食事の間を後にし、はポケモンたちが遊んでいる大広間へ向かった。大きな襖を開くと、彼らは畳の上を走り回っていた。リザードンが小さな二匹を追いかけ回し、時々捕らえては高い天井へ攫っていく。
エリキテルたちはに気付くと、手を振ってきた。随分と長い間、楽しんでいたようだ。無限大の体力を持つイワンコでさえ、疲弊の色を見せている。
リザードンが傍へやって来る。両腕に抱えている二匹が解放され、の元へ駆け寄る。
「エリキテル、イワンコ~~」
は半ば涙目で二人を抱き締めた。イワンコには岩肌を思い切り擦り付けられ、エリキテルは二の腕へ飛び掛ってくる。どちらも痛みを伴う求愛だが、いまはそれどころではなかった。彼らを抱き締めたくて堪らなかった。
最も信頼できる存在はポケモンだ。この先、どんなに辛い出来事が起きても、二人がいれば何でも乗り越えられる。いまのにとってポケモンはなんでもなおし以上の効力を発揮していた。
「リザードンといっしょに遊んでたの?」
二人は明るい声で応えた。
「そっか。お料理はどうだった?」
エリキテルは頬に両手を当てた。心なしか紅潮している。余程美味しかったのだろう。イワンコも同様の反応を示している。尻尾がスピンロトムのようだ。
「リザードン」は二人を抱えながら立ち上がる。「二人の面倒を見てくれてありがとう。エリキテルたちもすごく楽しかったみたい」
リザードンは調子良く鳴いた。
「チャンピオンはいま、店主さんと話してるの。店先で落ち合うことになってるから行こう」
彼は頷くように首を動かした。目の優しさへ引き込まれるように、は彼にも抱擁を求めた。いまはとにかく胸に広がる灰色の靄を消し去りたかった。
ポケモンは本当に神秘的な存在だ。こんなにも素直に心を預けられる。特にリザードンはにとって素直な扉を開く鍵だ。触れるだけでこんなにも落ち着く。
「ねえ、リザードン」
は火照る体から離れ、リザードンの頬に触れる。深緑色の目を静かに見つめる。
――貴方はどこまで彼を理解しているの?
そう問いかけようとして、は口を噤んだ。
駄目だ。これはポケモンには無関係の悩み。例えこの身を委ねることができても、彼らを人間の問題へ巻き込むわけにはいかない。ポケモンはトレーナーを誰よりも信頼している。余計な弱さを曝け出してはならない。
案ずるようにリザードンが擦り寄ってくる。しかしは何も言わず、かぶりを振った。
「大丈夫、ありがとう」
何よりが抱えるダンデへの『理解』と、リザードンが積み上げてきた彼への『理解』は名前が同じでも種類がまったく異なる。例え訊いたとしても、返ってくる答えは自らで見つけ出さなければ意味がない。
それこそ無敗を重ねてきた彼らの絆は本人たちにしか判らない。とても野暮な質問だった。は胸中で謝罪の念を送る。リザードンにもダンデにも。
の心境を悟ったのか。リザードンは大きな翼で彼女を包み込んだ。とても温かかった。
リザードンに感謝の意を伝え、はポケモンたちを連れて大広間を出た。店の出入り口では既にダンデが待っていた。店主の案内があったのだろうか。彼が迷わずにたどり着ける方法といえば、他人の力を借りるほかに考えられない。
「お待たせしました」が言った。「リザードンたちを連れてきました」
「助かったぜ、」
チャンピオンから酒はすっかり抜け、今では店へ訪れる前の平常モードに戻っている。
「あと、こちらもお返しします」
は羽織っていたダンデの上着を脱ぎ、綺麗に折りたたんで本人へ手渡す。
「外は冷えますから。そろそろ着てください」
「いや」ダンデはかぶりを振った。「まだ着ててくれ」
「何故ですか?」
「なんというか、オレ的に美味しい?」
「申し訳ありません。拙いわたしの頭ではチャンピオンの真意を理解できかねます」
「とりあえずまだ着ててくれ!」
チャンピオンは言い出したら止まらない。先にが折れ、望み通り上着を羽織り直した。コートの上から着ている分、少しだけ熱い。
最後に店主と挨拶を交わし、店を出た。最後まで人の良さそうな男性だった。チャンピオンと顔見知りということもあり、今回の一件が外部へ漏れてしまうのではないか、と懸念していたが、彼なら心配なさそうだ。
