午前六時三十分。伝声管が震えた。家の外からの呼び出しだ。
ゼボルトは冷めかかったコーヒーをひと口含み、鏡の自分とネクタイのずれを確認する。鏡越しに窓からの景色が見える。外には白く丸い体が特徴的なモーグリがいた。頭飾りで窓を叩きながら、開けてほしい、と訴えかけている。
ゼボルトはネクタイを締め、窓を開けた。
「お手紙を届けにきたクポ」モーグリは鞄から束ねられた封筒を取り出した。
「こんな朝早くからご苦労だね」
「郵便屋さんの朝は早いんだクポ」
ゼボルトは手紙を受け取り、サインを記した。「次からは表口を開けておくよ」
「サンキュー、だクポ」
モーグリは被っている帽子を上げる仕草をとると、背中を向けて飛び立っていった。
届いた手紙の束を捌く。どれも仕事にまつわる書類のようだが、早急に封を切らねばならないものは入っていなかった。
金属管の向こうから今度は人の声が飛んできた。蓋をしているので何を言っているのかまでは判らないが、恐らく催促の言葉を掛けてきたのだろう。
「もうすぐ出るよ」ゼボルトは言った。
(お待ちしております)
数ヶ月前に購入したばかりの鞄を手に持って家を出ると、部下のモーリスが立っていた。彼はゼボルトに気が付くと帽子を取り、一揖する。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。今日もいい朝日だね」ゼボルトは歩き出した。「君もこんなおじさんに毎日モーニングコールをするのも飽きてきただろう」
モーリスも帽子を被り直し、隣を歩く。「お陰さまで毎日規則正しく目覚められますよ」
「それならよかった」
話していると、頬に冷たい風が吹きかかる。あまりの寒さにモーリスは肩を震わせた。
「最近急に寒くなりましたね」
「ここは海が近いからなあ。だが、この程度の気温は例年通りじゃないかい?」
「セルキー族は寒さに弱いんですよ」モーリスは鼻をかんだ。「我々のご先祖さまは熱帯に家を構えていたそうですから。血筋みたいなものです」
「なるほど。そういうことか」
ゼボルトは西の景色を眺めた。朝焼けに照らされている大きな海が広がっている。浜辺にはサーフィンを楽しむ若年層の姿が見え、波の高さを確かめているようだった。自分も若い頃は女性に良いところを見せようと、波に乗る練習をしたものだな、と遠い日の記憶を思い返す。
海沿いをしばらく歩き、町の中心に看板を構えているカフェスペースにたどり着く。
カウンター前に一人の若い女性がいる。彼女の腕にはサンドウイッチやベーグルなど、人気の朝食が抱えられている。それらを見栄え良く並べ終えると、満足げに腰に手を当てた。
ゼボルトは彼女の名前こそ知らないが、顔を合わせれば「おはようございます」と応えてくれる笑顔がとても好きだった。
「おはよう」ゼボルトが言った。
女性は振り返るとモーリスたちを見て、にこりと笑った。「おはようございます」
「いつもの、ありますか?」
「はい、ございますよ。お待ちください」
いつもの、と訊くと、彼女はワゴンからサンドウイッチを取り出した。それはゼボルトが毎日食べても飽きないと評するほどの一品だった。
「これが無いと仕事が捗らないんですよ」
「いつもありがとうございます」
「それじゃあ、わたしはこちらをいただきます」モーリスは別の種類を選んだ。
会計を済ませ、木陰のベンチに座った。包袋を破り、朝食を頬張る。
「我々のような独身にとって、ありがたい存在だなあ」ゼボルトが感慨深く言った。
「そうですね」でも、とモーリスは横目で彼を見る。「社長も以前までは時間に余裕のある優雅な朝だったんでしょう」
「まあね」言いながらもう一口頬張る。
「奥さんとはもうあれっきりなんですか」
「彼女とはもう手紙のやり取りもしていないよ。向こうが居場所を書いてくれないからね。今頃は遠い果ての大陸で上手くやっているんじゃないかな。東には機械文明が発達した大きな国があるというじゃないか。好奇心旺盛な彼女がいるとすれば、恐らくそこかもしれないが」
「探したりはしないんですね」
ゼボルトは顔の前で手を振った。「わたしはそういう柄じゃないよ。それに妻が家を出て行った理由は理解できるし、納得もできるんだ。あの頃の自分は仕事に夢中なあまり、彼女の気苦労に気づいてあげられなかった。彼女のことは愛していたけど、あの時ばかりは仕事の手を抜くことはできなかったんだ。だから別れ際に言われたよ。あなたは一生働いて死ねばいい、と」かつての平手打ちを思い出し、ゼボルトは頬を摩った。
