは『ジッパーで繋いでいるから平気だ』などと言っていた。
ジッパー。確かにブチャラティのスーツには、意匠として所々に施されている。そのジッパーで二人分の体重を支えながら落ちていったというのだろうか。
いや。やはり、何かがおかしい。
「訊きたいのか?」ブチャラティは小さく笑う。
「え?」
「なぜあの高さから飛び降りて助かっているのか。きみはそう思っているんだろう」
「……あなたは心が読めるの?」
「さあな」
ブチャラティは立ち上がり、スーツについた落ち葉や泥をハンカチで払った。
「車へ戻ろう。外は冷える」
差し伸べられた手を取り、も立ち上がる。しかしまだ気分が戻らず、は背を支えられながら車に乗り込んだ。ブチャラティも運転席へ座るが、エンジンをかけないままアパルトメントを眺めている。
「、これからどうするつもりだ」
「遺体をあの状態のままにしておくわけにもいかないけれど、第一発見者になるのも御免ね。真面目に通報なんてしたら、警察に色々と訊かれることになる。わたしたちの場合は言い訳のしようもない。普通は『逆』なんだから」
「だったら、道は一つしかないな」ブチャラティは車のエンジンをかけた。
「逃げましょう。きっと、遺体の情報は自然とわたしたちの元へ流れてくるはず」
がシートベルトを巻いたところで、ブチャラティが運転する車はその場から姿を消した。
数日後。ネアポリスの新聞の片隅で、ある事件が報道されていた。
アパルトメントの六階に男の遺体。彼の名はコンフィ・アンス。第一発見者は建物のオーナー。廊下の清掃中、部屋から漏れる腐敗臭を不審に思い、警察に通報した。
調査の結果、警察は他殺の可能性を挙げた。部屋の中に刃物や銃などは見当たらず、凶器は犯人が持ち去ったという見解だ。
しかし不可思議なことに、彼の死因だけはついに判明しなかったのである。