はポケモンたちをモンスターボールへしまった。ダンデも同様にリザードンをしまう。
「今夜はご馳走になりました」は一揖する。「チャンピオンへのお礼の場でしたのに」
「には甘えて欲しいからな」
「ありがとう、ございます」
は腕時計を見た。午後九時を回っている。明日も朝から仕事だ。可能ならばこのままお開きにしたい。しかし奢られた身としては切り出し難い。
「」
「何でしょうか」
「もう少しだけオレに付き合ってくれないか」
そう来るだろうと思った。特に驚きもしない。は何も言わずに頷き、便利ロボットの如くタブレットを取り出した。既に癖になりつつある。
「どちらへ行かれますか」
「いや、何処へ行きたいとかはないんだ」
「どういう意味でしょうか」
「といっしょにいたい」
一瞬、深い海へ足元をすくわれそうになった。
「がいてくれるなら何処でも構わない」
必死に陸へ上がり、勘違いの砂を振り払う。控えめに咳払いを溢してから彼と向き合う。
「分かりました。個人的に行きたい場所があるんです。ご一緒していただけませんか?」
「勿論だ」
はタブレットをしまい、こちらです、と行き先を指で示してから先を歩き出す。
足を進めてから思い出した。自分にもまだ、彼に付き合ってもらいたいことが残っている。
たどり着いたのは同地シュートシティ。試合会場や宿泊施設、各所へ架けられた橋々がシンボルの大きな運河。ダンデの存在が周囲に気付かれないよう、なるべく人気の少ない場所を選ぶ。
ここは仕事帰りにポケモンたちと三人で眺めに来る景色だ。遠方に佇むローズタワー。街を一望できる大きな観覧車。住宅街の窓辺から差し込む聖夜の灯火のような光。それらが水面に照らされ、まるでランターンのように輝くこの瞬間が何よりも好きだった。
時刻を見たとき、丁度良いと思った。荒みに荒んだ心情を洗うには打ってつけの場所だ。
「ここで構いませんか」が訊いた。
「ああ、良いところだ。夜になるとこんな風に見えるとは知らなかったぜ」
「チャンピオンは常に空の上ですもんね」
は鉄格子を背にし、太ももの上で指を組んだ。当たり前のようにダンデが隣へ来る。結んだ髪が夜風に揺れている。不覚にも綺麗だと思った。
「チャンピオンをここへお連れしたのにはお願いがあるんです」
「お願い?」
「写真を撮りたいんです。エリキテルとイワンコ、そしてリザードンの記念写真を」
はモンスターボールから二人を出した。光を浴びながらエリキテルたちが顔を出す。
「収録も終えて、エリキテルたちがリザードンに会える機会はこれが最後かもしれません。今夜の食事も含めて、三人は随分仲良くなったと思うんです。だから二人が寂しくないように写真を残しておきたくて」
「そういうことか」
「もしも撮影に制限が設けられていないのなら、お受けしていただけないでしょうか」
お願いします、とは頭を下げた。エリキテルとイワンコは足元でじゃれ合っている。
ふと、白い光が見えた。気になって姿勢を戻せば、ダンデの傍にはリザードンがいた。は期待の意を込めてダンデを見た。彼は笑顔を浮かべていた。
「断るわけないだろ」
「ありがとうございます、チャンピオン」はスマホを取り出した。「それでは、早速」
「リザードン、頼んだぜ」
「エリキテルたちもいっしょに撮ろうね」
煌びやかな景色を背景にポケモンたちを並べる。しかしリザードンとエリキテルたちの体格差では上手く枠に入らず、は首を捻った。
思案した末、リザードンの頭にエリキテル。腕にイワンコを抱えてもらうことになった。まるで兄弟のようだ。スマホ越しに彼らを見るの口元が緩む。
「みんな笑ってね」
ナマコブシ――合図と共にシャッターを切った。ポケモンたちの笑顔が眩しい一枚だ。
続けて角度や距離を変えて何度も撮影する。ポケモンたちも表情が豊かで、撮影している身まで感情が乗り移ってくるようだ。ついつい釣られ笑いしてしまう。
「ナマコブシ?」ダンデが首を傾げる。
「あれ。写真を撮るときはナマコブシと言いませんか。最近流行りだと思ったのですが」
「初耳だぜ。だが、ポケモンの名前を使うのは良いな。今度写真を撮るときに使ってみよう」