「仕事の話で思い出しましたが」モーリスは数枚の書類を見せてきた。「例の空き家について連絡が届いています。一年以内に入居者が見つからなかった場合、記載の値段で土地を買い取らせて欲しい、と。表向きでは病院を建てると書いてありますが、あまり当てにはできません」
ゼボルトは残りのサンドウイッチを流し込み、書類を受け取った。内容は土地売買の取引だ。記載されている出資価格も悪くない数字だ。売り出せば会社にとって大きな利益になる。
だが、金額の数値よりも気になる要素がある。
ひとつは評判だ。モーリスが話をした通り、交渉を打ってきた相手からはあまり良い噂を聞かない。
過去にほかの企業が被害に遭った例を思い出す。土地を売り払って益金を得たのは良いものの、その後は一帯の治安が悪くなり、住居者が町から消えるという事件が継起した。無論、経済は回らなくなり、一時は壊滅まで追い込まれた。だが、その窮地を救ったのが前社長であり、ゼボルトの父親でもある。今ではその町も活気を取り戻し、以前よりも賑わっている。
「やはり蹴りますか」
いいや、とゼボルトはかぶりを振る。「拝辞の意思は明確なほうがいい。わたしから伝えよう」
「承知しました」
しかし、と書類をしまってモーリスが続ける。
「社長もあの空き家になると妙に肩入れしますね。何か思い入れがあるんですか」
「そういうわけじゃないんだが」彼は眉の横を掻いた。「強いて言えば、わたしが父の下で働くようになってから、初めて入居者が決まったのがあの家だったんだ」
「そうなのですか?」
「生まれて間もない赤子を抱えた若い女性だったよ。店や駅からだいぶ離れているけれど大丈夫なのか、と訊いたら、寧ろ都合がいい、と答えたから印象に残っている」
「確かにあの家から駅までは、チョコボの足でも遠い距離ですからね」
「だろう? あの頃はチョコボなんて安易に買える時代でもなかった。だから他を紹介しようとしたんだが、聞かなくてね。時々様子を見に行ったが、警戒心が強いのか中へは入れさせてくれなかった。気づいた頃にはいなくなっていて、まるで幽霊でも見ていたんじゃないか、と今でも不思議な気持ちになる」
ゼボルトが気になるもうひとつの点は、まさにこれだった。賑やかな町から離れた場所に家々の並ぶ住宅地があるのだが、そこから更に遠く離れた土地に一軒の家がある。いったいどんな理由で建てられたのか定かではないが、父親が生まれる前からその家は在ったのだという。
彼がその時に出会った女性が今どこにいるのか。そして連れていた子供はどれほど成長しているのかは分からない。別れた妻よりも、煙のように消えてしまった彼女の行方が気になってしまうのはやはり仕事柄なのか、それとも単に思い入れがあるからなのか――その答えも曖昧なままだ。
「とにかくだ。この件は保留にしよう。答えをせがまれた時はわたしが応答する」
「よろしくお願いいたします」
「話していたら喉が渇いてきたな。さっきの店でコーヒーも注文するべきだった」
「コーヒーで思い出しましたが……」モーリスは最後のひと口を頬張った。「最近になってからお気に入りのバーを見つけたんです。昼間はカフェと然程変わりないのですが、夕方になると壇上で歌やピアノの演奏も楽しめるんですよ」
それは気になるな、とゼボルトは思った。「また今度教えてくれ。是非行ってみたい」
「構いませんよ」
そろそろ現場へ向かおう、と立ち上がった時だった。背後から「あのっ」と聞き慣れた声が飛んできた。振り返ると朝食を提供してくれたクラヴァット族の彼女が立っていた。手には箒を持っており、掃除をしていたことが分かる。
「何か?」ゼボルトが訊いた。
「呼び止めてしまい、申し訳ありません」あの、と彼女は胸に手を当てた。「失礼を承知で申し上げますが、いまの話を耳に挟んでしまいまして……」
「バーの話ですか」今度はモーリスが訊いた。「それならパン屋の隣に店を構えてますが」
いえ、と彼女はかぶりを振った。「それよりも前のお話です。空き家がどうとか……」
ゼボルトとモーリスは顔を見合わせた。彼女をベンチへ促し、浮かせた腰を落とす。
「わたしはゼボルトと申します」帽子を上げてから、彼が訊く。「失礼ですが、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか」
「申し遅れました。といいます」
「、とても素敵な名前だ」
「ありがとうございます」
それで、とゼボルトは前置きなしに訊く。「私どもが話していた空き家について、何か?」
はい、と彼女は力強く頷いた。
「実は折り入って、お願いがあるのです」