「母音の関係で笑顔になりやすいですからね」
数枚残したところで撮影を終える。フォルダへ保存された写真を見て、は大満足した。
「ありがとう、みんな」はエリキテルとイワンコを呼び戻す。「リザードンも協力してくれてありがとう。大切にするからね」
リザードンは目を細めて笑った。この深緑色を傍で見られなくなるのは少々寂しい。
「チャンピオンにも写真、送りますね」
は写真ファイルを転送する。ダンデが手にしているスマホが微かに震えた。
「届きましたか?」
「ああ!」
「ご協力いただきましてありがとうございます。我ながら良い写真が撮れました」
改めて写真を眺める。景色も相まって記念撮影にはぴったりの一枚だ。思わず顔がほころぶ。
「」
「はい」
「オレたちも撮ろう」
「ええっ?」
危うくスマホを落とすところだった。コイキングのように跳ねたスマホを捕まえる。
「そんなに驚くことか?」ダンデは笑った。
「チャンピオンとは収録前に撮ったので、まさかまた撮ろうと誘われるとは思わなくて」
「あれは仕事。これはプライベート」
だろ? そう言ってダンデは朗笑した。説得の仕方がいまいち曖昧だが、リザードンの撮影に助力してくれた分け前もある。は了承した。
しかしチャンピオンと二人で撮影、というのには少々引き目を覚える。
「せっかくですし、お互いのポケモンと一緒に撮るのはいかがでしょうか」
はイワンコとエリキテルを抱き上げた。同時に抱えるとさすがに肩が悲鳴を上げる。
発案にダンデも同意した。体格が大きいリザードンを後ろにし、前にトレーナーが並ぶ。
「、エリキテルだけでも持とうか」
「この子、普通より重いですよ」
「問題ない。何よりオレもエリキテルと仲良くなりたいからな。勿論イワンコとも」
は腕を架け橋代わりにし、エリキテルをダンデの肩へ渡らせた。ダンデはエリキテルと仲良くなりたいと言ったが、エリキテルは収録時からダンデに心を許している。それはリザードンにも同じことが言える。元来人懐っこい性格だ。当然といえば当然だった。
「イワンコはわたしが抱っこしますので、撮影はチャンピオンに任せていいですか?」
「ああ」ダンデはスマホを取り出す。「こういうとき、キバナがいれば良いんだろうな」
そうですね、とはイワンコを抱え直す。「キバナさんは自撮りで有名ですからね」
スマホを操作するダンデの動きが止まった。じっとを見つめる目は物言いたげだ。
「どうかしましたか」
「いや」
ダンデはカメラを起動し、スマホを前に構えた。影になるせいか、帽子を脱いでいる。
「もう少し寄ってくれないか」
徐にダンデに肩を抱かれ、体が密着する。突然の距離感にはどきまぎした。
「スマホロトムじゃないんですか?」
「換える機会と理由がなくてな」
と同じだった。自撮りや動画撮影が一種のコンテンツになりつつあるガラル地方では、それらに特化したロトム搭載のスマホが人気を博している。
チャンピオンならば何でも最新型を有していると思っていた。は少し意外だった。
そういえば、とは思い出したように呟く。「わたし、自撮りとか初めてです」
「そうなのか?」
「はい」
自分を撮影しても面白みに欠ける。気まずい空気を作らぬよう、口外しなかった。
「それじゃあの初めてはオレとリザードンってことになるな」
スマホの画面越しではあったが、ダンデはどこか嬉しそうに笑ったように見えた。
「チャンピオン、撮影方法分かりますか?」
「はたまにオレを見縊りすぎてないか」
まずいと思い、必死に釈明する。「失言でした。撮影はチャンピオンにお任せします」
「ああ、任せてくれ」
先ほどより更に肩を抱かれる。はポケモンの力を借り、出来る限り笑顔を作った。
シャッターが切られ、一度写真を確認する。少しだけリザードンに寄っているようだ。ダンデは再度スマホを構えた。は肩を抱かれながらレンズを見つめる。
「これでいいだろうか」
ダンデに写真を提示され、は画面を確認する。背景もきちんと入っている。枠内にポケモンたちも収まっている。何より思った以上に良い表情をしている。不本意ではあるが、とても良い一枚だった。
「とても素敵だと思います」
「だろ?」ダンデは口角を上げた。「それで、これをへ送るにはどうしたらいいんだ」
撮影技術はあっても基本操作は不得手のようだ。は自分のスマホを見本にし、ダンデの画面に添ってファイルの送信方法を手引きする。彼が連絡になかなか応じない理由が何となく分かったような気がした。
チャンピオンの弱点項目に、スマホ操作に疎い、が追加されたのはだけの秘密だ。
後にのスマホが震えた。ダンデから写真が添付されたメッセージが受信される。
「これで大丈夫です」
「のお陰で助かったぜ!」
ダンデは帽子を被り直した。今度は自分で後ろ口から結び目を出している。覚えが早い。
「感謝されるようなことはしていませんよ」
各自のスマホをしまい、夜冷えする前にポケモンたちをモンスターボールへ戻す。
時計広場の鐘が鳴り響いた。しまったばかりのスマホで確認すると、丁度十時を指している。
「、きみは明日も仕事か」
「はい」良い機会だと思った。「早朝からですので、そろそろ帰らねばなりません」
「それならアーマーガアタクシーを呼ぼう」
大丈夫です、とは手で制す。「得意先がいるんです。自分で呼びますのでお気遣いなく」
は仕事用のスマホに持ち替えた。履歴からマーク直結の連絡先をタップし、呼び出す。彼はワンコールで出た。場所を伝えると、十五分ほどで到着する、とだけ言って通話を切った。
電話の旨を伝えると、ダンデは「ベンチに座って待とう」と言った。は同意した。
ベンチに座り、タクシーの迎えをひたすら待つ。
今回は夕方からであったが、体感では一日ずっといっしょにいたような感覚だった。収録時と比べ、会話に規制がなかったからだろうか。やけに長く感じた。
「、寒くないか」ダンデが訊いた。
「上着が二枚もありますから」は上着に触れる。「チャンピオンこそ大丈夫ですか」
「オレは全然平気だぜ」
「寒くなったら仰ってくださいね。まあ、あと十五分もすればお渡しできますけど」
ダンデは、ははっと笑った。「そうだな」
こうしてこの男とこんな風に言葉を交わせるのも最後だ。本当に長いようで短かった。
仕事を共にした者として。ガラルの人間として。来月から幾多の猛者と戦いを繰り広げる王者に何か餞を送るべきだろうか。
数秒ほど黙考した結果、思い浮かんだのはまるで旅立つ子を労わる親のような発想だった。
「大切な試合の前に体を崩さないでくださいね」
「心配してくれるのか?」
「それは、まあ。チャンピオンがいないと大会自体が盛り上がらないと思いますから」
少々言い訳がましいことを言ってしまった。誤解を招いていなければいいのだが。
「はジムチャレンジに出場しないのか」
「仕事がありますからね。何より、出場に必要な条件を満たしておりません」
ジムチャレンジに参加するためには、推薦状が必要条件だ。ダイマックスバンドは必須ではいないが、持っているだけで戦いを有利に運ぶことができる。
「なら良いバトルトレーナーになれるぜ」
「知識があっても経験は誰よりも浅いです。焦ってまともに指示も出せませんし」
「リザードンは応えてくれた」
「あれはチャンピオンの指示が前提であって、わたしの実力ではないと思います」
「」
半ば遮るように名を呼ばれた。首だけを動かし、チャンピオンを見つめる。想像通り、真っ直ぐな瞳を向けている。この上なく曇りなき目で。
「オレとリザードンを信じろ」
チャンピオンの言葉に偽りはなかった。寧ろ、彼の願いに則って考えればすぐに分かる。
しかし、冷静に現実を見定めて欲しい。
ガラル地方はポケモンバトルが盛んな国だ。他国と比べてもジムチャレンジの認知度は高く、ジムリーダーやチャンピオンたちの知名度は海を跨ぐほどだ。トレーナーの資格を会得した少年少女たちを含め、各地域では多くの挑戦者たちで溢れかえっている。
ダンデという男がどんな人物なのか。収録と食事交わして分かったことはひとつだけだ。
恐らく――彼はこの先の人生、ポケモンバトル無しでは生きていけない。勝負こそ彼の生きた道。勝利こそ彼の生きる虜。世界の中心に立つ人間は、世界を知らない人間の気持ちを理解することはきっと出来ない。
の脳裏に食堂で聞いた話が過ぎる。
例え王者の言葉だとしても、信じられるはずがない理由が――のなかにはある。
「はポケモンバトルが好きなんだろ?」
「そうですね」
そういえば収録中にそんな風に答えたのだった。チャンピオンとリザードンと言葉を交わし、当時と比べて、少しだけ興味を持ち始めたのは事実だ。知識があれば、その分理解できる部分も多い。
それでもまだ、はポケモンバトルの本質を理解し切れていない部分がある。
「そしてポケモンも大好きだ」
「勿論です」
「だが、スタジアムで観戦したことがない」
ダンデは過去の配信を反芻するように呟く。やがて合点した様子で力強く頷いた。
「だったら尚更、実際に試合を観るべきだ」
「え?」
「それでが自信を持てなかったり、何も感じられなかったりしたら、オレの責任だ。観客ひとりを熱狂に誘い込めないなんて、チャンピオン失格だからな」
この人間はどこまでも真っ直ぐな人だ。それはもう嫌なくらい――思い知らされた。
見せ掛けではない。虚勢でもない。放たれる思いひとつひとつに力が込められている。自信に溢れた言葉は周囲に影響を及ぼす。子供の希望さえも見い出す。彼が長年、ガラルの頂点に君臨し続けられているのは、決してポケモンバトルの実力だけではない。
ガラルの『みんな』が『ダンデ』を見ている。その姿に魅了され、誰もが夢中になる。
は違う。彼とは違う。全く違う。
仕事だから仕方なくやった。興味はないけれど、そんな自分が許せないから意地で学んだ。面倒なことに巻き込まれたくないから、仮面を被り続けてきた。全ては保身のために。
「お気持ちは嬉しいです」ですが、と言っては力なくかぶりを振った。「チャンピオンはご存知ないかもしれませんが、観戦チケットは既に完売しています。二次抽選も終了し、手に入れる手段は残されていません」
ジムチャレンジの試合も含め、トーナメント戦のチケットは電光石火の速さで完売した。もルージュに懇願され、二次抽選に参加したが、枠は一つも確保できなかった。カブの試合を観たいと嘆いていた彼女の姿が今でも目に浮かぶ。
ただ、ひとつだけ手段はある。
恐らくは間もなく配信が終了する『チャンピオン・タイム』内で告知があるはずだ。誰もが藁をもすがる思いで手に入れたいもの。最終回の視聴者プレゼントとして、あれ以上に相応しいものはない。
考え込んでいると、頭上から笑いがこぼれた。無論、ダンデによるものだった。
「またそうやって」は腕を組み、顔を背ける。「チャンピオンは一人で笑うんですね」
「すまない。怒らないでくれ」
「怒ってません」更に顔を背ける。
「怒ってるじゃないか」
何だか意地を張っている自分が情けない。は腕を解き、顔の位置を元に戻した。
「釈明するなら今のうちですよ」
「左のポケット」
「え?」
ダンデは自身の腰を軽く叩いた。が羽織っている彼の上着を促しているように見えた。
不思議な面持ちでは上着を剥ぎ、ポケットに手を入れた。何か薄い紙のようなものが入っている。取り出して見ると、白い封筒が入っていた。
これには見覚えがある。チャンピオンと初めて会った日、受付の者から手渡された封筒と同じものだ。相変わらず何も書かれていない。
「これは……」
「へのプレゼントだ」
「チャンピオンがわたしに、ですか?」
は物珍しそうに封筒を見つめる。何故だろう。先ほどから胸騒ぎが止まらない。
「開けてもいいですか?」
「ああ、早く開けてくれ」
どうして渡した本人が慌てているんだ。ダンデに催促されるまま、は封を切った。
入っていたのは一枚のチケット。シュートシティを歩いていれば、嫌でも目にするチャンピオンカップのエンブレム。疎いでも分かる。この紙切れがガラル地方でどれだけの価値を含んでいるのかを。
「今日はそれを渡したかった」
「どうして……」
「収録中にが、試合を生で観たことがない、と言ったときからずっと決めてた」
ダンデからの贈り物はチャンピオンカップ決勝戦の観戦チケットだった。身に合わない価値を突然提示され、は動揺を隠し切れない。
「それにに頼まれたからな」
「わたし?」
「チャンピオンパワーで何とかならないかって」
の脳内で初回収録時の光景がフラッシュバックする。確かにそんなことを言った。しかしそれは話の流れで口走った見せかけの言葉だ。鵜呑みにされるなんて、誰も考え付かない。
「何とかなっただろ?」
この男はどこまで真っ直ぐなんだ――は観戦チケットを封筒へ戻した。
正直、彼の良心が痛む。偽りを重ねてきた自分にこんな仕打ちが待っているなんて。
「あの、チャンピオン」
「」
またもや遮られるように名を呼ばれる。
「オレはともバトルがしたい」
今度は何が飛び出してくるかと思えば、ポケモンバトルの申し出だった。
「けれど、ただするだけじゃない。がオレとポケモンバトルをする意味を理解するまで、オレはずっとを待ち続ける。その時までずっとだ」
「わたしたちが戦う意味?」
「のなかで答えを見つけて欲しい」
唐突に押し付けられた難題には当惑する。
過去を思い返そうとした瞬間、上空から強風が吹き荒れた。アーマーガアタクシーだ。
が先に起立する。運転席ではマークが手を振っている。彼女はマークに応えた。
「さん、お待たせしました」
「こんばんは、マークさん。夜分遅くに呼び出してしまって申し訳ありません」
「大丈夫ですよ」マークは親指を立てた。
彼の視線は自然とダンデへ向く。ダンデは正体が気付かれぬように帽子のつばを下げ、立ち上がった。
「お連れさんですか」
「はい」
どうやら悟られていないようだ。この辺りは街灯も少ない。暗がりで良かった。
「良ければ乗っていきますか。タイミング良く二人乗りの車体を拝借できたんです」
「えっ」
「いいんですか」
嬉々とした声で言ったのはダンデだ。無作為に喋られると相手に気付かれてしまう。ガラルに住んでいれば彼の声を自ずと覚えてしまうからだ。
ダンデの問いにマークは、もちろんです、と頷いた。「さんを自宅へ送り届けたら、お連れさんも運ばせていただきますよ」
「、彼の厚意に甘えよう」
どうやら別れの瞬間が遠のいたようだ。は断るわけにもいかず、彼らに賛同した。
車へ乗り込む前、は自宅近辺ではなく、最寄り駅で停まるように伝えた。マークは不審な表情を浮かべたが、特に詮索は入らずに了承してくれた。
扉を開けて待っていたダンデに一揖し、は奥の席へ詰める。隣へダンデが乗り込んだ。
やがてアーマーガアタクシーが浮上する。相変わらず静かな離陸だ。数回の瞬きの間に夜空へ飛び立ち、辺りの景色はシュートシティの光の海へ変わる。
まさかこんな流れへ変わるとは思わなかった。しかし都合が良いといえば――良かった。
「あの、チャンピオン」
「どうした?」
は手に持ったままの封筒を見せた。
「お伝えするのが遅くなりました。チケット、ありがとうございます。お気遣い感謝します」
「オレもリザードンもを待ってるぜ」
は封筒をしまい、鞄から小包を取り出した。
「こちらはわたしたちからです」
手のひらに載せた小包をダンデへ渡す。彼はと彼女の手を交互に見つめている。チャンピオンにしてはやけに狼狽えていた。
「体調を崩したときのお詫び――いえ、お礼にと思って準備したのですが。チャンピオンからいただいたものがあまりに価値に溢れるもので、それに比べたら」
不束なものですが、と伝える前に小包の重みが消えた。ダンデが手に取っていたからだ。
「開けてもいいか」
「本当に大したものではありませんので、あまり期待はしないでくださいね」
「からもらえるだけで十分価値がある」
承諾を渡す前に、ダンデは包みを解いた。手渡した瞬間から既にそれは彼のものだ。イワンコのように待ても良しも必要ない。
忠告通り、中身は至って普通の回復の薬。公式試合でジムリーダーを始めとし、チャンピオンも御用達の回復道具だ。
ワイルドエリアでエリキテルが見つけた星の欠片。記念に取っておくにしても、高値で買い取ってもらえるならば、と換金したのだ。貯金の足しにしようとも考えたが、ふと目についたのが回復の薬だった。
エリキテルとイワンコに相談した結果、二人へのお礼の品としてそれを選んだ。
「チャンピオンとリザードンが同時に活用できるものといえば、それしか思い浮かばなくて」
は髪に耳をかけた。
「お二人には必要ないかもしれませんが、持っておいて損はないかと思いました」
いかがですか、という意を込めてダンデを見つめる。彼は未だに反応を示さない。
やはり観戦チケットに比べたら差が大きすぎたか。満を持して贈り物をしたものの、中身がショップで安易に購入できる回復道具では落胆しても無理はない。
が諦めて景色を眺めようとしたとき、視界の隅で黒い影が動いた。ダンデだった。彼は顔を片手で覆い隠し、はあっと深い息を吐いた。そこまであからさまに溜め息を吐かれると、さすがのも心が痛む。
「あの、チャンピオン?」
「」
これまで幾度となく名を呼ばれたが、今回は過去で最も優しい声だった。ダンデは手を解放すると、これまでに見たことのないほどの笑顔を向けた。
「ありがとう。死ぬほど嬉しい」
「死んでしまっては困ります」
は苦笑する。ダンデの台詞を借りるような真似になるが、言い換えるならばこうだ。
「こういうときはリザードン級に嬉しい、ですよ」
「その通りだ」
ダンデは微笑をこぼし、回復の薬を握り締めた。
「ここぞって時に使わせてもらう」
なあ、リザードン、とダンデは休んでいる相棒へ呼びかける。微かにボールが揺れた。彼らの様子にも安堵の息を吐く。思わず胸を撫で下ろした。
「喜んでいただけたのなら良かったです」
何だ。嬉しかったのか。てっきり失望させてしまったのかと思い、は内心不安に駆られていた。
本当に――どこまでも分からない男だ。喜んだり、落ち込んだり、バトルを申し込んだり。最後の最後まで予想がつかない。宇宙のような男。
しかし自分がチャンピオンの前で素直に笑えたのは、これが初めてなような気がした。
アーマーガアタクシーがゆっくりと降下する。目的地に到着し、は降りる準備を進める。シートベルトを外している間、ダンデが先に外へ降りた。そのままのほうへ回り、ドアを開ける。対応が電光石火を通り越して神速級だ。
「ありがとうございます」
は謝意を伝え、車を降りた。服についた皺を取り払い、ついに上着を脱ぐ。
「お返ししますね」
「よかったら持っていくか?」
「生憎、わたしのクローゼットは満員です」
「残念だな」ダンデは上着を羽織り、鼻先を動かした。「ちょっとだけの香りがする」
「香水の匂いかもしれません。申し訳ありません」
「いや、良い香りだ」
そんなことをそんな顔で言わないで欲しい。は動揺を隠しながら、適当に流した。
「お兄さん、どこまで行きますか」
頭上からマークの声が降ってくる。はアーマーガアタクシーから一歩離れた。離陸の際に砂埃を浴びるのを避けるためだ。何より危険だ。
ダンデは行き先を告げると、を見た。空けた距離を物ともせず歩み寄ってくる。
「それじゃあ、」
「はい」は頷いた。「道中お気をつけて。リザードンにもよろしくお伝えください」
「エリキテルはもちろんだが、イワンコを頼んだ。なら問題ないと思うが」
「任せてください」
他に伝えることもなく、黙ってしまう。珍しくチャンピオンも口数が少ない。
――チャンピオンの口から微かに漏れたとき、アーマーガアが低く鳴いた。どうやら早く飛び立ちたいようだ。はさらに一歩後ろへ下がる。
ダンデは帽子のつばを下ろした。去り際、彼の口元が動いたように見えたが、アーマーガアが広げた翼の音で何も聞こえなかった。
「それじゃあ、さん。また明日っ」
マークが手を振ってくる。明日とは普段通り、早朝に迎えに来るという意味だろう。
やがてダンデを乗せたアーマーガアタクシーが宙へ浮いた。は月光に照らされる鉄の肌を見上げる。
辺りに突風が吹き荒れた。それは放送局前で初めてダンデとリザードンを見かけたときに体感した風と類似していた。あの時はもう少し重かった。
目を閉じている間に目の前から黒い影は姿を消していた。アーマーガアタクシーはあっという間に遠くの空へ飛び立ってしまい、チャンピオンの横顔を見届けることはできなかった。
辺りが急に閑散となる。駅前といえど、ここは乗り継ぎ駅だ。普段から人気が少ない。
途端、モンスターボールからエリキテルとイワンコが飛び出してきた。
「どうしたの?」
二人は帰路を歩きだした。まるで自分たちの家へ帰ろう、と促しているようだった。
は笑みをほころばせ、頷いた。
「そうだね。帰ろう」
明日も仕事だ。ジムチャレンジに向けて、新しい企画や仕事がたくさん待っている。
はアーマーガアが飛び去った空に背を向け、ポケモンたちと歩き出す。帰り道を照らす自動販売機を見て、は一考したあとミックスオレを購入した。
ダンデは窓から景色を眺めていた。代わり映えのない黒い空を前に、ガラス越しに映る自分の表情を見て、静かに顔を背ける。
モンスターボールで休んでいるポケモンたちを一瞥する。どうやら眠っているようだ。外界との会話や空気を遮断するため、ボールの電源を落とした。彼らが目を醒ませば、自動的に起動する仕組みになっている。
帽子を脱ぎ、に結ってもらった髪を解く。随分と強く結んだのだろう。ゴムを外すと不思議な開放感に包まれた。後ろ髪が背中に流れ、本来の姿を取り戻す。
『お客さん、もう少しお時間掛かりますよ』
はマークと呼んでいたか。運転手のマークが通信機越しに呼びかけてきた。
「わかりました」
『それにしてもお兄さん、さんと知り合いなんて珍しいなあ。どんな繋がりですか?』
「珍しい?」ダンデは眉を動かした。
『彼女は仕事熱心でしょう。そのせいなのか分かりませんが、普段から人との繋がりをまったく聞かないんですよ。ポケモンの話はあんなにするのに』
ダンデは静かに黙考する。雲に隠れていた月光が顔を出し、彼の目を鋭く照らす。
『でもまあ、さんにも気を許せる友達がいて安心しました。ちょっと心配だったもんで』
「友達ですか」ダンデは一笑した。
『あれ、違うんですか?』
「いえ、オレと彼女は紛れもなく友達です」
ダンデは前のめりになった。
「マークさんは彼女と長いんですか」
『こんな風に言うと自慢げに聞こえるかもしれませんが、さんがパーソナリティになったときからの仲ですよ。彼女はお得意さんなんです』
「なるほど」
ダンデは口元に手を添える。瞬きを繰り返し、運転席にいるであろうマークを見やる。
「彼女は最近、ダンデと仕事をしていましたね」
『ダンデ選手ねえ。いやあ、俺も聴きましたよ、チャンピオンタイム。良かったなあ』
「彼について、彼女は何か言ってましたか」
通信機越しに唸り声が聞こえる。ややあって返ってきたのは曖昧なものだった。
『どうでしょうねえ。彼女は移動中も仕事をしているようでしたから』
「そうですか」ダンデは目を落とす。
『ああ、でも』
拾い上げられるように視線を通信機へ向ける。
『同僚から聞いた話によれば、上空からダンデの試合が観えても見向きもしなかった、なんて言ってたような気もします。実際にさんの様子を見たわけじゃないのでなんとも言えませんが、ダンデの試合を観られて興奮しなかった乗客は初めてだ、と話していました』
「そうですか」
『はい』
ダンデは姿勢を戻し、背もたれに身を預けた。回復の薬を手にしたまま、目を覆い隠す。
そのまま上を向き、高笑いをした。車の窓が震えるほどの大きな声で笑い続ける。
『ど、どうしましたかっ』
「いや」ダンデは徐々に笑うのを止めた。「何でもありません。驚かせて申し訳ない」
『おかしくなったのかと思いましたよ』
それにしても、とマークは続ける。
『気のせいだとは思いますけど。お客さん、笑い方がダンデ選手にそっくりですねえ』
「よく言われます」
『お、見えてきましたよ』高い風を切る音がする。『またお声掛けいたしますね』
通信が遮断され、再び静寂が戻る。
ダンデはスマホを取り出した。メッセージアプリを起動し、の名前に触れる。シュートシティで撮影した写真が並んでいる。それ以外はない。基本的に通話主義の彼女と交わした電子的な文字はこれだけだ。最早文字ですらない。写真だけ。
先ほどまでが座っていた席を一瞥する。ワイルドエリアへ赴いたとき、景色を眺めていた彼女の横顔を想起させる。
続いて手に取ったのは彼女の名刺。収録開始日、エレベーターで手渡されたものだ。
「……」
ダンデは一度目を閉じ、再び彼女の名を呼ぶ。
黄金色を開かせ、名刺の上部分を両手で摘まんだ。
名刺を真っ二つに破る。分かれた紙を重ね合わせ、さらに切り裂いていく。何度も。何度も。
「いっしょにいて分かった」
雪粒のごとく粉々になった名刺を握り締めた。
「きみにはオレしかいない」